2月14日は聖バレンタインに因んだ恋人たちの日である。日本では製菓メーカーの思惑により、女性が男性にチョコを配る日として認知されて久しい。
私の職場は県庁である。職員の数は非常に多く、また女性の数も男性と同程度の人員がいる為、2月14日は朝から様々な部署の女性からチョコを頂く。特に結婚前の未婚女性などからは、密かに交際の申し出を受けることもある。勿論、業務にも支障が出るので丁重に断り、今後の業務に障りがないようにしなければならない。
バレンタインデーは非常に細やかな心配りを必要とする日だ。
出社早々、市民課の女性三人からチョコを頂戴した。私は丁寧に礼を述べ、共通の話題を二つほど交わして談笑してから、対策室へと向かった。
対策室のドアノブには幾つかの紙袋が提げられており、その中には無記名のチョコが入っていた。こういう贈り主のわからないチョコは不穏なのだが、常識的に考えれば名前を明かすことに抵抗感のある女性なのだろう。持ち主を特定するような真似はせず、有り難く頂戴することにする。
昼休み。食堂へ向かうと、これまた大勢の女性からチョコを頂戴する。年齢は幅広く、若い方から定年間際のご婦人まで。それぞれのチョコを受け取りながらお礼を言い、誰からチョコを貰ったのかを手帳に記載しておく。ホワイトデーには相応のお返しをしなければならないのが大変だが、これも職場での人間関係を円滑にするための必要経費だ。
「大野木くんはモテるねえ」
前の椅子に腰を下ろした藤村部長は、相変わらずぼんやりとした眼にヘラヘラとした笑みを浮かべている。そんな部長の渾名は昼行灯だが、こう見えて部長の昔の渾名は『カミソリ藤村』である。曰く、キレ過ぎたと古参の職員は語る。どんな過去を持つのか、色々と底の知れない方だ。
「うらやましいねぇ。ご同慶の至りだよ。ところで、何食べてるの?」
「パスタサラダとバーニャカウダです」
「丸の内の OLみたいなランチを食べてるねえ。足りないでしょう」 部長はカツ丼にミニうどんという炭水化物のオールスターのような食事である。 「いえ、正月の間に体重が増えましたので。体脂肪もやや増えました」 「今時、女子高生でもそんなにシビアに体重管理しないよ。それで? どうだい」 「対策室は順調です。担当になってから解決した案件も増え続けていますし、それに反比例して相談も減ってきています。美濃団地の抜本的な解決が主な要因かと」 「あー。いやいや、そっちじゃなくて。バレンタイン」 「は?」 「だから、バレンタイン。何個貰ったの?」 「まだ集計していないので把握していません」 「集計しないといけないくらい多いんだ。僕なんか義理チョコを妻から貰っただけだよ。職場の誰もくれないの。それなのに君は凄いね。いやあ、流石は県庁一のモテ男だ」 「そのような称号を貰ったことはありませんが」 「若い子達は影で話してるよ。大野木くんは几帳面で仕事が早い。誰に対しても敬語で話していて横柄でないのも良いって。密かに君を狙っている独身者は多いんだよ。大野木くんは恋人とかいないの?」 「いませんね。必要とも感じていませんし」 「仕事人間だねえ。休日は何してるの?」 「同居人と買い物に行ったり、散歩したりでしょうか」 「え。何、同居してんの。大野木くん」 「正確には居候でしょうか。家賃は貰っていないので」 「あれか。友人とシェアハウスみたいな感じか」 そう言われて思案する。千早くんは友人なのだろうか。ビジネスパートナーの方が近い気もするが。 「どちらかというと、ふらっとやってきた野良猫を成り行きで飼うようになったというのが心情的には近いかと」 「よく分からないけど、君も案外楽しんでいるみたいじゃないか」 「そう、かもしれません」 「大事にしなさいよ。そういう友人は一生の縁になるからね」 そういえば千早くんは珍しく朝から何処かに出かけるようだったが、果たして何処に行ったのだろうか。
● 2月14日はモテる奴と、モテない奴の明暗がはっきりと分かれる日だ。学生時代は女子からのチョコが貰えるかどうかで朝からやたらソワソワして過ごさなきゃならないし、特に理由もないのに放課後遅くまで学校に残り、結局何もないまま失意の底で家路につく羽目になる。俺はどちらかといえば義理チョコはそこそこ貰えるのだが、本命チョコは貰えないというどっちつかずの学生時代だった。義理チョコの中にもしかすると本命が混じっていたのかも知れないが、相手に電話して『これ本命?』と確認する訳にもいかず、義理チョコばかりが増えていった。 しかし、社会人になってもバレンタインデーはモテる男との明暗をはっきりと突きつけられる。同居人の大野木さんは馬鹿みたいにモテる。元々の顔も良い上に、勤勉で仕事も早く、人の悪口を決して言わないというのだから、これで女にモテない訳がない。どうせ今年もアホみたいにチョコを貰って帰ってくるに違いない。おまけに『別にチョコなんて』みたいな涼しい顔をしているのが気に食わない。泣いて喜べ。 俺もせめて半分で良いのでチョコを貰ってくる必要がある。なので今日は朝から商店街を回ることにした。俺は割と誰とでも話せるタイプなので、商店街では顔が知られている。買い物するたびにオマケがもらえる位には人気がある。おばちゃん達ならきっとチョコの一個くらいくれるだろう。ついでに買い物も済ませてしまえば一石二鳥だ。 開店と同時に商店街を回ると、案の定あちこちでおばちゃん達がチョコをくれる。右腕がないので覚えやすいのだろう。しかし、おばちゃん達がくれるのはいかにも義理という感じのチロルチョコやらチョコ饅頭などで、もっとこう胸が締め付けられるようなチョコが欲しい。 具体的に言えば、俺のことを密かに好きだったというような子からチョコが欲しい。本命チョコが欲しい。 二時間ばかり買い物をして、貰ったチョコを入れたシワシワのビニール袋を手にトボトボと商店街を出る。顔馴染みの女の子の従業員だっているのに、チョコをくれないというのはどういう事なのか。俺は日夜人々の為に怪異と戦っているというのに、この仕打ちはなんだ。あんまりじゃないか。なんで毎回毎回、ついてきて怪異に巻き込まれるおっさんがチョコを沢山もらって俺が貰えないのか、納得いかない。 色々と考えて、一人だけチョコをくれそうな相手が脳裏をよぎるが、果たしてどうだろうか。チョコをくれるとかくれないという以前に、そもそもあれは人じゃない。外見は人だけれど。美人にも見えるけれど。 「背に腹はかえられぬ、というやつか」 よし、と決心をして屋敷町へと向かう路線バスに乗り込む。大野木さんが帰ってくる迄に、一個でも多くのチョコを貰わないとならない。 その店は屋敷町の路地裏にあり、とにかく暗い方へ適当に歩いていくと、縁があればそのうち行き当たる。外見はいかにも昭和風のボロ屋で、磨りガラスに貼られた紙に夜行堂という屋号が書かれているだけで、初見では何屋なのか皆目見当がつかない。せいぜい占い屋か、古書店かというところで、骨董店とは誰も思わないだろう。しかも、いわくつきの店だとは夢にも思わない。 「どーも」 引き戸を開けて中に入ると、相変わらず薄暗い店内の奥で夜行堂の女主人が煙管を咥えて、なにやら白磁の壺を丁寧に磨いていた。品物の手入れをする姿なんて初めて見た。 「なんだい。ぼうっとして。何か要件があって来たんだろう?」 「いや、アンタも品物の手入れとかするんだなって」 「そりゃあ、するとも。ここは骨董店だからね。汚いよりも、綺麗な方がいい。少しでも多くの縁を結んであげたいじゃないか。今日こそ、何か持って行ってくれるのかな?」 「いらないよ。いわくつきの物なんか欲しくねー」 「この壺なんて悪くないよ? これはね、蠱毒の一種で、大昔の呪術に用いられた壺なんだ。ほら、封がしてあるだろう。この中ではまだ蠱毒が続けられている最中なんだ。持ち主が呪いにやられて亡くなってしまったようでね、もう手元に戻ってきてしまった」 「そんな物騒なもん、人に売るなよ」 「生憎、それがこの店の在り方だからね。如何ともし難い」 女主人はそういうと、ニヤリ、とこちらを見た。 「それで? 何の用もなく来たのはチョコが欲しいからだろう?」 「ぐ」 「いいとも。普段からお世話になっているからね。君たちに感謝の気持ちとして、贈り物をするのは吝かではない。待っていなさい。用意してくるから」 「別にいらねーけど。あと、大野木さんのは本当にいらない。モテるから。俺のだけでいいから」 「君はモテないだろうねえ。出会いもなかろうし」 クスクスと微笑して、細長い木箱を取り出す。大きな掛け軸を入れておくような箱だ。どう見てもチョコが入っているようには思えない。 「チョコにしてはでかいな」 縦にふると、ガタゴトと重い。ついでに臭い。 蓋を外すと、中には黒い泥で象られた右腕が納められていた。妙に掌が大きく爪が悪魔のように長い。 無言で蓋を戻す。 「チョコよりも君の役に立つ。木山氏が所蔵していたものではないから安心して欲しい」 「俺は、チョコが、欲しいんだよ」 箱の中で引っ掻く音がする。 「チョコくれ」 「大野木さんに貰いなさい。お似合いだよ」 箱を投げつけて、俺は夜行堂を後にした。あの人でなしめ。
● 同情か何か知らないが、夕飯は焼肉だった。やたらと豪華なラインナップに苛立ちを感じる。高級和牛を焼きながら大野木さんが笑った。 「もう大人なんですから、それほどチョコに固執する必要はないじゃありませんか」 「これは尊厳の問題なんだよ」 シワシワのビニール袋の隣に、有名な高級チョコメーカーの紙袋が折り目正しく並ぶ姿に殺意すら覚える。 「また大袈裟なことを」 「大野木さんみたいにバカみたいに貰う奴に、俺の気持ちがわかるかよ」 「ホワイトデーのお返しもありますから、いうほど良いものでもありません。女性陣も大変だと思いますよ。いっそのこと就業規則で禁止にしてしまえば良いのに」 「嫌味にしか聞こえねえ」 余裕ぶっている態度に腹が立つ。いや、実際余裕があるんだろうけども。 「夜行堂にまで出向くとは思いませんでしたよ。また厄介な仕事を頼まれても知りませんよ」 「大野木さんの持ってくる案件と似たり寄ったりだよ。おまけにチョコくれないし」 「そもそも、あの人は人間ではないのでしょう?」 「そーだよ。でも、女の形にも見えるからな。チョコくれるならなんでも良いよ」 「柊さんからは頂けないのですか?」 「あの人はそういうキャラじゃないよ。どっちかっていうと、口実つけて酒をせびる方だ」 「そういうものですか」 「そういうもんなの」 まぁ、葛葉さんからは今まで何度も貰ったことがあるけれど、帯刀老が亡くなってしまった今となっては何処にいるのやら。世話焼きの美人で嫌いじゃなかったが。 不意に、チャイムが鳴る。 「私が出ましょう」 「いいよ。俺が出るから。じゃんじゃん肉焼いといて」 インターホンを見ても玄関先には誰も立っていない。奇妙に思いながらも玄関へ向かい、ドアを開けると誰もいない。足元には小さな箱があり、俺の名前が書いてあった。 包装を破ると、中にはチョコの詰め合わせが入っていた。差出人の名前もなく、手紙もなし。 「大野木さん! チョコが届いた!」 「へぇ、どなたからですか?」 「知らん。名前も何も書かれてない」 「それは少し不審ではありませんか? 何処の誰がくれたとも分からぬものを食べるというのは危険ですよ」 「ヘーキ、ヘーキ。俺の名前があるんだから、知り合いだよ。きっと。葛葉さんじゃないかな。あの人はそういう心配りのできる大人の女性だし。美人だしなー」 チョコを頬張り、甘味に唸る。人から貰ったチョコはやっぱり格別の美味さだ。 「うまい!」
もぐもぐと嬉しそうにチョコを頬張る千早くんを余所に、私は破られた包装紙に目をやった。すると、内側に小さな文字で「帯刀」とあるのを見つけた。 「………」 帯刀老は故人である。破門した弟子とはいえ、あの方は常に千早くんのことを心配していた。死して尚、弟子のことが気にかかるのか、何かと干渉があるので亡くなったとは思えない程だ。 つまり、そういうことであろう。 私は包装紙を用心深く握りつぶし、ゴミ箱の奥へと押し込めた。 「やっぱ女の子のチョコは違うなー」と嬉しそうにはしゃぐ千早くんを見ていると、なんとも形容できぬ気持ちになってしまった。 「大野木さん。どうかしたの?」 「いいえ。ほら、千早くん。肉が焼けましたよ。今夜はたくさん食べてくださいね。たくさん」 「なんで泣いてんの?」
Comments