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日本神道组织

神道事務局(しんとうじむきょく)

明治時代の宗教行政で、全国の神道諸派を結集させた団体であり、神官教導職と神道系宗教の両教職者を集めた神道の半公的機関、半ば、神道の公的中央機関である。明治政府は神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成を行った。1884年に神道本局と改編した。

1875年3月に創設。4月、教部省の神仏合同布教廃止とともに、5月に大教院の解散が近づくと、引き継ぎの管轄機関として、大教院が解散させられる前に神道界側の自立を目的として設けられたのが神道事務局である。

信者数など一定の条件を満たした団体は、教派神道の一派として独立することができた。

総裁に有栖川宮幟仁親王、副総裁には岩下方平が就任した。1882年11月、神道事務局生徒寮を独立させて、皇典講究所を開設した。

神道系の諸教派を統轄的にまとめていた一派独立しえない旧教導職の当事務局が、教派神道十三派の一として教派化し神道本局が組織された。1886年以降、神道金光教会など、後の教派神道教団が公認の為に傘下に入り、1886年1月に神道本局は「神道」の名称で独立教派となった。1940年、現在名の神道大教に改称している。



皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)

1882年明治15年)に明治政府神道事務局の後継団体として設立した神職養成の中央機関。戦後の連合国による占領政策の圧力を受け、1946年昭和21年)に解散。宗教法人神社本庁を設立し、大日本神祇会神宮奉斎会とともに同法人へ統合[3]。その後、単独の法人として財団法人國學院大學(学校法人國學院大學の前身)を設立した[4]。大学では國學院大學日本大学近畿大学。中学校、高校では都立戸山高校城北中学・高等学校浪速高等学校・中学校などのルーツである。

明治時代国家神道が成立した宗教政策で、大衆へ向けて皇道の教化活動を行う機関として開講された学校である[5][6]。1890年に組織により教育事業の拡大がされ、國學院が開校された[6]

設立とともに、神職の教導職兼務が廃止となって本務は祭祀に限定されることとなり、1884年には、教導職制度が廃止となる[7]。国家は、神道を非宗教として扱ったまま、神職は公的な国家祭祀を斎行していた[8]。やがて、財団法人に発展し、神道を国家の宗祀とした体裁が終わりを迎え、経営が困難になると、それまで神道人らの協力のもと、大日本神祇会、神宮奉斎会とともに神社関係の民間団体により共同経営された[9]

略歴[編集]

明治10年(1877年)頃、文明開化時勢の最中に大教宣布の不振、これに続く祭神論争によって、政府内から国学の研究を主旨とした学校設立を求める提案がされるようになった。明治15年(1882年8月23日明治天皇はその聖旨により、最も信頼を寄せていた有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し[10]、有栖川宮から令旨が奉じられた山田顕義内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者専ら国典を講究するため[11]として、11月4日、皇典講究所を飯田町に設立した[12]

設立後も事業の一環として、明治22年(1889年2月より皇典講究所講演を発刊した[13]。明治23年(1890年)には古事類苑の編纂事業が行われた。また、延喜式でも編纂事業は行われ、昭和6年(1931年)には延喜式撰上1,000年を記念して校訂延喜式が刊行された。内務省の委託を受けて神官神職の養成を行ったほか、皇典講究所・國學院大學出版部は、神官資格試験の参考書を多く刊行した[14]

大東亜戦争太平洋戦争)後の昭和21年(1946年1月25日に、GHQの圧迫により皇典講究所を解散し、財団法人國學院大學を設立。

なお、日本法律学校は、開校当初この皇典講究所の教室を夜間借りて講義を行なっていた。日本大学は、皇典講究所との深い関係性から大正13年(1924年)に神道教師の再教育を目的として神道講座が開講され、神道教派聯合会(後の教派神道連合会)によって神道奨学会が組織された。

年表[編集]

発足から解散まで[編集]

  • 1882年(明治15年)- 神道事務局の後継団体として発足。神職の教導職兼務が廃止となる[15]。3府40県に皇典講究所分所が設置される。初代文学部長に矢野玄道、初代総裁に有栖川宮幟仁親王が就任。校地を東京府麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)に定め、皇典講究所が開黌。

  • 1884年(明治17年)- 皇典講究所の官立移管運動が展開(- 明治18年)明治19年の幟仁親王薨去により頓挫。

  • 1887年(明治20年)- 皇典講究所第1回卒業式。同窓生の会「水穂会」発足。(國學院大學院友会創始とする)

  • 1888年(明治21年)- 府立一中校長・丸山淑人、松野勇雄、元田直、今泉定助らが皇典講究所に補充中学校を設立。後に私立学校の共立中学校に改組。

  • 1889年(明治22年)- 山田顕義、皇典講究所初代所長に就任。皇典講究所内に日本法律学校を設立。(日本大学法学部の前身

  • 1890年(明治23年)- 皇典講究所に教育機関として國學院を設置。

  • 1893年(明治26年)- 日本法律学校が司法省指定学校になり、同校卒業生に判事検事登用試験受験資格が与えられる。

  • 1894年(明治27年)- 共立中学校を城北中学校と改称し東京府へ移管。(都立戸山高校城北中学校・高等学校などの前身

  • 1895年(明治28年)- 日本法律学校が 大日本教育会(神田区一ツ橋通)内に移転。

  • 1896年(明治29年)- 日本法律学校が財団法人に改組し皇典講究所から組織的独立。

  • 1898年(明治31年)- 皇典講究所が財団法人として認可される。

  • 1899年(明治32年) - 内務省より神職養成事業を委託される。

  • 1900年(明治33年)- 禮典調査会を設置。

  • 1909年(明治42年)- 神職養成部を設置。

  • 1923年(大正12年)- 渋谷氷川裏御料地に移転。

  • 1930年(昭和5年)- 神殿鎮座。

  • 1944年(昭和19年)- 國學研究所を設置。

  • 1946年(昭和21年)- 連合国軍最高司令官総司令部の占領による圧力に対抗し、1月に発展的に解消した。翌月、宗教法人神社本庁を設立。大日本神祇会、神宮奉斎会とともに統合し、3月に単独の法人として財団法人國學院大學を設立した。


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