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【翻译】南长


「南泉!邪魔をするのかっ」

 その結果がこの有り様だ。長義の血まみれの口の中を見て取り、南泉は盛大にため息をついた。向こうも一方的にやられるばかりでは"山姥切"の号は背負えないのだろう。つまりどちらも野蛮なのだ。羽交い締めする手に力を込める。

「分かった、分かった。いいからちょっとこっち来い」

「なに? あっ、この!」

 ぎゃあぎゃあ喚く相手に構わず、苦笑いで見守る仲間たちも無視して建物の中へ。そのまま道場へ蹴り込めば、殺気立った視線が見上げてきた。実際南泉が下手を打てば、半殺しくらいにはされるかもしれない。最低限の理性はあるが、基本的に容赦をしない男だ。嘆息とともに、真っ青な双眸を見おろす。

「何やってんだよ、おまえはよオ」

「…………」

 そう言って呆れてみせると、長義はぷいとそっぽを向いた。ふて腐れた様子を隠しもしない。一部の間では、彼は品行方正かつ冷静沈着な刀で通っているらしいが、南泉にはいささか信じがたいことだ。

「おい。なんとか言えよにゃあ」

 膝をついて屈み、低音で凄んでみせる。長義が鼻を鳴らし、皮肉っぽい笑みに唇を釣り上げた。

「はは。また可愛らしいことになっている」

「うるせえ!」



 両脇から声をかけられた男は、呆然自失の体だった。

 何故こうなったのか。正直なところ南泉はあまり聞いていなかった。良い天気だから〝親睦会〟と称して庭で茶会を催していたところ、気づけば取っ組み合いの喧嘩が始まっていたのだ。呆然自失で尻もちをついた男は、今しがた顎に拳がめり込んで宙を舞ったところだった。

 そして、拳の主はといえば――

「冗談じゃない。なんなんだよ! 分かったような口を――」

「ああもう、駄目だって、落ちつけって」

 面白いくらいに逆上した彼、山姥切長義が血走った目で怒り狂う様に、南泉は天を仰ぎたくなった。

 とはいえ、今の発言で、何が起こったのかはおおむね察することができた。おそらく実に些細なきっかけで――少なくとも相手の方は自分から悪意の言葉をかけることはないだろう――売り言葉に買い言葉になり、結局手が出てしまったのだ。

「南泉! 邪魔をするのかっ」

 その結果がこの有り様だ。

 長義の血まみれの口の中を見て取り、南泉は盛大にため息をついた。向こうも一方的にやられるばかりでは〝山姥切〟の号は背負えないのだろう。つまりどちらも野蛮なのだ。

 羽交い締めする手に力を込める。

「分かった、分かった。いいからちょっとこっち来い」

「なに? あっ、この!」

 ぎゃあぎゃあ喚く相手に構わず、苦笑いで見守る仲間たちも無視して建物の中へ。

 そのまま道場へ蹴り込めば、殺気立った視線が見上げてきた。

 実際南泉が下手を打てば、半殺しくらいにはされるかもしれない。最低限の理性はあるが、基本的に容赦をしない男だ。

 嘆息とともに、真っ青な双眸を見おろす。

「何やってんだよ、おまえはよオ」

「…………」

 そう言って呆れてみせると、長義はぷいとそっぽを向いた。

 ふて腐れた様子を隠しもしない。一部の間では、彼は品行方正かつ冷静沈着な刀で通っているらしいが、南泉にはいささか信じがたいことだ。

「おい。なんとか言えよにゃあ」

 膝をついて屈み、低音で凄んでみせる。

 長義が鼻を鳴らし、皮肉っぽい笑みに唇を釣り上げた。

「はは。また可愛らしいことになっている」

「うるせえ!」

 ふしゃあ、などと勝手に喉が鳴る。

 少し興奮すると、すぐこれだ。おまえが落ちつけ、と南泉は己の胸に言って聞かせた。

 長義はそんなこちらを笑って眺めていたが、

「ふん。……きみはいいよ」

 といって、唇から垂れた血をぬぐった。

 気づけば笑顔はどこかへ消えている。捨てられた犬のようにしみったれた横顔が、庭に物憂げな視線を投じた。

「おい?」

「ああ、分かっているさ。きみの言いたいことくらいね」

 そんなことを言いつつ、壁に背をもたれながら立ち上がる。

 ――だから会いたくなかったんだ、と南泉は確信を強めた。

 この本丸で彼と出会うようなことになれば、必ず厄介なことになる。南泉だけの話ではない。先ほど空中遊泳をする羽目になった彼も、他の仲間たちも、そして長義自身も、それぞれの課題と向き合わざるを得なくなる。

 そう、現に、向き合わざるを得なくなったのだ。

「分かっているんだ。俺だって……」

 何を、とは、南泉も問わなかった。

 そのかわり、がりがりと頭をかきながら、何度目かのため息をついた。この刀は本当に手がかかる、と。


第一幕


 そんな出来事があったのが、つい数日前。

 〝事件〟は突然起こった。

「やあ偽物くん。前いいかな?」

 からん、と誰かが箸を取り落とす。広間で食事の膳を囲んでいた刀たちが、たちまち凍りついた。いいかな、と言いつつ返事も聞かず、爽やかな笑みさえ浮かべながら、長義が声をかけた相手の正面に腰を下ろす。

 まさに蛇に睨まれた蛙だ。斜め向かいに座っていた南泉は、〝蛙〟と化した彼の助けを求める視線を受け、そんなことを考えた。

「どうかしたかな? そんなにまじまじと見て」

「いや……」

 どうかしたのはおまえだろう――

 逃げ場を失った蛙、もとい山姥切国広の顔には、そんな疑念がありありと見て取れた。おそらく南泉も、その場に居合わせた者たちも皆、同じ顔をしていただろう。

(またろくでもねえことを考えつきやがったな……)

 ひっそりため息をつく。毎度のことだが、山姥切長義の発想はしばしば南泉の想像を超える。それが分かっていても、予期しようがないので、どうすることもできないのだが。

「はは。分かるよ。どういうつもりだ、と思っているだろう」

 薄っぺらい笑みが、怜悧な印象の面おもてに浮かぶ。

 あまりの気色悪さに、南泉は鳥肌を立てた。国広の方は疑念を通り越して恐怖を覚えたのか、顔色がんしょくを失っている。

「いや、なに、俺も大人げなかったかと思ってね。昔のことはともかく、今はこうして共に戦う仲間なわけだから」

 広間中の視線が、一斉にこちらを向いた。

 なんで本人を見ねえんだ、と南泉は味噌汁の器に鼻先を突っ込んで顔を隠す。説明を求められているのは分かるが、そんなことができるはずもない。

 そうしている間にも、長義はぺらぺらと演説をぶっていた。

「別に仲良しこよしをしようっていうんじゃない。ただ茶会で殴ったのはやりすぎだった。それを詫びておこうと思ってね」

 謝罪を受けてくれるかな、と。

 どこから借りてきたのか、ずいぶん巨大な猫を被ったものだ、と南泉はいっそ感心した。国広は、と見やれば、彼はあまりのことに呆然としていた。

 ややあって、はっ、と息をのむ。

「そ……そうか。いや、俺もその……悪かった。つい、出陣の時のようなつもりでやり返してしまって……」

「へえ」

 ぼそぼそ喋る声を聞いていた長義が、不意に低い音を発した。

 あからさまに殺気を含んだ声だった。一気に空気が緊張し、国広が言いかけた言葉をのみ込む。

 だが、それも一瞬のこと。

「――出陣の時ね。仕方がないんじゃないかな。刀剣男士たるもの、戦いこそ生業なりわいというものだからね」

 次の瞬間、彼はまた薄っぺらい笑みを顔に張り付けた。

 そんなに何もかも顔に出してしまって大丈夫なのか――と、南泉はいささか心配になったが、ともあれ長義が抜き身の殺意を引っ込めたことで、国広はひとまず良しとしたらしい。

「あ、ああ……いや、まあ、ともかく、悪かった。俺もおまえに詫びないといけなかった」

 避けていてすまなかった。

 いやなに、こちらこそ、云々。

 うすら寒くなるような嘘くさい会話だった。否、国広は本心だろうが、長義が大根役者すぎるのだ。

 だが、

「――ははっ、いいじゃないか!」

 周囲はひとまず、見て見ぬふりをすることにしたらしい。

 快哉をあげたのは次郎太刀だ。大きな体躯を弾ませるように近づいてきて、長義の横へ腰を下ろす。

「それじゃ、二人は仲直りってことでいいのかな?」

「仲直り? 元から殺し合いをしていた訳ではないよ」

「そりゃあそうだ!」

 と、次郎太刀は快活な笑い声を上げた。

 それを皮切りに、他の刀たちもわっと集まってきて、長義を取り囲む。あれはどうだ、これはどうだと質問大会が始まり、輪の中心の彼が澄まし顔で答える。

 南泉は机に頬杖をつき、ぼけっとそれを見守っていたが――

「ねえねえ」

 と、すぐ横からそんな声がかかった。

「なんだよ」

「あんなことになってますけど。いいんですか?」

 横目で見やれば、長い黒髪をひとつ括りにした少年――鯰尾藤四郎が、膝をついてこちらを覗きこんでいた。

 この刀はやはりというか、存外鋭い。どこまで分かっているのか定かでないが、思うところはあるのだろう。

 南泉は頬杖をついたまま、思いきり顔をしかめてやった。

「知らねえにゃあ。なんでオレに聞くんだよ」

「なんでと言われましても」

 当たり前だろう、と鯰尾は言わんばかりだった。

 ますます自分が渋面じゅうめんになっていくのを感じながら、くそ、と南泉は数えきれないほどついた悪態を繰り返した。

 今この場でどんな役割を期待されているのか、それくらいは理解している。ただ、解せないのは、

(なんでこう、訳の分かんねえことをしたがるのかね……)

 と、いうことだった。

 当の本人は、相変わらず取りすました様子で、しらじらしい笑顔を振りまいていた。



 南泉斬猫なんせんざんみょう。

 昔々、唐の国の禅寺で、二人の僧が猫を巡って争っていた。猫とはこうだ、いやそうではない、云々と〝白か黒か〟の話に終始していたという。うんざりした南泉禅師は、一刀のもとに猫を両断し、殺してしまう――

(なんて……簡単にできりゃあ、苦労はしねえんだがな)

 蝉の声が鳴り響く中、西日のさす縁側で南泉は嘆息した。

 この場合の「猫」というのは物事のたとえで、何かを二つに区別して考えようとする姿勢の比喩だ。善か悪か、是か非か、そして真実か虚偽か――そんなものは卑小な人間の執着が生み出した幻影にすぎない。すなわち諸法無我であり、諸行無常であり、万物は真実にして虚偽なのだ……と、いう教えを伝える禅問答が〝斬猫〟だ。

 少なくとも南泉一文字はそう考えている。

 それゆえに、

「どうだっていいと思うけどにゃあ……」

 何が真まことで、何が偽かなど――と、口にしかけた時だった。

「何が、どうだっていいのかな?」

 ふとした声の闖入ちんにゅうとともに、額に衝撃。

 猫の呪いが悲鳴を上げ、南泉は反射的に飛び下がった。縁柱の後ろへ駆けこみ、フギャア、と威嚇の声を発する。

「何しやがる、にゃあ!」

「失礼。驚かせるつもりはなかったんだけど」

 ふふん、と鼻で笑う声が聞こえるようだった。

 例の澄まし顔で立っていたのは、声で分かってはいたが長義だった。しかし彼の姿を見とめた途端、南泉は呆気に取られて気勢を削がれることになる。

 ぽかんと口を開けたこちらに、長義は首を傾げてみせた。

「どうしたんだい」

「いや、おまえ……なんだその格好は」

 南泉は困惑のまなざしで彼を見つめる。

 長義はいつもの黒い室内着姿で、これ自体は特におかしくはない。南泉が戸惑いを覚えたのは、彼が両手に溢れんばかりに抱えている、大量の荷物の方だった。

 ああ、と長義が自分を見おろした。

「倉庫の棚卸おろしだそうでね。当番の刀が一振り、足をくじいたというから、俺が代わりに手伝っているんだ」

「ほ、ほう……」

 また変な気を起こしやがったな――

 不躾ながら、南泉がまず思ったのはそんなことだった。

 ある日いきなり長義が〝豹変〟して、わざとらしく国広との〝和解〟を演出してからはや数週間。彼の奇行は、それだけにとどまらなかった。

 端的に言うと、善行を積むようになったのだ。

(どういう風の吹きまわしだ……? 聖人君子になる修行でも始めたってのか)

 まず、手当たり次第に他人の仕事を手伝うようになった。

 馬当番だろうが畑当番だろうが、嫌な顔ひとつせず代わってやる。料理番は不得手なようで、もっぱら手伝いばかりだが、大量のたまねぎをひたすら刻んでいる姿などをよく見かける。例の嘘くさい笑みが、ずっと顔に張り付いているのだ。

 理解しがたい不気味さだった。

「そういうきみは、ここで猫よろしく日向ぼっこかな?」

 南泉の心情を知ってか知らずか、長義が荷物を抱えたまま、こちらを覗きこんでくる。ちっ、と南泉は舌打ちした。

「猫じゃねえし。考えごとしてたんだよ」

「へえ、きみが。明日は雨かな?」

「降らねえし! くそ、おまえ本当に性格悪いな!」

 流石にかちんと来て凄むと、長義はけらけら笑い声をあげた。

 まんまと煽られたのだと分かったがもう遅い。南泉は奥歯を噛みしめ、ぐるる、と喉を鳴らしながら立ち上がった。

 長義はまだ肩を震わせていたが、やおら荷物を抱え直した。

「さて、それなら俺は退散しようかな。考えごとの邪魔をするのはよろしくない」

「おお、行け行け。さっさと行っちまえ」

 しっしっ、と手で追い払う仕草をしてやる。

 相手は悪びれる様子もなく、荷を抱えたまま器用に肩をすくめてみせた。かと思えば廊下の方へ足を向ける。

 そのまま意気揚々と、彼は去っていく――

「あ、そうだ」

 かに思われたのだが。

 立ち止まった長義が、おもむろにこちらを振り返った。

「猫殺しくん、ちょっと足元を見てもらえるかな」

「足元?」

 言われたとおりに目線を落とす。

 まだ新しい床板だ。外から吹きこんできた枯葉が少し落ちている。何の変哲もない様子だが、その中にひとつ、見慣れないものが落ちていた。

(本?)

 どこから落ちたのか、山形に開いている一冊の本。

 なんだこれ、と南泉はそれを取り上げた。

 と、

「そうそう。それ、ここに挟んでもらえるかな」

 長義がそんなことを言って、軽くのけ反ってみせた。

 自分の胸と荷物の間にその本を入れろ、と言いたいらしい。つまりこれは、あそこから落ちたものということか。

 そういえば、彼が現れた時、額に何かぶつかった気もする。

 もろもろ悟って、南泉は思わず膝からくずおれそうな脱力感を覚えた。

「あっ、長義さん!」

「お疲れさまです。こちらにいらしたのですね」

 廊下の方からそんな声がかかった。

 長義が顔だけ振り返ってほほ笑んでみせる。

「やあ。お疲れさま」

「お力添え助かります。そちらで最後ですか?」

「お手伝いします!」

 短刀が二振り――まだよく知らない相手だが、確か粟田口の平野と前田――駆け寄ってきて、こぼれ落ちそうになっていた荷をいくらか持っていく。長義はそれを満足げに眺め、うん、と何やら頷いていた。

 かと思えば、青い双眸がこちらを一瞥する。

「猫殺しくん?」

「…………」

 気力を失い、南泉は無言で本を荷物の山にねじ込んだ。

 長義が少し腰を屈め、こちらを覗きこむような仕草をする。

「ありがとう。助かったよ」

 にやり、とお世辞にも愛想が良いとは言いがたい、ひと癖もふた癖もありそうな笑みが広がった。

 そうして今度こそ、意気揚々と彼は去っていく――

「あ、そうだ。もうひとつ」

 かと思いきや。

「な、なんだよ」

「いや、実はここへ来る途中、他にも落とし物があってね」

 もし見つけたら、拾っておいてもらえると助かるな、と。

 言われて南泉は、反射的に彼がやって来た方を振り返った。

 確かに反対側の廊下の向こうに、点々と何か落ちているのが見える。両手がふさがっていて、拾えなかったのか。

 思わず立ち尽くした南泉の肩に、

「それじゃあまた後で、猫殺しくん」

 と、長義が軽く肩をぶつけてきた。

 そうして今度こそ、ようやく、やっと去っていく。

 足音が遠ざかるのを、南泉は背中を向けたまま聞いていた。



「いや、全然分からねえわ」

 と、南泉は結論した。

 一息で飲み干したお猪口ちょこを、カン、と座卓へ下ろす。

 夕餉ゆうげ のあとの晩酌は、いつもなら一日でもっとも気楽な時間のはずだ。しかしながら昼間に目撃してしまった奇行のために、南泉の頭は疑問符だらけだった。

「分からねえっつうか……」

「どちらかっていうと、興味深い、じゃないのかね」

 生ぬるい笑みを浮かべつつ、そんなふうに意見を述べたのは日本号と大般若長光だ。

 これまたよく知らない相手だが――長義ほどではないものの、南泉もじゅうぶん新人の部類だ――酒飲みの中では分別のある刀たちと認識している。ひとまずこの疑問を吐きだしたくて、面白おかしく吹聴しなさそうな相手を選んだのだ。

 そら、と大般若が差し出した酒を、空の酒器に受ける。

「別に興味は湧かねえけどよオ……」

 ああやって見栄を張り続けるのはいっそ見上げた根性だが、南泉には意義を見出しかねるところだ。

 そもそも、あの猫の被り方は何なのか。彼のこれまでをよく知らない者たちはともかく、南泉に言わせれば気味が悪いことこの上ない。

 大体、ちょっと手助けが必要なら、あんな回りくどいやり方をせず、素直に言えばよいではないか――

「…………」

 などという疑問を、少し柔らかくして――彼の名誉を傷つけない程度に――訴えれば、酒飲み二人は沈黙した。

 なんとも言えない表情で顔を見合わせ、ふうむ、とうなる。おや、と南泉は首を傾げた。

「あんたア、どう見る、大般若」

「そうさなア……」

 日本号に促され、大般若が視線をさ迷わせる。

 そうかと思えば、彼はやおら南泉を見つめた。好奇心で冴え冴えと輝く赤い双眸が、こちらを射抜く。

「あんたはどう思うんだい、南泉」

「へ?」

「彼が猫被りしている理由さ。昔馴染みなんだろう?」

 今度は南泉が視線を泳がせる番だった。

 時間の長さだけで言えば、確かに短くはない付き合いだ。だが、昔馴染み、などという穏当な言葉で言い表すべき間柄かといえば、それも違うと思う。

 もっとも正確に言うならば、

「……ただの腐れ縁だよ、腐れ縁」

 そう言い捨てると、南泉はお猪口の酒をくっと呷あおった。

「被るにしたってデカすぎる猫だろ。いくらオレが〝斬猫〟の刀だからって、気が知れねえにゃあ」

 いくら古くから知っているとはいえ、そうそう突っ込んだ話をしたことがあるわけではない。〝顔を隠した山姥切〟の件を聞いたことはあったがそれだけだ。

 そんなふうに答えると、酒飲みたちは再び顔を見合わせた。

「おい」

「ああ」

「んにゃ……?」

 にわかに内緒話を始めた彼らに、南泉は困惑した。

 そうしてひとしきり喋ると、ふう、と何やらため息をつく。今度は日本号の藤色の目線が南泉をとらえる。

 彼は鷹揚おうように笑っていた。

「おまえさんに分からねえようじゃ、俺たちにゃあもっと無理だな。そもそも俺は、あの兄ちゃんの優等生っぷりが演技だ、なんて、思ったこともなかったぜ」

「え?」

 虚をつかれ、思わず絶句する。

 うんうん、と隣で大般若も頷いた。彼は立てた人差し指を、手遊びのように回してみせた。

「〝持てる者こそ与えなければ〟……だったかな? なんでも嫌がらずに手伝ってくれるって、最近すごく評判いいよ」

 悪い話はとんと聞かないな、と。

 ――ひょっとして、と南泉はにわかに閃いた。

 以前からどことなく違和感はあった。しかし、まさかそんなことはないだろうと、真剣に考えたことがなかったのだ。

 だがこれは、ひょっとして、もしかすると――

「南泉!」

 ばん、と戸がけたたましい音をたてた。

 返事も聞かないまま、廊下から短刀が一振り飛びこんでくる。切れあがった目に跳ねる髪。後藤藤四郎だ。

「あっ、いた! なあ、ちょっと来てくれよ」

「にゃあ? 子供に飲ませる酒はねえぞ」

 にわかに嫌な予感を覚えつつ、南泉は空のお猪口を振った。後藤の眉は吊り上がり、頬は興奮で赤らんでいた。

「子供じゃねえよ! ああもう、どうだっていいんだ、そんなことはさ」

 言いながら四つん這いになって、部屋の外を指さす。

 ある意味、予感は外れたと言うべきなのか――

「長義が倒れたんだ!」

 とっさに予想したあらゆる可能性を裏切られ、南泉は思わずお猪口を取り落として割った。



 そもそも、と言いたいことは無数にあった。

「まだ眠っておられます。あとはよろしくお願いしますね」

 はいこれ、と物吉貞宗が水を張った桶を差し出した。

 南泉は無言で受け取る。すると、どれだけ不満げな顔をしていたのか、物吉がふっと苦笑した。

「そんな顔なさらないでください」

「おお……」

「南泉さまの責任ではありませんよ」

「おお……おお?」

 今、奇妙な発言が聞こえた気がする。

 慌てて顔を上げた時には、もう物吉はきびすを返して去っていくところだった。

 南泉は唖然として手入部屋の前に立ち尽くした。

(……これだよ。なんでオレが慰められてんだ?)

 そもそも、これがまず納得いかない。

 皆、まるで南泉の監督不行き届きで長義が倒れたかのような態度なのだ。そして南泉は気に病んでいると思っている。

(いやいや。なんでオレがあの高慢ちきで性悪な化け物切りのお世話係みたいな扱いなんだよ)

 そもそも、南泉一文字が刀剣男士となったのは、忌まわしい猫の呪いを解くためだ。

 歴史を守る使命だとか、久方ぶりの戦で名を上げてやろうだとか、そんな思いもあるにはある。ただ究極的には、それすら呪いのことがあるからだ。南泉一文字の新しい逸話を書き加えていけば、いずれ〝斬猫〟の扱いも小さくなっていくだろう、と踏んだのだ。

(だから、余計に分からねえんだ)

 桶を抱えたまま、夜の暗い廊下に立ち尽くす。

(別に、そうしたいなら好きにすりゃあいい。けど、あいつのアレは、たぶんそういうのとは違うだろ)

 そう、違うのだ。それが分かる。

 長義にとって、己の名は名誉であり呪縛だ。

 名にし負う呪いと戦うため顕現した南泉としては、そもそも、来歴に押された烙印スティグマとしての〝山姥切〟の号にこだわる彼の姿勢は、肯がえんじがたいところがあった。

(なんて言ってやりゃあ、いいんだろうなア……)

 そもそも、刀が誇るべきは切ったものの格ではなく、切れ味のはずだ。そもそも、そんなものは戦いの中でいくらでも証明できる。そもそも、昨今は切れ味のみならず、その美術的価値によって評価される刀もあるのだ。

 そもそも、そもそも、そもそも――

「……うにゃああ、もう!」

 くそったれな呪いめ、と悪態を吐きつつ、南泉は足で障子戸を蹴り開ける。ばあん、と派手な音がしたが構いはしない。

「入るぞ、山姥切!」

 一方的に宣言し、南泉は中へ踏み入った。

 畳敷きの間の中央には布団が一式。そして、澄まし顔で目を閉じ、横になっている男がひとり。

 かと思えば、

「俺は眠っているよ。物吉の話を聞いていなかったのかな?」

 青い双眸がぱちりと開いて、長義はそんなことをほざいた。

 ここで煽られたら思うつぼだ。そう自分に言い聞かせつつ、南泉は枕元にどっかと腰を下ろす。

「どうせ狸寝入りしてるだろうと思ったんだよ」

「へえ、鋭いね。その割には、ずいぶん長く立ち止まっていたようだけれど?」

 ずっと起きていやがったな、と南泉は渋面になった。

 手負いの獣のようなものだ。

 弱っているところを見せまいと、気を張り詰めている。どこにも敵などいないし、今は心身ともに休息を取らなければならないにもかかわらずだ。

(こいつ、本当に――)

 南泉は眉間をつまんで、はあ、と大げさなため息をついた。

 水桶に浮いていた布を取って、水気をしぼる。

「へっ。おまえになんて言ってやろうか考えてたんだ、にゃ」

「ふうん。結論としては?」

 さあ気の利いたことを言ってみせろ、とばかりに、長義の声は笑っていた。ふん、と南泉は鼻で笑って、彼の額に濡れ布巾を放り投げた。

「〝ばアーか〟」

 澄まし顔が、呆けたような間抜け面づらに変わる。

 ややあって、ふは、と長義は吹き出した。笑いの発作が起きたのか、布団で丸まって肩を震わせ始める。

「はは、あはははは。ひどい! 病人になんて言い草だろう」

「やかましい。病人ならじっとしてろ」

「ふふ、ふふふ。心配しなくても、大したことは……っ」

 ひゅっ、とそこで長義は息をのんだ。

 一瞬、意識が遠のいたらしい。

 よく見れば彼の顔は青白く、こめかみには脂汗が浮いていた。具合が悪いだろう。倒れたのだから当たり前だが。

 南泉は嘆息して、布巾で汗を拭いてやった。

「それ、〝過労〟ってやつらしいぜ」

 されるがまま目を閉じていた長義が、うっすら片目を開ける。

 そう、過労だ。単純な肉体疲労。何かの病気や、霊力の異常などではなく、ひどい疲れが出たのだろう――と、南泉はここへ来る途中で聞いた審神者の話を説明した。

「主が不思議がってた。ちゃんと当番制で均等に割り当ててんのに、なんでだろう、ってにゃあ」

「…………」

「……ま、おまえは分かってるだろうけどよオ」

 と、皮肉を言ってやれば、ようやく長義の顔から薄っぺらな笑みが消えた。汗を拭く手から逃れるように、ぷいとそっぽを向いてしまう。

 やっと馬脚をあらわした。南泉はほくそ笑んだ。

「なあ」

 塗れ布巾を取って、青ざめた顔をのぞき込む。

 こんなになるまで慣れない仕事を引き受け、結局自分で体を壊した彼のことを、愚かだと思う。同情には値しない。

 ただ、

「おまえ、何がしてえんだよ。いい加減白状しろ」

 これくらいは、聞いてやってもよいだろう、と思っていた。

「…………」

 長義はしばし、青い瞳でじっとこちらを見た。喉元まで言葉が出かけたのか、唇がわずかに動く。

 だが、そこまでだった。

「……別になにも?」

 にい、とまた例の笑みが戻ってくる。

「〝仲間〟が困っていたんだ。手を貸してやるのは当然じゃあないのかな」

 なるほど、と南泉は不意に理解した。

 彼のこの表情は、いわば鋼鉄の鎧だ。ここから先へは入ってくるな、詮索してくれるな、という意思表示だ。

 そうか、言いたくないのか、と悟った途端、意外なほど強い落胆があり、南泉はぎょっとなった。

「……おまえがそんな善人とはねエ」

「おや、知らなかったのかい。俺は昔からこうだったよ」

 そんなわけあるか、と舌の先までせり出した台詞を、南泉は犬歯で無理やり噛み殺した。

 今なにを言っても、どうせ彼は聞く耳を持つまい。

 ならば相手にするだけ無駄だ。そんなことをしているひまがあったら、ここへ来た目的を遂げるべきだ。

 南泉は別に、ただ見舞いに来た訳ではない。

「分かった。まあ、勝手にしてくれや」

「ああ。そうさせていただくとも」

「けどな」

 半ば声を遮るようにすると、さすがの長義も言葉を止める。

 南泉は布巾を水桶に放った。親指で自分の胸をさす。

「しばらくは止めとけ。審神者の指示だ」

「……そうか」

 長義が神妙に頷いた。

 さすがに審神者の言うことなら聞くらしい。かと思えばまたたちの悪い笑顔を作って、は、と皮肉っぽい吐息をこぼす。

「まあ、仕方がないかな。皆には申し訳ないが、しばらく非番ということに――」

「おう、誰が休んでいいなんて言った?」

 はた、と長義が動きを止めた。

 しばらく逸らされていた目線が、ようやく戻ってくる。

「仕事はしてもらうぜ。これから毎日――」

 南泉は立て膝に頬杖をつくと、小馬鹿にした笑みを向けた。

 そう、仕事はしてもらう。それが審神者の意向だ。

 ただ、主は南泉にもひとつ命令を下していた。

「オレと一緒に、にゃあ」

 そうを告げた瞬間、長義が見せた表情は傑作だった。


第二幕


 要は、お目付け役をしろ、ということだ。

 一人で放っておくから暴走する。口で言って聞かないなら、隣に付いて無茶を止めるしかない。そうすれば本人のやる気を殺ぐこともないし、皆にとっても良いことだろう――

(――って、いう話だったはずなんだが)

 と、南泉は飼葉かいばの山の中から天井を見上げた。

 あまりに一瞬のことで、何が起こったのか分からなかった。確か、馬のたてがみを梳とかしてやっていたはずだ。それがどうして、宙を舞って藁の山に突っこむ羽目になったのか。

「ぶはっ」

 かと思えば、盛大に吹き出す声。

 ひっくり返ったまま睨み上げれば、長義が箒ほうきにしがみついて引き笑いをしていた。よほどツボにはまったらしい。

 南泉は藁まみれのまま跳ね起きた。

「笑いすぎ!」

「わ、笑わいでか。何をやっているんだきみは?」

「見てのとおりだよ!」

 やけくそになって言い返すと、長義はますます発作が止まらなくなったらしく、いっそう笑い転げ始めた。

 くそ、と南泉は悪態とともに前髪をかきむしった。顔に血が集まってきて、赤面しているのが分かる。

(なんでこうなるんだ。オレの方が先に顕現したのに……)

 お目付け役、をするつもりだった。

 否、実際、しているつもりでいる。唯一の問題は、南泉より長義の方が万事につけて要領が良い、ということだった。

 否、単に南泉が呪いに〝負けている〟とでも言おうか――

「は、ははは……はあ。いや失敬。怪我はないかな?」

 ようやく落ち着きを取り戻し、長義が手を差し出した。

 不本意ながら、その手を借りて立ち上がる。服についた藁をはたき落として、南泉は例の馬を振り返った。

「くそオ。おまえ、俺が人間だったら今ので死んでたからな」

 ブルル、と嘲あざけるような鼻息が応じてくる。

 つまり、南泉は馬の後ろ脚に蹴られて吹っ飛ばされたのだ。とっさに腕でかばったから良かったものの、当たりどころ次第では刀剣男士でも手入れ部屋行きだ。

「逆恨みだろう、猫殺しくん」

 と、長義が茶々を入れてくる。

「きみがいきなり爪なんか立てるから。馬の尻尾は猫じゃらしではないよ」

「う……し、しょうがねえだろ」

 南泉は視線を泳がせた。

 そう、不可抗力だ。目の前でひらひらしたものに動かれるとどうにもならない。流石に馬の尻に牙を立てるのは刀としての尊厳にかかわるから、必死で爪を立てるだけにとどめたのだ。

 長義が皮肉たっぷりの仕草で肩をすくめた。

「はいはい。しょうがないしょうがない。ほら」

「あん?」

 南泉は目を瞬いて、彼と、彼が差し出した箒を見比べた。

「ここは俺がやっておく。掃き掃除を頼むよ」

「おお……」

 馬鹿のように返事をして、促されるまま箒を受け取る。

 長義は床に転がった馬用ブラシを――先ほど南泉が落としたものだ――拾うと、慣れた手つきで馬の背を撫でた。

 南泉はしかめっ面で箒を見おろした。

「……ふふ、ひどい顔だ。不満そうだね?」

 馬の胴をブラッシングしてやりつつ、化け物切りが不気味な含み笑いをこぼす。

 南泉はじろりと睨み返してやった。

「おまえはずいぶん楽しそうじゃねえか。〝馬の世話なんて〟……だとか言ってたのはどいつだったかにゃあ」

 以前彼がこぼしていた愚痴を、口真似つきで言ってやる。

 少しは決まりが悪そうにするかと思ったが、長義はしかし、ふんと鼻で笑ってみせた。

「俺は間違いを反省する刀でね。誰かがやらねばならないことなら、やるまでさ……何かな、その顔は?」

 思わず梅干しを丸かじりしたような顔をした南泉に、長義が片眉をはね上げた。

 猫を被っているのだとばかり思っていたが、存外本人は本気なのかもしれない。それはそれで気持ちの悪い想像だが。

 はあ、と箒にもたれてため息をつく。

「べっつに……ま、自由に休憩し放題でいいけどよ、オレは。

ただ――」

 ちらとうかがえば、長義は馬の黒い瞳と見つめ合っていた。

「そろそろ敵の胴でも真っ二つにしねえと、鈍っちまうんじゃねえか、ってちょっと思っただけだよ」

 刀の〝本業〟は結局、ものを両断することだ。

 無論それだけではないが、顕現して日が浅く、出陣の機会が少ないと退屈なのは確かだ。特に何かを切った話が号の由来になっているような刀は尚更だろう。まあ、南泉の場合は、若干複雑な思いもあるのだが――と。

(…………?)

 南泉はそこでふと違和感に気づいた。

 長義が言い返してこない。彼はずっと沈黙したまま馬の目を覗きこみ続けていた。

「おい?」

 念話テレパシーでもしているのか。

 不思議に思って声をかけると、長義は何事もなかったかのように振り返った。

「そうだね……」

 薄い唇が、にや、と悪い笑みの形をつくる。

「きみの場合は、他のものも切っておかないと、ますます猫の呪いばかりが進行しそうだから」

「うるせえ! にゃ」

 やっぱり化け物切りこいつの性格は最悪だ――と、南泉はますます確信を強める羽目になった。



 小屋の床という床、馬糞という馬糞を片付け終える頃には、少し日が傾き始めていた。

 南泉は箒を用具入れへ放ると、すん、と袖口を嗅いだ。途端、特有の嫌な臭いが鼻をつく。これは着替えなければ消えまい。

 小屋の外を見やる。

「猫殺しくん? そちらは終わったかな」

 と、洗い場からそんなことを訊ねる声が飛んだ。

 馬房から栗毛の一頭を出し、長義は蹄ひづめを掃除してやっているところだった。仕上げに水で流して、布で馬脚を拭く。

 ――そういえば、と南泉は不意に気づいた。

(こいつ、最初は小屋掃除をするつもりだったんだよな……)

 分担が決まっていた訳ではない。

 特にどちらが肉体的に大変な仕事という訳でもない。ただ、この夏場、よりきつくて臭いのは小屋掃除だろう。

 それを進んで引き受けるつもりでいた。

(……なんだか、にゃあ)

 柄でもないことを、とも思ったし、いやこいつは元からこうだった気がする、とも思った。確かなのは、ありもしない尻尾の付け根が、むず痒くなるような気分だということだ。

「猫殺しくん?」

 返事をしない南泉を不審に思ったのか、長義が立ち上がって振り向いた。水道の蛇口を閉める。

 あちらはあちらで、もうすっかり汗だくだった。

 なるほどな、と南泉は納得する。

(こいつ、根本的に、くそ真面目なのかもしれねえ)

 否、適度に力を抜くのが下手、と言うべきか。

 万事この調子で全力投球しているようでは、この暑い季節に体調を崩すことくらいあるだろう。

 そんな分析をしつつ、黙って相手を凝視していたら、長義はいよいよ不可解そうに首を傾げた。

「なんだ、片付いているじゃないか。もう終わりかい?」

「おお……おまえは?」

「大体終わった。あとは――」

 その時だった。

「蹄鉄に油、を――」

 何の前触れもなく、ふっと青い双眸から光が消えて、長義が水のホースを持ったまま後ろへ傾く。

 瞬間南泉が発揮した瞬発力は、我ながら大したものだった。

 一足跳びに駆け寄って、相手の襟首を掴む。

「……っとおお!」

 がくん、と長義の頭が揺れた。

「…………?」

 呆気に取られたような顔が南泉を見つめる。

 ややあって、彼は正気づいたようだった。

「……すまない。ぼんやりしていたようだ」

 両目に力が戻り、ふらつきかけた足で床を踏みしめながら、神妙に詫びてみせる。本当に無意識だったのだろう。

「気をつけろよ。馬糞まみれになんぞ」

「そ、それは御免こうむりたいな……」

 本気で想像したのか、長義の頬が引きつった。

 猛暑の中で作業していたはずが、彼の顔はいつの間にか紙のように白くなっていた。起立性低血圧――俗な言葉でいえば、立ちくらみ――というらしいが、要は体調が悪いのだ。この頃ずっとこれが続いている。

「――はあ。いいやもう、戻ろうぜ。風呂だ風呂」

 いろいろ言いたいことはあったが、南泉はひとまず、この場を切り上げることにした。

 後ろへまわって、長義の背を押しやる。

「おい、まだ蹄鉄が……」

「今晩夜戦だろ。出陣前にやるように言っときゃいい、にゃ」

 抵抗する相手を半ば引きずるようにして、獣くさい馬小屋を脱出する。長義は不服そうだったが、南泉が聞く耳持たないと理解したか、諦めて従った。

 やはり妙なところで真面目な男だ。

 彼は南泉が審神者の命で監視しているのだと思っている。

(ま、それも間違いってわけじゃねえけどな……)

 苦いものでも齧ったような気分だった。

 実に不本意だが――そう、本当に不本意ではあるのだが――南泉は別に、命令だからというだけで動いている訳ではない。

 つまりは――

「あっ、長義!」

 不意にそんな声がかかった。

 見れば、浅葱あさぎのだんだら羽織をひるがえしながら、打刀――大和守安定が、母屋の縁側から飛び降りてくるところだった。

 何やら、大きなバケツを胸に抱えている。

「大和守安定。どうかしたかな」

 と、長義が一瞬で澄まし顔を作った。

 このあからさまな〝豹変〟にも不思議と気づいた様子なく、大和守は嬉しそうに駆け寄ってきた。

「よかった、探してたんだ。ちょっと頼みがあって……」

「……頼みィ?」

 不穏な気配を感じて南泉は身を乗り出した。

 大和守のバケツをのぞき込む。

「急に出陣になっちゃったんだ。今日、調理当番だったから、急いでやったんだけど間に合わなくって……」

 そう言って彼が見せたのは、みっしり盛られたジャガイモの山だった。一番上に、少し皮が向かれた一個が置かれている。

 しまった、と南泉は内心、頭を抱えた。

「これの皮むきをすればいいのかな?」

 案の定、長義がそんなことを言ってバケツに手を伸ばす。

「うん、今日の肉じゃがになるんだ」

 半分はやったから、もう半分はお願いしていいかな、忙しいところ悪いんだけど――と、大和守は頭を下げた。

 まだ汗の浮かぶ顔のまま、にっこりほほ笑んでみせる。

「ああ、構わな――」

「あ、あああー、いや、ちょっと待った! にゃ」

 南泉はとにかく大声を上げた。

 長義と大和守がぽかんとしてこちらを振り返る。南泉は二人の間へ割って入ると、意味もなくばたばた手を振った。

「ええと……俺たち、その、この後、用事があるんだ!」

 と、とっさに嘘をつく。大和守が目を瞬いた。

「用事?」

「そう! だからその……身綺麗にしとかねえと!」

 審神者からの命令で、待機してなきゃいけねえんだ、だからいつどこに出てもいいようにしねえと、こんな獣くせえんじゃ格好つかねえからよ、早く風呂に入って――と、とにかく思いついたことを片っ端からまくしたてる。

 大和守は呆気に取られて、たじたじになった。

「わ、分かった、分かったよ。別のやつに頼むから!」

「お、おお……悪いな、力になれなくてよオ」

 本心で詫びながら、南泉は胸をなで下ろした。

 大和守は、いささか怪訝そうにしながらも、加州にでも頼むかなあ、などと言いつつ去っていった。

 一難去った――と安堵していると、やおら背後から忍び笑いが漏れ聞こえてきた。

「……何笑ってんだア?」

「ふふ、いや? ずいぶん過保護にされるものだと思ってね」

 声に巨大な棘がある。

 しまった、とまた南泉はひそかに舌打ちした。

「いや、だって……おまえが隠しておけって言うからだろ」

 自分が倒れたことは誰にも口外するな、と。

 南泉が彼の仕事にベタ付きになることに対し、長義がつけた条件がそれだった。本人がてこでも譲らないものだから折れてやったが、結果として彼の体調不良はごく少数の者しか知らず、そのため今回のようなことが起こるのだ。

 ふん、と長義が傲然と顎を上げた。

「言いふらして余計な心配をかけろと? 気づかいは無用だ」

「そういうことじゃねえんだけどにゃあ……」

「ふん」

 相手はすっかりへそを曲げたようだった。

 能面のような顔になったかと思えば、無言で玄関の方へ歩き始める。南泉は嘆息して後を追った。

(とことん扱いづれえ刀だわ……)

 良く言えば誇り高く、有り体に言えばプライドが高い。

 本人なりに自尊心のより所があるのだろうが、決して弱みを見せまいとするところは厄介この上ない。

 ぐるぐると考えながら、玄関の敷居をまたぐ。

 と――

「あっ、南泉!」

 先程とはあべこべに、今度はそんな声がかかる。

 見れば、赤いマフラーをなびかせながら、これまた打刀――加州清光が奥の廊下から走ってくるところだった。

 よく着ている袴姿ではなく、洋装の戦装束をまとっている。

「加州。なんか用か?」

「用事も用事だよ。悪いんだけどさ、ちゃちゃっと出陣の準備してきてくれない?」

 えっ、と南泉は思わず声を上げた。

 驚いて振り返ると、加州は腰に差した刀を撫でて、切れ長の瞳をきらりと輝かせた。

「長谷部の隊が急に遠征になってね。俺らの出番ってわけ」

「オレが頭数に入ってんのか?」

 ざわ、と髪の毛が一瞬で逆立つような心地がした。

 南泉の所属する第四部隊は、打刀中心の遊撃隊だが、実態としては新人育成のための教練きょうれん部隊の性格がつよい。加州たちは古参だが、南泉はつい最近参加を認められたばかりだった。

 夜戦は難しい戦だ。訓練ではあるまい。

 加州がにやりと笑ってみせた。

「入ってるよ。当たり前でしょ。先行ってるからね」

 すれ違いざま南泉の肩を叩くと、彼は颯爽と敷居を飛び越え、時空転送の門の方へ走っていった。

 南泉はその場に残されたまま立ち尽くした。

 しばしそのまま、沈黙――と。

「――何をしているのかな」

 ふと、抑揚のない声がかかった。

 はっとして振り返ると、腕組みをした長義が壁にもたれて、呆れたようにこちらを見ていた。そうだ、こいつのことをすっかり忘れていた、と南泉は自分で驚いた。

「なにって……」

「いよいよ出陣だろう? 早く準備をしないか」

 敵を真っ二つにしにいくんだろう、と。

 若干の皮肉っぽさを滲ませながらそう言うと、長義は綺麗にほほ笑んでみせた。

(あれ?)

 どうして、と南泉は戸惑った。

 なぜ、ここでそんなふうに笑う必要があるのだろう。

「おい、やま――」

「南泉! ちょっと急いでもらえると嬉しいなア」

 外から加州の声が飛んだ。

 何事も悠々としている彼には珍しいことだ。思ったより事態は急を要するらしい。

 南泉は隊の仲間と、目の前の長義を交互に見やった。

「ほら。行かないのか?」

 長義はずっとほほ笑んでいる。

 さんざん迷ってから、南泉は意を決した。

「……風呂! ちゃんと入れよっ」

 おかしな捨て台詞を吐き、自室の方へ走り出す。

 不思議とためらわれて、振り返ることはしなかった。



 しばらく安静にするべきだ、とは思っていたのだ。

 実際、そのように促しはした。それを拒み、何が何でもすぐ復帰すると言い張ったのは長義だ。審神者も仕方なく承諾し、その代わり南泉がよく見ておくようにと命じたのだ。

(あいつ、馬鹿なんだよな)

 ひゅん、と刀を上段から振り下ろす。

 突進してきた敵の短刀が、額から真っ二つに切れた。

「南泉! もう一匹いった」

 暗がりから仲間の警告が飛ぶ。

 言われて目を見開くと――これも猫の呪いの影響か、南泉はかなり夜目がきく――先ほど切ったのと同じ短刀が、勢いよく宙を飛んでくるところだった。

「――っしゃあ!」

 頃合いを見はからって、再び刀を振り抜く。両断。

「いいね。その調子」

 前を行く加州が、目の前の太刀の喉を突きながら言う。

 かと思えば、彼は橋の擬宝珠ぎぼしに飛び乗った。そのまま欄干の上を駆けていく。

 明かりひとつない、暗闇の三条大橋――

「行くぞオラァーッ!」

 大和守が、普段の彼からは考えられないような気炎を吐いた。加州を追い抜き、最前列へ躍り出る。

 敵影もろくに見えない中、南泉たちは彼を先頭に突撃した。

(本当のことは言えないが、でも嘘だってうまくない。まあ、本人はバレてねえつもりだろうけど……)

 不思議な感覚だった。

 神経が研ぎ澄まされ、ものが妙にはっきり見える。ちょっとした音も全て聞き分けることができる。そういう感じがする。

 なるほどこれが戦場の感覚か。

 ようやく〝本業〟を果たす時がきたのだ。

 そんなふうに勇み立つ心がある一方で、

(……ああ、くそ! なんでオレは、こんな、くだらねえことばっかり考えてるんだ)

 頭はまったく別のことばかり考えていた。

 馬鹿なのは自分の方だ。

 結論が出ないと分かっていて、このところ南泉は同じことをずっと考えている。

「真っ二つだ、にゃあ!」

 不用意にも正面に転げ出た脇差を、胴から二つに分ける。

 そのまま飛んできた上半身を、南泉は柄尻で殴って退けた。びしゃ、と返り血だけが、避け切れず顔にかかる。

「ははっ。男前じゃん」

 と、欄干の上から加州が声をかけてきた。

 そういう彼は、あんな不安定な足場にもかかわらず、血飛沫ひとつかぶっていない。踏んだ場数の差だろうか。

「へっ。あんたにゃ負けるよ」

「そう? 〝無代むだい〟の刀に言われるとこそばゆいなア」

 俺、川の下の子だからさ、と加州は軽口を叩いてみせた。

 実際そんなことは気にしてもいないのだろう。人間の付けた評価など、すぐに移り変わってしまうものだ。

 長義にも、それは分かっているはずなのだが――

「――って、あああ、くそ!」

 南泉は回転切りしながら叫び声をあげた。

「えっ? ど、どうしたの」

 流石の加州もぎょっとして振り返る。

 狭いところに隠れたい気分だった。気を抜くとすぐ、思考が同じところへ戻っていくのだ。

 ぐるぐる唸っている南泉を、加州は刀を振るいながら横目に見ていたが、やがてふっと嘆息した。

 しょうがないなこいつ、とでも言いたげに。

「なに、やっぱり気になる?」

 言いながら欄干から飛び降り、振り向きざま笑ってみせる。南泉は思わず唇を引き結んだ。

「ならねえ、……にゃ」

 決め切れずに呪いがこぼれる。

 ますます渋い顔になった南泉に、加州はまた笑うと、床板の上でくるくるとステップを踏んだ。

 舞うように翻った刃が、敵の槍の首をすぱんと刎ねる。

「ふうん。でも、自分から引き受けたって聞いたぜ」

「…………」

「主が気にしてた。あんたに任せきりにしちゃってるって」

 南泉は貝のように口を閉ざした。

 加州が事情を知っているということは何となく察していた。彼は部隊長だ。部隊員の命を預かる以上、審神者からある程度説明されていてもおかしくはない。

「別に、その……主が心配するようなことは何もねえからよ」

 あれこれ考えた結果、そんな一言をひねり出す。

 本当に心配要らないと思っている訳ではない。ただ、長義のことだから、そんなふうに気にかけられたり憐れまれたりすること自体が耐えがたいだろう、と思ったのだ。

 加州はそれを、知ってか知らずか、

「そっか。ならいいんだけどね。まあ――」

 と、そこでにやりと笑ってみせた。

「厄介な腐れ縁がいると、苦労するよね。お互いにさ」

 彼の視線の先を追って、南泉は隊の先頭を見た。

 浅葱のだんだら羽織が、今まさに橋を渡りきり、敵の本隊と思しき一団に切りかからんとしていた。

「ははッ。おまえが大将かア!」

 およそ正気ではない眼光に両目をぎらつかせ、少年のような体躯が勢いよく宙へ飛びあがる。

 異形の大太刀がはっとなって振り返った。

 その額へ叩きつけるように、大和守は刀を振り下ろした。

 寸時遅れて、たちまちバアッと血の華が咲く。

「オラオラオラァーッ!」

 大和守は怒号とともに、浮足立つ敵陣へ更に切りこんだ。

 あっという間に乱戦になる。

「ああもう、ちょっと……俺たち教練部隊なんですけどオ?」

 これじゃあ新人の訓練にならないでしょ、と加州が呆れ顔でつぶやいた。げっそりした表情からは、これが初めてではないことが察せられた。

 加州はぶつぶつ言いつつも、彼の〝腐れ縁〟を追って乱戦に加わった。そのまま二人で暴れ出す。

 とても割って入れず、南泉は呆気に取られて立ち尽くした。

(腐れ縁、かア……)

 自分で口にした言葉を思い出す。

 切ろうとしても切れない縁を腐れ縁という。加州は大和守のことを言ったのだろうが、彼は別に、あの二面性の激しい相棒との縁を切ろうとしたことなどあるまい。

 南泉も、切ろうとしたことはない。

 会いたくないとは思ったが、切ろうとしたことはないのだ。

「……くそ」

 もう何度目かも分からない悪態をつく。

 南泉は得物を握り直すと、意を決して味方が暴れる敵陣へと飛びこんだ。



 結果を言えば散々だった。

 殴られ蹴られ、たまに何かも分からないものに引っかかれ、ぎりぎり刀傷だけは回避して、二、三体ほど倒した気がする。その間に加州と大和守は各々十体以上を始末していた。

 残ったのは、大量にこしらえた生傷だけだ。

「いやあ、南泉、根性あるね! あはははっ」

「お、おお……」

 まだ戦いの興奮が抜けないのか、豹変したままの安定が肩に手をまわし、ばんばんと容赦なく背中を叩いてくる。

 その安定も、まぶたの上を切って激しく出血していた。誰のものかも分からない血にまみれ、南泉たちは敵の屍が散乱した路上に立っている。

「もしもーし、主? 片づいたんだけど帰っていい?」

 加州が意気揚々と通信機に話しかけた。南泉や大和守の惨状が嘘のように、彼はひとつも返り血をかぶっていない。

 ややあって、足元がぼんやり光を放ち始める。

 時空転送の輝きだ。

 次の瞬間、かっと視界が白み、足元の感覚が消える。

 一瞬だけ浮遊感があり、再び地面の感触が戻ってきた時には、あたりは夜闇に包まれる本丸の庭となっていた。

「みんな、おかえり……うわ、派手にやったね」

 縁側から降りてきた燭台切が眉をひそめる。

 彼は両手いっぱいにタオルを抱えていた。血みどろの部隊員たちの頭に、ぽいぽいと被せていく。

 ありがたく頂戴して、南泉は頭にかぶった血を拭った。

「ごめんね、食事時に血なまぐさくって……」

 やっと元に戻った大和守が、神妙な様子で詫びる。燭台切は、とんでもない、とばかりに首を振った。

「構わないよ。夕飯はできているから、手入れとお風呂が済んだら食事にしよう」

「おお……」

 言われて匂いを嗅いでみると、確かに少し、醤油やみりんの香りが漂っているようだった。食欲を誘う煮物の匂い。

 これは――

「今日は肉じゃがにしたよ。ジャガイモたくさん入れたんだ。いくらでも食べていいからね」

 は、と南泉は顔を拭く手を止めた。

 とっさに燭台切を振り返る。急に凝視された彼は、不思議そうな顔をしていた。

「肉じゃが、作ったのか?」

「え? ああ……肉を豚にするか牛にするかでちょっと議論になりはしたけど……」

 燭台切は質問の意図を理解していない。

 南泉が聞こうとしたのは、なぜ、それが作れたのか、ということだった。記憶が正しければ、今日の献立に肉じゃがが上るはずはないのだ。

 なぜならば、

「……ん? そういえば、あれってどうしたの?」

 ふと何かに気づいて、大和守が首を傾げた。

「あれってなに?」

「ほら、あれだよ、おまえに頼もうと思ったけど、そういえば一緒に出陣だったって気づいて放ったらかしにしたやつ……」

「日本語喋ってくれる?」

 要領を得ない説明をする相棒に、加州が呆れた目を向ける。

 南泉はしかし、おおむね状況を把握しつつあった。

 今日のジャガイモ当番は大和守だった。

 急な出陣任務を命じられた彼は、当番を代わってもらえる刀を探していた。そして彼は、加州に声をかける前、それを別の刀に頼もうとしていた。

 つまりは――

「南泉! やっと帰ってきた」

 奥の廊下から、短刀が縁側へ飛び出してくる。

 後藤藤四郎だ。いつか見たのと全く同じ表情に、南泉は嫌な予感を確信に変えた。

「ちょっと来てくれ。長義が――」


 手入部屋に来る機会はあまりない。

 日常生活でできる生傷は放っておけば治るし、南泉のような新人はそもそも重傷を負うような戦場に出陣することが少ない。ここへ入ったのは、たったの二回だけだ。

 一回目は、初出陣で手酷く怪我をしたとき。

 二回目は、長義が体調を崩したとき。

 そしてこれが、三回目――

「入るぞ」

 一応、それだけ声をかける。

 返事を待たずに戸を開けると、中にはいつものように、布団が敷かれていた。

 中央の間接照明が、ぼんやり室内を照らしている。

 果たして、彼――長義は布団に仰向けに寝かされていた。

「…………」

 相手の頭の横あたりに腰をおろす。

 枕元には、水桶に氷を入れたものが置かれている。南泉は、長義の額に置かれた布を冷水に浸して替えてやった。

「……猫殺しくん?」

 ふ、と布の下で青い目が開く。

 ひどい声だ。急に引いた夏風邪が一気に悪化し、気管支炎を起こしかけているらしい。高熱が出ていることは、先ほど布を替えた時に触れた熱さで分かった。

「起きてたのかよ」

「いや、うとうとしていた……」

 嗄かれた喉から言葉を絞りだし、長義は額の布に触れた。

 冷たいのが心地良いのか、目を細めて動かなくなる。水差しの水を差しだしてやると、彼は少し起き上がって口をつけた。

 かと思えば、

「……ふふふ。ずいぶん男前になったじゃないか」

「あ?」

 やおら含み笑いをした長義に首を傾げていると、彼は南泉の右頬を指さした。不覚を取って、すっぱり切り裂かれた傷に、とりあえず布を貼った部分だ。

「戦場はどうだったかな? その様子じゃずいぶんと〝活躍〟したようだけれど」

 何ということはない、いつもの嫌味だった。

 いつもなら腹が立ちこそすれ、真剣に取り合うことはない、くだらない軽口だ。しかし今の南泉は――後から思い起こせば――平常心ではなかった。戦帰りで気が立っていたし、何より長義に対して苛立ちを抱えていた。

 一体どうして、と。

「――おお。活躍してやったぜ、そりゃあな」

 自分でも驚くほど、どすの利いた声が出た。

 いつもと違うものを感じたのか、長義の顔からも作り笑いが消える。南泉は少し身を乗り出し、相手を睨み据えた。

「そういうおまえも、ずいぶん活躍したんだってにゃあ?」

「はは。語尾が猫になったまま凄まれても――」

「茶化すんじゃねえ」

 皆まで聞かずに言葉を遮る。

 長義が少し息を飲んだのが分かった。そうでなくては困る。

 南泉は怒っているのだ。何にといえば、彼があまりに他人の話を聞かないことに対して。

「ジャガイモの皮むき、自分から引き受けたんだってな」

 長義が無言で目を反らす。

 この話を聞いた時、南泉は呆れるのを通り越して絶句した。事情を知った燭台切は恐縮していたし、何より困惑していた。それはそうだろう。

 長義の振るまいは、まったく合理的でない。

「なあ、おまえ、自分の状況分かってんのか?」

「…………」

「何がしてえんだ? でっかい猫かぶって、オレに真っ二つにされてえのか? それでまたぶっ倒れちゃ世話ねえよなア」

 畳みかけるが、無言。

 それどころかこちらを振り向きもしないので、南泉は痺れが切れて相手の顎を掴んだ。無理やりこちらを向かせる。

「目ェ見ろよ、てめえ」

 長義は刺すような目で睨み返してきた。

 そうかと思えば、ふと目元がゆるんで、口の端が笑みの形をかたどる。いつもの不快な作り笑いではない。

 ただ、嫌な笑い方だった。

「――そうだな。それもいいかもしれない」

 自虐と諦観をない交ぜにしたような、苦い笑みだった。

 南泉は虚をつかれて言葉を失う。

 顎から手を離すが、長義はもう目を反らそうとはしなかった。

「山姥切長義。起きているか?」

 廊下から声がかかったのは、その時だった。

 へし切長谷部だ。入り口の前に立っているらしい。

「起きているよ、長谷部。何かな?」

 南泉を見つめたまま、平然と長義が答える。

 長谷部は入ってくるつもりがないようで、廊下からそのまま言葉を続けた。

「体調を崩したと聞いた。いや、というか、ずっと不調だったのか……気づかず色々頼んですまなかった」

 はっと長義が目を見開いた。

 南泉を睨みつける視線が、更に険のある色を帯びる。

「……参ったな。言いふらされてしまったかな?」

「ああ、さっき遠征から戻ってな」

 まったくそういう大事な話はちゃんと共有しろというんだ、と長谷部はぶつぶつ文句を言った。

 長義がますます険しい顔をしたが、南泉はふんと鼻で笑って相手にしなかった。別に約束は破っていない。ただ、大和守や燭台切に口止めをしなかっただけだ。

「まあ、ともかくだ。出陣記録の記帳は当面こちらでやろうと思う。しばらくゆっくり休んでくれ」

 今度は南泉がはっとする番だった。

 とっさに、長谷部の方と、長義を交互に見比べる。彼は衝撃を受けたような様子で、下唇を噛んでいた。

「――そう、分かったよ。帳簿は俺の部屋の机の上だ。悪いが自分で持っていってもらえるかな?」

「ああ。大事にな」

 そう言い残すと、長谷部はきびすを返したようだった。

 足音が遠ざかっていく。

 やがてその気配もなくなり、手入部屋には南泉と長義だけが残される。南泉はしばし絶句して相手を見つめた。

「……出陣記録の記帳だってエ?」

 口に出すと、思わず語尾が震えた。

 それは、近侍である長谷部の仕事のはずだ。詳しくないが、ただ出陣したことの記録をつけるのではなく、詳細な戦闘記録を聞き取って取りまとめることが必要になる、面倒な仕事だ。

 ――考えてみれば、長谷部が夜遅くまで帳簿と睨めっこしている姿を、ここ最近は見ていない。

「おまえがずっとやってたってのか?」

「…………」

「いつからだ? 最初にぶっ倒れる前からか?」

 それとも、一度倒れた後からか。

 長義は何も言わず、黙って目を反らした。

 それが答えだった。

「――なにを……考えてんだ、てめえは!」

 ついに我慢の限界が来て、南泉は怒鳴り声を上げた。

 外に聞こえただろうが構いはしない。病人だろうが構わず、長義の胸ぐらを掴んで引き寄せる。

 だが、

「…………」

 彼はひたすら口を閉ざし、こちらを睨むばかりだった。

 こいつは昔からそうだ、と、南泉はひどくやるせない気分で思った。

 ぺらぺらとよく喋るくせに、都合が悪くなったら黙り込む。それでも言い逃れできないと分かると、今度は逆に怒り出す。この男を冷静で怜悧な刀だという者ばかりだが、南泉に言わせれば目が節穴だとしか思えない。彼は昔から、幼稚で、性格が悪く、時として愚かな刀だった。

 だが、決して、このような愚かさではなかったはずだ。

「……おまえおかしいぜ! 昔はそんなんじゃなかった」

 こんなふうに、自分で自分を傷つけるような愚を犯す男ではなかった。言いたいことは山ほどあったが、彼はどんな時でも誇り高く切れ味鋭い、長船長義の傑作だったはずだ。

「そんなんじゃなかっただろ! 山姥の呪いで、頭がどうにかなっちまったのか!?」

 そして南泉はついに、その〝禁句〟を口にした。

 ざっと長義の顔から血の気が失せて、能面のような無表情になる。だがそれもつかの間、次の瞬間彼は殺気立って、ぎりりと眉をはね上げた。

 胸ぐらが掴み返される。

 あっと思った時には、南泉は畳に倒され、馬乗りにのしかかられていた。

「きみには分からないことだよ、猫殺し」

 ひどいガラガラ声が告げる。

 相手は完全に逆上していた。発熱で額に浮いた汗が、動いた拍子に南泉の頬に落ちてくる。

 遅まきながら失言したと分かったが、もう後の祭りだった。

「ああ、知っているさ。知っているとも。無様だろう?」

 血反吐を吐くように、長義が声をしぼり出す。

「そもそも刀が人間の真似事だなんて滑稽さ。けれど、それが今の時代の戦なら、やってやろうと思っていたんだ」

 でもね、この有り様はどうしたことだい、と。

 その後はもう、堰を切ったかのようだった。

「ああそうさ、馬当番も畑仕事もまっぴらだよ。きみの言ったとおりさ。俺の仕事じゃない。だけど、他に何ができるんだ? 錬度だか何だか知らないが新兵扱いしやがって。俺は、きみが出陣している間、台所で芋を剥いてたんだぞ!」

 それを聞いた途端、南泉の脳裏に昼間の彼の姿がよぎった。

 あの、嘘くさい作り笑い。彼が自分を守るための鋼鉄の鎧。あれはきっと、このためのものだったのだ。

 南泉は慌てて起き上がると、長義の肩を掴んで押し返した。

「お、落ちつけって」

「落ち着いているさ、俺は!」

 長義はほとんど絶叫するようだった。

「俺は、俺こそが、長義の打った本歌、山姥切なんだ。それを証明するためにここへ来た。証明するために!」

 だから、だから――と、次第に支離滅裂になっていく。

 南泉は掴んだ肩が異様に熱いことに気づいた。興奮しているだけではあるまい。風邪で熱が上がっているのだ。

 ぜいぜいと普通でない呼吸をして、長義が胸を上下させた。

「わ、分かった。分かったから」

 とにかく落ち着かせなければならない。

 南泉はとにかく相手をなだめすかして、布団へ押し込んだ。それでも起き上がろうとするのを、枕元へ跪ひざまずいて止める。

「おかしいなんて言って悪かった。なあ、オレが悪かったよ」

「…………」

 長義が無言のまま、荒い息を繰り返す。

 南泉は彼が落とした濡れ布巾を拾うと、また水桶に漬けて、すっかり汗ばんだ額に乗せてやった。そのまま両手をついて、相手の顔をのぞき込む。

「いいか? おまえは疲れてる。しかも病気だ。今はしっかり休まないといけねえ、そうだろ。分かったら寝ろ、にゃ?」

「うるさい、くそ、この猫殺しめ……」

 長義はなおも悪態をついた。

「山姥切」

 なあ、と呼びかけると、彼はぐうっと顔をしかめた。

 かと思えば布団を引き上げ、頭からかぶって丸まってしまう。蓑虫のようになった長義の、おそらくは肩のあたりを、南泉はぽんぽんと叩いてやった。

「うるさい、くそ。くそ、くそ、くそっ……」

 蓑の中からは、なおもしばらく罵る声が聞こえていた。


第三幕


「ほんっとうに、ごめんね!」

 ばしん、と合わせた手のひらが音をたてた。

 南泉は深々と下げられた頭を、何とも言えず見おろした。

 揃いも揃ってしょぼくれた様子の、制服姿の小さ刀たち――粟田口の短刀たちが、神妙にこちらを見つめていた。

「あー……」

 もうこのやり取りも数回目だった。

 長義が体調不良を隠して仕事を引き受けていたという話は、瞬く間に本丸中に広まった。知らなかったとはいえ仲間たちは驚き、そして責任を感じたらしい。

 ここまではいいのだが、

「いや、オレに謝る必要とかねえからにゃあ……」

 と、いうことなのだった。

 なぜか南泉が謝罪されるのだ。いや、なぜも何も、当の本人が風邪で自室に籠っているから仕方がないのだが。

「でも、南泉さんがお世話係なんでしょ?」

 両手を謝罪の形に合わせたまま、ひときわ髪を長く伸ばした短刀、乱藤四郎が首を傾げる。

 違う、ととっさに反論しかけ、いや、と南泉は思い直した。

 あながち間違いとも言えまい。今となっては。

「……そんなんじゃねえって」

 だが完全に正しいとも言えない。南泉が順に顔を見回すと、粟田口たちは真剣な眼差しを返してきた。

「あいつが自分でやるって決めたんだ。気にすんな」

 そう言うと、短刀たちが困ったように視線を交わし合う。

 刀工の影響なのか、あるいは短刀というものの性質ゆえか、彼らは総じて謙虚で心優しい。自業自得だ、と突き放すような南泉の物言いは、肯んじがたいのだろう。

(……そうなんだよな。鎧着込んで戦わなきゃならねえようなやつは、どこにもいねえんだ)

 ひっそりと嘆息する。

 本丸の刀たちは善良だ。

 伊達に長くこの世にある訳ではなく、人の悲哀も刀の無力も、無数に味わってきた者たちばかりだ。わが身のままならなさを知っている彼らが、冗談でも長義に心無い言葉をぶつけるとは思えないし、彼らも考えもしないだろう。

 長義もきっと分かっているはずだ。

 それでも、分かっていても、自分ではどうにもできない――そんな彼に、なんという言葉をかけるべきなのか。

 南泉はずっと、それを考えていた。

「まあ……ともかくだ。こんな時にすまんが、留守中のこと、よろしく頼むぞ」

 後ろから見守っていた長谷部が、おもむろに告げた。

 そうして、庭の中央に置かれた時空転送の機械を振り返る。ずらりと並んだ刀たちは皆武装しており、南泉だけが内番用の室内着姿だった。

「おお。まあ、思いっきり暴れてくるんだにゃ」

 頷いて、居並ぶ者たちを見やる。

 本丸の刀剣たちが、ほぼ全員集まっているはずだった。

 聞けば定期的に行われる政府主催の大演習――連隊戦というそうだ――だとかで、動ける刀は皆参加する必要があるらしい。南泉を囲んだ者たちの他、時空転送装置のまわりには第一部隊から第四部隊まで勢ぞろいしているのが見える。

「下ごしらえした野菜、冷蔵庫に入れといたからね!」

「作り置きもしておいたよ。遠慮せず食べてくれ」

 と、大和守が挙手し、燭台切がほほ笑んでみせた。

 演習期間はかなり長期間に及ぶということだったが、食うに困ることはなさそうだ。南泉はひらひら手を振った。

「ありがとにゃあ。気をつけろよ」

「ああ。そちらも何かあればこんのすけに相談しろ」

 あやしいけだものだが、本丸のことはよく分かっている、と長谷部が念を押した。

 相談ね、と南泉は想像を巡らせてみる。例の管狐のことは、眺めていると爪を立てたくなってしまうので、なるべく視界に入れないようにしていたからよく知らないのだ。

「皆さーん、準備できましたよ!」

「第一部隊から順に並んでくださーい」

 そこへ、機械のそばから脇差たちが声をあげた。

 鯰尾と物吉が、こちらへ元気よく両手を振っている。ふ、と長谷部がため息をつき、部隊の者たちを見まわした。

「第一部隊、行くぞ。例によって夜戦と昼戦が入り乱れているだろうから気を抜くなよ」

「了解しました」

 前田が隊員を代表して頷く。

 第二から第四部隊の者たちも、ぞろぞろ整列して機械の前へ集まった。時空転送の光に包まれ、続々と出陣していく。

 南泉は少し離れて仲間たちを見送った。

 何度も光がまたたき、やがて庭には誰もいなくなる。

(……さてと、だ)

 ばしん、と南泉は両手で頬を叩いた。

 こちらはこちらで、気合いを入れなければならない。そうでなければ、あの高慢ちきの根性悪の相手はつとまらない。

 怯んでいる場合ではないのだ。

「…………?」

 そう思ったときだった。

 南泉はわずかな違和感を覚えて機械を振り返った。

 不本意ながら呪いの影響で耳はよい。その耳が、カタカタ、とかすかに奇妙な物音がするのをとらえていた。

 何だろう、と思ったのもつかの間――

「伏せてください、南泉一文字!」

 管狐の金切り声が聞こえた瞬間、目の前で機械が爆裂四散し、南泉は紙のように吹き飛ばされた。

 当座の被害は、前髪が焦げたこと。

 もちろん、それで済む事態ではあるまい。焦げた髪を適当にむしり取り、小脇には案内人ナビゲーターの管狐を抱え、南泉は本丸中枢の指揮所へ駆けこんだ。

「主!」

 扉を開けると、無数の機材と画面モニターが出迎える。

 中央の指揮座に審神者の姿はなかった。代わりに、制御卓コンソールにかじりついて、しきりにキーを叩いている人物がひとり。

 久方ぶりの戦装束をまとい、彼はこちらを振り返った。

「遅かったね。きみだけかな?」

「……何やってんだ、病人」

 南泉は半ばうんざりして訊ね返した。

 こんのすけを抱えていなければ、頭でも抱えていただろう。ふん、と鼻を鳴らして画面を睨みつけた長義は、表情こそ平然としていたが、顔色は真っ白だった。

「非常事態だろう。悠長に寝ている場合ではないよ」

「…………」

 この男のこれは、もう性分だ。

 彼が望んでそうしたいと言うのなら、折れない程度に好きにやらせるしかない。南泉はそう思って、言いたいことをいくつか飲みこんだ。

「へえへえ……審神者は?」

 と、空っぽの指揮座をのぞき込む。いつもなら、刀剣男士の出陣中、審神者はそこに座って指示を出しているはずだ。

 と、南泉の脇から管狐が這い出した。

「政府の施設に戻っておられました。今回の連隊戦は新しい指揮統制支援コマンド・コントロールシステムの実証実験を兼ねていましたので」

 そんな呪文を唱えつつ、肉球の手がコンソールを操作する。砂嵐の画面の中に、「HTML5」の表示が浮き上がった。

「無駄だよ、こんのすけくん。さっき俺が何度も試した」

 長義が狐に声をかける。

 こんのすけは、ううん、と唸ってなおもキーを叩いていたが、やがて諦めてため息をついた。

「……本当だ。統合本部エイチキューとの通信不能。第一から第四部隊まで所在確認不能。慶応四年以前の時間軸も観測不能」

「不能、不能って、何が起こってんだよ?」

 不穏な単語を繰り返す狐に、南泉は思わず身を乗り出した。険しい表情のかれと長義を交互に見やる。

 長義は画面を見つめたまま、唇だけを笑みの形にした。

「明治より前の歴史が全部敵に改変された。仲間とも政府とも連絡がつかない。俺たちは孤立無援、ということさ」

 おそらくそれは、自棄やけっぱちの笑顔だったのだろう。

 南泉は絶句して棒立ちになった。理解はできても実感が追いつかず、しばしその場に立ち尽くす。

 ガタガタガタ、と管狐が盛んに打鍵音を立てた。

「い、いや、待ってください。この短時間で、有史以来全ての歴史を書き換えるなんて物理的に不可能です」

「しかし、現に何も観測できないじゃないか?」

 希望的観測だと思ったのか、長義が眉をひそめる。いいえ、とこんのすけは首を振った。

「歴史のターニングポイントになるような重大な史実を、ピンポイントで改変されたものと思われます」

 かれの説明は、こうだった。

 歴史とは、可能性事象の連続体といわれる。

 つまり、過去は未来へ、未来は過去へ不断に接続しており、時間遡行はそれを順に辿っていくことで成り立っている。

 つまりは、ある特定時点の出来事を歴史改変したとしても、それは単に未来の時間軸との〝接続〟を断った、ということでしかない――

「待った! 待った待った」

 南泉は慌ててストップをかけた。

 はっ、と管狐が動きを止める。謎の呪文を真剣に聞いていた長義は、あからさまに不快そうな顔をした。

「何かな、猫殺しくん。話の腰を折らないでほしい」

「あー、はいはい、悪い悪い、馬鹿で悪かったにゃ。馬鹿でも分かるように話してくれや、案内人さんよオ」

 鼻持ちならない化け物切りを適当にいなしつつ、南泉は狐を両手で掴んで眼ガンを飛ばした。蛇に睨まれた蛙ならぬ、猫に睨まれた管狐は、毛を逆立てて身を震わせた。

「つ、つまり、たった一か所改変しただけで、それ以前の歴史まで変えたことにはならないということです。改変された部分を修正すれば、それより過去の時間軸も正常に戻るはずです」

 と、噛み砕いてみせる。

 そういえば、と南泉はいつぞや加州が話していたことを思い出した。

 彼や大和守が顕現したばかりの頃、時の政府と本丸はかなり劣勢に立たされていたらしい。大半の時代が敵の手に落ちて、過去へ跳ぶことすらままならなかったため、明治維新から奥州征伐までを順に遡って歴史修正していったという。それでようやく戦況を五分に戻し、それからは様々な時代への出陣が可能になった、という話だった。

 つまりは――

「慶応へ行って、敵をぶった切ればいい。そういうことだな」

 長義が身もふたもなく要約した。

 やはりこうなるのか、と、南泉は狐を持ったまま、がっくり肩を落とした。所詮、自分たちは刀だ。切るか、突くか、飛びかかって断つしか能がない。

 腹を括るしかなかった。

「南泉一文字」

 こんのすけが手の中から這い出してくる。

 南泉が顔を上げると、管狐の丸い大きな目が見つめてきた。

「あなたが頼りです。行っていただけますか」

 長義がはっとして狐を振り返った。

 信じられない、と驚愕する瞳が語っていた。彼はコンソールに手をついて身を乗り出し、狐に詰め寄った。

「彼をひとりで行かせるつもりなのか?」

「え? はあ、それは……」

 こんのすけが言いづらそうに言葉を濁す。

 仕方がないだろう、とその態度が語っていた。長義が愕然として、青い双眸を見開いた。

 またか、と南泉はひそかにため息をついた。

 もうたくさんだ、と思った。これ以上は見るに堪たえないと。

「こんのすけ、ちょっと外せ」

 おもむろに沈黙を破る。

 長義が硬い表情で振り返った。そちらには何も言わず、南泉は戸惑った様子の狐を見おろした。

「こいつと話す。外で待ってろ」

「え、いや、しかし……」

「いいから」

 有無を言わせず迫ると、こんのすけは釈然としない様子ながらも従った。かれが指揮所を出ていくのを待ってから、南泉は後ろ手に入り口を閉める。

 指揮座の向こう側から、長義がじっとこちらを睨んだ。

「あー……なんだ、にゃ……」

 南泉は急にばつが悪くなって目を反らした。

 もごもご言いながら、意味もなく髪をかき回す。かと思えば長義がぎゅうっと眉を寄せ、おかしな顔でうつむき始めたものだから、南泉はいよいよ焦った。

 彼の誇りを傷つけたくないし、辱はずかしめたくもないのだ。

 この気持ちを何と言えばよいのか、分からない。

「あのな、オレは――」

「きみが」

 とにかく何か言わなければ、と口を開いた瞬間、相手の言葉が南泉を遮った。

 見れば長義はうつむいたまま、両拳を強く握りしめていた。

「――何を言いたいのか、分かっている。きみは正しい。おかしいのは俺だ。頭がどうにかなっているんだ」

 感情的になっていて、少しも冷静ではない。

 誰も悪気はないと知っているのに、自分だけが納得できずにいる。勝手に壁を作って、勝手に身構えている。それが仲間の善意に対する裏切りだということも分かっている――

 震える拳を開いて見おろし、彼はそんなことを語った。

「けれど、他にどうしたらいいっていうんだ? 俺は山姥切、長義の打った、本歌、山姥切長義だ。ただの新人の雑用係じゃないって、証明するためには……」

 そう言って、再び拳を握る。

 そもそもそんな証を立てる必要があるのか、と南泉は素朴に疑問に思った。彼は彼だ。正直言って、この男が何者かなど、南泉は気にしたこともない。

 ただ、

(……なんて言ったら、またへそ曲げるんだろうにゃあ)

 何が彼の地雷なのかも、おおよそ理解できていた。

 そのまま黙って聞いていると、おもむろに長義が顔を上げる。青い瞳はすっかり途方に暮れていた。

「分かっているよ。ぜんぶ俺が弱いからだ。戦う力のことだけじゃない。俺がひとりで……」

 いつもは気取った声が、ぶざまにひっくり返って震える。

「勝手に……」

 独白のような言葉はそこで止まった。

 南泉は思わず天井を仰ぎ見た。

 なんという言葉をかけるべきなのか。また同じ疑問を思う。喉元まで出かかっているのに、うまく言葉にできない。

「おまえのせいじゃねえだろ」

 さんざん迷って、ひどくつまらない慰めを口にする。

 案の定、長義はじろりとこちらを睨みつけた。

「くだらない気休めは止せ。俺は馬鹿じゃない。自分のことは自分で分かっている」

「あっそ……」

 やっぱりこいつは性格が悪い、と南泉は頬を引きつらせた。

 よく思い返せば、昔から彼はこういう輩だったのだ。神妙に聞いてやる必要はなかったかもしれない。

 と――

「でも……」

 高慢ちきな声が、そこで不意に弱気になった。

 指揮座の向こうから、常になく小さく見える体を更に縮めるようにして、彼は南泉の前に立った。そのまままたうつむいてしまうので、表情がほとんど見えなくなる。

 黒手袋が伸びてきて、南泉の上着の襟を掴んだ。

「よりにもよって、どうして今なんだ?」

「…………」

「きみがひとりで出陣して、俺は指をくわえてそれを待つ? なんだそれは? 悪い冗談かな?」

 なぜと言われても、運が悪かったからだとしか言えまい。

 南泉は長義のつむじを見おろしながらそう思った。あるいはこれも呪いの一種か。不幸をもたらす呪い。

「しょうがねえだろ。他に居ねえんだから……」

 どうにか納得させようと、南泉は彼の肩に手を置いた。

 長義が弾かれたように顔を上げる。失意に打ちひしがれた、暗い眼差し――

「いやだ。こんなこと認めないぞ」

 否、燃えるような視線だった。

 予想外の激しさに面食らった南泉に、長義はさらにもう一歩詰め寄った。

「きみがひとりで行くなんて認めない。俺も行く」

「いや、おまえ――」

「這いずってでも行くからな!」

 子供か、と南泉は思わず眉をひそめた。

 平静でいられないというのは理解するが、ここまで頑是ないことを言い張るやつだとは思わなかった。正直なところ、少し失望したような気分だった。

 そうまでして戦場に出たいのか、と南泉は半ば呆れていたのだが――

「……こんなことがあってたまるものか。きみをひとりで行かせて、俺はここで何もできずにいるだなんて、そんな――」

 だが、長義が次に口にした一言に、南泉は全ての認識をひっくり返されるはめになった。

「そんな、……ことが、あってたまるものか!」


 慶応四年は、年の半ばで明治に改元となった。

 そのため暦の上では九月七日までしかない。すなわち、明治元年も九月八日から始まり、それより前の日付は存在しない。

 そのはずなのだが――

「……バグってやがるにゃあ」

 南泉は腕にはめた電子時計を見おろした。

 デジタルの文字盤には、慶応四年十月九日の表示。振っても叩いても直らないから、これで〝正しい〟のだろう。

『やはり時空間が不安定ですね……計器の表示が滅茶苦茶です』

 と、耳に付けた通信機から狐の声。

 それを適当に聞き流しながら、南泉は前方を見やった。

「明治維新をなかったことにしちまおう、ってことか?」

「どうだろうね……」

 崖っぷちの茂みに身を伏せ、長義が遠眼鏡で下をうかがった。

 南泉も気配を殺して近づく。彼にならって崖下を見おろすと、そこには武装した一団が陣を張っていた。

 和装と洋装の混じった、何とも中途半端な男たちが、村の中を慌ただしく行き来している。

「新撰組か。……直接見るのは初めてだな」

 長義が小声でつぶやいた。

 二重の意味で、それはそうだろう。自分たちを所有した尾張徳川家は、明治維新では徳川宗家と距離を置いていた。新撰組の者たちと相まみえる機会も当然、なかった。

 そして刀剣男士となってからも、この時代への出陣は初めてのことだった。

 南泉は更に身を乗り出した。

「あの男、あれか? 和泉守兼定の……」

「ああ。元の主だろうね」

 そう答えると、長義は電光板タブレットを差し出した。

 画面には、総髪に洋装姿の、若い男の写真がうつっている。噂に聞く〝鬼の副長〟は、確かに眼下でほうぼうに指示を出している男と同じ顔に見えた。

 だが、いささか奇妙な様子だった。

「……ありゃあ、何をしてるんだ?」

『ここを引き払おうとしているのです。おそらく……』

 記録にある時系列と同じなら、とこんのすけはあまり自信がないようだった。

『すでに仙台藩は新政府軍に降伏していますから、旧幕府軍と合流して、蝦夷えぞ地を目指そうというわけです』

「旧幕府軍。あの船かな?」

 長義が立ちあがって遠くを見やった。

 陣の向こうには海があり、小さな湾になっているようだった。そこを数隻からなる艦隊が横切っていく。村がある半島を迂回して、反対側へ回ろうとしているらしい。

『画像照合します。――そうですね、榎本武揚艦隊です。このあと折浜から北海道方面へ出発するはずです。ただ……』

 と、狐はそこでまた言葉を濁した。

 どうせ悪い知らせだろう、と南泉は半ば諦めの境地だった。

 勿体ぶるけだものには構わず、長義がタブレットをいじる。やがて、にい、と彼は毒のある笑みを浮かべた。

「折浜というのはここかな? 大歓迎を受けそうだね」

「あん? ……げっ」

 彼の手元を覗きこんだ途端、南泉はうめき声をあげた。

 半島の逆側にある集落――タブレットの地図に映し出されたそこには、敵影を意味する赤い点がびっしりと浮かんでいた。否、それどころか、海上の船まで敵が見える。

 長義が黒手袋で、赤く染まった船をつついた。

「この船は? この一隻だけ占拠されているようだけれど」

『太江丸ですね。新撰組はこれで脱出するのですが……』

「……なるほど」

 そうつぶやくと、長義は地図を睨みつけた。

 そういえば、この時代のすぐ後、函館五稜郭の戦いに現れる時間遡行軍は、いつも執拗に土方歳三を救出しようとする、と南泉も聞いたことがある。確かに蝦夷地は彼の死地だ。ならば死地を踏ませなければよい、という考えだろうか。

 ということは、つまり、

「……こいつらをぜんぶ真っ二つにしなきゃいけねえのか……にゃ?」

「まあ、要はそういうことだろうね」

 くそったれ、とは流石に長義も言わなかったが、顔にはそう書かれていた。

 予想よりだいぶ荷が重い仕事と悟って、南泉も青い息を吐く。勝利の具体的なイメージがまるで湧かないが、しかしつべこべ文句を言っていても始まらない。

 ばしん、と南泉は自分で頬をぶった。

「――っしゃ。しょうがねえ、行こうぜ」

 ややもすると怯みそうに足を叱咤して立ち上がる。

 長義が、やれやれ、とばかりにため息をついた。そうして、彼も腰を上げる――と、不意にその足元がふらついた。

「! おいっ」

 慌てて肩を支えてやる。

 長義は青ざめた顔で額を押さえると、しばし何かをこらえるようにじっとしていた。また立ちくらみを起こしたらしい。

 彼のこめかみに伝う脂汗を見て取り、南泉は顔をしかめた。

(やっぱ、無理があるよな……)

 分かっていたことではあるが、あらためて実感する。

 この肉体というものは、錬度もそうだが、それと同じく疲労の影響を強く受ける。ただでさえ過労で体力が落ちている上、夏風邪も治りきっていないのだから、本来戦闘どころではないはずなのだ。

 そうと分かっていながら、それでも南泉は、彼を置いていくことができなかった。

「……すまないね。もう大丈夫だ、離してくれ」

 めまいが治まったのか、長義が顔を上げる。

 顔色は相変わらずだったが、足元はもうしっかりしていた。彼は額の汗をぬぐうと、こちらをじっと見た。

「……なんだよ?」

「ふふふ。いや、なんでもない」

 そう言いつつ、なぜか彼は含み笑いをした。そうかと思えば外套をばさりと翻し、海に浮かぶ艦隊を見やる。

「だけど、そうだな。今のでひとつ作戦を思いついたよ」

 その妙に楽しげな横顔に、南泉は急に嫌な予感を覚えた。

 思わず後ずさって距離を取る。身構える南泉に、長義はますます笑みを深くして近づいてきた。

 例の、鋼鉄の鎧ではない。

 それよりもっと、厄介な笑みだった。

「作戦?」

 聞きたくはないが、仕方なく訊ねる。

 長義は少し腰を屈めると、こちらを覗き込むようにして話し始めた。それにつれて、自分の顔がどんどん険しくなっていくのを、南泉はまざまざと感じた。

 大きくため息をつく。

「……なるほど? そいつは誰がやるんだろうにゃあ?」

 そして、心底こう思った。

 やはりこの男は、たいへん性格が悪い、と。

「きみの他に誰がいるんだ?」

 頼りにしているよ、猫殺しくん、と長義は言った。



 黒い海に上弦の月が浮かぶ。

 風は強くなく、波は落ち着いていた。浜から小舟で渡れそうなほどのところに、帆を畳んだ軍艦が数隻停まっている。

 甲板には松明の火――そして、ひっきりなしに積み荷を運ぶ男たちの姿が見えた。

(夜明けを待たずに出発するつもりだな……)

 小舟の上から様子をうかがいつつ、南泉は推測した。

 実際の史実とは、既に仔細しさいが異なるということだった。狐の記録はもう当てになるまい。

 索敵開始、と拵こしらえにはめた刀装に命じる。

『――索敵失敗。敵の陣形、解析できません』

 通信機から無機質な音声が告げた。

 ちっ、と思わず舌打ちして、索敵に飛ばした霊子エーテルを戻す。

 一隻の船上には、時間遡行軍を意味する赤の燐光りんこうが、所狭しとひしめいていた。陣形が解析できないというより、そもそも隊形を組んでいないのかもしれない。

「もうすぐ着くぜ、こんのすけ。あっちは?」

『間もなく接触します。南泉一文字、そちらは頼みますよ』

 左耳から、今度は管狐の甲高い声が答える。

 あちら――すなわち長義とは距離が離れすぎていて、電波が届かないようだった。彼と通信回線を開いている右耳からは、ずっと雑音が流れている。

 ふん、と南泉は鼻を鳴らした。

「言われるまでもねえにゃあ。見てろよ」

 宣言する。聞こえないのは承知していた。

 そのまま潮の流れに舟を乗せ、夜闇に乗じて軍艦の一隻へと近づいていく。月明かりの影になっている側へ回り込み、南泉は船体の横っ腹に手をかけた。

 船上には帆が張られていないマストと、大きな煙突が見える。スクリュー推進の蒸気船らしい。

 これが太江丸だろう。

(……〝小さな変化は、歴史の大きな流れの上では問題にならない〟……ねえ)

 長義の言っていたことを思い出す。

 より正確に言えば、歴史の流れの〝大筋〟が変わらなければ、後で細かいところを歴史修正していけば、時空連続体の安定は保たれる――というようなことを言っていた。今回の場合は、土方歳三と新撰組が無事に仙台を脱出すればよい。

 他のことはどうとでもなる、と。

 ままよ、と南泉は船に取り付けたそれに火を付けた。

「失敗したらおまえのせいだからにゃ、山姥切イ!」

 叫ぶなり小舟を蹴って海に飛び込む。

 真っ黒な中を潜水して、そのまま船底へ。

 瞬間、ドオン、という轟音が海を震わせた。

 たちまち水流が押し寄せる。南泉はその勢いに乗って竜骨をくぐり、船の反対側へと抜けた。

 水中で抜刀する。

(――オオオォオッ!)

 泡を吐きながら、南泉は霊力の抑えを外した。

 足元で霊子が小爆発を起こし、ジェット噴射のように身体を持ち上げる。水面を突き破り、船体の高さを超えて空中へ。

 船の右舷は、喫水線のあたりから黒煙を吹いていた。そこへ鈴なりになった男たちが、唖然として後ろを振り返る。

「カチコミだにゃあ!」

 出でよ兵ども、と南泉は刀装に号令した。

 玉の飾りが光を放ち、古めかしい足軽の形を取る。

 南泉は彼らもろとも甲板へ突っこんだ。

「――、――……!?」

 敵は浮足立っていた。

 それでもいち早く我を取り戻した一人が、怒号とともに刀を抜く。およそ幕末のものとは思えぬ、古めかしい太刀――そう思った瞬間、その男の姿は時間遡行軍の異形と化した。

(ひとに化ける怪物退治は――)

 南泉は化け物めがけて突進した。

 横薙ぎの一撃を、姿勢を低くしてかわし、すり抜けざま敵の胴を両断する。

「オレの仕事じゃねえってのになア!」

 やけくその気炎とともに、更に前へ。

 一匹やられて正気に戻ったのか、敵は続々と正体を現した。一人くらいは人間がいるかと思ったが、どうやら全員遡行軍の兵が姿を変えていたものらしい。

 なるほど、と南泉はおおよそ状況を察した。

(新撰組だけじゃねえ。この船の乗組員全員と入れ替わって、そのまま五稜郭の戦に混じるつもりだったか)

 確かに、そこまで規模も期間も大きな改変を行えば、歴史の〝大筋〟が変わってしまうかもしれない。

 ならば最初に言ったとおり、全員切って捨てる他あるまい。

 それは理解できるのだが――

『敵、船内にも多数。約六十秒で甲板に出ます』

 狐が機械的に警告をよこす。

 南泉は舌打ちした。この多勢に無勢が問題なのだ。

「あいつは!?」

『接触しました! 現在海上を移動中』

 遅い、と南泉は思わず歯噛みした。

 否、十分に早い方ではある。こちらに余裕がないだけだ。

「猫ども! 食い止めろっ」

 南泉は刀装兵に命じると駆け出した。

 殺到しようとする敵の前に、足軽たちが並んで防衛線バリケードを築く。それを背に、南泉は左舷側の出入り口から船内へ飛びこんだ。

 階段を駆け降りる。

「……――!」

 南泉の侵入に気づいて、右舷側から騒ぐ声がした。

 ここまでは想定通りだ。側面に攻撃を受けたと思った敵は、応急処置ダメコンのために右側に集まっているのだ。

 左舷は今まさにがら空きだった。

「入ったぞ、指示くれ!」

『前方二メートル先、壁に一か所、突き当たりに一か所です。突き当たりの近くにはスクリューがあります』

 南泉はごくりと生唾を飲みこんだ。

 意を決して走り出す。

 船内はほとんど真っ暗だった。いくら南泉の夜目が利くとはいえ、目視できる暗さを超えている。大砲用の窓からわずかに差す月光を頼りに進んで、まず一か所目へ。

「!!」

 壁に付けたそれを、外れないか確かめていた時だった。

 月影がほんのわずか、きらりと何かに反射する。

 南泉はほとんど野生の勘でのけ反った。

 瞬間、耳の上で跳ねた髪を、打刀だろうか、猪首鋒いくびきっさきの刀身がかすめて通り過ぎる。南泉はとにかく前進し、暗闇の中の敵に体当たりをかけた。

「…………!」

 手探りで相手の口を探し当て、拳をねじ込んで声を封じる。

 噛みつかれる前に、喉笛へ目がけて一閃。吹き上がった血が顔にかかり、南泉は相手の絶息を知る。

「――、――――?」

「……――!」

 どこにいる、あっちか、いやあっちだ――

 人語とも意味のない唸りともつかぬ声が、恐らくそんなことを喚き合うのが聞こえた。

 南泉は息を殺して、更に奥へと歩を進めていく。

 ぱき、と軽い音をたて、刀装の玉がひとつ割れた。甲板上の形勢は思わしくないらしい。

(くそ、もうちょっと――)

 ゴオオン、とどこからか地響きのような音が聞こえた。

 誰かが蒸気機関の動力を入れたらしい。

 南泉はスクリューが回る音に耳を澄ました。それを頼りに、壁伝いに進んでいく。

『――止まって! そこです、そこの壁』

 不意にこんのすけが声を上げた。

 言われたとおり立ち止まり、手探りで「そこの壁」を探す。

(こいつさえ――)

 とりあえず手が触れた壁に、南泉はそれを取り付けた。

 それを待っていたかのように、もう一つの刀装が砕け散った。即座にきびすを返し、元来た道を転げるように駆け戻る。

 右舷にいた敵の気配が、すぐそこに迫っていた。

 と――

『……えっ!?』

 そうかと思えば、またぞろ狐が不吉な声を上げた。

 今度は何だ、と南泉は状況に構わず叫びそうになり、

『ちょ、ちょっと、山姥切長義? 何をやって――』

『時間遡行軍、聞こえるか?』

 ――たちまち頭痛を覚えて額を押さえるはめになった。

 仲間同士の通信ではない。霊子を空気のように震わせ、拡声器よろしく、人外にしか聞こえない音を流しているのだ。

 予想外だったのだろう、敵がどよめくのが分かった。

「ばか、おまえ、目立たねえって約束しただろうが……!」

 南泉は必死に――小声で――通信機に呼びかけた。

 ふ、と笑うような吐息が答える。

『大ピンチのくせに、強がっている場合かな?』

「うるせえ……にゃ!」

 南泉は走りながら頭をかきむしった。

 長義は怒声もどこ吹く風、とばかりに、悠然と拡声器に言葉を続けた。

『おまえたちの目的は分かっているよ。土方歳三このおとこの戦死を阻止したいんだろう? わけは知らないが涙ぐましいことだね』

 と、悪役のような口上をぶつ。

 ――南泉の記憶が確かなら、長義は旧幕府軍の使者に扮して新撰組に接触し、彼らを別の軍艦に誘導しているはずだった。つまり彼は、土方歳三のそばにいるはずなのだ。

 ということは――

『では、俺の言いたいことも分かるな。――この男の命が惜しければ、今すぐその船を捨てて、海を身を投げてもらおうか』

「こ、こらーっ」

 南泉はたまらず悲鳴を上げた。

 彼は基本的に常識的な男だが、時としてとんでもない暴挙に出ることがある。それは知っていたが、何もこんな時にそれを発揮しなくてもいいだろう。

「アホかてめえはア!」

『失礼な。きみを助けてやろうとしているんだよ』

 罵倒されても長義は知らん顔だ。

 だが、確かに船内の敵は静かになっていた。脅しが効いたというより、戸惑っているのだろうが、とにかく止まったのだ。

『……い、今のうちです、南泉一文字!』

 我に返ったこんのすけが叫ぶ。

 南泉は、くそ、と悪態をつきながら階段を駆け上がった。

 とにかく、目的は達したのだ。あとはこの場を脱出すれば、長義の〝作戦〟は完遂される。

 息を切らせながら、甲板へ飛び出した、その時――

「――――!!」

 咆哮。

 一瞬遅れて、右肩から左腰にかけて背を襲う灼熱感。

 あっと思った時には、南泉は床に叩きつけられていた。



 これは危険だ、とすぐに分かった。

 刀剣男士の体を得てから、南泉が重傷を負ったのは一度だけしかない。あの時は初陣で、ほとんど不可抗力だったのだが、生死の境をさ迷うほどの深手だった。

 あの時よりやばい、と南泉は脂汗を垂らした。

『南泉一文字!』

 こんのすけの絶叫が聞こえる。

 かれの背後では、けたたましい警報が鳴り響いていた。刀装破壊、重傷、血圧低下――と機械が不穏な単語を発している。

『おい? ……おい、どうした!?』

 長義も異変に気づいたらしい。

 余裕綽々の態度はどこへやら、今度は慌て始めた彼に、あのばか、と南泉は歯を食いしばった。

 慌てている場合ではない。

 一刻も早く、彼はこの場から逃げなければならない。

 ――ぎい、と誰かが床板を踏みしめた。

「命が惜しければ、だと?」

 不快な声。

 およそ人間の喉から出たものとも思えない、弦楽器をめちゃくちゃに鳴らしたような音だ。実際にそのような声をしているわけではなく、霊気の波長が合わないのだろう。

 自分たち刀剣男士と、根本的な不協和を起こす存在。

「時間、遡行、軍……!」

 南泉は何とか身をよじって振り返った。

 途端、ごつごつした大きな手に襟を掴まれる。そのまま喉を締め上げられ、南泉は宙に持ち上げられた。

「ならば、こちらも、やることは決まっているな。刀剣男士、聞こえるか?」

「…………!」

 体を戦慄が駆け抜けた。

 どうにか目を開ける。喉を掴む大きな手の主は、見たことのない異形の太刀だった。刃長は南泉とそう変わらないが、まるで大太刀のように巨大な体躯をしている。

 どうやら、これに背後から切りつけられたらしい。

 敵は乱杭歯らんぐいばをむき出しにして、にい、と笑った。

「この男の命が惜しければ――いや、そうだな、鋼の情けだ。海に落ちろとは言わん。そこでじっとしていてもらおうか」

 まさか、と咄嗟に床に視線を走らせる。

 異形の太刀の肩越しには、先ほど倒れた時に落とした電光板タブレットが転がっていた。敵味方を表す赤と青の光は、南泉が敵に囲まれていることと、

『山姥切長義、そこを離れなさい!』

 長義がすぐ隣の船に乗っていることを示していた。

 太刀が、己の切っ先を、まっすぐそちらへ向ける。

 それを合図に、浮遊する無数の短刀たちが一斉に動き出した。一直線に隣の船へと殺到する。

「……ッがああァアッ!」

 南泉は敵の指を、柄尻で思いきり殴り付けた。

 喉を掴む手が一瞬ゆるむ。その隙に身をよじって、どうにか抜け出すと、南泉は地面に這いつくばった。

「逃げろ、山姥切!」

『南泉!』

 悲鳴のような声が名を呼んだ。

 それに答える余裕もなく、甲板を転がるように移動する。

 敵は南泉をぐるりと取り囲んでいた。

 何とか抜け出そうと、最初に目についた一角へ突撃をかける。さほど間合いの変わらぬ打刀が三体。

 南泉は一番手前の一体へ切りかかった。

 不意の一撃にも、敵は機敏に反応したが、南泉の方が早い。相手に迎え撃たれる前に近づいて首を刎はねる。一体。

 仲間をやられた敵が、たちまち猛然と打ちかかってきた。

 お上品に相対している暇はなかった。

 南泉はしゃにむに踏み込むと、敵の肘ごと刀を斬り飛ばした。そのまま、返す刀で相手の胸を突く。もう一体。

 そして残るは、最後の一体――

「――――!」

 みぞおちに強い衝撃があった。

 切り結ぶような構えを見せていた敵が、腹に蹴りを叩き込んできたのだ。南泉は完全に不覚を取って吹き飛んだ。

 切り裂かれた背を強かに打ち、激痛で息が止まる。

(――あ。これは、ちょっと、やべえ)

 奇妙に冷静な気分で、南泉はそう直感した。

 今までも、大なり小なり危機に陥ったことはあった。しかしこれは少々、次元の違うものだ。それが分かる。

 仰向けに倒れた南泉の視界に、ぬっと黒い影が現れた。

「生き汚い刀だな。まるでけだもののようだぞ」

 異形の太刀が、笑いながらこちらを見おろす。

 かと思えば、敵は再び南泉の襟を掴み上げた。そのまま勢いよく放り投げられ、どこかの壁に叩きつけられる。

『南泉! くそっ、どけ!』

 長義のわめく声がした。

 逃げろと言ったのに、案の定立ち向かおうとしているらしい。彼らしいことだが、今回はいかにも分が悪い。刀剣男士は味方や刀装の助けなしで戦えるようには出来ていないのだ。

 ――いよいよ本当に、腹を括る時が来たか。

(あーあ。こんなはずじゃなかったんだけど、にゃあ……)

 案外、南泉は落ち着いた気分だった。

 最悪の結末が避けられそうだからかもしれない。

 南泉一文字は、猫の呪いに負けて畜生に堕するのではなく、付喪神最強の戦士として戦い抜く栄誉を手にするのだ。

「なあ……山姥切よオ」

 通信機に囁いてやる。

 はっ、と息を飲む音が答えた。

『南泉?』

 相手が耳を澄ましているのが分かる。

 思えば彼に、なんという言葉をかけるべきか、南泉はずっと考えていた。どうすれば彼の苦悩を取り除けるだろうかと。

 だがそんなことは不可能なのだ。

 これは彼が、自分で答えを見つけなければならない問題だ。

 だから、南泉が彼にかけられる言葉といえば、

「おまえさ……オレの他にも友達つくれよ」

 おそらく、これくらいなのだ。

 長義は呆気に取られたのか沈黙してしまう。その表情が目に浮かぶようで、南泉は思わず笑った。

「上っ面でやり過ごそうとするから、駄目なんだ。心配しなくても、みんなお人好しで、良いやつだからさ」

 だからひとり突っ張っていないで、仲良くしろ、と。

 そう一方的に告げると、返事を待たずに通信機を切る。は、と南泉は深く大きな息を吐いた。

 敵を睨み上げる。

「何をごちゃごちゃ話している。遺言か?」

 目鼻立ちもよく分からない異形が、怪訝そうに首を傾げた。

 相手を見据えたまま、ズボンのポケットに手を入れる。果たしてそこには、手のひらに収まるほどの機械があった。

 表面の出っ張りを、手探りで探し当てる。

「へっ。だったらどうだってんだ?」

 異形の肩がぴくりと震える。

 存外勘の鋭いやつだ、と南泉は少し感心した。だが、今ごろ気づいても遅い。

 手の中の機械を突き付ける。

「オレをけだものと言ったな。知ってるかい? 動物の霊ってのはな、そりゃもう執念深いんだぜ」

 たとえおのが身を切り裂かれようが、体を真っぷたつにされようが、決して獲物を逃しはしない。

 地獄の果てまで追いかけて、必ずや呪いをもたらす。

 決して、ただで死にはしないのだ。

「…………!」

 ようやく気づいたか、異形の太刀が顔色を変えた。

 慌てた様子で船尾を振り返る。そうして敵が仲間に何か叫ぶ前に、南泉は機械の出っ張りを押した。

 瞬間、轟音が船体を揺るがす。

 船底から突き上げるような衝撃があり、続いて左舷の横っ腹が内側から破裂した。更には大砲の火薬に引火したのか、ドンドンドン、と立て続けに爆発が起こる。

 誘爆炎上したスクリューから、煙が蒸気機関へ逆流し、甲板の煙突が勢いよく火を噴いた。

 太江丸は、一瞬で猛火に包まれた。

「ははっ。残念だったにゃあ」

 南泉は嘲笑いながら、壁をずり上がって立ち上がった。

 異形が愕然とこちらを凝視する。

「馬鹿な。いったい何を考えている? 貴様らは、歴史を守ることが使命では……」

「そんなもん、ざっくりでいいんだよ、ざっくりで」

 と、南泉は長義の受け売りで答えた。

 史実にとって重要なのは〝新撰組が仙台を脱出すること〟だ。それが太江丸だろうが他の船だろうが、大した違いではない。たとえ船が一隻二隻沈もうが、さして問題にもならない。

「大事なのは、人間さまがいつ、どう行動したのかなのさ」

 ブオン、と蒸気機関が音を立てた。

 この船のものではない。長義が――つまりは新撰組が乗っている隣の船が、両舷全速で移動を始めたのだ。おそらく太江丸はもう助からないと踏んで、出発を早めたのだろう。

 南泉はめいっぱい悪い顔を作って、敵にほほ笑みかけた。

「――なんせこれは、人間の歴史だからな」

 新撰組は、土方歳三は、五稜郭にて戦って死ぬ。

 それが彼らの生きた歴史だ。南泉たちはそれを守り切った。

 〝作戦〟は成功したのだ。

「……あああアァアッ!」

 太刀が怒号を発した。

 頬に拳がまともに入って、南泉はまた吹っ飛ばされる。

 同じように甲板に叩きつけられるが、流石にもう立ち上がる気力はなかった。それでもどうにか仰向けになり、黒煙の立ちのぼる空を見上げる。

 地獄のような光景だった。

(あー、くそ。呪い、解きたかったにゃあ……)

 あるいはこれも、因果が巡ったということなのか。

 もはや考えるのも億劫だった。

 南泉は深呼吸をすると、そのままゆっくり目を閉じた。


 花の香りがする。

 春先に咲く桜のような、あるいは秋口に咲く金木犀のような、甘い匂いが風に混じっている。

 花嵐の気配だった。

 満開の花木に突風が吹きつけ、花を舞い散らす時のそれだ。

 ついに自分もあの世へ来たか、と南泉は胸いっぱいに香りを吸い込み――

(……いや。ちょっと待て)

 おかしい、とそこで我に返った。

 刀に人間のような死後があるとは聞いたこともないが、それでも南泉が行くのは極楽ではあるまい。

 花に満ちた地獄など、聞いたこともない。

 ましてや、潮の匂いがする風が吹いているなど。

「…………!」

 目を開ける。

 まず見えたのは、夜空を埋め尽くす満点の星だった。

 否、星ではない。星はこんなに大きくない。流星であってもこんなに舞い上がったりはしない。

 これは――

『あ……そ、そうか……!』

 管狐がはっと息をのんだ。

 異形の太刀が、驚愕の表情で右舷の向こうを見やる。南泉は腕を突っ張って、どうにか上半身を起こした。

 夜空を覆い尽くし桃色に染めていたのは、無数の花だった。

 高密度の霊子エーテルで形づくられた、霊気の花びら。

 それが隣の船上から、天に逆巻く奔流となって吹き上がっているのだった。

「……山姥切?」

 その中心に立つ男の姿に、南泉は呆然とつぶやいた。

 己の霊気で風を巻き起こしながら、長義が一歩前へ踏み出す。その足元には敵の短刀の残骸が転がっていた。

 にい、と彼は凶悪な笑みを浮かべた。

「どいつもこいつも、舐めた真似をしてくれるじゃないか……」

 うわ、と南泉は思わずうめいた。

 完全に頭に血がのぼっている。彼の憤怒に呼応するように、ざあ、と花嵐が激しい音を立てた。

 これを同じ現象を、南泉は見たことがある。

 否、見たことがあるどころか、他ならぬ自分の身にも起きたことだった。いつぞや第四部隊として出陣した時、これを見た加州はこう言って南泉を祝ったものだ。

 〝特〟になったね、おめでとう――と。

「しかしまあ、待たせて悪かったな。おまえたちの――」

 ざっ、と長義が得物を大きく引いた。

 左足を前に出し、腰を落として低い姿勢を取る。花が激しく吹き荒れ、彼の髪と外套マントを揺らす。

「死が来たぞ!」

 だあん、と甲板を蹴る音がした。

 衝撃で船体が傾くほどの勢いで、長義が空中に飛び上がる。

 彼我の距離は、およそ数百メートルほど。普通に跳躍したならば、いくら刀剣男士であっても届くわけがない。

 そう、普通に、跳躍したのならば。

「なに……!?」

 敵がざわめいた。

 信じられない、という表情で、太刀が一歩後ずさる。

 長義は大きな放物線を描くと、月を背に最高点に達し、そのまま真っすぐ落下してきた。黒い革靴が、ジェット噴射のごとき霊子をまとって、きらきらと輝く。

(あいつ、いきなり使ってやがる……!)

 南泉は思わず舌を巻いた。

 〝特〟になる前と後で、決定的に違うのがこれだ。

 顕現直後は、生身の肉体に鋼の魂をなじませるため、霊力の使用に制限がかかっている。これを解放する――即ち、〝限定解除〟することを〝特〟になる、と言うわけだ。

 今の彼はまさに、本領発揮フルパワーの状態なのだった。

「――ぉおおおおああああァアアァッ!!」

 怒号とともに長義が〝弾着〟する。

 爆発炎上中の船体が、またがくんと揺れた。運悪く弾着点にいた敵が数体、あわれ衝撃でミンチになる。

 吹き上がる粉塵と黒煙、そして甲板まで広がった火炎をかき分け、彼は敢然と決然と姿を現した。

「――、…………!」

 有象無象の遡行軍が、意味の分からない叫びとともに長義へ殺到する。四方を囲まれ、逃げ場のない状態で、彼はまた腰を低く落とした体勢を取った。

 口元に凄絶せいぜつな笑みが浮かぶ。

「ぶった斬るッ!」

 目にも止まらぬ一閃だった。

 白銀の刃が風を切り、一斉に飛びかかってきた者たちの首を残らず斬り飛ばす。たちまち噴水のように吹き上がった血を、頭からかぶって、長義の姿が真っ赤に染まる。

 と――

「…………!」

 その時、南泉は心から猫の呪いに感謝した。

 あたり一面の大火災だ。木造の船が燃える臭いで、人間ならほとんど鼻が利かないだろう。

 しかし南泉に巣食う獣の呪詛は、その瞬間、ほんのわずかに漂った火薬の匂いをとらえた。

 ――異形の太刀が、古い火縄の銃口を長義に向けていた。

 させるか、と、南泉は手足を叱咤した。

 どこに残っていたのか、自分でも分からない力を振り絞り、異形の背中へ飛びかかる。

「!? き、貴様……!」

「往生際が悪いんだよ。さっさと死ね!」

 言うなり南泉は敵を抱きかかえるようにして、自分の腹ごと相手の胴を突いた。

 胃から逆流してきた血が、口の中に溢れる。

 足を踏ん張っていられなくなり、体がぐらりと傾く。

「――南泉!」

 長義が絶叫した。

 次の瞬間、南泉は船上から黒い海へと落下した。


終幕


 沈んでいく。

 何も見えない、無明の闇の中だ。

 ただ、自分の手足が、水中で浮遊するように漂っている様子だけが見える。その四肢の間を、腹に開いた穴から煙のように立ちのぼる血の筋も。

 これは今度こそ死んだな、と南泉はぼんやり確信した。

 刀なのだから〝死ぬ〟というより〝壊れる〟と言うべきなのだろうが、この場合はやはり〝死〟だろう。ただ冷たい鋼鉄が砕けるだけにしては、これはだいぶ生々しい。

 ごぼ、と空気を吐いて、目を閉じる。

(あー……こんな感じなんだにゃあ……)

 当たり前だが初めての感覚だ。

 これ自体は得がたい体験かもしれない。残念なことに、この期に及んで呪いは解けていないようだったが。

 それだけが、心残りといえば心残りだ。

「おい。ふざけるなよ」

 ――否、ひとつ嘘をついた。

 なけなしの助言を与えてやった相手が、その後どうするか、まだ見届けていなかった。

 我ながら、あれは実に至言だったと思う。

 あのせりふを聞いた瞬間、長義がどんな顔をしていたのかも見ることができなかったし、もちろん本人に感想を聞くこともできなかった。それはやはり大きな心残りだ。

 ただ、

「ふざけるな。勝手なことを言いやがって」

 想像するに、きっとこんな反応をするのではないだろうか。

 元より、南泉の言うことを素直に聞くような相手ではない。やれ、猫殺しのくせに偉そうだの、切ったもの格の差を考えろだのと、憎まれ口を叩くに違いない。

 そう、たとえばこんな――

「どうして分からないんだ。よりにもよってきみが」

 ――あれ、と南泉は違和感を覚えた。

 想像とは違う言葉が聞こえる。

 時折起こることではある。彼はたまに、南泉の予想を超えた言動や振る舞いをすることがある。

 思えば、あの時もそうだった。

(〝そんな悲しいことが、あってたまるものか〟……ねえ)

 指揮所でのやり取りを思い出す。

 あの一言を聞くまで、長義は単に自分の誇りの話をしているものと思っていた。そんな屈辱的なことがあるものか、だとか、そんなことを言うのだろう。

 けれども違った。

 南泉がひとり危険に身を晒そうとしている時、友として何の助けにもなれないのは辛すぎる――彼はそう訴えていた。

 それを理解してしまったら、南泉にはもう、彼を置いていくことはできなかったのだ。

「……ああ、そうさ。きみの言うとおり、俺は性格が悪いよ」

 その彼が、珍しく自虐をしている。

「上っ面でやり過ごそうとするだって? 当たり前じゃないか。俺の根性悪を知っているのはきみくらいなんだから」

 確かに、と南泉は今さらながら納得した。

 そうかもしれない、とは思っていた。南泉の知る山姥切と、仲間たちの語る長義には、勘違いでは説明のつかない隔たりがあったからだ。

 仲間の前で被っている猫を、彼は南泉の前で脱いでいた。

 つまり、そういうことなのだ。

「……みっともないから嫌なんだ。泣いたり笑ったりできないんだ。友達になんかなれるものか。きみの――」

 ぱた、と頬に水滴が落ちた。

 閉じたまぶたの向こう側が、いつの間にか、うっすら明るくなっていた。凍えるようだった闇の冷たさも気づけば消えて、砂のざらざらした感触が腕に感じられる。

 横たわる南泉の襟を、誰かが掴んで揺さぶった。

「きみの、他に、誰がいるんだ? こんな……」

 みっともなく裏返る声に、南泉は渋々、目を開けてやった。

 案の定、ひどい顔が視界に飛び込んでくる。

 汗と涙と、白く乾いた海水。髪はぐしゃぐしゃに乱れて悲惨な状態だった。鼻水を垂らしていないのは、長船長義の傑作としての最後の矜持だろうか。

「…………」

 その顔が、ぽかんと呆けてこちらを凝視する。

 南泉は岩のように重い腕を、渾身の力で持ち上げた。馬乗りになっているらしい、彼の頬を指で拭ってやる。

 たちまち彼の顔は砂まみれになった。

「……ははは……」

 余計に悪化した惨状に、南泉は思わず吹き出した。

 そして、なんと言ってやろうか、と考えた。

 迷うことはなかった。結局、何をどうしようが、自分たちの間にこれ以上ふさわしい言葉はないのだ。

「ばアーか……」

 やっとそれだけ口にして、南泉は今度こそ気絶した。



 本丸は、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。

 無理もなかった。政府の演習に出たと思ったら、転送装置が爆発して帰れなくなり、ようやく帰還信号を捉えたと思ったら事は全て終わっていたのだ。

 審神者は破壊寸前の南泉を見て腰を抜かし、近侍の長谷部が怒号を飛ばして仲間に指示を出した。あれよあれよという間に手入部屋へ担ぎ込まれ、嵐に出くわしたがごとくもみくちゃにされて、ようやく長義は解放された。

 当然だった。

 何しろ、長義は傷ひとつ負っていなかったからだ。

(〝特〟になると回復する、というのは本当だったんだな)

 ひとり廊下を歩きながら、そんなことを思う。

 たかが霊力のリミッターを外すだけのことが、なぜそれまで負った傷や疾病まで回復させるのか、詳しくは不明だ。政府も仕組みはよく分かっていないらしい。

 あの時はただ無我夢中で、気づけば傷も風邪も治っていた、という状況だったのだ。勢いあまって、いろいろ余計なことを口走った気もする。

(……まあ、考えても仕方がないか)

 長義はぶんぶんと頭を振った。

 忌まわしい記憶は、さっさと忘れてしまうに限る。

 思考を無理やり切り替えて、長義は手元を見おろした。

 配膳用のトレー。その上に、白米に味噌汁とかつお節をこれでもかとかけた皿が置かれている。

 いわゆる、猫飯だ。

「……ふふふ」

 相手の嫌がる顔を想像し、長義はひとりで含み笑いをした。

 否、そう嫌がることもないだろう。呪いの影響で、彼は味覚も猫のそれに引きずられがちだ。

 きっと喜ぶと思うよ、と長義がほほ笑んでやれば、料理当番の燭台切は何の疑問も抱かずこれを用意してくれた。

 簡単なことなのだ。この程度の猫かぶりは――と。

「山姥切長義。そこにいたのか」

 不意に背後から声がかかる。

 振り返れば、長谷部がこちらへ歩いてくるところだった。長義は盆を持ったまま向き直った。

「やあ。どうかしたのかな」

「〝特〟になったと聞いた。ひとまず、おめでとう、と言っておこうと思ってな」

 一瞬、言葉が出なかった。

 喉元まで出かかったものを、ぐっとこらえて飲み干し、またいつもの笑顔をまとう。

「ありがとう。遅くなってすまなかった。これからは、もっと皆の力になれるといいのだけど」

「そんなことはない。ずいぶん早い方だぞ」

 さすがは長船長義の傑作だと、皆感心していた――などと、長谷部がその努力を易々と台無しにする。

 頬が勝手ににやけようとするのを、長義は意思の力を総動員して押しとどめなければならなかった。

 本音を言えば、高笑いでもしたい気分だったが。

「……それは光栄だ。期待に応えないといけないな」

「ああ。頼りにしている」

 長谷部は満足げに頷くと、ぽんとこちらの肩を叩いた。

 ――意外だな、と長義は彼に対する認識を少し改める。

 主命絶対主義で、そのためなら仲間にも容赦しない、冷たい男だと思っていたのだ。否、長義に見えていなかっただけで、彼は元々こういう刀だったのかもしれない。

(……あいつのことを、馬鹿にできないな)

 手入部屋に転がっている男のことを考える。

 実に業腹だが、彼の言うことにも一理ある。何しろ、あの刀には〝野生の勘〟が備わっているのだ。

 長義はひっそりとため息をついた。

「長谷部。俺に用だったのは、そのことだけかな?」

 と、話題を変える。

 長谷部ははっとして顔を上げた。

「そうだった。いや、特になって回復したと聞いて……」

 そう言うと、彼は上着の内ポケットに手を入れた。

 見覚えのある帳簿が取り出される。いつも彼が難儀しながら記帳している、例の出陣記録だった。

「先日の一件の後処理に追われていてな。今週の分だけでいいから、手伝ってもらえると助かるんだが」

「ああ……」

 それでわざわざ探していたのか、と長義も理解する。

 先日の一件というのは要するに、自分と南泉が大暴れした、あの幕末への出陣のことだ。一時とはいえ時空感が分断されるほどの危機だったこともあり、近侍の彼と審神者は、方々への説明に駆り出されているようだった。

 手伝ってやるべきだろう。

 手伝ってやるべきだ。

「…………」

 長義は無言で両手を見おろした。

 盆に置かれた猫飯の上で、かつお節がふわふわ踊っている。

 彼はまだ、昼食を取っていないはずだった。

「……いや」

 相手に分からない程度に深呼吸をし、長義は頭を振った。

「すまないが、特になっても体の疲労は消えないらしくてね。まだあまり本調子ではないんだ」

 だからその、と語尾を濁す。

 だが、長谷部は皆まで言わずとも理解したようだった。はたと気づいたように目を瞬く。

「ああ、そうか。それはそうだな。すまない」

 俺の時はだいぶ前だから忘れていた、などと詫びてくる。

 だが、それだけだった。

 食い下がってくることもなく、気分を害したようなそぶりを見せることもなかった。彼はあっさりと引き下がった。

 ――なんだ、こんなものなのか、と長義は拍子抜けした。

「いや、こちらこそ、力になれなくて申し訳ない。回復したらまた声をかけてほしい」

「頼む。おまえは仕事が早くて正確だから……」

 いや、ほかの連中がいい加減すぎるんだが、と長谷部はやにわに渋面を作った。

 よく分からないが、彼には彼の苦労があるらしい。

 ふ、と長義は肩の力を抜いた。

「では、俺はこれで。夕餉ゆうげの時にまた」

「ああ、また後で」

 そういうと長谷部はきびすを返した。

 ぴんと伸びた背中が、廊下の奥に消える――かと思いきや、彼はやおら再び振り返った。

「そうだ。おまえ、戦術書に興味はあるか?」

「戦術書?」

 おうむ返しに訊ねると、ああ、と長谷部は頷いた。そうして親指で廊下の向こうを差す。

 あちらには、刀剣たちの居室が連なっているはずだった。

「俺が特になったばかりの頃に使っていたものだ。最新の軍事常識だの何だの、なかなか面白い内容だぞ」

「へえ……」

 そう言われると、俄然興味が湧いてくる。

 いわゆる名剣名刀と言われるものであればあるほど、実戦で振るわれる機会は少なくなっていく。特に刀の時代が終わり、銃や大砲が戦の主役になってからはなおさらだ。

「それは、読んでみたいかな……」

「そうするといい。俺の部屋の本棚にあるから、勝手に持っていってくれ」

 それでは、と長谷部は今度こそ背を向けた。

 廊下の向こうへ引き返していく。彼の足音が聞こえなくなるまで、長義はそちらをじっと見つめていた。

 しばし、ひとりで立ち尽くす。

「……はは」

 なぜか笑いがこみあげてきて、長義は肩を震わせた。

 猫飯を手に、足取りも軽く手入部屋を目指す。



「……なるほど。よく分からないが、分かった」

 神妙に話を聞いていた男の、それが第一声だった。

 南泉はがっくり肩を落とした。

 相手に請われたからとはいえ、軽く三十分は喋ってやったというのに、一言目がこれでは気も抜ける。

「本当に分かったのかよ?」

「分かった。……と思う。たぶん」

 いや、絶対何も分かってねえだろ――

 喉元まで出かかった言葉を、南泉はしかし飲みこんだ。

 枕元に腰を下ろした、ぼろ布の男――山姥切国広には、問い詰めても無意味と思わせる雰囲気があった。

 仕方なしにため息をつく。

(〝本歌・山姥切のことを知りたい〟……ねえ)

 部屋に入ってくるなり、彼が言い放った言葉を思い出す。

 どういう風の吹きまわしかと思ったが、相手が敵意を持っていないことはすぐに分かった。彼はただ、途方に暮れたような様子で立ち尽くしていたのだ。

 否、これに限らず、この男には常にある種の迷いがあった。

「……あいつは」

 その国広が、うつむいたまま、ふとつぶやいた。

 彼は自分の本歌のことを、山姥切とも、長義とも呼ばない。ただ、あいつ、とだけ言う。

「俺のことを憎んでいるだろうな」

 南泉は答えず、黙って相手の顔を覗きこんだ。国広は無表情のまま、親指を組んだり外したりを繰り返していた。

「〝仲直り〟したんじゃなかったのか?」

「この間の話か? ……だが、あいつは、こう……猫を被っているだろう」

 何でもないことのように答えるので、南泉は内心驚いた。

 ――信じられないことだが、長義の被った巨大な猫は、他の者たちには本当に気づかれていないようなのだ。しかし、この国広は、それを見抜いているらしい。

 難儀な連中だった。

(本歌だの写しだの、所詮人間の言うことだと思うがねえ)

 と、率直に思う。

 他の者たち、と言い換えてもよい。〝斬猫〟の公案も語っているように、白黒付けたところで意味のないことだ。

 それを指摘したところで、今の彼には響かないのだろうが。

「……ま、いいんじゃねえの。好きなだけ考えてりゃよ」

 面倒になって突き放すと、国広はまた、神妙に頷いた。

「そうだな。……そうするしかないんだろう」

 そう言って目を閉じる。

 頭から布を被った姿がそうやると、僧侶が瞑想でもしているかのようだった。彼のように無数のしがらみにとらわれた刀は、そうする他にないのだろう。

 たとえ一生、考え続けなくてはならないとしても。

「……手入れ中のところすまなかった。参考になった」

 少しの沈黙の後、国広はそんなふうに礼を述べた。

 南泉は嘆息して、再び布団に逆戻りする。

「そうかよ。そりゃあ良かったにゃあ」

「ああ。また話を聞きに来てもいいか?」

 と、ガラス玉のような双眸が見つめてきた。

 できれば止めてほしい、と正直なところ南泉は思った。

 別に彼のことが嫌いな訳ではない。無口な相手は手がかからなくて良い、とさえ思う。

 ただひとつ、彼には重大な懸念があった。

 より正確に言えば、彼らの近くにいることで必然的に生じる厄介事とでも言おうか。

 つまりは――

「やあ、猫殺しくん! 入らせてもらうよ」

 ――このふたりに挟まれた時に生じる問題、ということだ。

 返事も待たずに入り口が開き、軽やかな足取りで入ってくる刀が一振り。

 あっちゃあ、と南泉は思わず頭を抱えた。

 間の悪いことだった。

「…………」

 なぜか猫飯の盆を手にした長義と、腰を浮かしかけた国広が、しばし無言で見つめ合う。

 かと思えば、みるみるうちに、長義が険悪の形相を帯びた。それに比例して、国広の緊張もいや増していく。

 長義が傲然と顎を上げ、はっ、と笑い声を上げた。

「……やあ偽物くん。うちの南泉に何か用事かな?」

 返答如何いかんによっては切って捨てる――

 という訳ではないだろうが、それに近い殺気を叩きつけられ、国広が目を白黒させる。

 南泉は額を押さえて、はあ、と盛大なため息をついた。


(完)



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