俵藤太(たわらとうた)とは、10世紀の栃木県の佐野にいた武士である藤原秀郷(ひでさと)の幼名です。940年の天慶の乱で、平将門(たいらのまさかど)を討ちました。その功により、下野(しもずけ)・武蔵の国司(県知事のような役職)に任命されます。その時代に、藤太湯(とうたゆ)が発見されたとされています。すでに、佐波来湯(=鯖湖湯)はありました。
藤太「お目にかかった覚えはないが、貴女は誰ですか」
女「私をご存じないのはご尤っともです…赤川、川崎でお目にかかった大蛇なのです」 藤太「それではどうして姿を変えて訪ねてきたのか!」 女「私は日本の国がひらけはじめた、はるか昔から信達の湖に住んでいたのです。湖は七度も干上がっては、田や畑に変わりましたが、そのたびごとにうまく逃れて大作山の麓の『子守沢』に沢山の子供達と幸せにすごして来ました。ところが聖武天皇(756年)の御代から摺上川のほとりに大百足が現れ、『吉川』ぞいに『片倉山』を越えて、私の子供を食い荒らしに来るようになったのです。そのため、川は、私の子供の血で赤く染まり『赤川』と呼ばれております。それで、どうにかしてこの悪百足を退治したいと願っておりましたが、私達では力が及びません。これは、やはり器量のすぐれた方の力にすがる他ないと思いあのように大蛇の姿になってお待ちしていたわけです。」と涙を流して頼みました。 藤太「分かりました。今夜のうちにも百足を退治してみせましょう」と答えた。 女は「三本の矢」をさしだしたんだと……「これは、私たちの血と涙が流れて沢となった『毒沢』で作った矢です、どうかこの矢で、あのにくい百足を仕止めて下さい。」と女はそう言うと、かき消すように消え去った。 藤太はすぐさま身支度を整えました。先祖伝来の太刀をはき、五人張りの重藤の大弓を小脇に抱え十五束三伏もある大きな矢を三筋手にして「天王寺沼」の右手、寺山に向かった。 夜になり「矢場」に立って「片倉山」を眺めると稲妻がひらめき生(なま)ぐさい風が大作山を吹きわたり、にわかに激しい雨がふりだした。片倉山の頂だちが、みるみるうちに千本の松明をともしたように明るくなり、山鳴りの音がごうごうと山を動かし谷をゆさぶった。天王寺雷様の襲来である。それでも藤太は少しも騒がず弓に矢をつがえ百足の近づくのをまった。百足は「穴原・吉川」の断崖をよじ登り大地をゆるがして迫ってくる。 藤太は矢が丁度とどくころとみて、弓を力一パイ引きしぼり百足の眉間めがけて射た、しかし矢は難なくはじき返されてしまった。藤太は、第二の矢をつがい一心不乱に引きしぼって、ひょうと射放った。だがこの矢も踊り返り百足に突き刺さりはしなかった。 藤太は進退きわまって最後の一本の矢を……”南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)”……と祈ったら……アラ不思議、貝がら山の岩場から天狗様が舞おりて…… ”コレ、藤太、百足の目を狙え” 藤太は神の加護、われにありと、弓を引きしぼりひょうと射た。矢はねらいたがわず百足の目に突きささった。 ”その瞬間”天王寺雷さまのものすごい音も、ぴたりと鳴りやんでしまった。 さては百足め息が絶えたか? と、その辺りを調べると百足は片倉山から「ムジナ山」にかけて長々と横たわっていた。次の日の朝、嵐がすぎ去った大作山の木々や緑は生き生きと生命を吹き返していた。色鮮やかな若草、季節の花、きのこ、蝶など生きとして生けるすべてのものに光の訪れをそそぎ岩から流れ落ちる滝はうれしげに踊るように流れている。 女、「あなた様のおかげで、日頃の仇きを退治していただき、これほど嬉しい事はありません」と心から礼をのべ感謝のしるしにと、黄金千枚、うるし千杯、朱千杯をさしだしました。 藤太、「この度のことは、武門の譽れ、我が身の面目、これ以上望むものはない」と。「贈り物は辞退したい」と言いました。 女、このご恩はどうのようにて、お報いすればよいでしょう。大変勝手なことですが、麓の佐波来の里に、第12代景行天皇の御子·日本武尊様が東征の折、病に伏し佐波来湯(さばこゆ=現在の鯖湖湯)に入浴したところ、たちまち平癒したといわれる霊泉があります。私が案内しますので、どうぞ……おいで下さいますようにと誘うのである。 藤太、「日本武尊がご入浴なされた霊泉佐波来湯で百足の血でけがれた身体を洗うのは、あまりに恐れ多いことです」と断った。 女は、ほとほとこまって故郷である龍宮城の乙姫様に相談した。 ほうしたら乙姫様は、大作山の難儀を取りのぞいてくれたことを大そう喜んでナー、「佐波来湯の北隣りの泉で百足の血でよごれた衣類を洗い流しなさい」と啓示したんだと。 藤太は再三再四の親切をことわるのも心ないことと思い快く承知して、言われた通り、泉でよごれた衣類を”そそいだところ”冷たい清水が、だんだんあたたかくなり、……、あつい温泉が湧いてきたんだと。 藤太「いやー、不思議なことがあればあるもの」と。つぶやきながら、ゆったりと温泉につかり、昨夜来の激斗のつかれをいやしたんだって言うんだ。 うんじゃな、おわり。
その2■…1125年、第10代鵬城主の佐藤師治(すえはる)が藤太湯を佐藤家専用の温泉にして、当座湯(とうざゆ)と名付けます。
その3■…藤太からの5代目に、今日の日本の姓で一般的な「佐藤」の氏祖である佐藤公清(きみきよ)が生まれています。
その4■…1189年に、当座湯が枯渇します。この時代に、佐藤公清からの6代目の佐藤基治(もとはる)がいます。佐藤基治は鵬城主で、医王寺にお墓があります。
その5■…1578年に、堀切家の主導で、赤川の流れが変えられます。そのせいか、堀切の地(おそらくは摺上川沿い)に温泉が湧き出ます。再び、当座湯と呼ばれました。
その6■…1804年、赤川がまたも氾濫し、現在の湯沢に温泉が出ます。上記の当座湯とは若干場所が異なるかもしれません。温泉が地面の下を透過して別の場所へ達して湧き出たので、透達湯(とうたつゆ)と呼ばれます。
その7■…1992年に、建物の老朽化のために透達湯は取り壊されました。その場所に、現在の鯖湖湯が建っています。1889年に建築された鯖湖湯は、30m離れた小さな公園に建っていました。いにしえの佐波来湯、藤太湯、当座湯、透達湯は、1992年に復元された今の鯖湖湯に受け継がれています。
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鮫に化身した桔梗ノ前
千葉県船橋市海神
昔、平将門に桔梗ノ前という美しい愛妾がいた。将門公は朝廷を凌ぐ勢力を持ったが、俵藤太秀郷や平貞盛に敗れ、滅亡することとなった。最後の激戦の最中、将門公は矢傷を受け、桔梗に落ち延びるようにいった。桔梗は別れを惜しみながら、守本尊の正観音像を負い、船橋にやって来た。数日後、将門の死が伝えられ、桔梗は気が狂わんばかりに悲しんだが、天沼の近くに庵室を建て、将門の弔いに明け暮れる日々を送った。しかし、深い哀愁の思いの去来する中、ついに桔梗は、御前様の前に参りたい、と何かを決心した。二三日後、正観音像を抱いた桔梗が漁師町に姿を現した。船を雇うと、船橋浦の遠ヶ澪(おちがみお)まで来、そこでざんぶと海に身を投げ、果ててしまった。それから、この遠ヶ澪には、見たこともない大きな鮫が棲むようになった。漁師たちは桔梗ノ前の化身に違いないと信じ、網を入れることを戒めた。
桔梗が鮫となって棲んだのは、より詳しくは遠ヶ澪の「洲蓋(せぶた)」というところだそうで、一名「釜が淵」ともある(この辺「釜」とか「蓋」などが実に多い)。人々を襲ったともあるから、哀愁漂うだけの話だけでなく、この海のヌシの話でもあるだろう。
桔梗はまた俵藤太秀郷と瀬田の竜女との間に生まれた娘だという伝説があったり、父と知らずに秀郷に恋して将門の弱点を漏らしたりという伝説があったりもする(この船橋の伝説にはその筋はないようだが、ただし、天沼は秀郷開基伝の寺があった)。
その最期もいろいろで、福島県伊達郡には将門亡き後、秀郷を慕うあまり大蛇と化した桔梗の棲む半田沼もある。取手市にはその塚上から桔梗が身を投げたという大日塚もある。大日塚からは川に落ちているので、水に入るという点は同じようだ。
そして船橋では鮫になったというのだが、これは大蛇になった、という伝説と同列にあるものと見てよいだろう。桔梗が庵を結んだ天沼(あまぬま)の弁天池と北本町の公論坊池(今は公園)の間を大蛇が行き来していたという伝説もあって、いずれ大蛇の棲み家が舞台の話でもある。将門その人にも「蛇の子」の伝があり、俵藤太は言うに及ばずであれば、ヒロインもやはり竜女の性を持たねばならない。
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