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天社土御門神道

天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)は、福井県大飯郡おおい町(旧名田庄村地区)に本庁を置く宗教団体安倍晴明を祖とする陰陽道宗家安倍氏嫡流土御門家とは歴史的に関わりの深い教団ではあるものの、陰陽道そのものではなく、一般に神道系と見なされる団体である。また、現在の関係者は土御門家の末裔ではなく、本庁の管長を担う一族は先代管長藤田乾堂以来、藤田家が担っている。

陰陽道・ことに天文道家学として受け継いだ安倍氏嫡流が、室町時代に「土御門」という苗字を名乗り、以後は土御門家を称する堂上家として朝廷に仕えた。室町中期から戦国期安土桃山時代にかけては、都の戦乱を避け、有宣有春有脩久脩の4代にわたって、所領のある若狭国名田庄に移住していた。

戦乱の終息後、都に戻ったが、秀次事件に連座し、豊臣秀吉の怒りを買い、またしても都を追われることになってしまった。しかし、関ヶ原の戦いが終わり豊臣家が衰退すると、土御門久脩(つちみかど ひさなが)は、徳川氏に「陰陽道宗家」として認められ、慶長5年(1600年)には宮廷出仕を再開することになった。また慶長8年(1603年)には、家康の征夷大将軍任命に伴う天曹地府祭を行っている。

土御門久脩の後、泰重泰広と続き、その後の泰福が陰陽頭になった時(天和3年(1683年)5月)、諸国の陰陽道の支配を土御門家に仰せ付ける旨の「霊元天皇綸旨」が下された。同時に、徳川綱吉朱印状によっても認められ、土御門は全国の陰陽師の統括と、造暦の権利を掌握することになった。山崎闇斎の影響を受けた泰福は陰陽道に垂加神道を取り入れて独自の神道理論を打ち立てた。一般的にはこれが「土御門神道」(安家神道・天社神道)の開始と言われている。

土御門家の陰陽道組織化は、幕末には全国に広まったが、明治維新後の明治3年(1870年)に陰陽寮が廃止され、太政官から時の土御門家当主晴栄に対して、天文学・暦学のことは、以後大学校東京帝国大学の前身)の下に設置された天文暦道局の管轄になると言い渡しを受ける。さらに、同年10月17日、太政官布告745号天社禁止令が出され、陰陽道・天社神道自体が禁止されてしまう[注 2]。それによって陰陽師の身分もなくなることになり、陰陽師たちは庇護を失い転職するか、独自の宗教活動をするようになった。

土御門神道はそうした状況の中で、古神道などの影響を受けながら、かつての土御門家の家司や弟子たちの手によって細々と守られてきた。昭和17年(1942年)4月には陰陽道を研究していた藤田乾堂(義男)が中心となって「土御門神道同門会」が結成され、時の土御門子爵家当主・土御門凞光が総裁となるなど、土御門神道復興の動きが始まる。そして戦後の昭和21年(1946年5月21日、「天社土御門神道」が復興された。初代管長は土御門範忠[2]

現在は、福井県大飯郡おおい町(旧名田庄村地区)に、宗教法人「天社土御門神道本庁」の本部が置かれている。大阪市京都市にも事務局が置かれている。『宗教年鑑 平成17年版』によると、4神社、5教会、9布教所、その他の7団体、計25団体(ただしそのうち法人格を取得しているのは1団体のみ)を包括している[1]。現管長は藤田義仁[3]。現在は、土御門家と当教団の間に特段の繋がりはない。

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