草那藝劍 くさなぎのつるぎ
(天叢雲剣 あまのむらくも-)
日本の神話にでてくる剣。スサノオがヤマタノヲロチの尾を斬った時に、 尾の中から出てきた。もとの名は、ヲロチのいる上空に、いつも雲があったので アマノムラクモノツルギ(天叢雲剣)といったが、 ヤマトタケル(日本武尊)の時、名前を改めたという。「ムラクモ(叢雲)」は集まりむらがった雲のこと。名前については、都牟羽(つむは)の大刀、都牟刈(つむかり)とする伝えもある。
スサノオは「これは不思議な剣だから、どうして自分の物にできるだろうか」と天つ神に献上した。または、尾張国の吾湯市村(あゆちのむら)にあり熱田の祝部(はふり)が神として祀っているとも、 五代の孫のアマノフキネノカミを遣わし、天に奉ったともいわれる。
三種の神器のひとつ。
アメノハバキリ- 天蝿斫剣,天羽々斬剣
あめのはばきり-。日本の神話で、スサノオ神(素戔嗚尊)がヤマタノヲロチを倒すのに使った剣といわれる物の一つ。 蛇を切ることに基づいた剣の名。 名前のハハは羽羽とも書き、大蛇、蛇のことを指すという。古語拾遺にみられる記述(「大蛇、之を羽々と謂ふ」)。 「天の」は美称。「きり」は「斬り」の意味。 あめのははきり、あまのははきり、あまのはえきり、あめのはばきり、-はばきり など呼称は若干違うものがみられるようだ。 日本書紀:天蝿斫の剣 古語拾遺:天十握剣<其名、天羽斬。 古事記:(十拳剣) ヤマタノヲロチの尾を斬った時、中にあったクサナギノツルギにあたって刃が欠けた。または、ヤマタノヲロチを倒すのに使った剣はカラサビノツルギ(韓鋤の剣)とも、 オロチノアラマサ(大蛇の麁正)とも、トツカノツルギ(十握剣 柄が拳十個分の大剣)であるともいう。十握剣は、天之尾羽張神(あめのおはばりのかみ)ともいう。おはばりは幅の広いことをいう。
十拳剣(記)、十握剣(紀) とつかのつるぎ
日本の神話にでてくる剣。イザナギノミコトの佩剣。柄の長さが拳十個分の長剣だという。 イザナミがカグツチを生み死んでしまったことを嘆き、この剣でカグツチの首を斬った、 または3つ、5つに斬ったという。
別称、天之尾羽張神(あめのおはばりのかみ)ともいう。または伊都之尾羽張 (いつのおはばり)とも。 いつ、は威力の意。おはばり、は幅の広い剣の意。
また、スサノオがアマテラスに会いに高天原に登った時、スサノオに野心の 無いことをあかすために使われた。このときは九握(ここのつか)剣、八握(やつか)剣 とともアマテラスが身に帯び、3つに折られ噛まれる、 または食べられるなどして神を生んだ。剣は元はスサノオの物だから生まれた神は スサノオの子だといった。生まれた神が女神なので悪心はないという証になった。
生太刀 いくたち
神宝。大穴牟遅(おおなむち)が地上から根の国へ逃れ、 須勢理毘賣(すさりひめ)と結婚したあと、生弓矢(いくゆみや)、 天の詔琴(あめのぬこと)という神宝と共に持ち帰った。生太刀、生弓矢は生命がこめられている、太刀、大弓大矢。
石切り いしきり
平治物語にでてくる刀。 源義朝(よしとも)の長男、悪源太義平(あくげんだよしひら 19歳)の持つ名刀。悪源太義平の悪は強いの意。勇敢、立派な若武者で八竜 の鎧を着ている。
鵜丸 うのまる
保元物語に出てくる太刀。白河院が御遊したおり、 鵜をつかった時、逸物と聞こえた鵜が水中より持ってきた剣、刀。 「定て霊剣なるべし。これ天下の珍宝たるべし」として鵜丸と名づけて秘蔵。院(法皇)の御剣、御幣太刀(おはかせ)。
鳥羽院がこれを伝えられて、院亡き後、新院・崇徳院に参らせたものを大きな戦を前に源為義に給わった。
エペタム
アイヌの民話に出てくる人喰い刀。敵に攻められた時、祈りを込めれば、ひとりでに飛んでいき何百人の敵でも追い払う。刀のだすカタカタという音を聞いただけで、敵は逃げてしまう。また稲妻の様な光をだしたり、光の尾をひきながら飛んだりする。
力強い味方だが、エペタムを制御する伝承が失われれば、とてつもない脅威となる。
鬼切 おにきり (鬼切丸)
刃長二尺七寸(約81cm)という。 日本の伝承で、源頼光の四天王の一人、渡辺綱が羅生門の鬼を切った太刀。頼光から賜ったもの。「鬼が棲む」というのを確かめるため、羅生門におもむくと、不意に兜のしころを掴んでくる ものがいた。 斬りつけると、鬼の腕(鬼の手)が残っていた。鬼は雲の中へ消えた。
その後、鬼は渡辺綱の伯母に化けて腕を取り戻しに来たが、首を切り落とされ、 天井の煙出しから逃げた。これ以後、この太刀は鬼切丸と呼ばれるようになったという。屋代本『平家物語』剣巻では一条戻橋で鬼の手を切る場面となっている。しかし、これら諸文芸で一番古い話は『前太平記』が最初のようだ。 酒呑童子の配下、愛宕山の茨木童子という鬼を切った。 (この鬼は嵯峨天皇の御世[在位809-823年]に公卿の娘が自ら鬼に変化したという)
源家重代の名刀で、たびたび名前が変わった。 髭切(ひげきり)→鬼切→獅子の子→友切(ともきり)→髭切
『平家物語』剣巻によれば、もとは源頼光の父、満仲(清和天皇の曾孫)が時のミカドより 天下守護の勅宣を賜り、ふさわしい刀がいるというので鉄と鍛冶を集め、果ては九州から 異国人の名匠がよばれ、幾振りもの失敗の末八幡宮で帰命頂礼の祈りの末、神託を得て完成させた。このときの二振りが罪人の斬首での試し斬りで首と共に髭まで切ったという切れ味に 「髭切」となった。もう一振りは首と共に膝まで切ったので「膝丸」(のちの蜘蛛切)となった という。新田義貞が鬼切と鬼丸国綱の二刀で出陣していた時期もあった。
風鎮切り光代 (鬼ノ包丁)
脇差。包丁正宗もそうだがすぐれた守り刀として等の脇差を包丁とよぶことは珍しくなかった。尾州藩、柳生連也斎が刀工・秦光代に作らせた。連也斎は生涯独身、 「夜伽の後ぐっすり寝込んでいるところを襲われては一生の不覚」といい妻を 娶らなかったほどの武人で、刀選びも尋常ではなかったようだ。
脇差の注文を受け、六度だめ出しされた光代は念入りに七度目の刀を作りもっていったが、連也斎がだめだというので 「斬ってみなければわからない」と、 光代はそばの風鎮を四つ重ねて打つと、風鎮は八つに割れた。さすがに連也斎も認めた。
連也斎の家にある夜、泥棒がはいったが風鎮切り光代でまたたくまに数人切り殺された。その斬れ味に感心して「鬼の包丁」と名づけたという。尾州藩では誰一人知らぬものはないという逸話で、この模造刀もしばしば作られたという。政勝という者が信高に作らせたものが残っており「鬼ノ包丁」と銘がある。
瓶割,甕割(かめわり)
歴史上の剣士、「鬼夜叉」とも呼ばれる伊藤一刀斎景久の刀。三島神社に名工一文字から奉納された刀。久しく棟木に括り付けてあったが縄が腐って落ちた時 下の御酒甕(おさかがめ)を貫き、少しも損じなかったという稀代の名刀。三嶋の神主が鬼夜叉が富田一放という兵法者に勝ったのをみて、神主が自分の家で養うことをすすめ、刀を授けた。夜中に五、六人の強盗がきたが、一刀斎が皆切り殺した。この時賊の一人が酒甕の中に隠れたのを飛び掛って甕諸共斬り、賊も甕も共に二つに切り割られたので 刀を「甕割(瓶割)」と名づけた。
雷切 らいきり
日本の歴史伝承上の刀。武将、軍師の立花道雪(1513-1585 旧名 戸次鑑連)の刀。 もとは「千鳥(ちどり)」という名前だった。道雪がある時雷にうたれたが死ななかったという。この時、雷を斬ったとも、愛刀「千鳥」 をもっていたので助かったともいわれる。 (『名将言行録』に、若かりしころ 70年の生涯の中では若かった45歳の夏) この話が広まったためか、「雷切」と呼ぶようになったという。 雷は雷獣、雷神だとも思われていたので、雷獣、雷神を斬ったのだとも。道雪は槍などもふるい剛勇で知られていたが、45歳の頃、雷に打たれ足なえになり、後年は輿に乗って 戦の指揮をとったようだ。輿にはこの「雷切」と火縄銃1挺を置いていた。『名将言行録』などに戦場の様子が記されている。長年、大友家を助けた道雪だが、島津との分け目の戦いに参加できなかった。 (大友ドン・フランシスコ・宗麟は「国崩し」ともいった新兵器の南蛮大砲二門も加えた軍で大敗した。) 筑前で没落する大友家を助けながら戦い続け、遠征中に病没。73歳。
道雪の遺体の輿は、攻撃されることなく立花城へ帰軍できたというので、雷切も無事だったのだろうか。 立花家ゆかりの博物館に展示していないが所蔵されているという。
クトネシリカ Kutune Sirka
クドネシリカとも。アイヌの伝承における英雄ポンヤウンペの持つ名刀。 全体に反りのある刀で、鞘や鍔、柄に彫りこまれた夏狐の化神、 雷神の雌神・雄神、狼神などが憑き神になっていて、 ポンヤウンペの危機の時に力を発揮して敵を刺し殺すという。
同じ物語が訳され、「いたどり丸」という名前で紹介されているものもある。 ユーカラ「クトネリシカ」(日高・門別)がある。
クモキリ 蜘蛛切
日本の伝承に出てくる。源頼光が土蜘蛛、大蜘蛛の化け物を斬った刀。または膝丸。 刃長 二尺七寸(81cm)。 膝丸→蜘蛛切→吼丸(ほえまる 源為義・義朝)→薄緑(うすみどり)
源頼光が瘧(おこり 発作)、熱病にかかって伏せっていたある夜、部屋の中、幽かなる燭の影(灯りの火影) から身の丈七尺(約210cm)の法師が現れ、するすると歩み寄り、 頼光を縄で絡めて連れ去ろうとした。目を覚ました頼光が刀で 切りつけた。駆けつけた配下の四天王が血の跡を見つけ追っていった。 血は北野の社の大きな塚で途切れていたので、掘ってみると四尺(120cm)の大蜘蛛がいたので、 捕まえて鉄の串に刺し、川原にさらした。すると頼光の病も治り、以後、 蜘蛛に切りつけた刀を「蜘蛛切」と名づけたという。
『平家物語』や『土蜘蛛草子』」、謡曲『土蜘蛛』で語られている。鬼切(髭切)と共に鍛えられた二振りの刀のひとつ。蜘蛛切のほうは、試し切りの時に 首と共に膝まで斬ったので「膝丸」と呼ばれた。蜘蛛切は源家重代の宝として甥の源頼義、その嫡男 源八幡太郎義家と継がれていった。 (余談だが、頼義は東北方面の豪族 安倍氏を討伐した)
『平家物語』剣巻によれば、もとは源頼光の父、満仲(清和天皇の曾孫)が時のミカドより 天下守護の勅宣を賜り、ふさわしい刀がいるというので鉄と鍛冶を集め、果ては九州から 異国人の名匠がよばれ、幾振りもの失敗の末八幡宮で帰命頂礼の祈りの末、神託を得て完成させた。このときの二振りが罪人の斬首での試し斬りで首と共に膝まで切ったので「膝丸」(のちの蜘蛛切)となった。 もう一振りは首と共に髭まで切ったという切れ味に「髭切」(のちの鬼切)と号したという。
黒漆剣 こくしつのたち
直刀。鞍馬寺所有の重要文化財。長さ92.85cm。他にも「黒漆大刀」「黒漆太刀」と呼称される刀がある。 時代がずれるかも知れないが貴族が持つ儀礼的な刀を「剣(たち)」としたという。 切刃造の直刀で地鉄もよく錬れ、拵(こしらえ)は黒漆塗で木瓜形の鉄鍔をかけ、魚形をした足金物がついている。
平安時代の武官、武将で二度、征夷大将軍になった坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ 生没758-811)の佩刀と伝わる。坂上田村麻呂の死後は歴代天皇の傍にあったというが、 現在は鞍馬寺所有、京都国立博物館に保管されている。
坂上宝剣という別称もあるというが伝承のもとになった刀は、別の坂上田村麻呂の佩刀と伝わる刀のようだ。 (「富家語」「古事談」「古今著聞集」などに伝わるという)2010年に鞍馬寺に確認したところ、「そういう話もあるようだが、(鞍馬寺では)コクシツノタチを 坂上宝剣とは呼ばない」とのこと。坂上田村麻呂の死後、天皇家で歴代天皇の傍に置かれ、 雷がなるとひとりでに鞘走るという不思議をみせたという。 この霊験、霊威があってか坂上宝剣と呼ばれた刀の伝承があるにはある。標剣しるしのつるぎ、そはやのつるぎ(ソハヤノツルギ)ともいうようだが、 これも別の刀、または田村伝説のもののことともいう。
「黒漆太刀」という似た名前の刀があるが別のものである。また「黒漆太刀拵え」という言葉もあり、拵えの特徴などが刀の呼び名にあることもある。
坂上田村麻呂は東北最大の実力者アテルイ(阿弖流為 生没?-802)と磐具公母礼(ばんぐのきみもれ)を降伏させた、 正三位大納言の官位にまでのぼった。801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては「節刀」(せっとう)を受けて赴いた。
2015年4月、黒漆剣と坂上宝剣を別項目としました。必ずしも同一として述べてはいませんでしたが、同一扱いする資料にも依っていた事もあったので伝承も様々で確定的意見はわかりませんが、 鞍馬寺でそう呼んでいないこともあり、複数ご意見も頂戴したので誤解ないよう別にしました。 ※水槌様より黒漆大刀と坂上宝剣は別物との情報を頂きました。 ※HN静鹿御前さんからも黒漆剣と坂上宝剣は別物と情報頂きました。
サカノウエノホウケン 坂上宝剣
坂上寶劔。平安時代の武官、武将で二度、征夷大将軍になった坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ 生没758-811)の佩刀と伝わる。坂上宝剣の伝承は、『富家語』『古事談』『古今著聞集』などに伝わるという。坂上田村麻呂の死後、天皇家で歴代天皇の傍に置かれ、 敦美親王のもとでは雷がなるとひとりでに鞘走るという不思議をみせたという。 醍醐天皇(897-930)は御所内だけでなく行幸にも佩用したという。なお田村麻呂は勅命で立ちながら甲冑兵杖を帯した状態で葬られ、国家に非常があれば鳴動すると考えられたという。
『古今著聞集』 巻二十 魚虫禽獣
延喜野行幸に御劔のいしづきをおとさせ給ひたりければ、希有の事也。ふるき物をとておぼしなげかせ給ひて、たかきつかのうへにうちあがらせ給ひて御覧じければ、御犬件のいしづきをくはへて参りたりける。これは劔の高名なり。その劔は雷鳴の時はみづからぬくといへり。しかあれどもいまの世にはしらず。京極大殿はおそれをなしてぬくべからずとぞ仰せられける。しかあれども不審によりてある人をもてぬかせて御覧じければ。みねのかたによりて。金をもて坂上寶劔まきたりけり。知足院殿つたへてもたせ給ひたりけるを、白河院よりめされければ参らせられにけり。式部卿敦實親王の劔と今は是となり。
標剣しるしのつるぎ、そはやのつるぎ(ソハヤノツルギ)ともいうようだが、これは別の刀のことともいう。2010年に鞍馬寺に確認したところ、「そういう話もあるようだが、 (鞍馬寺では)コクシツノタチを坂上宝剣とは呼ばない」とのこと。
小狐丸 こぎつねまる
日本の歴史、伝承の武器、刀。三日月宗近で知られる名工、宗近の作刀。 宗近は、あるとき霊告をうけた一乗天皇から、勅命で国家鎮護の御剣を打つよういわれた。 同じ技量の相槌を打つ者がいなければ、と悩んだ宗近は氏神の伏見稲荷明神に参拝すると 美しい童子があらわれ、悩みを言い当て、古今の刀にまつわる話をし勇気付け「自分が相槌を勤める」といって雲に のり飛び去った。稲荷の使いだった。身を清め、注連縄をはって鍛冶をはじめると、狐の姿の童子があらわれ相槌を務め、勅命を果たせた。この刀に「小狐丸」の銘がきられた。残念ながら小狐丸は現在、行方不明であるという。
この物語は歌謡・長唄の題目「小鍛冶」(刀鍛冶のこと)に伝わる。歌舞伎、浄瑠璃にもある有名な話で、 古い能だというが、作者や年代などは伝わっていない。 「刃は雲を乱したれば。天の叢雲ともこれなれや」というくだりが興味ぶかい
治金丸 てがねまる
沖縄の民話に出てくる宝刀。宝剣。ある農家の男が、つまみ食いする子供を戒めようと包丁を振る仕種をしたとたん、触れてもいないのに、子供の首が落ちた。調べにきた役人の前で男は事情を話し、今度は牛で試すと、同じく首が落ちた。男は罪を問われず、包丁は首里城に届けられた。 王はこれを刀に打ち直させ宝刀とした。 実際に琉球王尚家に伝わっていた治金丸という宝剣が現存し、これは1522年に宮古の仲宗根豊見親が尚真王に献上した 小日本製の刀であるという。与那国島の鬼虎が所持していたもの、という伝説もあるようだ。
遅来矢 ちくし
日本の伝承、和漢三才図会などの記述にある、竜神が藤原秀郷(俵藤太秀郷)に与えた太刀。他に避来矢(ひらいし)の鎧も授かる。矢に関した名前になっているが未詳。
七支刀 しちしとう、ななさやのたち
奈良県天理市布留(ふる)の石上神宮(いそのかみじんぐう)伝世の鉄剣。伝世呪刀(じゅとう)。
全長74.9cm、刀身約65cmの鍛鉄の刀。左右に3本ずつの枝刃を交互に出す。石上神宮では長く伝世し、神事でも「七支刀」は神聖視されて、 「六(むつまた)刀」「六鉾(ほこ)」ともよばれていた。目釘穴がなく、 茎の部分が短い。
刀身の表と裏の金象眼の銘文61字には「4c世紀後半に百済(くだら)で作られた」とある。 「泰(和)四年(369)五月十(六)日丙午正陽」と始まる銘文に「七支刀」とあり、 「百済(くだら)王世子」が「倭(わ)王」にもたらした呪刀であると判読される。
七枝刀(ななさやのたち)、ななつさやのたち、の名は「日本書紀」の神功皇后52年9月の条に 「久等、 千熊長彦に従ひて詣り、則ち七枝刀一口、 七子鏡一面及び種々の重宝を献る」という記載があり、 この七枝刀にあたるとされている。 また象嵌の文とあわせ、百済王から献上または下賜されたか、説があるが百済王世子が 作刀の主体で、 この頃(369)年の百済は勢力が高まり、371年には平壌に侵入して、 高句麗の故国原(ここくげん)王が戦死している状況だった。石上神宮の御神体は「ふつのみたま」、「ふつしのみたま」、「ふるのみたま」で 七支刀は御神体ではないが、毎年 6 月 30 日の 神剣渡御祭(しんけんとぎょさい)で、七支刀が神剣の代わりに用いられてきた。
祢々切丸 ねねきりまる
日本の実在する刀、太刀。魔物・妖怪退治の伝承がある。自ら鞘走って妖怪を斬ったという。 現在、栃木県日光市の二荒山神社の御神刀として見ることもできる。 「山金造波文蛭巻大太刀」(やまこがねつくりはもんひるまきのおおだち)という名称が正式か。 日本一の大太刀といわれ、全長3.4m、刃長2.2m、重量22.5kgとツーハンデットソードも真っ青である。 無銘で、室町時代頃の作という説がある 伝承では、 昔、日光の山中にネーネーとなく「ねね」という虫の妖怪が人々に害をなしていた。 すると、この刀が鞘からひとりでに抜き出し、一直線に妖怪を追いかけた。 しばらく逃げて追って、が続き、とうとう神社神前で退治された。
この山を鳴虫山とよび、逃げまわった大谷川の対面の沢を 「ねねが沢」(安養院沢)、刀は「ネネキリマル」と呼ばれた、という。妖怪は、沢に住む河童だったとかぬえが転訛したともいう。瀬登太刀、柏太刀とあわせた3本が御神刀とされている。 この神社には国宝も含め他にも多くの貴重な刀剣・古刀等がある。
布都御魂、韴霊
フツノツルギ、サジフツ(佐士布都)神、ミカフツ(甕布都)神とも。 タケミカヅチノカミ(建御雷神、武甕槌神)の神剣、横刀。また刀剣の神格化された神。建御雷(たけみかづち)の男(お)の神は剣の威力のこととも。 タケミカヅチ、またはアマテラスオオミカミから高倉下(たかくらじ)に天降って、熊野平定で苦戦している神武天皇に与えられたという。 石上(石神とも。いそのかみ)神宮の祭神で、物部氏の奉祭氏となっている。「韴霊剣」は鹿島神宮に由来不明の直刀がある(2.7m。国宝)。鹿島の神、武甕槌神の御神刀。塚原卜伝が、常陸国鹿島神宮の祠官の卜部覚賢の次男で、神職が伝えていた太刀の業から鹿島新当流、卜伝流をおこした。
八剣 やつるぎ
八劒(本字)。草薙の剣のこと。転じて、熱田神宮またはその別宮の八剣宮(はっけんぐう)の前身、 八剣神社いう。(元明天皇が和銅元年[708年]に創建して宝剣奉納) ・八剣神社 長野県諏訪市で御神渡りの神事を行う。(諏訪神社に準じる摂社*。祭神は八千矛神[大国主命]) ・八剣八幡神社 ご当地ヒーロー・ヤツルギで知られる千葉県木更津市にある。 社伝ではこの里を八劒、里の神を八劒の神といった 人皇第12代景行天皇の40年、 日本武尊が東征の途中、社に留まったという。 などがある。
【文献】 『梁塵秘抄』-二・四句神歌「関より東の軍神(中略)熱田にやつるぎ伊勢には多度の宮」 大観本謡曲『源太夫』「威光を四方に顕し給ふは、これ八劒の神徳なり」 浮世草子『男色大鑑』-四・五「二年あまりの心底八劒に命を懸て誓紙たがひに偽りなく」 雑俳・三国志「八剣を戸棚の角へいはひこめ」
【能楽】 漢の帝が持っている宝剣が夜毎に鳴くので占わせると、日本にある村雲の剣(草薙の剣)と夫婦なので一緒にいられないので 悲しんでいる、というので漢の帝の勅使が剣を盗むため日本にやってくるが日本武尊(やまとたけるのみこと)の神霊に阻まれ 空しく帰る。廃曲。 (漢の高祖劉邦が持っていた剣で赤龍を斬ったという剣なら、ヤマタノオロチと関係のある クサナギノツルギと関連づけもうなづけるかもしれない)
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