【「玉匣」】 本論は、「逸文」中の記述「一時」の解釈を踏まえ、「玉匣」との関係性について考察している。詳しくは本ホームページ「浦島説話」研究・「説話」研究の分岐点 Ⅲ「「一時」と「玉匣」の象徴的意味」を参照してほしい。両者は「円環的時間表象」という要素を共有していると考えている。
「浦島説話」といえば「玉匣」、つまり玉手箱は欠かせない。
秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』(岩波書店 1958年)には「浦嶼子」(pp470~477)に「玉匣」の注が記されている。「玉飾りのある櫛(化粧用具)の箱の意から、女性の持つ手箱。いわゆる玉手箱。霊性のある神仙女との結合を可能にするタブーの箱。下文によれば、神仙としての浦島の霊性(不老不死)を斎い込めた箱の意に解し得る」(p473)とある。
玉手箱といえば、当然手のひらに乗る大きさがイメージされる。文中の「女娘、玉匣を取りて嶼子に授け」あるいは「堅く匣を握りて」という記述からもそのようなことが容易に想像できる。しかし、本論は、高松塚古墳やキトラ古墳の石室に描かれた象徴的な図絵は「一時」の象徴的意味と密接に結びついているという考えをもっている。おそらく馬養は、当時の葬送儀礼などにも深く影響を与えた人物であったと思われる。彼は説話を構想するにあたり、当時築造された石室と「玉匣」とを心像イメージとして重ね合わせていたと想像する。それを神女の手のひらに乗せたのである。前述の注記にある「神仙としての浦島の霊性(不老不死)を斎い込めた箱の意に解し得る」という見解は、「一時」=「玉匣」という解釈と矛盾するものではないと考える。
7世紀末頃(持統、文武朝期頃)に築造された古墳の石室と「玉匣」とを密接に結びつける本論の見解が合理的整合性を有するなら、このことを馬養=原作者説の根拠の一つとしたい。
本論は、『丹後國風土記』「逸文」中の「一時」を分割し得ない円環的時間表象と同義の象徴表現と解する立場である。「一時」の「一」は全てを内包するという意を含み、無限、十全性の象徴でもあると理解する。
また、藤原宮時代に築造された可能性の高い高松塚古墳やキトラ古墳、とりわけ後者の石室内四方に描かれた十二支像がやはり円環的時間表象と結びつくという認識をもっている。馬養は当時の葬送儀礼、あるいは古墳の設計思想などを深く理解していたであろうし、むしろ築造に際して影響を与えた可能性すらある。
武田祐吉編『風土記』(岩波書店 1937年)には、「玉匣」の注記として次のようにある。
「たまは霊魂を意味する。霊魂を斎ひ鎮めた箱で、人の魂の遊離することを防ぐのである」(p301)。
一般に「玉手箱」と称される「玉匣」は、貴重なものを入れるのに用いられ、漢代には帝王の葬具であった(『大漢語林』p926)。
本論は、「玉匣」について、原文が成立した当時の葬送儀礼等を参考にし、その頃築造された古墳の石室を心象イメージとしつつ描写した表現と解しているが、「一時」「円環的時間」「無限」「霊魂」といった要素は相互に関係性を持つものと考える。
「魂出匣」
「浦島子が与えられた箱について、玉が魂(たま)であると言った最初の人物は滝沢馬琴で、その著『燕石雑誌』の中で、玉手箱は「魂出匣の義か」と述べている(11)」(三浦佑之 浦島太郎の文学史―恋愛小説の発生 p160 五柳書院 1998年6刷)。
江戸時代後期に読本作者として大成した滝沢(曲亭)馬琴(1767~1848年)が、「玉が魂(たま)であると言った最初の人物」という三浦氏の指摘に留意しておきたい。武田祐吉編『風土記』の「浦島子」には「玉匣」について「たまは霊魂を意味する。霊魂を斎ひ鎮めた箱で、人の魂の遊離することを防ぐのである」(p301 岩波書店 2010年第12刷)という注を付していることについて既述した。
「玉匣」をどのように理解、解釈するかということは、「浦島説話」研究の重要課題の一つと考える。重松明久氏は『浦島子伝』で「玉匣」について「貴重な物を入れる玉で飾った立派な箱」とし、『新論』や『南斉書』といった中国古文献から「玉匣」の用例を紹介しているが、「この物語では神仙としての不老不死の霊気をこめた箱。この物語の原拠ともなったと思われる伊勢外宮のかつての祭祀者らしい宇治土公が、呪具として最も重用していた玉串や鎮魂祭に用いた魂匣と関連があるのかとも思われる」(重松明久 浦島子伝 p19 現代思潮新社 2006年オンデマンド版)と指摘していることにも触れておきたい。
本論は、この説話は藤原京に都が置かれていた時代に、馬養が創作したとみる立場である。「玉匣」は、高松塚古墳やキトラ古墳に象徴される当時の葬送儀礼の観念と密接に結びついていて、石室並びに石室内に描かれた象徴的図絵との意味的連関に注意を払っている。
いずれにしても、「玉」・「たま」・「霊魂」・「霊気」といった表現との関連に意を配りたい。 この説話は「たましい(Psyche)」の物語といえるのではないだろうか。
古代人が「anima mundi(世界霊魂)あるいは「宇宙の心」psyche tou kosmou(3)と名付けた」「分割されない「大いなるたましい」(Psyche)」を「玉匣」に置き換えることができるのではないだろうかと。
決して開けてはならない「玉匣」とは、死者を収める石室の蓋が開かれることが肉体が朽ちる死に通じることであると同時に、その死者は石室の蓋が閉じられることで四方四季の中で永遠の生(文字通りの不老不死)を獲得するという、存在の二重性と両義性(肉体の死と魂の不死)について、馬養は哲学的に語ったのではないか、と本論は考察する。
こうした二律背反的な、哲学的な解釈と意味づけを近代合理主義に基づく科学的世界観は絶対に受容してはくれないのだろうが。
しかし、それでは古代人の心性に迫ることは未来永劫不可能と言わざるを得ないと思う。「浦島説話」に込められた作者の隠された意図を探るには、不死なる魂の存在とその死後存続、そして再生といった観念に深い想像力をはたらかせなければならないと思うのである。
(2010年6月7日 村山芳昭)
【「一時」】
「易の時間論は、どのような宇宙観・自然観と結びついているのであろうか。そしてそれは、今日において、われわれに何か意味のある重要なことを教えてくれるのだろうか。問題のポイントは二つある。一つは、時間と空間の関係がどのようにとらえられているか、ということである。そしてもう一つは、人事と自然、つまり人間界と自然界の関係をどのようにみるかということである。・・・易の卦は本来、人事と自然の両方を占うという基本的性格をもっているからである。時間―空間の関係から考えることにしよう。これは神学者のポール・ティリッヒによって知られるようになったことであるが、古代ギリシャには時間について二つのちがった見方があった。一つはクロノス、もう一つはカイロスである。クロノスはふつういう意味の客観的な時間つまり物理的時間である(ギリシャ神話では、クロノスChronosは農業神で、季節の変化を司っている)。われわれは時間を知ろうとするとき、外界の物理的状態の変化を手がかりにする。たとえば、太陽の位置がどれだけ変わったか、時計の針は今どこを指しているかといった感覚的に認識できる空間的事物の状態を観察して、どれだけ時間がたったかということを知る。これは時間の量quantity(数量的に表現できる時間の長さ)を測っていることである。科学が自然現象の性質や法則を知ろうとするときには、こういう客観的な時間を用いる。ベルグソンは、このような時間を「空間化された時間」である、と言っている。彼がこういうことを言ったのは、過去―現在―未来と流れる時間は、もともと心が記憶や想像を用いて感じるものであるからである。その意味では、過去と未来はわれわれ人間が設定した区別であって、心と物を分けて考えるかぎり、外界の物質それ自体の中にあるわけではない、と考えなければならない。・・・身体の感覚器官だけでは過去や未来を知ることはできないからである。ベルグソンは、この場合、心から分離された身体の存在の極限状態として「純粋知覚」を想定したのであるが、逆に、身体から分離された心の存在の極限状態として、「純粋持続」duree pureを想定する。それは、現在の中に過去と未来が織りこまれて流れているような(心の)時間である。心理学的にみれば、これはユングが考えた意識―無意識の構造と同じである。・・・カイロスKairosとは何を意味するのか。・・・クロノスの時間が物に即して数量化される量的時間であるのに対して、カイロスの時間は質的であって数量化できない。それは、主体が心において感得する時間である。さしあたり、心理的時間といってもいいであろう。しかし、おそらくそれは単に心理的な時間にとどまらない。中国医学の伝統的見方では、心と身体のはたらきはー生きているかぎりー分離できないからである」
(湯浅泰雄 共時性の宇宙観―時間・生命・自然― pp137~141 人文書院 1995年)
湯浅氏は「易の時間観がカイロスの時間にもとづいていることは明らかである」と指摘したうえで、「中国の格言に「人ハコレ一箇ノ小天地ナリ」というように、小宇宙としての人間は大宇宙のはたらきと調和して生きるところに、その本来の姿がある。易は、人間は自然の内部にいて、そのはたらきを受けることによって受動的に生きている、という人間観に立っている。言いかえれば占いは、人間が自然の内部にいて、そのはたらきを受けて生かされている存在であるから可能になるというのである」と語っている(p142)。
「浦島説話」を伝える始原の三書に共通して看取される神仙思想は道教の中核をなしている。道教は、道(タオ)の不滅と一体になることを究極の理想としている。それは易でいう陰陽合一の太極である。不老不死の神仙なる観念は、そこに根ざしている。「逸文」にみえる「意等金石、共期萬歳、何眷郷里、棄遺一時」という箇所の「一時」は「たちまち」「一瞬」といった意味に解釈されている。しかし、この説話が易の哲理を背景にして成立しているとみる立場からいえば、「一」なる時と解する。男女交合の性的モチーフを陰陽統合の太極の象徴表現とみる根拠でもある。
易の哲理に通暁していた馬養は、決して数量化することなどできない質的時間としての象徴表現として「一時」と記述したと考える。「一」なる時は、現在・過去・未来が未分の状態として溶け合っている、たましい(Psyche)が感得する聖なる時として解せると思うのである。
Ⅶ 「一太宅之門」について考える
始原の三書のうち、『丹後國風土記』「逸文」には「到一太宅之門」という記述がある。女娘と主人公が赴いた異界の中の特別な入口にあたるところである。
本論は「一太」という記述には、作者の重要な意図が織り込まれていると考えている。通説では、この箇所は「一軒の立派な家の門」(植垣節也校注・訳 風土記 新編日本古典文学全集5 p476 小学館 1997年)といった意味に解されている。重松明久氏は「一(ひと)つの太(おほ)きなる宅(いへ)の門」(浦島子伝 p11)と訳している。「太」を「大」という意味に置き換え、大きく立派な門構えの邸宅といった意にとらえる解釈が定説になっているといえよう。「太」には「大」の意味があることは確かである。
本論は、作者は「太一」に読み替えることを企図したうえで「一太」と表記したのであり、そのために「大」ではなく「太」でなければならなかったのであると考えている。そのように解するのは、この説話には道教、易(陰陽)・五行思想の哲理が反映されており、とくに後者の思想は、象徴や寓意、暗喩といった表現方法に用いられているとみているためである。
「太一」は万物の根源、宇宙原初の次元、世界の始まり、陰陽が生まれ出づる前の混沌といった哲学的、思想的概念である。『呂氏春秋』大楽篇にみえる「太一、両儀を生じ、両儀、陰陽を生ず」の「太一」であり、『易経』繋辞伝の「易に太極有り。これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」の「太極」にあたる。「両儀」は「天地」、「陰陽」を、「四象」は「五行」にあてはまる。「太一」も「太極」も、万物が生成する根源にある気を意味する象徴表現である。
「太一」を「①万有を包含する大道。天地創造の時の混沌たる気。②いちばん初め。太初。太始。③天帝。また、星の名。太乙。④山名。秦嶺山脈の終南山。」(『新漢語林』)とするように天帝の意などをも含む。天皇が即位等の大礼を行った宮殿を、かつては「太極殿」といった。この名称が易の太極と同義であるとするなら、天皇は、天地創造の太初を、宇宙の最高実在を体現した至高の尊き御存在であるという象徴性が付与されているとみるべきではなかろうか。
作者が「一太」と記述した背後には極めて深い含意が込められていると本論は解している。
(2010年8月13日 村山芳昭)
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