旧制大学とは、日本において学校教育法(1947年4月1日施行)より前の学校制度における大学の全般を指す言葉である。旧制大学については、第二次世界大戦後の1947年に施行された学校教育法によって新規に設立された大学(新制大学)と対比する意味で用いられる事が多い。なお、新制大学のうち国立大学については、国立学校設置法(1949年施行、2004年廃止)によって設置された。旧制大学は、現在(1991年の大学設置基準の大網化以降)の大学の3・4年次と、大学院の修士課程(博士前期課程)や専門職学位課程などに相当すると考えられている。現在の大学の1・2年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。なお、旧制大学には旧制専門学校に相当する専門部という組織も設置されていたことがあった。
旧制大学とは、「学制、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学」である。[要出典]「第二次世界大戦終結前に成立した大学」であるという文献も存在しているが、これは正しくない。戦後、大学令によって旧制専門学校(多くは医学専門学校)が大学に昇格した例が多数存在するためである。
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日本の旧制医学専門学校
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いずれも創立当初は専門学校令に基づく医学専門学校であったが、大正期の高等教育機関拡充政策により、同時期にまず五校が医学専門学校から医科大学へ昇格し、千葉医科大学(旧:千葉医学専門学校、1923年官立移管)、金沢医科大学(旧:金沢医学専門学校、1923年官立移管)、新潟医科大学(旧:新潟医学専門学校、1922年官立移管)、岡山医科大学(旧:岡山医学専門学校、1922年官立移管)、長崎医科大学(旧:長崎医学専門学校、1923年官立移管)となった。 熊本医科大学に関しては、1922年に熊本県立熊本医科大学として一旦公立移管された。その後、1929年に国立移管され、熊本医科大学となった。
現在の動きとしては、2013年3月6日に千葉大学、金沢大学、新潟大学、岡山大学、長崎大学、熊本大学の六大学で、教育研究などの機能強化を目的とする包括協定を結び、連携コンソーシアムを設立している[1]。
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第二次世界大戦前、この2大学は日本で2つだけの文理科大学として機能していた。戦後の学制改革に伴い、それぞれに附属する高等師範学校、およびその他の学校を統合し、東京教育大学、広島大学となって、日本の教育界の総本山となった。東京教育大学は筑波大学開設にともなう移転により学部組織が解体されたため、教育界への影響力は落ちた面もあるが、広島文理科大学と広島高等師範学校の後身である広島大学文学部、理学部、教育学部は依然として西日本における教育学の総本山であり、教育界において強固な学閥を持つ。
高等師範学校に併設されたことから、学生には教育実習が必修とされた(ただし、高等師範学校からの進学者は既に実習済みのため免除)。東京・広島の両文理大間での転学は自由だった。両校ともに開校時から女子学生の正規入学を認めていた。
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なお、旧学制においては、商大(商科大学、商業大学)と呼ばれるものは以上の三校しか存在しなかった為、実質的には旧制商大といえば、旧三商大と同義となる。
現在でもこの三大学間で定期的に通称三商戦としてスポーツの交流試合三大学体育大会や、共通する学科のゼミが参加する対抗学生討論会などが開催されている。 同窓会レベルにおいても、如水会(東京商科大学)・凌霜会(神戸商業大学)は水霜談話会等を開催し交流している。 さらに2010年には、3大学間の交流を、実際の学術・教育面にも展開することを目的として、新たに教育交流協定が締結された。
名称が類似する兵庫県立の神戸商科大学(現兵庫県立大学)と私立の大阪商業大学は、第二次世界大戦後に新制大学として昇格した大学である。前者は旧制前身校である県立神戸高商の設立経緯において官立神戸高商の大学昇格と関連があるが、後者(大阪商業大学)は私立大学で、大阪商科大学(新制大阪市立大学)と直接の関連はない。
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いずれの大学も創立当初は専門学校令に基づく高等工業学校であったが、最初に大学に昇格したのは旅順工科大学である(1922年、旅順工科学堂から昇格)。続いて1929年、東京高等工業学校と大阪高等工業学校がそれぞれ東京工業大学と大阪工業大学に昇格して、「三工大」が出揃った。このうち、外地の関東州にあるという特性上から、旅順工大にのみ大学予科が設けられており、他の2大学に入学するには旧制高等学校や高等工業学校を卒業する必要があった。
その後の教育政策により、大阪工大は1933年に大阪帝国大学(1931年に府立大阪医科大学から昇格)に統合されて同工学部に改組され、旅順工大は太平洋戦争最末期の1945年9月、ソ連対日参戦の際にソ連軍に接収され、廃校となった。
以上のように、三工大の括りの中で、現在も工業大学の形を保ち続けているのは東京工大のみであるが、
1939年(昭和14年)設立 - 藤原工業大学(現・慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部。私立大学)1942年(昭和17年)設立 - 興亜工業大学(現・千葉工業大学。創設時は国策大学、現在は私立大学)1943年(昭和18年)設立 - 大阪理工科大学(現・近畿大学。私立大学)
がある。このうち、現在も工業大学の形を保ち続けているのは千葉工大のみである。
また、工学系の学部を設けて教育を行っていた戦前の総合大学は、旧帝国大学をはじめ、私立では早稲田大学理工学部(現:理工学術院)、日本大学工学部(現・理工学部)、前述の藤原工大を統合した慶應義塾大学工学部(現・理工学部)のみである。また、法制度上の関係から戦後に置かれた東海大学理工学部も旧制大学にカウントされる。
ちなみに、戦前までは日本政府が帝国大学以外に大学レベルの工学教育を認めなかったため、理工系学部を設置できた私立大学はごく僅かであり、しかも大学予科3年・本科3年の教育課程を認められたのは、早稲田大学理工学部、慶應義塾大学理工学部の前身である藤原工業大学、千葉工業大学の3校だけだった。
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明治維新直後の学問所等と大学設置計画
明治政府による欧米諸国と同等水準の最高学府である大学創設計画は、まず京都で国学中心に始められた。その後、政治の中心が東京に移るとともに東京で洋学中心に展開された。[1]
また、全国各地で藩校や私塾などを近代的な教育機関として改革する動きが広がっていた。これらのあるものは、後に設立される旧制大学へと繋がっていくことになる。
1868年
4月4日 - 明治政府直轄の高等教育機関として以下の機関を復興
京都学習院
以下の閉鎖された江戸幕府の学問所を復興
昌平坂学問所→昌平学校
医学所→医学校
開成所→開成学校
以下の機関を改称
京都学習院→大学寮代
以下の機関を分割
大学寮代→皇学所+漢学所
1869年
以下の機関を統合
昌平学校+医学校+開成学校→大学校
旧昌平学校を本校、旧医学校・開成学校を分局とする
1870年
以下の機関を統合
皇学所+漢学所→大学校代
以下の組織を改称
大学校→大学(この「大学」は固有名詞であり、学位を授与する高等教育機関である旧制大学を指しているわけではないことに注意)
大学校分局(旧医学校)→大学東校
大学校分局(旧開成学校)→大学南校
以下の機関が閉鎖、独立
大学本校→閉鎖
大学東校→独立
大学南校→独立
以下の機関を京都府へ移管
大学校代
以下の機関が大阪府より大学(後の文部省)へ移管
大阪洋学校
大阪舎密局
大阪府医学校病院(大阪医学校と改称)
以下の組織が改称
大阪舎密局→大阪理学校
以下の組織が統合
大阪洋学校+大阪理学校→大阪開成所
1871年
文部省の設置
以下の機関が廃止、改称
大学→廃止
大学東校→東校
大学南校→南校
工部省に以下の機関を設置
工学寮
以下の機関が長崎府より文部省へ移管
長崎広運館(旧・英語伝習所→洋学所→語学所→済美館→広運館)
長崎府医学校(長崎医学校と改称)
学制
学制施行により、大学と専門学校(医学校や法律学校、外国語学校、農学校など)が高等教育機関として卒業者に学士号の学位を授与できることとなった。学制における専門学校とは、旧制専門学校とは異なるものである。
1872年の学制施行直後は、最高学府は専門学校である医学校(高等教育機関)と中学(中等教育機関)であった。最高学府として大学(高等教育機関)がすぐに設立されなかった理由は、学制は主に小学校(初等教育機関)の普及に力を入れていたため、高等教育の水準が欧米諸国に追いつくには時間を要したためである。[2]
1877年末の時点で、大学は東京大学1校、官公立の専門学校は18校、私立の専門学校は34校であった。
1872年
9月5日 - 学制公布により、以下の医学校と中学が設立
東校→第一大学区医学校
南校→第一大学区第一番中学
大阪開成所→第四大学区第一番中学
長崎広運館→第六大学区第一番中学
次いで
大阪医学校→第四大学区医学校
長崎医学校→第六大学区医学校
東京の洋学第一校→第一大学区第二番中学
以下の専門学校が廃止
第四大学区医学校
1873年
学制改正(第三大学区と第四大学区が統合、以下番号繰り上がり)
第四大学区第一番中学→第三大学区第一番中学
第六大学区第一番中学→第五大学区第一番中学
第六大学区医学校→第五大学区医学校
以下の中学が専門学校へ昇格
第一大学区第一番中学→開成学校
第三大学区第一番中学→開明学校
第五大学区第一番中学→広運学校
以下の専門学校が改称
開成学校→東京開成学校
1874年
以下の専門学校が改称
第一大学区医学校→東京医学校
第五大学区医学校→長崎医学校
開明学校→大阪外国語学校→大阪英語学校
広運学校→長崎外国語学校→長崎英語学校
以下の専門学校が廃止
長崎医学校(→1876年 長崎病院医学場として復活、現・長崎大学医学部)
1876年
以下の機関が工部寮の附属として設立
工部美術学校
1877年
以下の専門学校が合併し、大学へ昇格
東京医学校+東京開成学校→(旧)東京大学
以下の専門学校が合併
工学寮+工部美術学校→工部大学校(1886年、帝国大学に吸収合併)
12月 - 以下の専門学校が廃止
長崎英語学校
1879年
4月 - 以下の専門学校が改称
大阪英語学校→大阪専門学校(→1880年 官立大阪中学校→1885年 大学分校→1886年 第三高等中学校→1894年 第三高等学校)
9月29日 - 教育令公布により、学制廃止
教育令
1879年〜1886年
地方官(府県長官)に与えられた権限を縮小し学区制を廃止
帝国大学令
帝国大学令の施行により、大学令による公立および私立大学の設立までは、学位を授与できる機関は原則として帝国大学のみに限られることとなった。ただし札幌農学校の本科に関しては、これ以降も例外的に農学士の授与が認められた[3]。
1886年
帝国大学(後に東京帝国大学と名称を変更、東京大学)
1897年
京都帝国大学(京都大学)
1907年
東北帝国大学(東北大学)
1911年
九州帝国大学(九州大学)
1918年
北海道帝国大学(北海道大学)
1924年
京城帝国大学(終戦直後に廃校、後にソウル大学校へと転用)[4]
1928年
台北帝国大学(国立台湾大学)
1931年
大阪帝国大学(大阪大学)
1939年
名古屋帝国大学(名古屋大学)
大学令
大学令により、これまでの旧制専門学校が公立私立の旧制大学へと移行し、学位の授与を行うことができるようになった。
以下の年月日は、官立大学の場合は勅令の制定日、公立大学・私立大学の場合は認可日である(ただし、日本国憲法施行後に昇格した官立医科大学の場合のみ、政令の制定日である)。出典は、いずれも当時の『官報』。
* 印が付いているのは、予科を置かなかった大学である(ただし、府立大阪医大・県立愛知医大・県立熊本医大は後の官立移管時に予科を廃止し、反対に神戸商大は1940年から学制改革まで予科を設置した)。
両大戦間期
1919年
11月22日[5] - 府立大阪医科大学(最初の旧制公立大学、1931年官立移管し、大阪帝国大学へ昇格)
1920年
2月5日[6]
慶應義塾大学
早稲田大学(共に私立大学として最初の認可)
3月31日[7] - 東京商科大学(1944年東京産業大学に改称、1947年に復称を経て現・一橋大学)
4月15日[8]
明治大学
法政大学
中央大学
日本大学
國學院大學
同志社大学
6月18日[9] - 県立愛知医科大学(1931年名古屋医科大学として官立移管の後、名古屋帝国大学に昇格)
1921年
10月19日[10]
東京慈恵会医科大学
京都府立医科大学
1922年
3月31日[11]
新潟医科大学* (現・新潟大学)
岡山医科大学* (現・岡山大学)
旅順工科大学(終戦時廃校)
満洲医科大学(現・中国医科大学)
5月20日[12]
龍谷大学
大谷大学
5月25日[13]
県立熊本医科大学(1929年官立移管を経て現・熊本大学)
専修大学
立教大学
6月5日[14]
立命館大学
関西大学
東洋協会大学(現・拓殖大学、戦後一時期「紅陵大学」に改称)
1923年
3月30日[15]
千葉医科大学* (現・千葉大学)
金沢医科大学* (現・金沢大学)
長崎医科大学* (現・長崎大学)
1924年
5月17日[16] - 立正大学
1925年
3月30日[17] - 駒澤大学
5月18日[18] - 東京農業大学
1926年
2月25日[19] - 日本医科大学
4月2日[20] - 高野山大学
4月5日[21] - 大正大学
1928年
3月23日[22] - 大阪商科大学(現・大阪市立大学)
4月2日[23] - 東洋大学
5月10日[24] - 上智大学
1929年
4月1日[25]
東京工業大学*
大阪工業大学* (1933年大阪帝国大学に吸収合併)
東京文理科大学 * (東京教育大学を経て現・筑波大学)
広島文理科大学* (現・広島大学)
神戸商業大学* (神戸経済大学を経て現・神戸大学)
1932年
3月7日[26] - 関西学院大学
第二次世界大戦開始後
1939年
5月26日[27] - 藤原工業大学(1944年慶應義塾大学に統合)
12月28日[28] - 東亜同文書院大学(終戦時廃校→実質的な後身校として愛知大学を建学)
1940年
4月23日[29] - 神宮皇學館大学(文部省所管の官立大学で終戦直後に廃校となった後、私立の皇學館大学として再興)
太平洋(大東亜)戦争中
1942年
5月15日[30] - 興亜工業大学(現・千葉工業大学)
1943年
3月12日[31] - 大阪理工科大学(現・近畿大学)
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