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【日本火器】軍刀

明治维新后不久,日本帝国接受了欧洲列强的指导,从号角到火炮都推进了军备的西洋化。以法国为范本的帝国陆军于明治8年在太政官布告中、规定了制式军刀,士官佩刀的外装、刀身均为纯军刀。军刀是战斗和指挥时使用的武器,也在仪仗的正装礼服和中被使用。



▼军刀战技

陆军户山学校在明治时期制定了「片手軍刀術」,在大正时期制定了「両手軍刀術」。作为武道流派,有隈元实道的「振気流」,大岛治喜太的「片手軍刀流」。昭和时期,陆军户山学校制定了短期速成的军刀操法,并在太平洋战争后以「户山流居合道」在民间普及。相对于陆军,海军的军刀实用性较低,昭和时期有高山政吉的「高山流抜刀術」。


▼军刀的持有

由于昭和33年的枪炮剑类登录规则限制,军刀难以作为工业刀通过“枪炮刀剑类登记”。但根据审查员的个人判断,也有作为工业刀被发行许可的例子。公安委员会持有的刀剑、没开刃的遗物比较容易通过许可。另外,刀身切断、枪刀法限制范围外加工之后也容易得到许可。


まずフランスに範をとった帝国陸軍1875年(明治8年)の太政官布告にて軍刀(「刀」)を制式し、将校士官)が佩用(帯刀)する刀[1]は外装・刀身ともに純サーベルとした[2]。なお、同布告では野戦や常勤時に使用する軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」も制式されており(のちに廃止され刀に一本化)、様式はサーベルではなくエペとされていた。

しかし西南戦争における抜刀隊に対する評価[3]や、日本人古来の刀に対する認識などから、外装は制式のサーベル様式を踏襲しながらも、刀身を日本刀に変え佩用する事が次第に一般的となっていった。更に1935年(昭和10年)前後には、陸海軍ともに従来のサーベル様式外装に代わり、当時の時勢と戦訓を反映した日本古来の太刀を模した外装が制定された。

時代や状況にもよるが、基本的に軍刀を佩用できた軍人は陸海軍の兵科兵種)・各部/を問わない全ての将校/士官(海軍では特務士官を含む)と准士官、陸軍の見習士官、海軍の少尉候補生(短剣)、陸軍の士官候補生陸軍士官学校本科)生徒のうち兵科(兵種)が騎兵輜重兵である者、海軍の海軍兵学校生徒(短剣)。更に陸軍の下士官においては、乗馬本分者たる騎兵・憲兵・輜重兵といった特定の兵科(兵種)に属する「帯刀本分者」と、徒歩本分者である歩兵などでも連隊大隊本部附、外居住者たる曹長を中心とする一部の上級下士官も該当する。

下士官兵(帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり管理も兵器扱いであるが、将校准士官の軍刀は上述の1875年の太政官布告以降、陸海軍解体に至るまで基本的に陸海軍服制上の制式であり、そのため純粋な兵器ではなくあくまで軍服などと同じ軍装品扱いであった。そのため他の軍装品一式と同様に官給品ではなく私物であったため、階級に見合う軍刀を自弁調達[4]する必要があった。外装など軍刀としての形は大まかには制式されていたものの、軍服と同じく各個人の嗜好や趣味により実に様々な拵や刀身の軍刀が存在した。また、前述の通り官給品が支給されていた下士官兵の間でも、上級下士官や、外地・前線にいる者は私物として誂え軍刀を佩用することもあった。

20世紀以降は兵器の近代化と進化した戦闘ドクトリン騎銃とともに軍刀を主装備とする陸軍の花形兵科であった騎兵の衰退により、概ね第一次世界大戦から戦間期を境に各国では野戦における軍刀の使用のみならず、常勤時の佩用までも廃止する傾向にあった。第二次世界大戦の時点で軍刀を軍人の主要装備とし、また将校准士官が軍装品として常時佩用していたのは日本陸海軍と幾つかの国のみであった。第二次大戦後の現代では、日本の自衛隊を含む各国軍とも完全に儀礼用の服飾品という扱いとなっている。


▼军刀的种类

大元帥佩刀

陸海軍の大元帥たる天皇大元帥佩刀(大元帥刀、天皇佩刀)を佩用した。

大元帥佩刀の外装は陸海軍の軍刀剣類に準じ、陸軍式御服着用時は陸軍の刀を、海軍式御服を着用時は海軍の刀を佩用する。

元帥佩刀

元帥たる陸海軍大将元帥佩刀(元帥刀)を佩用した。元帥佩刀は後述の陸海軍の軍刀剣類とは外装や刀身、および刀としての位置づけはまったく異なる。


陸軍

将校および准士官

明治19年制式

1886年(明治19年)制定。主に昭和10年代中頃まで使用された。外装は西洋風のサーベルであり、鞘は煌びやかなニッケルメッキであるが、切羽や柄の鮫皮巻き、八重桜・桜花・桜葉の彫物などに日本の刀装具の面影を見せている。また多くは従来の日本刀操法に準じ柄は両手握りが多く[5]、目釘を使用するなど日本刀仕込みに特化した外装をもつ和洋折衷の品である。のちには太刀型の昭和9年制式刀が登場し次第に取って代わられ、更に服制自体が大幅に改定された昭和13年制式でこの明治19年制式刀は陸軍服制上より事実上削除されるが、当分の間(無期限扱い)明治19年制式刀を混用することは同時に認められており、引き続き第二次大戦終戦まで使用された。そのため現代ではそれら新軍刀たる太刀型と区別し、本刀は旧型軍刀、旧軍刀などと呼称されている。全兵科・各部共通の差異としては、階級により背金を占める桜・桜葉の彫物の面積が尉官は柄頭終端、佐官は全体となる。また、騎兵科のみ柄・護拳の細部が一般兵科とは異なる(柄頭の一体化、護拳の簡略透かし)。

昭和9年制式

1938年(昭和13年)制定。俗称は九八式軍刀。同年の服制改正に伴い第二佩鐶を廃し1個のみに制定し直し、正装から略装まで一環で佩くようになった。そのため昭和9年制式刀と基本形に差異はない、しかし支那事変中に制定され大戦終戦まで相当数が製作・使用されたため、佩用者の嗜好や等級[6]のみならず、製作業者や時期により無数の種類がある。旧制式に引き続き、時勢にまだ余裕のあった1940年(昭和15年)頃までは昭和9年制式刀と変わらず上等外装が多くを占めていたが、1941年(昭和16年)以降は太平洋戦争大東亜戦争)開戦による物資不足や戦局の悪化に伴い、徐々に部品の簡略化など外装品位は低下していった。総じて鞘塗装は同時期の軍服絨に合わせ色調の濃い帯青茶褐色(国防色)が多い。


★昭和十三年制定軍刀(将校・准士官用)

 昭和十三年に制定された「将校」・「准士官」用の軍刀外装であり、将校各自が自己で調達した「刀身」に併せて「外装」を定めたものであるために、下士官・兵用の制式軍刀である「三十二年式軍刀」や「九五式軍刀」のように厳密な寸法の規定はない。

 軍刀は携帯に際して「刀帯」を用いるが、多くは「略刀帯」が用いられ左腰部分に吊られるほか、状況に応じて「略刀帯」にある通称「ズベラバンド」と呼ばれる「刀挿」に挿して携帯する場合もある。

 また階級に合わせて「将官」・「佐官」・「尉官」用の「刀緒」がある。


1938年(昭和13年)制定。俗称は九八式軍刀。同年の服制改正に伴い第二佩鐶を廃し1個のみに制定し直し、正装から略装まで一環で佩くようになった。そのため昭和9年制式刀と基本形に差異はない、しかし支那事変中に制定され大戦終戦まで相当数が製作・使用されたため、佩用者の嗜好や等級[6]のみならず、製作業者や時期により無数の種類がある。旧制式に引き続き、時勢にまだ余裕のあった1940年(昭和15年)頃までは昭和9年制式刀と変わらず上等外装が多くを占めていたが、1941年(昭和16年)以降は太平洋戦争大東亜戦争)開戦による物資不足や戦局の悪化に伴い、徐々に部品の簡略化など外装品位は低下していった。総じて鞘塗装は同時期の軍服絨に合わせ色調の濃い帯青茶褐色(国防色)が多い。


昭和18年制式

俗称は三式軍刀。刀身の銘から1943年(昭和18年)頃から生産されていたが、それ以前の将校准士官刀と異なり昭和18年制式の軍服類とともに勅令の服制令にて定められたものではなく、そのため純粋な陸軍制式軍刀ではないとされる一方、理由がありあえて陸軍は本刀を勅令裁可しなかったという説もある[7]。本刀は更に実戦に特化した拵であり、従来の昭和9年制式/昭和13年制式刀は「柄が脆くて戦闘時に破損しやすい」「柄糸が脆くすぐに擦り切れる」「目釘が1本のため折損しやすく刀身の脱落を招く」「木部や鯉口から水や泥が浸入し刀身を傷める」などの欠点が露呈した。これに対応して、一貫巻の柄糸と鮫皮全体に漆をかけ、目釘を2本とし、鯉口を防塵2分割式に変更、暗色塗装、装飾の簡略化がなされより堅牢な刀となった。


下士官兵(官給刀)

★三十二年式軍刀

 明治32年に制定された、兵・下士官用の軍刀で、片手握りのサーベルタイプの軍刀である。

 「騎兵」等の「乗馬本文者」用の刀身の長い「甲」と、「歩兵」等の「徒歩者」用の刀身の短い「乙」がある。 通常、騎兵の下士官・兵の軍刀は乗馬の場合は鞍の右部分に装備する 。片手での操作に便利なように、「護拳」の中に「指貫」と呼ばれる「人さし指」と「中指」を入れる革製のリングが装備されている。


1899年(明治32年)制定。甲と乙の2種類があり、甲は騎兵用[8]で長寸、乙は主に輜重兵や徒歩本分者用で甲に比べやや短寸となる。外装は明治19年制式の将校准士官刀とは異なり、柄は片手握りで刀身も純西洋式である。兵器たる官給品のため陸軍造兵廠などによる工業生産品。昭和に入り、片手握りで使い辛いなどと一部で評判の芳しくなかったため、乙は柄を日本刀式の物に変更した三十二年式改(仮制九一式)へ改められ、甲は主に乗馬本分者用として終戦まで生産された。なお、拳銃と軍刀を馬上で併用する騎兵の煩雑さを考慮し、南部式自動拳銃及び十四年式拳銃を本刀の柄と一体化させたガンブレード風の試製拳銃付軍刀が開発されたが、中途半端で使いにくい失敗作として試作に終わっている。また余談ではあるが中国人民解放軍では、三十二年式軍刀甲型を参考に開発され、ほぼ同一の形状を有している65式騎兵軍刀が、騎兵部隊の装備として運用されている。


★九五式軍刀

 昭和10年に従来の「三十二年式軍刀」に替わって制定された、兵・下士官用の軍刀で日本刀形式のスタイルをとっている。

 過去の戦訓より、「目釘」を2本にしたほか、「鞘」でも格闘が出来るように鞘の強度を増して大型の「こじり」を装備している。また「柄」は将校軍刀と異なり黄銅製で銅メッキが施されている。 

1935年(昭和10年、皇紀2595年)制定。三十二年式軍刀の後継として開発され、より実用的で量産に適する形にされた。柄は全金属製(大戦末期品を除く)の日本刀式で、鞘はメッキでなくつや消し塗装のサーベル式となっている。九五式軍刀は外装刀身ともに研究改良の末にさらに頑丈・実戦向きの物となっており、耐久力は旧来の日本刀拵はもちろん将校准士官刀を凌駕していた。戦局の移り変わりにより簡略化が行われ、柄は製だったものがアルミ製、さらに末期には鞘とともに木製に変更された。この他にも鍔や装飾部、細部が簡略化されている。このように改定が続いたため、かなり多くのバリエーションが存在する。戦争の長期化につれて、高コスト・長納期である将校軍刀の代用として、将校准士官にも九五式軍刀を購入・佩用することが認められていた。


指揮刀

1886年制定。刀身以外に軍刀との差異は基本的に駐爪が無く、柄は片手握りで鮫皮ではなく水牛の角や樹脂が使われる(将官は鼈甲)。騎兵と一般兵科との差異は軍刀に同じ。なお、昭和初期には甲種幹部候補生出身の予備役将校や、叩き上げの准士官を主な佩用対象とした指揮刀型軍刀こと兼用刀が極稀であるが存在した。外装は指揮刀ベースながら駐爪を付し刀身は研ぎ前の細身の本身が入る。平時はそのまま指揮刀として佩用し出征時に刃を付け軍刀とする一挙両得で経済的な軍刀であった。

海軍

士官特務士官准士官

長剣

明治から主に昭和10年代初中期頃まで使用された。大正にかけて何度か改定されているが、基本形状は変わらない。海軍は陸軍と軍種が異なるため陸戦をほとんど考慮しておらず、明治19年制式刀より儀礼的で華麗な外装である。鞘は黒または茶色の革製、もしくは鮫皮に黒漆を塗って研ぎ出したものであり、各金具には桜葉等のの彫りが入る。陸軍の明治19年制式の将校准士官刀と同じく日本刀々身を仕込み、柄は両手握りの物が多い。太刀型の制定後も混用され一部は終戦まで使用された

軍刀

1937年(昭和12年)制定。陸戦隊士官が第一次上海事変で使用した従来のサーベル様式の長剣は実戦の際に重大な欠陥を露呈した。「護拳が邪魔」などの陸軍と同じ苦情のほかに、「雨や泥に濡れて柄の鮫皮や鞘の革が剥がれる」「石突の金具から水が入り刀が錆びる」などの海軍長剣ゆえの問題点が生じた。そのためこれら難点を是正し、また当時の国粋主義思想もあって太刀型へと変更された。しかしながらあくまで海軍は陸戦主体でないため、儀礼的な要素を幾分か残した外装となった。佩環は2個固定、柄は黒漆の塗られた鮫皮に茶色の柄糸、鞘は黒漆塗りが多く、一部には黒漆塗の研出鮫皮や、陸戦隊向けの黒シボ革で包んだ物もあった。鍔は装飾のない丸型。等級は一等・二等の2種類が存在した。陸軍と同じく太平洋戦争開戦以降は外装品位の低下が起き、普通塗料による鞘塗装や略式外装も普及し、1945年には更に臨時特例(佩環を1個に省略、部品の省略、革巻き鞘)が出された。 。

短剣

1883年(明治16年)制定。大正に細部が改定されたものの、明治から終戦まで基本形状は変わらない。しかし、軍刀と同じく太平洋戦争開戦後は鮫皮の代用素材として、セルロイド一体整形柄や代用革が普及している。刀身は多くは日本古来の短刀の刀身に似せた模擬刀身、あるいは新作刀身や特殊刀身を仕込んでいた。海軍短剣の刀身として最も有名な物に三笠刀がある。日本海海戦の勝利を記念し、戦艦三笠に装備されていた12インチ副砲の砲身残鉄を使用した記念刀身である。短剣と長剣の両刀身が刀匠の堀井秀明により作刀された。短刀身(短剣)には甲種と乙種の二種類があり、甲種の刀身には「皇國興廢在此一戦」と彫刻がなされた。ただし、材料が砲身用の洋鋼であるため、新たに発見された場合などの刀剣登録が年々難しくなってきている。また、菊池千本槍の故事に基づき菊池槍を仕込んだ例もある。普通の短刀と異なり、短刀用に茎を切り落とし改造された菊池槍の形状が(やや大振りながら)士官短剣の形状と合致したためである。


儀礼長剣

海軍の儀礼長剣は本身長剣の柄をそのまま片手握りにした程度である。通常礼装時や常勤時は短剣を佩用し、なおかつ長剣の存在もあるのでもっぱら儀礼長剣の佩用は正装時・礼装時や儀仗用であった。




★指揮刀

 「指揮刀」は将校が平時に「軍刀」の代りに佩用するサーベルタイプの軍刀であり、原則として「刀身」は模造刀身を仕込んでいる場合が多い。

 平時の演習等で多用されたために「指揮刀」の名称で呼ばれており、「柄革」が「白革」ではなく「黒革」であるほか「駐爪」が付いていないケースがほとんどであり、「軍刀」と同様に一般兵科と騎兵科用の二種類のバージョンがある。また、稀に「実刀刀身」を仕込んだり「駐爪」を備えたものもある。


★私物軍刀 其の一

 戦争が始まった場合、正規に軍刀の所持が許されている「帯刀本文者」以外にも、多くの下士官・兵が私物の軍刀を装備して戦場に赴きました。


★三十年式銃剣

 「三十年式歩兵銃」の制定と相成って、制式化された国軍の基幹銃剣で、「三十年式歩兵銃」以降の昭和20年まで国軍の「小銃」・「騎銃」・「軽機関銃」・「機関短銃」に装着して、白兵戦に使用された。

 刃は剣身の先頭から190ミリの所までつける。


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