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聖母マリアの出現を目撃したフランスのカトリック修道女カトリーヌ・ラブレ(カタリナ・ラブレ)が、聖母マリアによって示されたお告げとイメージをもとにデザインし、金細工師のアドリアン・ヴァシェットが製作したメダル(médaille=メダイユ)のこと。無原罪の御宿りのメダイ、奇跡のメダイとも呼ばれる。
1830年7月18日、パリのバック通りにある修道院でカトリーヌ・ラブレは子供の声を聞いて目を覚まし、そこで彼女は聖母マリアの出現を目撃した。聖母マリアは「神はあなたに使命を委ねます。あなたは否定されるでしょう、しかし恐れてはいけません。あなたは恩寵によってその使命をなしとげるでしょう。フランス、そして世界は今、悪の時代です」と話した。
同年11月27日、カトリーヌは夕方の黙想の時間に聖母マリアが再び現れたと報告した。聖母マリアは楕円形の枠の中で地上に立ち、様々な色の指輪をしており、ほとんど指輪からは輝く光線が地上に降り注いでいた。楕円形の枠のへりには "Ô Marie, conçue sans péché, priez pour nous qui avons recours à vous."(原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼み奉るわれらのために祈り給え)という文字があり、そして楕円形の枠は裏返り、12の星の輪と十字架の上に乗る大きなMの文字、茨に囲まれた王冠を冠したイエス・キリストの心臓(至聖なるイエスのみ心)と、王冠を冠し剣の刺さった聖母マリアの心臓(聖母マリアの汚れなきみ心)が見えた。カトリーヌはまた、聖母マリアが「このイメージを聴罪司祭に伝え、彼らにそのメダイを身に着けるように言い『それを身につける人は大きな恵みを受けるでしょう』と話しなさい」と言うのを聞いた[4]。
カトリーヌは言われたとおり実行し、司祭は2年間の調査およびカトリーヌの日々の振る舞いについての観察の後、その身元を明かさずにパリの大司教に情報を持っていった。そして要請は受け入れられてメダイを作る許可が大司教から与えられ、聖母マリアがカトリーヌに示したイメージをもとに金細工師のアドリアン・ヴァシェットによって作り出された[5][6] 。それ以後、このメダイを身につけ聖母に取り次ぎを願う人々に、いろいろな奇跡の恵みが与えられたため、いつとはなしに「不思議のメダイ」と呼ばれるようになった[7]。
不思議のメダイに関しての多くの著しい出来事の中の一つは、ストラスブールのマリー=アルフォンス・ラティスボンヌ(フランス語版)の回心である。ラティスボンヌは友人に対し教会に入ることはないと宣言していた。しかし、友人の強い勧めにより彼は不思議のメダイをつけることにしぶしぶ同意し、ローマのサンタンドレア・デッレ・フラッテ教会(イタリア語版)に入ると、不思議のメダイが象徴している姿の聖母マリアが彼の目の前に現れ、彼は速やかに回心した[4]。この時に出現した聖母を「シオンの聖母」といい、この出現も教皇庁は奇蹟として記録している。
この聖母の立像を鋳造した1,500個のメダイが愛徳姉妹会の手によって人々に配布された当時、手渡された人々はそのカトリーヌへの聖母の御出現その他の「メダイが鋳造された理由や由来」を何も知らされぬままであった。配布を受けた人々からは当時流行していたコレラ・狂犬病等の快癒が報告され、無神論者たちの改心も伴い「不思議のメダイ」としていつしか呼ばれ、その名が巷に流布することとなった。 「不思議のメダイ」鋳造の経緯や、配布される理由などがカトリーヌの聴罪司祭アラデル司祭によって匿名で公表されたのはメダイ鋳造後、2年たってからである [8]。
1836年2月16日の調査によると、メダイの形は卵形で、"Ô Marie, conçue sans péché, priez pour nous qui avons recours à vous." という祈りの言葉が聖母マリアの右手から始まり、頭の上に続いて、左手で終わっていた[9] 。カトリーヌ自身による手記によると聖母マリアは光り輝くローブを身にまとい、ローブはハイネックで平素な袖をしていた。聖母マリアは地球の半分の上に立っていて、手は腰の位置まで持ち上げられ、すべての指にはダイヤモンドの指輪がされ、異なる大きさの光線が出ていた。また指には各々3つの指輪がはめられ、最も大きな石が、最も光り輝く光線を出していた。カトリーヌはいくつかのダイヤモンドは光を発していなかったと付け加えている[9]。
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聖母マリアの汚れなきみ心(せいぼマリアのけがれなきみこころ:英語The Immaculate Heart of Mary、仏語Cœur immaculé de Marie、独語Unbeflecktes Herz Mariä 聖母の汚れなきみ心)はカトリック教会における信心業の一つであり、この名称は、聖母マリアの喜びや悲しみ、聖母マリアの美徳や秘められてきた人間としての完全さ、そしてとりわけ処女性を持って神なる父を愛したこと、御子イエスキリストへの母なる愛情、そして全人類を思いやる心といったマリアの内的生活を言い表すものとされてきた[1]。
東方正教会は時折、マリアの汚れなきみ心と関連した聖画、信心、そして神学理論を取り入れてきた。しかしながら、このことは、いくつかの論争を引き起こし、典礼がラテン化した形だとみるものも出てきた。カトリック教会のマリア神学を元とした見解は、ローマ教皇ヨハネパウロ2世が表した使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」によって例示されている[2]。
「聖母の七つの悲しみ」に敬意を払い、聖母マリアの御心は伝統的に、7つの剣などで突き刺されたイメージで描かれる。薔薇やその他の花々も聖母マリアの御心を包むことが多い。
なお、日本語の表記ではイエスのみ心に関しては「聖心」、マリアのみ心に関しては「御心」と区別して書く。(どちらも読み方は「みこころ」)
マリアの御心への崇敬は、イエスキリストの聖心への崇拝との類似点がある。しかしながら、イエスの聖心に対する信心は、人類への愛に溢れるイエスの聖心そのものに直接行われるが、聖母マリアに対する信心は父なる神やイエス・キリストに向かったマリアの御心による愛を呼び込むものである。この点において双方の違いがある[1]。もう一つの相違点として、双方の信心そのものの性格の違いが挙げられる。イエスの聖心に対する信心において、カトリック教会はキリストの愛に答える愛という意味で崇敬する。マリアの御心に対する信心においては、研究と模倣が愛と同じぐらいの割合で重要な位置を占める[1]。マリアの御心への信心の目的はマリアの御心を通じて神と人類を結びつけることであり、これを進める過程には奉献と償いの思いを含む [3]。このマリアの御心に対する信心は、マリアの御心と結びつき、そしてマリアの美徳をまねることによって、父なる神とイエス・キリストを今まで以上に愛することを目標としている。
福音書の記述を基にしたもの[編集]
「ルカによる福音書」の第2章の中で、マリアは自分が経験したすべての出来事を心に秘めてきたこと、それら出来事を何度も熟考したであろうことが2度に渡って記載されている[4]。ルカ書2章35節は、シメオンがマリアに予言した言葉によって、マリアは心臓を貫かれたように感じたことを詳細に記述している。このマリアが剣で心臓を貫かれているイメージは、「マリアの汚れなきみ心」を表現したもののうち最も普及している描法である[1]。「ヨハネによる福音書」は、イエス・キリストの受難を描く中で、マリアがイエス・キリストの十字架の足元にいる姿を描写し、その時のマリアの心情に読み手の注意を引き付けている。ヒッポのアウグスティヌスはこのことについて、マリアはキリストの十字架の下で単に消極的だった訳でない、として、「イエス・キリストが慈悲を通じて行う人類の贖罪を、マリアも自ら苦しむことによりそれを共同で行った」としている[1]。
ローマ教皇レオ1世は、マリアがイエスキリストを懐胎する以前から、信仰と愛を通じてイエスキリストを霊的に自分に宿していたのだとする[4] 。ヒッポのアウグスティヌスの教えでは、マリアが実際に受肉としてキリストを宿したことよりも自分の心の中でキリストを受け入れ、宿したことにより、祝福されたのだとされる。
聖人等によるもの
マリアの御心への信心業は中世のカンタベリーのアンセルムスや クレルヴォーのベルナルドゥスなどのような聖人によって始められた。そしてこの信心業はメヒティルドや大聖ゲルトルード、そしてスウェーデンのビルギッタといった聖人たちによって実践され、そしてこれらの聖人により発展していった[5]。このことの形跡は、「アヴェ・マリアの祈り」や 「元后あわれみの母への祈り」による敬虔な祈りの業の中に見ることができる。また、リチャード・デ・サンローランが、13世紀にルーアンの刑務所で書いた「聖なる乙女マリアへの賛美」(De laudibus B. Mariae Virginis)という非常に大きな著作にもそのことが表されている。なお、上記の「アヴェ・マリアの祈り」、「元后あわれみの母への祈り」は、通常、ルッカのアンセルムス(en:Anselm of Lucca)か、クレルヴォーのベルナルドゥスのどちらかによるものとされている。
話は少し前後するが、マリアの認める心への信心業に、「マリアの喜びと悲しみへの信心」がトマス・ベケット により加えられた。そしてヘルマン・ヨーゼフ(Hermann Joseph)もまた自分のマリアに対する信心業にこれを取り入れ、その後にスウェーデンのビルギッタによる「黙示録の本」にもこのことが書かれている。シエナのバーナディーノ(en:Bernardino of Siena)は「マリアの御心の博士」と呼ばれることがある[5]。カトリック教会がマリアの御心の祝日に第2夜課の祈りの業としてマリアの喜びと悲しみへの信心を取り入れているが、これはシエナのバーナディーノが始めたものである。フランシスコ・サレジオは、このマリアの御心の完全さ、神への愛の手本をテオティムス(Theotimos)へ捧げた著作の中で書き表している。
これと同じ時期に、マリアの御心に対する信心業を実践することについて、ニコラス・デ・ソウセィ(Nicolas du Saussay 1488年没)の著作・「アンティドータリウム」(Antidotarium)、ローマ教皇ユリウス2世、そしてランスペルギウス(en:Lanspergius)の著作・「矢筒」(Pharetra)にその記述を見出すことができる[6]。16世紀の後半期や17世紀の前半期に、禁欲的な著作家たちにより、この信心業についてより大幅で詳しい著作物が書かれた。
聖母マリアの汚れなきみ心の祝日
この祝日の主な目的は、「マリアの霊的生活」の祝日と同じであり、10月19日にカトリック教会の修道会「聖スルピス会」によって祝われていた。この祝日は、神の母であるマリアの喜びと悲しみ、マリアの美徳と完全さ、マリアの父なる神や御子イエス・キリストへの愛、及びマリアの人類に対する哀れみからくる愛を記念して祝う。1643年には、ジャン・ウードとその後継者たちが、2月8日を聖母マリアの聖心の祝日として祝っていた[4]。
ローマ教皇ピウス12世は1944年に「マリアの汚れなきみ心の祝日」を8月22日に祝うよう制定し[8]、この日は伝統的な「聖母の被昇天」の大祝祭(オクターブ:8日間の祝祭)と重なっていた。1969年にローマ教皇パウロ6世がこの「聖母マリアの汚れなきみ心の祝日」を「イエスの聖心の祭日」の直後の土曜日に移行した。現在においては、これは聖霊降臨の祝日の後の3番目の土曜日であるとされている[10]。
教皇パウロ6世はこれと同時に「聖母マリアの汚れなきみ心」の祝日と「イエスの聖心の大祝日」を密接に関連付けた。なお、教皇パウロ6世は、「天の元后聖マリアの祝日」を5月31日から8月22日に移行した。1962年版もしくはこれより17年以前の版による「ローマミサ典礼書」(en:Roman Missal)を使用する人々は、この祝日を5月31日と定めたピウス12世に従っている。これは、エクアドル共和国、修道会「聖霊修道会」、「イエズス・マリアの聖心会」、そして「マリアの御心の宣教会」の守護の記念日として続けられている[7]。
関連する信心業
七つの悲しみ
伝統的な「聖母マリアの汚れなきみ心」は七つの傷を負っているか、または七つの剣で貫かれている描写で表され、このことによりマリアの七つの悲しみに敬意を払う。 「マリアの七つの悲しみ」はカトリック教会における信心の中でも一般的に普及しているもので、この「マリアの七つの悲しみ」で構成される信心業の祈りが幾つかある。その中の一つの祈りに毎日、アヴェ・マリアの祈りを7回唱える、というものがある。「悲しみと汚れなきみ心のマリア」(Sorrowful and Immaculate Heart of Mary) という言葉は、フランシスコ会の世俗会員、ベルト・プティ(en:Berthe Petit)によって使われた言葉で、マリアの悲しみと、マリアの汚れなきみ心を指す。
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