在帝国陆军中,将校准军官所装备的手枪·军服·军刀都是根据个人喜好以私费筹措。手枪主要以欧美进口为主,渐渐使用国产。政府供给品的制式手枪(十四年式手枪),面向的主要对象为轻机枪·重机枪分队员(枪手等)、宪兵、机甲兵(坦克·装甲车乘员)、自动两轮车驾驶员、航空部队的空勤(驾驶员等)、挺进部队的挺进兵,等下级军兵。
【左轮】史密斯威森3型
口径:8mm(大型) 7mm(小型)
装弾:6発
射程:30m
服役:1870-1915年
也被称为「S&W No.3 回転式拳銃」,由美国枪械制造商史密斯威森生产的中折式转轮手枪。 日本帝国海军于1880年代从美国及俄罗斯购入了数千枝手枪,并以「一番形拳铳」的名义投入到日俄战争中。
【左轮】二十六年式手枪
口径:9mm
装弾: 6発
射程: 100m
服役:1893年-1945年
由东京炮兵工厂开发生产的中折式左轮手枪,代替「一番型拳銃」「二番型拳銃」,面向陆军下士官兵的双动击发式接近战火器。全枪长度为230mm、枪管长度为120mm、空枪质量为880g。原作为骑兵手枪设计,因此枪托处有可绑上系绳的环。在日俄战争·一战·雾社事件·二战中均有使用,服役到昭和二十年。在大正年间向市井出售,枪支22円、百发弹药3円。
【左轮】桑原式转轮手枪 (桑原製軽便拳銃)
口径: 32口径
装弾: 6発
东京桑原枪炮店在日清战争时面向军官发售、以二十六年式为基础开发出的中折式左轮手枪。全枪长度为150mm、枪管长度为77mm、空枪质量为375g。与只能双动击发的二十六年式不同,该枪能单动击发,非常轻便。铰接式侧板便于整修。金属部件表面电镀镍,可以有效防止生锈。枪套为黑水牛皮制品。关于威力,据称可在50m击穿15mm杉木板。该枪有很多提供给了近卫师团,售价为15日元。明治28年,桑原所使用的.32 S&W弹的售价为每100发2日元。
【自动】南部式大型自動拳銃甲·乙
口径:8mm(大型) 7mm(小型)
装弾:8+1発(大型)6+1発(小型)
射程:50m
服役:1920年
明治35年に南部麒次郎開発の自動拳銃、明治37年に東京砲兵工廠での生産。海軍が陸式拳銃という名称で採用したほか、改良を加えられたものが十四年式拳銃として陸軍に採用されている。 南部式自動拳銃有大型(甲)、大型(乙)、小型の3種類。装弾数は大型8発・小型7発であり。 製造は東京造兵廠、小倉造兵廠、東京瓦斯電気工業株式会社。
その後二十六年式拳銃を更新する拳銃として南部式自動拳銃乙型が検討され、1908年(明治41年)の1月22日から2月5日の間に“四一式自動拳銃”と仮称して陸軍技術審査部主体でテストされたが、予算の関係上早急な装備更新はすべきでないとして採用には至らなかった。補助火器である本銃の更新は見送られ、陸軍将校に小口販売されたほか、明治末期からは泰平組合などを通じて中国やタイなど海外へ輸出 され、軍人以外の官吏にも支給されていた。
1924年(大正13年)に大型(乙)が海軍陸戦隊に採用され、陸式拳銃という名で約10,000挺が納入され、1925年(大正14年)に陸軍が名古屋造兵廠で大型(乙)に改良を加えたものを試作し、これが十四年式拳銃として採用された。
「二十六年式拳銃」に代替する新型拳銃として、「南部麒二郎」が開発した大型自動拳銃で、開発時期は日露戦争勃発の2年前の明治35年(1902年)と伝えられている。
木製の「銃床(ストック)」兼用の「拳銃嚢(ホルスター)」に納められたものを「南部式大型自動拳銃-甲」、通常の革製の「拳銃嚢」に納められたものを「南部式大型自動拳銃-乙」と呼称した。
この「南部式大型自動拳銃」は、製造工程の複雑さと価格が高価なために、陸軍の制式兵器とならずに少数が将校私物や民間用に販売されたほか、帝国海軍が大正13年(1914年)に「南部式大型自動拳銃-乙」に小改良を施したものを「陸式拳銃」の名称で制式採用している。
【自动】南部式小型自動拳銃
口径:7mm
装弾:6+1発
射程:30m
服役:1920年
前述の「南部式大型自動拳銃」と同じく、東京砲兵工廠-小銃製造所長の「南部麒二郎少佐」が明治35年(1902年)に開発した小型自動拳銃で、将校の私物のほかに一般にも市販された。 大正3年の時点で東京砲兵工廠より銃砲店を通じて販売されており、価格は「銃」は32円、「弾薬」は100発4円50銭であった。
【自动】一九〇〇年式ブロウニング自動拳銃
口径:7.65ミリ 32ACP使用
弾数:6発
1900年にベルギー陸軍が制式拳銃として採用した、「ジョン・ブロウニング」の開発した自動拳銃で、近代的自動拳銃の幕開けを飾った拳銃。
日本には将校・個人用として、銃砲店経由で輸入がなされ、大正3年の「青島戦」では使用された記録がある。
【自动】一九〇六年式ブロウニング小型自動拳銃
口径:. 25口径
弾数: 6発
服役:1931年-1979年(FN社)
「ジョン・ブロウニング」の設計で1906年にベルギーFN社より発売された、護身用小型自動拳銃。宝贝勃朗宁(Baby Browning)
日本では大正時代始めに「懐中拳銃」・「袖珍拳銃」・「ベスト・ポケット」等の名称で、他社のコピー製品多種と共に輸入され、一般のほかに将校の護身用として多数が使用された。
【自动】一九〇九年式ベヤード小型自動拳銃
ベルギーの銃器メーカー「エスタブリッシュメンツ・ハイパー社」が、「一九〇六年式ブローニング小型自動拳銃」をより小型化して発売した護身用拳銃。口径7.65ミリ・装弾数5発のモデルも存在する。「一九〇九年式ベヤード小型自動拳銃」は、後に各所のデザインを更新しつつ、「一九一一年式ベヤード小型自動拳銃」・「一九三〇年式ベヤード小型自動拳銃」へと発展していく。
【自动】ピッカート五連射小型回転拳銃
大正時代初期に輸入されたドイツの「フレドリック・ピッカード社」製の口径7.65ミリ、装弾数5発の折畳式引金を装備した小型回転拳銃。
大正3年の青島戦では日独の戦闘で彼我ともに使用した。
【自动】日野式自動拳銃
口径:8mm
装弾:8発
射程:500m
服役: 1908年
開発者は当時陸軍中尉の肩書きを持っていたが制式採用された銃ではなく市販品であった。最も代表的な口径は32口径であり.32ACP弾を使用するが、販売初期には5mm口径から8mm南部弾まで様々な口径が製造された。装填数は弾薬の種類により8-15発とされた。同時代のモーゼルC96やFN ブローニングM1910とは比較にもならない拳銃であり、実際に使用された可能性は少ない。それでも1912年までに500丁前後の生産が行なわれたと記録にはあり、その非常に特異な外見からガンコレクターには人気の高い銃である。
【自动】十四年式手枪
口径:8mm
装弾:8発 +薬室1発
射程:50m
服役: 1925年
大正13年,陆军炮兵上校·南部麒麟次郎在名古屋工厂设计的手枪, 有南部式·小型南部·四年式南部·大正十四年式。 前三种均有握柄保险,小型和陆式还有木盒枪托的插口,枪上只刻印南部式。在向中国·泰国等地小额销售之后,大正14年精简化定为陆军制式手枪,为二战中使用的主要手枪。使用日军独有的8x22 mm南部弹。1934年加上了保险,在无弹匣的情况下不能击发。带著手套也可以操作。由於其皮套有个圆形的盖子,民间俗称王八盒子。
【自动】杉浦式自動拳銃
口径:8mm
装弾:8発
射程:50m
服役: 1925年
昭和初期に開発された自動拳銃である。 慢性的な将校用銃器不足を補うためにつくられたとされる.32口径の自動拳銃。.32ACP弾を使用している。8mm南部弾への統合計画に乗らなかったため、.32口径以外は製造されていない。ハンマーをスライド内側に内蔵する機構やスライド形状などは、当時人気のあったコルト社のコルト・ポケットM1903をほとんどコピーして製造されたとされる。 海外への輸出はほとんど無く、中国で製造したのを日本へ輸出した程度で、アメリカなどでは滅多に見る事は無い。 しかし、当時のアメリカ兵が倒した日本兵の銃器などを戦利品として持ち帰り、ごく少量だがアメリカなどの市場に出回っている。
【自动】毛瑟C96
口径:7.63mm
弾数:6発、10発、20発
ドイツ製「一八九六年式モーゼル大型拳銃」は明治後期~大正初期にかけて軍用・狩猟用拳銃として銃砲店を通じて輸入されたほか、「滿洲事変」・「支那事変」では大量に捕獲されて現地部隊で多用された大型拳銃である。通称「モーゼル十連発」
大陸で多用された「モ式大型拳銃」は、1913年制定の「M712」等もあったが、多くは口径7.62ミリの「一九八六年式モーゼル大型拳銃(M96)」であり、在大陸の部隊での捕獲使用は勿論のこと、近接戦闘に便利なために「関東軍」では近接戦闘用の増加兵器として、大陸で捕獲された「モ式大型拳銃」のうちから制度の良いものを分隊の下士官レベルに配備していた。
また満州国軍では「一号拳銃」の名称で満軍の制式拳銃となったほか、滿洲・朝鮮警察等でも多用された。 中国戦線で大量のC96を鹵獲した日本軍では、昭和15年2月から口径7.63mmのモデルに「モ式大型拳銃」の制式名称を与えて準制式拳銃として採用しており、昭和15年2月には国軍の「準制式兵器」として採用され、拳銃弾も製造されている。
【自动】 ベ式機関短銃
昭和初期に国軍が近接戦闘用としてスイスSIG社製の「一九二八年式機関短銃」を輸入して陸海軍・警察で使用したほか、「滿洲事変」・「支那事変」で捕獲された機関短銃が部隊で多用された。また後には再軍備後のドイツより「一九三四年式機関短銃」も輸入している。
国軍ではこれらの機関短銃を原形の「独國一九一八年式機関短銃」の通称である「ベルグマン銃」より「ベ式機関短銃」と呼称して使用した。
【自动】 九四式拳銃
口径:8mm
弾数:6+1発
射程50m~100m
日本九四式手枪为战车乘员,汽车兵,飞行员等非直接战斗人员所装备的自卫手枪,这种手枪精准度高,而且重量比大正14年式战斗手枪轻,并且也不需要经常保养擦拭。1930年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した自動拳銃。 主に将校用の拳銃として開発がなされた装弾数6発の自動拳銃である。
使用弾薬は口径8ミリの「十四年式拳銃実包」であり、弾薬は銃自信に装填している6発と「嚢(ホルスター)」に入る予備弾倉装填の6発の計12発を携帯する。
当拳銃を捕獲した米軍が「逆鈎」部分の押しつけによる暴発により「自殺拳銃」の名称が付けられたとの記述があるものの、国軍の拳銃使用は厳格な射撃規定があるほかに射撃直前まで薬室に弾薬を装填することは皆無であることや、仮に「逆鈎」が原因で暴発事故が発生した場合は「陸軍兵器学校」が対策を講じているはずであるが、目下その対策記録を見たことはなく、この「自殺拳銃」の情報ソースの由来に疑問を感じるものである。
事実、「陸軍名古屋造兵廠」が昭和15年4月に発行している「九四式拳銃保存取扱説明書」の「機能ノ概要」の項目には、「・・・安全裝置ハ安全栓及安全子ニヨリ逆鈎ト引鐵トノ兩者ニオノオノ作用ス、即チ安全栓ハ銃床後部ノ軸孔ニ裝置セラレ之ヲ摘ミテ「安」ニ一致セシムル時ハ逆鈎ノ囘轉ヲ防止シ發火不能トナル、安全子ハ用心鐵ノ後方ニ裝置セラレ彈倉ヲ離脱シタルトキハ安全子ばねニヨリ用心鐵内ニ突出シ引鐵ニ鈎シ發射ヲ不能ナラシム、故ニ彈倉ヲ離脱セル場合ハ藥室内ニ實包殘存スルモ不時ノ撃發ヲ防止シ得ルモノトス。」との記述がある。
【自动】稲垣式自動拳銃
南部麒次郎の部下の一人であった稲垣岩吉が大日本帝國陸軍を退官後に東京都杉並区にて起業し開発された口径8mm、8連発の中型自動拳銃で、標準的な.32ACP弾を使用する。撃鉄内蔵式のストレートブローバック方式で、官品の拳銃不足を補うために採用されたが、二式拳銃や九四式拳銃と違い、制式採用ではなかった。500挺余りが製造され、主に大日本帝國海軍の航空兵や将校自衛用拳銃として使用されたようで、錨のマークが刻印されているものが極少数米国のコレクターの下で現存している。内部機構の特色としては、ライフリングが12条である事、用心金(トリガーガード)を左にひねって外す事でスライドと銃身を脱着する構造(モーゼルHScやワルサーPPと類似している)である事、スライドを押し戻すリコイルスプリングがスライド後方に2本並列で配置された構造であること、72mmと極端に短い銃身で後方に重心が偏ったような構造である事などが挙げられる。安全装置はフレーム左後方に配置されており、この時期の日本製の銃器では珍しく安全位置の刻印がS、発火位置がFとされている。
後に8mm南部弾仕様のものも試作され、同じく民間人の技術者により開発された二式拳銃と共に陸軍のトライアルに供されたが、陸軍第一技術研究所の伊藤眞吉(後に64式7.62mm小銃の開発に携わった技術者と同一人物とみられる)の回想によると、「板ばねを用いた構造が脆弱であった為」稲垣式のみが不採用とされている。8mm南部仕様は3挺程度しか製造されなかったようであるが、こちらも米国に現存品が存在する。
なお、稲垣がはじめ特許を取得した際の図面ではグリップ後方に2本の板ばねが組み込まれた構造となっており、1本がリコイルスプリング、残り1本が撃鉄そのものを兼ねたハンマースプリングとなっているが、.32ACP仕様の現存品ではリコイルスプリングはコイルばねとなり、ハンマーも九四式拳銃と類似したごく一般的なインナーハンマー構造となっている事が確認されており、伊藤が脆弱と評した板ばねを用いた構造がどの時期まで用いられていたのかは明らかにはなっていない。
【自动】浜田式自動拳銃
拳銃開発に重きをおいていなかった日本では、重く取り回しづらい国産拳銃の評価は芳しくなかった。もともと日本軍将校は自前で拳銃を用意することもあって外国の拳銃が主に使用されていた。しかし昭和初期、戦争の機運が高まると軍需物資の輸入調達が難しくなったのと、政治的な意図がからみあい国産拳銃の需要が高まった。そこで日本銃器株式会社社主の濱田文治により設計されたのが浜田式自動拳銃である。
【自动】一式拳銃
1941年(昭和16年・皇紀2601年)に完成し、将校用の拳銃をかねて市販された。当時人気のあったブローニングM1910を参考にして開発されたため人気は高く、昭和18年末までにおよそ3000丁あまりが製作・販売されたとされる。口径は.32口径(7.65mm)であり.32ACP弾を使用した。遊底複座による自動式で、前述のブローニングM1910と同じく、撃鉄を用いないストライカー式による撃発を採用、遊底先端下部が斜めにそぎ落とされた形状で、内部機構、外観ともに大きくM1910の影響を受けている。本銃は陸軍制式には採用されなかったが、一式拳銃と呼称され、二式拳銃の基礎となった。
【自动】二式拳銃
1942年(昭和17年)から進められた拳銃弾の統合計画(南部式自動拳銃や九四式拳銃で使用されている8mm南部拳銃弾に統合する計画であった)に合わせて.32口径の一式拳銃から8mm口径に改良された浜田式自動拳銃が二式拳銃である。軍の肝いりで始まった計画のため制式拳銃であった浜田式拳銃に対しては陸軍第一技研小型銃器担当官であった谷戸賢二少佐が改良の指導にあたったと言われている。ブローニング・ハイパワーのような外観を持ち、銃口側に重量をかけるデザインとなった。これは8mm南部弾の威力に合わせた改良で、銃口の跳ね上がりは抑えられたと思われる[要出典]。また遊底も大型化された。1943年昭和18年に完成した二式拳銃は開発中の秘匿名を「ハケ式」と呼んだ(ハは浜田式、ケは拳銃)が戦局は悪化しており、製造数はごくわずかであると言われている。一説には1500丁ほどの生産があったという説もあるが武装解除の折に失われたのか、現存しているものは製造番号が2桁台にとどまっており(ブルーイングもなされていないとも言う)、幻の拳銃とされる。複座による自動式で、ストライカー式による撃発を採用している。昭和18年10月12日、仮制式を飛ばし、いきなり陸軍制式として採用された。
大東亜戦争の勃発により、将校用の拳銃の海外からの輸入が途絶えたため、国産の中型将校用拳銃の開発の必要に迫られて「一式自動拳銃」をペースに開発がなされた拳銃。
「日本銃器株式会社」の「浜田文次」が32ACPを弾薬として開発制定された「一式自動拳銃」を基本にして、口径を軍制式の拳銃実包である8ミリに改装するとともに各部の再設計を行い、制定された国軍最後の制式拳銃である。
実用試験には昭和18年3月に「陸軍第一技術研究所」の「銅金義一大佐」・「谷戸賢二兵技少佐」が行い、小改正の後に「二式自動拳銃」の名称で仮制式となり、ごく少数が「日本銃器株式会社」で生産されている。
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