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伽婢子 おとぎぼうこ

江户时代,浅井了意所著假名草子。寛文6年(1666年)出版、全13卷。 它是一部神仙奇异谭的集合,是江户初期编纂的许多同类书籍的先驱,也被称为御伽婢子。题名伽婢子,是一种幼儿用的布制人偶(這子人形),被认为有着辟邪,祈求健康成长的效果,在原书第三卷「牡丹灯籠」的故事中也是一个重要道具。直接译自中国书籍的《奇異雑談集》、林罗山的《怪談全書》虽然是先行研究,但出版时间都比伽婢子更晚。书中的每一个故事都是由中国的怪谈(如《剪灯余话》)改编而成,比如第三卷《夫差见妻梦》中所记载的便是《夢遊録》中的张生所做的汉诗。但背景和人名都挪至日本室町和成国时期,参考了『後太平記』『信長公記』『甲陽軍鑑』等资料改编而成。

伽婢子·狗張子

狗張子 いぬはりこ

伽婢子的续篇,浅井了意编纂的假名草子。浅井从元禄3年开始书写,创作了长达7卷共45篇的文本,当他去世时手稿处于未完成状态。 遗稿由京都的林久兵卫书店在元禄5年出版。和《伽婢子》一样,本书取材于中国志怪小说集,舞台调整为日本室町或战国时代大名家臣的故事,比如今川家(第二卷·交野忠次郎)和武田家(第六卷·板垣信形)。

▣浅井了意 (1612-1691)

日本江户时代前期的净土宗僧侣及仮名草子作家,出生于京都,本名不详。号松云、瓢水子、羊岐斋。父亲为京都东本愿寺末寺本照寺院的住持。

稲生物怪禄 いのうもののけろく

稻生正令将亲身经历的怪异事件汇编而成的物语。版本众多,其一是稻生在广岛藩的同僚柏生甫用第三人称写下的 『柏本』。其二是稻生成年后亲自写下的第一人称作品《三次実録物語》。其三是日本学者平田篤胤根据柏本和絵本编撰的『平田本』。江戸寛延2年(1749年)夏天,备后国三次藩的16岁的武士之子平太郎,偶然发现自己正处于一种奇怪的现象之中。5月,平太郎和居住在邻家的相扑选手権八比试勇气,爬上了据说有灵异现象的比熊山。 7月1日午夜,平太郎被一只巨大的怪物袭击,此后的一个月内每日都会被物怪所扰。 在当月的最后一个夜晚,自称山本五郎左衛門的「魔王」以武士的形态出现在他的面前,与其密谈之后,率领着一大群怪物离开了。根据传承的不同,有些故事的主轴被删除了(三次·寛延2年·16岁),有的将结局改为魔王离开时把棒槌交给平太郎等等。 由于故事之离奇,江户后期的国学者平田篤胤将此书广为传播。 明治以来,泉镜花的《草迷宮》、稲垣足穂的《山ン本五郎左衛門只今退散仕る》、折口信夫都提及本作。21世紀以来,民俗学家谷川健一,荒俣弘、京极夏彦、水木茂也曾在作品中提及。还衍生出以三次为背景的《朝霧之巫女》这样的动漫作品。稻生的墓地位于广岛市那珂区本庄寺,其后人至今仍居住在广岛,稻生家还传承有一本写有「弘化元年、供奉于国前寺」的『三次実録物語』、而真正应供奉于国前寺的原本反而失踪了。

稲生物怪禄

画図百鬼夜行 がずひゃっきやこう

安永5年(1776年)发行的鸟山石燕的妖怪图鉴。分为前篇阴·前篇阳·前篇风的上·中·下3卷,但无后篇。本书的特征是将妖怪个别描绘。除了河童天狗这样有名的妖怪外,还有铁鼠、黑塚这些1686年『古今百物語評判』中出现的妖怪。本作将幽灵、生灵、亡灵分别以不同的构图进行描绘。很多妖怪还参考了石燕的画卷,如『化物づくし』『百怪図巻』等,这和他向狩野派学习绘画等也有很深的关系。如今,《画图百鬼夜行》《今昔画图续百鬼》《今昔百鬼拾遗》《百器徒然袋》这四部作品统称为“画图百鬼夜行系列”。1780年,石燕的门人志水燕十所著的洒落本『大通俗一騎夜行』是受该作影响最深的作品之一。在鸟山石燕的作品也对同时代的狂歌师和剧作家等文化带去了深远影响。

画図百鬼夜行

絵本百物語 えほんひゃくものがたり

天保12年(1841)发行的奇谈集。作者自称桃山人,实为江户后期的剧作家桃园三千麿。插画出自竹原春泉斋。在纯墨线绘图的众多江户妖怪绘本中,本书以多色印刷而闻名。《桃山人夜话》的书名也为人所知,其中每卷的开头都写着“桃山人夜话卷第(数字)”。风俗史学家江马务(《日本妖怪变化史》1923年)和民俗学者藤泽卫彦将本书以《桃山人夜话》的名字进行介绍,在杂志上刊登图画照片的时候也会使用,所以这本书的名字就很有名了。昭和以后,特别是进入平成以后,和本书一样作为江户时代的妖怪画而广为人知的鸟山石燕的《画图百鬼夜行》并称的情况比较多,也有人认为这是一本意识到“画图百鬼夜行”的造本,要说起来,这是一幅具有记号性的石燕画春泉斋的作画也被评价为具有跃动感和临场感。

『桃山人夜話』の書名でも知られているが、これは内題として各巻の冒頭に「桃山人夜話 巻第(数字)」と記されているものである。風俗史学者・江馬務(『日本妖怪変化史』1923年)や民俗学者・藤沢衛彦が本書を『桃山人夜話』の名で紹介しており、雑誌などに図版写真が掲載される際にも用いられることによって、この書名が有名になったものと考えられている。昭和以降、特に平成に入ってからは本書と同じく江戸時代の妖怪画として知られる鳥山石燕の『画図百鬼夜行』とは並び称されることが多く、『画図百鬼夜行』を意識した造本との説もあるが、どちらかといえば記号的といえる石燕の画に対し、春泉斎による作画は躍動感や臨場感があるのが特徴とも評されている。

  • 第一 白蔵主    「白蔵主一事、化作狂言演目广为人知、故此略去不表」

  • 第二 飛縁魔    「飛縁魔縁障女、凭依人身、食男人之精血,红颜可畏」

  • 第三 狐者異    「生前藐视法纪,死后屡以妖魔形现身,扰乱佛法世法」

  • 第四 塩之長司 「加贺国长次郎啖马肉、马魂入口作祟,此事古来传之」

  • 第五 磯撫        「西海有怪形似鱣鱼、卷尾钩船如轻抚、捕食落海之人」

  • 第六 死神        「死神引诱之人必将意外身亡,自杀、上吊等皆为此类」

  • 第七 野宿火     「春花见秋枫狩后,于无人之地燃起,非狐火或丛原火」

  • 第八 寝肥        「古时一美女,寝时体型膨胀可以充满房间,鼾声如车」

  • 第九 周防大蟆 「在周防国的深山里,有一只老蛤蟆,每天都在捕食蛇」

  • 第十 豆狸        「据说在下着小雨的夜晚,豆狸扛着阴囊出去买下酒菜」

  • 第十一 山地乳 「陸奥传闻、遭此怪吸鼾声敲胸者必死,若醒来则长寿」

  • 第十二 柳女    「有一女抱子途径柳树,柳枝缠脖而死,此后夜夜哀怨」

  • 第十三 老人火 「木曾深山有老人着火,水浸不消,唯有兽皮可以扑灭」

  • 第十四 手洗鬼 「讃州高松到丸亀入海口间有山高达三里,皮可以扑灭」

从讃岐国的高松到丸龟有入江,有人从中穿过三里山洗手。我不知道名字叫什么。只是讃岐的手洗鬼

「讃州高松到丸亀入海口间有山高达三里をまたげて手をあらふものあるよし名はいかがにや知らずただ讃岐の手あらひ鬼といふ」(讃岐の国の高松から丸亀に入江があり、そこをはさんで三里にある山々をまたいで手を洗うものがいるという。名前を何というのかは知らない。ただ讃岐の手洗鬼という)

  • 2-6(第十五 出世螺)出世ほら(しゅっせほら)

本文には山と里と海にそれぞれ三千年住みついてに出世してゆく法螺貝であると記されている。

  • 2-7(第十六 旧鼠)旧鼠(きゅうそ)

本文には大和の国の志貴にいた猫を食べるという三毛の鼠の話を記している。また、出羽の国にあったという子猫が旧鼠(ふるきねずみ)の乳をのんで育ったという話を最後に載せている。

  • 2-8(第十七 二口女)

「まま子をにくみて食物をあたえずして殺しければ継母の子産れしより首筋の上にも口ありて食をくはんといふをのはしとなりて食物をあたへまた何日もあたへずなどしてくるしめるとなんおそれつつしむべきはまま母のそねみなり」(継子を憎んで食べ物を与えずに殺してしまった継母がいたが、その女が子を産んだとき、女の首筋の上には「物を食いたい」と言う口が生まれた。女の髪は毛先が蛇に変わって首筋の口に食べ物を運び与えるようになった一方で、首筋の口に何日も食べ物を与えないことで女を苦しめるようにもなった。怖れ慎むべきは継母の嫉みそねみというものよ)

「ある貧人の死したるをすべきやうなければつづらに入(いれ)て捨(すて)たりしに骨と皮とおのづから別(わかれ)て白骨つづらを破りておどりくるひしとぞ」(ある貧しい人が死んでしまったのを、しかたなく葛籠つづらに入れて捨ててしまったところが、死体の骨と皮がおのずから分かれて、白骨が葛籠を破って外に飛び出し踊り狂ったという)

本文には鎌倉時代に戸根八郎(とねのはちろう)という武士が死んだ家来の遺体を負櫃(おいびつ)に詰めて由比の海に捨てたのちに、その家来の骸骨が起こした不思議な因縁話を記している。

  • 3-1(第十九 葛の葉)葛の葉(くずのは),

「信田杜のくずの葉のことは稚児までも知る事なればここにいわず」(信田の森の葛の葉のはなしは幼い子供たちも知っているはなしなのでここには言わない)

  • 3-2(第二十 芝右衛門狸)芝右衛門狸(しばえもんたぬき)

淡路国に芝右衛門といへる古狸(ふるだぬき)あり竹田出雲(たけだいづも)芝居興行せし折から見物に来(きた)りてに食はれ死(しに)たり然れ共廿三日が間は姿をあらはさざりしとなり」(淡路の国に芝右衛門という古狸がいた。竹田出雲の芝居興行を見に行ったところ、犬に食われて死んでしまった。ところが、二十三日もの間、狸の姿に戻らないままでいたというのだ)

  • 3-3(第二十一 波山)波山(ばさん)

「深薮(ふかやぶ)のうちに生じ常に口より火を吐(はき)て夜々(よよ)飛行(ひげう)すとぞ」(深いの中に生じて、常に口から火を吐いていて、夜な夜な飛んでいるという)

本文では婆娑々々(ばさばさ)とも呼ばれるとのことが記されている。

檀林皇后(だんりんくわうごう)の御尊骸を捨(すて)し故にや今こそ折ふしごとに女の死がい見へて犬烏などのくらうさまの見ゆるとぞいぶかしき事になん」(檀林皇后の御遺体を捨て置いた場所であるせいであろうか、今はときどき女の死骸が見えたりそれを犬や鳥が食い荒らす様子が見えたりすることがあるというが、いぶかしい事である)

「或人(あるひと)古き(やしろ)の前を通りしにうつらかなる女の伏拝(ふしおがみ)み居たれば戯(たわふ)れ云(いひ)て過()すぎんとせしに彼(かの)女の振(ふり)むきたる顔を見れば目鼻なく口計(ばか)り大きくてげらげらと笑ひしかほ二目(ふため)と見るべきやうもなし」(ある人が古い社の前を通った時、美しい女が伏して拝んでいたので、少しからかってやろうと近寄ったところ、女は振り向いたのだが、見ればその顔には目鼻が無く、口だけがやけに大きくてゲラゲラと笑った顔は、二度と見られるようなものではなかった)

  • 3-6(第二十四 赤ゑいの魚)赤ゑいの魚(あかえいのうお)

「この魚(うを)その身の尺(たけ)三里に余れり背に砂たまればをとさんと海上にうかべり其時(そのとき)船人(ふなびと)島なりと思ひ舟を寄(よす)れば水底(すいてい)にしずめり然る時は浪あらくして船是が為に破らる大海に多し」(この魚は体の大きさは3里(約12km)以上もある。背中に砂がたまるとそれを落とそうとして海上に浮かんでくる。その時に海上にいる船のりたちはこれを島と思って舟を寄せたりするがすると魚は沈んで行ってしまう。そのときには浪が荒くなりこれによって船は壊されてしまう。大海に多くある)

  • 3-7(第二十五 船幽霊)船幽霊(ふなゆうれい)

「西海にいづるよし平家一門の死霊のなす所となんいひつたふ」(西海に出るという。平家一門の死霊たちが起こすものであると言い伝えられている)

「遺言(ゆいごん)を得いわずまたは飢渇して死せし者は迷い出(いで)て水を乞(こひ)物悲しげに泣さけぶ事ぞあさましき」(遺言を言えなかったり、または飢えや渇きで死んだ者は迷って出て水を欲しがったり、ものがなしげに泣き叫んだりするという。あさましいことである)

  • 4-1(第二十七 手負蛇)手負蛇(ておいへび)

「蛇を半(なかば)殺して捨置(すておき)しかば其夜来(きた)りて仇(あだ)をなさんとせしかども蚊帳(かちやう)をたれたりしかば入(いる)事を得ず翌日蚊帳(かや)の廻り紅(くれなゐ)の血しほしただりたるがあのづから文字のかたちをなしてあだむくひてんとぞ書(かき)たり」(蛇を半殺しにして捨て置いておいていたらその日の夜にやって来て復讐にやって来た、しかし寝室には蚊帳がつられていたので蛇は入って行くことが出来なかった。翌日蚊帳のまわりには赤い血がしたたり落ちており、それが文字のようなかたちになっていた。「仇を報いてやる」と書かれていた)

「此(この)鷺(さぎ)五位のくらゐをさづかりし故にや夜は光りありてあたりを照せり」(このゴイサギ)は、五位のを授かっているからだろうか、夜になると光って辺りを照らすのだ)

「かさねが死霊(しりやう)のことは世の人のしるところ也」(累という死霊の話は、世の中の誰もが知っているものだよね)

  • 4-4(第三十 於菊虫)お菊むし(おきくむし)

皿屋敷のことは犬うつ童(わらべ)だも知れればここにいはず」(皿屋敷のことは、犬を叩いて追いかけまわすような子供でも知っているから、ここでは語らない)

  • 4-5(第三十一 野鉄炮)野鉄ぽう(のでっぽう)

「北国(ほつこく)の深山(しんざん)に居る獣なり人を見かけ蝙蝠(かふほり)のごとき物を吹出(ふきいだ)し目口をふさぎて息を止(とど)め人をとり食(くら)ふとなり」(北国の深い山奥にいるという獣で、人を見かけるとコウモリのようなものを吹き出して来てそれで人の目や口をふさいで呼吸を止めてしまい、その人を取って食ってしまうのである)

  • 4-6(第三十二 天火)天火(てんか)

「またぶらり火(び)といふ地より三十余は魔道(まだう)にてさまざまの悪鬼(あくき)ありてわざわひをなせり」(ぶらり火ともいう。地上から30〈約55メートル〉あまりは魔道で、様々な悪鬼が棲んでいて災いをもたらすのだ)

「きつねの挑灯(ちやうちん)の火をとり臘燭(らうそく)を食(くら)ふこと今もままある事になん」(提灯の明かりをとって蝋燭を食べてしまうことは今もよくあることである)

  • 4-8(第三十四 鬼熊)鬼熊(おにくま)

本文には木曽で年をへたを「おにくま」と呼ぶといったことが記されている。牛や馬を食べてしまったり、猿をてのひらで軽く押しつぶしてしまったりするという。力が強く、鬼熊が動かしたという鬼熊石と呼ばれる岩は10人もの人間をもってしても動かすことは出来ないといったことも載せられている。

  • 4-9(第三十五 かみなり)神なり(かみなり)

本文には下野の国雷獣のこと、それを狩りとることが「かみなり狩り」と称されてたことが記されている。

山寺小僧谷川に行てあづきを洗ひ居たりしを同宿の坊主意趣ありて谷川へつき落しけるが岩にうたれて死したりそれよりして彼(かの)小僧の霊魂おりおり出て小豆をあらひ泣(なき)つ笑ひつなす事になんありし」(山寺の小僧が谷川に行って小豆を洗っていたところ、同じ宿坊修行するが来て、意趣のあったその小僧を谷川へ突き落とした。小僧は岩に叩きつけられて死んでしまったが、それ以来、小僧の霊はときどき現れ出て、泣いたり笑ったりしながら小豆を洗っているということだ)

  • 5-2(第三十七 山男)山おのこ(やまおのこ)

「深山にはまま有者也背の高さ二斗りにて其形のごとし山賤(やまがつ)など是に逢て逃ればあやまちあり頼む時はを負て麓までおくれりこれ其力ぢまんとぞ」(深い山にはよくいる者だ。背の高さは2ほどで、その姿かたちは鬼のようだ。山仕事をする者たちがこれに遭遇して逃げるときには間違いが起こる。頼りにした時は柴を背負って麓まで送ってくれる。これは山男がその力を自慢したいからだ)

  • 5-3(第三十八 恙虫)恙むし(つつがむし)

「むかしつつが虫といふむし出て人をさし殺しけるとぞされば今の世もさはりなき事をつつがなしといへり下学集などにも見ゆ」(昔は恙虫という虫が出て刺されて人が殺されたりしていたという。であるから今も息災なことを「つつがなし」(無恙)という、これは『下学集』などにも見える説である)

  • 5-4(第三十九 風の神)風の神(かぜのかみ)

「風にのりて所々をありき人を見れば口より黄なるかぜを吹かくる其かぜにあたればかならず疫傷寒をわづらふ事とぞ」(風に乗って様々な所を歩き、人を見れば口から黄色い風を吹きかける。その風に当たれば必ず流行り病や傷寒を患うことになるということだ)

  • 5-5(第四十 鍛冶媼)「土佐省野根村,有一个铁匠的妻子被狼吞噬、死后灵魂就转移到了狼的身上,开始在一个叫飛石的地方吃人。」

本文では、野根助四郎国延(のねのすけしろうくにのぶ)という刀工の流れを組む野根重国の女房が狼に喰い殺されてしまい、人を襲うようになったという話が書かれている。逸作(いつさく)という郷士が白い毛の狼を退治したところ、重国の女房の幽霊は出なくなったという。

  • 5-6(第四十一 柳婆)「柳之古木容易成精,自古以来发生过很多灵异事件」

  • 5-7(第四十二 桂男)「据说望月时长过久,就会看到桂男向人招手,缩短寿命」

  • 5-8(第四十三 夜の楽屋)夜楽屋(よるのがくや)

浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』に用いられる高師直塩冶高貞の人形が夜間に争っていたという話[14]

昭和以降の妖怪図鑑や事典などでは「人形の霊」の名で紹介されている[15]

  • 5-9(第四十四 舞首)舞くび(まいくび)

「三人の博徒(ばくと)勝負のいさかひより事おこりて公にとらはれ皆死罪になりて死がいを海にながしけるに三人が首ひとところによりて口より炎をはきつけたがひにいさかふを昼夜やむことなし」(博打をしていた3人の博徒は激しく争ったことで公儀に囚われ、みな死罪となったが、その遺体を海に流したところ、3人の首は一箇所に集まり、口から炎を吐きながら諍いつづけており、それは昼夜終わり無く続いている)

絵本百物語

絵本小夜時雨 えほんさよしぐれ

江户时代的速水春暁斎所作,1801年(享和元年)刊行,共5卷。作品取材自『太平記』『平家物語』『武将感状記』等军记物語或武士行状记、『今昔物語集』『翁草』等故事集,收录了神佛显灵、武士退治妖怪、遭遇亡灵、奇妙仙人、使用幻术的忍者等各地奇谭。作品中时代也有所改编,比如以《今昔》第27卷「東人宿川原院被取妻語」为题材创作的「山室氏鬼の為に妾を拘」中、主人公被改编为赤松則祐的家臣・山室鬼八郎。故事「春日氏の妻」中,描述了武田信玄的家臣・擅长忍术的小坂甚六、被守护春日刑部大輔的妻子的金色老鼠发出的光辉所封印的模样。

絵本小夜時雨

異魔話武可誌 いまはむかし

 1790年由须原屋茂兵卫出版,浮世绘画师胜川春英、胜川春章等人插画的妖怪读本,传书甚少。大英博物馆藏书上有若井兼三郎(日本美术品出口商·起立工商会社副社长)的印章。1802年由文荣堂的三崎屋清吉出版的读本『列国怪谈闻书帖』,就是一部借用《异魔话武可志》的版木,加上十返舍一九的文章的再编作品。

姫国山海録 きこくせんがいろく

江戸时代的肉筆本,"姬国"是日本的代称之一。翻译过来即"日本的山海经"。本书模仿山海经的写法,记载了日本各地的山川奇物、妖兽灵怪,且所有正文都配有彩绘。作者详情不明,唯有最后一页记载"南谷老师山海录终"这样的文字。从正文以汉文书写、并引用了汉文的《和汉三才图会》来看,作者被推测是颇有闲情雅致的知识分子。根据序言记载,本书写于宝历十二年五月(1762年)、是对某人近30年的研究进行取舍考证并执笔而成的。有些学者认为,该书与《津轻篇览日记》中的一些描述有相似之处。但其写法破像是生物文献,记载了怪异出没的地域名、体色、尺寸等生态、被目击的年月日等信息。只是信息的记载基准各不相同,也有很多没记载年月日的项目。记载的年月日为延享年间到宝历年间,恰巧序言中的"三十年"一致。序文中附有假名和训读的标点,但正文中没有句号,只有寥寥几个假名标注。只有"灵蝶虫"的一条记载中,藐视虫害的和歌用带有平假名的和文所书写。

姫国山海録

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皇室に姓はあるのか

1.万邦無比
 神話の時代から一つの皇統が続く我が国では、『万世一系、皇統連綿』の思想に基づいて、姓を持たないことで特別な地位を確保してきたのである。天皇、親王、諸王が支配する側で、姓を与えられる側が支配される側とされた。たとえば、平安時代の歴史書『大鏡』に、退位させられた陽成天皇の後継者に左大臣源融が皇位につきたいと主張したが、藤原基経は一旦姓をもらって臣下になった以上は位につけない、と言ってその主張を退けたとある。

2.皇室の姓は「倭」か
 『宋書』文帝紀元嘉二十八年の条には、
「秋七月甲辰、安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。」(秋七月甲辰、安東将軍倭国王倭濟、安東大将軍に進号す。)
との記述があり、倭王である倭濟とあることから倭王の姓は「倭」であることが確認できる。この様な例は他にもあり、百済王の「餘」姓は夫餘族の略、高句麗王の「高」姓は国名にちなむものと推定されている。しかし、ワカタケル大王(倭王武)の名を刻んだ稲荷山鉄剣には、主人公ヲワケ臣の氏の名はない。当時の豪族はまだ氏の名を世襲していなかったのであろうか。

3.倭人には元来「姓」がない
 我々はなにげなく、氏族の名前と個人名を連称する習慣は世界中で発生したと思っているが、「姓=氏族の名」と個人名とを連称する制度は古代中国と古代ローマで発生し波及したものだそうである。朝鮮諸国や倭など東アジアの国々は中国との交渉のなかで中国の「姓」の制度を継受したのである。倭王武の朝貢を最後に、一世紀あまりの間、中国王朝へ朝貢を行わず冊封も受けなくなった。西暦600年、倭は随に使節を派遣した。
 『隋書』列傳・東夷・倭國に、
「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩?彌、遣使詣闕。」(開皇二十年(600年)、倭王あり。姓は阿毎(アメ「天」)、字は多利思比孤(タリシホコ「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王」)と号す。使を遣わして闕(みかど)に詣る。」
『新唐書』列傳・東夷・日本には、
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲凡三十二世、皆以尊為號、居筑紫城。」(その王の姓は阿毎氏。みずから言う。初主は天の御中主と号す。彦瀲にいたるおよそ三十二世。みな尊をもって号とし、築紫城に居る。)

とあり、倭王の姓を「アメ=天」であると伝えている。
 以上のことから、天皇が姓を持たないことについては、以下のような説明が可能である。

 元来、我が国では、中国以外の東アジア諸国と同様に氏族の名と個人名を連称する制度や習慣は存在しなかった。それどころか、中小の豪族や庶民には氏族の名すら存在していなかったのかも知れない。しかし、中国の冊封体制下に入るためには姓を名乗る必要があった。そこで「倭国」にちなんで姓を「倭」とした。しかし、遣隋使の派遣以後、倭は朝貢はしても終始一貫して冊封を受けようとはしなかった。よって冊封用の姓を名乗ることもなかったが、姓を持たないことを不審に思った中国側から質問されて、苦し紛れに「姓はアメである」と答えたりした。一方で中国との交通のなかで姓の制度は国内に広がっていった。天皇は自らは姓を持たず、氏の名と姓(かばね=身分と職制を表す)を臣下に与えるという制度はここから生じた。蝦夷、隼人や大陸からの渡来人は、倭風の氏姓をもらうことによって朝廷の支配下に組み入れられた。氏の名や姓(かばね)を与えることは天皇の権限であり、逆に氏姓を名乗ることは天皇支配を受け入れることを意味していたのである。

4.皇室は太伯の末裔か
 平安時代の『日本書紀私記』に日本書紀の講義のなかで、「この国が姫氏とよばれるのはどうしてか?」と言う問いに対して、講師が「始祖の天照大神 が女神、神功皇后が女帝だったから」との問答が記録されているそうである。周や呉の姓は「姫」氏である。呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていた。「倭人」を太伯の裔とする説は、『魏志』「倭人伝」より早く成立し魏志の母体とされる『魏略』の逸文、および『晋書』『梁書』に見られる。『晋書』记载如下「男子無大小、悉黥面文身,自謂太伯之後」。『梁書』记载如下「倭者、自云太伯之後,俗皆文身」。


 倭人達は、魏に対して「我々は太伯の苗裔すなわち姫氏である」と主張していたのであろう。『晋書』などを読んでいた日本の知識人は、『日本書紀』(720年完成)の成立以前から「天皇姫氏説=太伯末裔説」を知っていたと思われる。そこで、『日本書紀』には採用されていないものの、上記のような問答があったのであろうか。おそらく後世の仮託であろうが、梁の武帝(在位502-549)の尊信を受けた禅僧・宝志(418-514)が日本のことを予言したとされる「野馬台詩」なるものがある。周王室(姫姓)の流れをくむ東海の国は百代にわたって栄えるであろう。しかし、戦乱の世に入るや、皇室は絶え、かつての大臣、内実は猿や犬のような輩が国を奪って相争う。その結果、国中ことごとく焼土となり、あとかたもなく滅びてしまうであろう。

東海姫氏國 百世代天工 右司爲輔翼 衡主建元功
初興治法事 終成祭祖宗 本枝周天壤 君臣定始終
谷塡田孫走 魚膾生羽翔 葛後干戈動 中微子孫昌
白龍游失水 窘急寄故城 黄鷄代人食 黑鼠喰牛腸
丹水流盡後 天命在三公 百王流畢竭 猿犬稱英雄
星流飛野外 鐘鼓喧國中 靑丘與赤土 茫茫遂爲空

 

なにやらいかがわしいが、日本が姫氏の国であるとの説が土台になっている。これに対して、南朝の重臣、北畠親房(1293~1354)は、「太伯末裔説」を否定し、『神皇正統記』において、以下のように述べている。
「異朝ノ一書ノ中ニ、『日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云。』トイヘリ。返々アタラヌコトナリ。」

 

家康の儒学の顧問であった朱子学者林羅山は、日本はけっして「夷狄」ではなく、中華と同等な文化国であり、日本の皇室は中国の聖賢の裔ゆえに尊貴であるという立場に立ち、『神武天皇論』において、日本の皇室の祖神がその本源を溯って見れば太伯に当たるという説をのべている。余竊かに圓月が意を惟ふに、按ずるに諸書は日本を以て呉の太伯の後と為す。夫れ太伯は荊蠻に逃れ、髪を断ち身を文きて交龍と共に居る。其の子孫筑紫に来る。想ふに必ず時の人以て神と為ん。(中略)姫氏の孫子本支百世、万世に至りて君たるべし、亦た盛んならずや。彼の強大の呉、越に滅ぼさるを見ると雖も、而して我が邦の宝祚天地と窮まり無し。余是に於て愈々太伯の至徳たるを信す。

5.倭人は呉人
『史記』世家・呉太伯に以下のような記述がある。
 呉太伯、太伯弟仲雍、皆周太王之子、而王季歴之兄也。季歴賢、而有聖子昌、太王欲立季歴以及昌、於是太佰?仲雍二人乃・荊蠻、文身斷髮、示不可用、以避季歴。季歴果立、是為王季、而昌為文王。太伯之・荊蠻、自號句呉。荊蠻義之、從而歸之千餘家、立為呉太伯。
 呉の太伯と弟の仲雍は、ともに周の太王(=古公亶父)の子であり、周王季歴の兄である。季歴には賢明な上に聖人となる瑞祥をもってうまれた昌という子があった。太王は季歴を周王として立て、ついで位を昌に継がせたいと思った。そこで太伯と仲雍の二人は南方荊蛮の地にはしり、入墨をし断髪して野心のないことを示し、季歴から遠ざかった。はたして季歴が即位したが、これが王季であり、昌がのちの文王である。太伯は、荊蛮の地に出奔してから、みずから国号を「句呉(こうご)」と称した。このような事情を知った荊蛮の人々は、彼を仁義の人と認め千余家がその義をしたって従属し、彼を「呉の太伯」と称揚した。江南の呉、つまり今で言う江蘇省南部や浙江省北部のあたりと倭とは古来より深いつながりがあった。倭の五王は北朝ではなく南朝の册封を受け、「呉音」は漢音よりも先に日本に伝わり今に至っている。さらに入れ墨をする習慣など魏志が伝える倭人習俗と同じである。呉は闔廬、夫差の時代に栄華を極めたが、越(句践)に攻め入られ滅亡した。秦の始皇帝が派遣した徐福もこのあたりから出発した。徐福は齊(山東省)人であったという。江蘇省連雲港市かん楡県金山郷で徐福の故地である徐阜村(徐福村)がある。ここは戦国時代には齊に属し、秦の時には琅邪郡に属していた。山東半島南の付け根にあった琅邪は、初め呉が副都を置き、後に越が遷都した、華北と華南を結ぶ港町として古くから栄えている所だった。もともと呉越は王朝としては敵対しつつも近縁の民族であり呉が越に滅ぼされてからは、呉人は越に吸収されたと思われるから、琅邪には多くの呉人がいたであろう。そのなかに、太伯の子孫がいてもおかしくはない。徐福は良家の童男童女をつれて東海に旅立ったとあることからその中に、太伯の裔=姫氏がいたことも十分にあり得ることである。
 思うに『晋書』に記述された魏に対する倭人の主張は正しかったのではないか。では、なにゆえ倭の五王は南朝に対して「姫氏」を名乗らなかったのだろうか。姫氏を名乗ることが憚られた、あるいはかえって不利であったのであろうか。いずれにしても、国内的には自分たちが大陸から渡来したという事実を忘れた方がよいとの考えがあったのではないかと筆者は想像している。中国と外交関係を結び、国内各地に命令を伝達するために必要な漢字を当時の倭人は当然知っていた。しかしそれにもかかわらず、甕棺にも、古墳にも墓誌を残さなかったように。

《奇異雑談集》きいぞうだんしゅう

江戸時代の説話集・奇談集である。編著者は不明。貞享4年(1687年)、京都の茨木多左衛門から出版された。版行以前に書かれたとみられる写本も確認されており、その祖型の成立はそれ以前であると見られている。 冨士昭雄は、撰述者は新渡の漢籍にも触れ得た、京都東寺所縁の僧侶だろうと推測している。 諸国の奇談や怪異の説を収録しており、いくつかの話には挿絵がつけられている。序文には「唐土本朝怪異之説ヲ録シテ以テ後人ニ遺ス」とあり、中国の小説集『剪灯新話』から翻訳された話なども収録されている。

《北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳》きたむきさんれいげんき とがくしさん きじょもみじ たいじのでん

明治时代发行的书籍,收录了江户时代流传于民间传说和大众艺术中的多中通过户隐山红叶传说版本,详细描述了鬼女红叶的来历、受到源经基宠爱的经过、以及被流放的理由。戸隠山の岩屋(洞窟)にこもり、盗賊を集め、最後には平維茂に討ち取られる。初版の発行者である辻岡屋文助は幕末から明治にかけての出版業者(堂号は金松堂)。多くの草双紙や浮世絵を出版していた。 本文冒頭には纂輯人 齋藤一柏、関衣川とある。纂輯人とするこの二人は名前を借りただけか、架空の人物であるとする説もある。明治19年と序や奥付にあるが実際に発行されたのは明治36年であるともいう[2]。 昭和初期に出版された巖谷小波による説話事典『大語園』では、戸隠山の鬼女の伝説として本書を典拠とした内容を掲載している.一般的に平維茂の紅葉退治の伝承は能の『紅葉狩』が基本であり、それに沿ったかたちのあらすじが流布している。そちらでは、戸隠山へ狩りに来た維茂が、紅葉狩りをしている身分の高い女の集団(正体が鬼)と遭遇し八幡神(石清水八幡宮)の加護をもって退治したというのが主な筋運びになっており、内容を比較すると『戸隠山鬼女紅葉退治之伝』は大幅に展開が異なることがわかる。豪華な紅葉見物の場面が存在しない点をはじめ、能や浄瑠璃などでは、平維茂が女たちに酒をすすめられ酔って眠ってしまう場面が著名な場面として登場するが、これも本作では登場しない。逆に自身の体をあたためるために紅葉が酒を飲んで眠っている。平将門の残党との合流がなどが説かれている点も一般的な筋書との大きな差異である。戸隠山に紅葉たちが籠城する場面などは、酒呑童子の物語からの影響が大きいなどと考察されている。また、源経基およびその従者、平維茂の軍勢にしたがう武士たちの名称がひろく登場する点も大きな差異である。部分的にではあるが、維茂にしたがう武士の名として菰茨次郎、金剛兵衛という名は近松門左衛門による浄瑠璃『栬狩剣本地』に先行して見られる。紅葉は登場せず別の鬼が登場するものではあるが、戸隠山を舞台とする『戸隠山絵巻』では、鬼の大王が軍勢に対してさまざまな術を使っているなど本作で維茂の軍勢が戸隠山へ攻め寄せて以後の展開と共通する箇所も見られる。このように、先行する作品を基本とした一般的な伝承との差異も多い本作であるが、鬼女「紅葉」のストーリーとして明治~平成にかけて、その部分部分が伝説として用いられつづけている。世間のものには異同がある、と序で述べられているように、本書の内容はそれ以前に演劇や物語を通じて知られていた伝承とは多くの差異がある。また、実録物である点から講談や、『前々太平記』などに見られる酒呑童子退治などのように年や月日が挿入されているが、伝説上あるいは物語の中でのものであり、これらが年月日が史実であるという根拠などは無い。本書初版の表紙や本文組といった造本は実録物を活版印刷で数多く発行していた叢書のひとつ『今古実録』の形式を真似ている。

  • 生い立ち

    • 応天門の変によって処断された伴善男の子孫、伴笹丸とその妻・菊世の間に生まれる。長いこと子供に恵まれなかったため、霊験のあるとされる第六天の魔王に祈った結果、生まれた子であった。(実録物であることから、生年を承平7年(937年)であると明記している)

    • 呉葉と名づけられ美しい少女に成長する。近在に住む豪家の息子・河瀬源吉は呉葉に恋こがれ病気づいたため、河瀬家から嫁によこせとの催促が来るが、呉葉を都に出す考えのあった笹丸はこれを辞退。

  • 第六天の術

    • 呉葉は笹丸のため、第六天に祈り、術をつかって瓜ふたつのもうひとりの自分を呼び出す。それを河瀬家に身代わりに嫁入りさせ、結納金をもって笹丸一家は都へ向かった。にせものの呉葉は源吉と祝言をあげるが、雲に乗り姿を消す。笹丸は伍輔、菊世は花田、呉葉は紅葉と名を改めて京の都に住みつく。紅葉の琴の音色と美貌が見初められ、源経基のもとに召し抱えられる。術をつかい、経基の妻を病気にするが、紅葉の行動をあやしんだ家臣らによって天暦10年(956年)に信濃国の戸隠山へと流される。

  • 戸隠の里

    • 流された紅葉とその両親だったが、村人には「経基の寵愛を受けたが、子を宿して正室の嫉妬に遭い、無実の罪で流されて来た」という話をつくり信じさせた。紅葉のもつ檜扇(ひおうぎ)であおがれると病気が癒えるとして里の者からも大切にあつかわれる。紅葉の生んだ男子を経若丸と名づける。紅葉は男装をし、少し離れた周辺の村に盗みに入り、得た金品を経基からの仕送りであると里の者に見せていた。やがて黒姫山を根城にしていた鬼武、熊武を名乗る盗賊(平将門の残党・長狭保時の子)たちや、鬼のおまんという怪力を持つ娘なども配下に加わる。

  • 紅葉の積悪

    • 紅葉の悪事をたびたび諫めていた父の病死以後は、さらに悪行はかさなってゆき、安和2年(969年)冷泉天皇から紅葉退治の勅諚がくだり、平維茂がその任にあたる。維茂の軍勢を風や火の雨や洪水の術、おまんの七十人力でしりぞける。維茂方の成田左衛門が「武器に不浄の血をつければ幻術は一掃できる」と孔明の故事を引いて助言、実行するが敗退する。

  • 北向観音

    • 成田の失策を受け、金剛兵衛は紅葉の使っているのは幻術ではなく鬼神や悪魔の術であるとして神仏への加護祈願を発案。北向観音へ維茂が妖賊破滅の祈願をおこない、霊夢で老翁から小剣を授かる。(本書の題名にある「北向山霊験記」という角書はこの場面に由来する)

    • 紅葉は体中が冷えわたり、術の使用が困難になる。多量の酒を飲み体をあたためるが酔いがまわり、眠ってしまう。

    • 霊夢に授かった小剣を使った矢を維茂が放ち、紅葉はこれを右肩に受けて鬼の本体をあらわし襲い掛かるが、退治された。

  • おまんのその後

    • おまんは落ちのび、改心した上で善光寺得度をうけ、袈裟に身をつつんで自害をした

《古今百物語評判》ここんひゃくものがたりひょうばん

江户前期文人、山冈元邻以在京都六条家举办的百物语怪谈会为基础而写的怪谈小说集。他的遗稿经过儿子山冈元恕的整理,在元邻去世十年后的贞享3年(1686年)6月出版。本书不仅仅罗列了怪谈的内容,还描写了出席怪谈会的人们依次讲故事的情况,元邻对此的解说,以及出席者对元邻的质疑等。从佛教和儒教等方面对妖怪、怪异现象、阴阳五行思想等进行了评价,在刊行后很长一段时间里都被当做灵异事件的理论根据,影响了后世如鸟山石燕等诸多作品。

巻之一「名为彭侯之兽」

巻之三「舟幽霊」

巻之二[編集]

  • 第一 狐の沙汰 付 百丈禅師の事

  • 第二 狸の事 付 明の鄒智 并 斉藤助康手柄の事

  • 第三 有馬山地獄谷座頭の事

  • 第四 箱根の地獄 并 富士の山三尊来迎の事

  • 第五 産婦 并 幽霊の事

  • 第六 垢ねぶりの事

  • 第七 雪隠の化物 付 唐の李白赤が事

巻之四[編集]

《曽呂利物語》そろりものがたり

江戸时代编纂的仮名草子。宽文三年(1663)刊行、全5卷。妖怪などの登場するはなしを集めた奇談集である。編者は不明。おとぎばなしの名手として当時知られていた安土桃山時代の人物・曽呂利新左衛門の名を題名に借用しており、『曽呂利狂歌咄』などを意識したものと見られる。古くから『曽呂利物語』の名で広く知られるがこれは内題で、外題簽には『曽呂利快談話』とある(巻第一の「はしがき」には『曽呂里はなし』ともあって一定はしていない)。ひろく普及した後刷り本には『曽呂利諸国話』という題が付けられている。『諸国百物語』(1677年)は本書と似た主題の本であるが、その内容には本書を典拠としたと見られる同一素材のものが20話以上ある。『諸国百物語』が巻頭の第一話としてあつかっている話も、本書の第一巻第一話と同じもの(剛胆をほこる板垣三郎が妖怪たちによって命をとられる話)で、その影響は大きい。

《今昔百鬼拾遺》こんじゃくひゃっきしゅうい

1781年(安永10年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集。雲・霧・雨の上中下3巻構成。『画図百鬼夜行』・『今昔画図続百鬼』につづく第三作。拾遺という題名からうがえるように前作『今昔画図続百鬼』の形式を引き継いだ続篇で、前作同様に解説や讃のかたちで1体1体の妖怪の絵に文章が書き添えられており、ほとんど文字の添えられることのなかった『画図百鬼夜行』にくらべると内容には差違がある。 本作で描かれている妖怪のなかには、実際の当時の伝承にあったものではなく石燕自身が創作したものも多く含まれているとみられる。 『今昔画図続百鬼 彩色 雨』という題簽の貼られた1巻(下巻)が確認されているのみで全体像はまだ確認されていないが、本作は彩色版が出版され存在していたと見られている。彩色されたものが初版の形態であったのかどうかは明確ではない。

上之巻/雲

蜃気楼·燭陰·人面樹·人魚·返魂香·彭侯·天狗礫·道成寺鐘·燈台鬼·泥田坊·古庫裏婆·白粉婆·蛇骨婆·影女·倩兮女·煙々羅

中之巻/霧

紅葉狩·朧車·火前坊·蓑火·青行燈·雨女·小雨坊·岸涯小僧·あやかし鬼童·鬼一口·蛇帯·小袖の手·機尋·大座頭·火間虫入道·殺生石·風狸·茂林寺釜

下之巻/雨

羅城門鬼·夜啼石·芭蕉精·硯の魂·屏風闚·毛羽毛現·目目蓮·狂骨·目競·後神·否哉·方相氏·瀧霊王·白沢·隠里

《土蜘蛛草紙》つちぐもぞうし

日本の絵巻物。『土蜘蛛草子』とも。源頼光の土蜘蛛退治の物語を描いている。現存最古と見られるのは、東京国立博物館所蔵の『土蜘蛛草紙』(14世紀、重要文化財)である。 『平家物語』の「剣巻」や能の『土蜘蛛』などとは展開や舞台などが少し異なっている。土蜘蛛が山蜘蛛(やまぐも)という名で登場している点は「剣巻」と同様である。源頼光が家来の渡辺綱らと共に蓮台野(れんだいの)で空飛ぶ髑髏を見つける。それを追って神楽岡(かぐらおか)の荒れ果てた古い屋敷にたどり着くが、屋敷内で次々に異形のものと遭遇する。明け方近くに美女が現われたので頼光がそれを斬ると、白い血のあとを残して消え去る。頼光の太刀は先が折れて無くなってしまう。 用心のために藤などでつくった上に着物などをきせた人形を先頭に立てながら白い血のあとをたどって行くと西の山の洞穴に至り、巨大な化人(化け物)が苦しみながら現われる。何かが飛び出して人形に刺さるが、それは失った太刀のかけらであった。化人を洞穴から引きずり出して首を斬ると、それは巨大な山蜘蛛で、傷口からは、死人の首が1990個、人間の子供くらいの大きさの小蜘蛛が数知れないほど現われる。頼光らは山蜘蛛の首を埋め、その住処を焼き払って平安京に帰った。 頼光は津の守に任命され正下四位の位を、綱は丹波の国を下賜され正下五位の位を、それぞれ朝廷からたまわる。江戸時代の山東京伝の読本『善知鳥安方忠義伝』(うとうやすかたちゅうぎでん)には、山蜘(やまぐも)という登場人物がいるほか、この絵巻物の絵を下絵にした場面が登場している。

  • 髑髏 冒頭。空を飛んでゆく。

  • 二百九十歳の老女 神楽岡の屋敷。上眼睑下垂并抬起。 她的乳房是下垂的,而且很大。

  • 異類異形のものども 神楽岡の屋敷。絵では五徳や角盥や葛籠などを素材にした妖怪も描かれている。

  • 尼 神楽岡の屋敷。顔が2、体が1、手はのようにほそい。紫の帽子をつけて緋の袴をつけている。

  • 美女 神楽岡の屋敷。美しい女性の姿をしている。のような白雲をいくつもかけて来た。

  • 化人 西の山の洞穴。大きさは30ばかり。眼は日月のように光っていた。

《付喪神絵巻》つくもがみえまき

也被叫做付喪神記、付喪神絵、付喪神絵詞、付喪神縁起絵巻、非情成仏絵巻等。岐阜県崇福寺などに所蔵されており、いくつかの伝本が確認されている。多くは上下2巻の構成となっている。 内容は康保年间、年末の煤払の日に捨てられた古い道具たちが付喪神となって人間を襲い享楽を尽くすが、護法童子や尊勝陀羅尼、如法尊勝大法といった密教の法力によって調伏されてしまい、悪行への反省から出家して真言宗をまなび、深山で修行したのちに成仏するという物語作品である。室町時代に成立した物語であると考えられており、現存作品のうち最古とみられる崇福寺に所蔵されている絵巻物は、16世紀のものである。崇福寺本は内題に『非情成仏絵』とあるが、物語冒頭にある「付喪神」についての文から『付喪神絵巻』と一般に呼ばれる。三条西実隆の日記『実隆公記』の文明17年(1485年)9月10日の記事に「於御学問所付喪神絵上下拝見」とあることから、それ以前(15世紀)にも存在していたと考えられているが、現在確認されている絵巻物と同一内容であるかははっきりしていない。寛文6年(1666年)に頼業という人物が写しとったという奥書きのある原本の「摸本」も複数確認されている。これらは図の構成や描写などが崇福寺のものとは異なっており成立過程は異なると見られている。日本において、古い道具が変化したものを広義に付喪神と呼ぶのは、この絵巻物の冒頭にある「陰陽雑記云、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すといへり」という詞書きによるものである。しかし『陰陽雑記』という書籍は確認されておらずその正確な出典および字義は不明である。付喪神という表記が出て来るのはその冒頭のみで、詞書き中では「妖物」「化生」「器物之妖変」などの呼称のみが使われている。付丧神被认为有着"男女老少之姿、魑魅悪鬼之相、狐狼野干之形"。道具たち(非情物)は深山での修行の結果、因徳本生王如来・長寿大仙王如来・妙色自在王如来・法界体性王如来という名で成仏する。 この物語の主眼は真言宗の説く「草木非情 発心修行 成仏」という教えを示しており、下巻の内容は特に仏法的なものでほぼ占められている。本文中に「吾宗」(われわれの宗派という意味)という言葉が登場しており、国文学者・平出鏗二郎 などは真言宗の僧侶によって文章が編まれたのではないかとしている。

《諸国百物語》しょこくひゃくものがたり

延宝5年(1677年)4月に刊行された日本の怪談集。全5巻、各巻20話構成で、全百話。著編者ともに不詳。本書の序文には、信州(現・長野県)諏訪で武田信行という名の浪人者を中心とした3,4人の旅の若侍たちが百物語怪談会を行い、その内容を記録したものが本書だとある。実際には本書の内容は、それ以前に刊行された怪談集から引き写したとみられる話も多く、中でも寛文3年(1663年)の『曽呂利物語』からの採用といわれる話は21話にもおよび、ほかにも『因果物語』『宿直草』などの古書が出所とみられる話もある。そのため、怪談会の執筆記録というのは作り話であり、怪談会という形式のみを借用したものと考えられている。本書の伝本はきわめて少数であり、現存する完本は東京国立博物館の蔵本が唯一である[5]。本書は2つの大きな特徴において評価されている。第一の特徴は、江戸時代当時に人気を博していた「百物語」の名をいち早く題名に用いたことである。本書以前に、万治年間にも『百物語』と題した版本が出版されているが、これは怪談ではなく笑話集であり、怪談集としての「百物語」は本書が嚆矢とされている[5]。また本書以降、百物語の流行にともなって「百物語」を題名に用いた多数の怪談集が刊行されたものの、実際に全百話の怪談を収録したものはごく稀であり、中には享保17年(1732年)刊行の『太平百物語』のように百話の半数の50話しか収録されていないものもあるが、『諸国百物語』は題名に違わず全百話が収録されており、現在確認されている物の中で全百話の怪談集は、本書が唯一とされている。第二の特徴は、これも題名に「諸国」とあるとおり地域を特定せず、北は東北地方から南は九州まで日本各地の怪異譚を扱っていることである。このように諸国の様々な談話を一つの書物に集約するという手法は、古典の説話集の伝統に基いたものではあったが、当時としては新しく目覚しい趣向であった[5]幽霊妖怪、動物の怪異といった怪談で構成されているが、室町戦国時代までの説話集で隆盛を極めていた妖怪魑魅魍魎(本書では「ばけ物」「へんげ」などと表記されている)の話が減少しており[4]、代わって無惨に痛めつけられた人間の幽霊、怨霊などを扱う話が全体の3分の1を占め、特に女性の幽霊譚が多く見受けられる[6]。これは、自然界の脅威の象徴ともいうべき妖怪に対し、当時の人々の関心が減りつつあり、江戸期に『画図百鬼夜行』などの妖怪画集が刊行されたように、妖怪は脅威よりむしろ好奇心の対象へ移行したことや[7]、それら妖怪などに代わって人間の因業の恐ろしさ、女性の嫉妬や執心による幽霊譚などが怪談会の主な話題となったためと考えられている[6]。当時の人々の感覚を現代に伝える話も多い。たとえば「小笠原どの家に大坊主ばけ物の事」など、大坊主の妖怪の登場する話は、当時のに対する庶民たちの侮蔑や敵意を反映したものであり、キリシタンの処刑場で怪異の起きる「吉利支丹宗門の者の幽霊の事」は、キリシタン・バテレンを魔性の者と解釈したものといわれている[4]。全百話を締めくくる百話目「百物がたりをして富貴になりたる事」は、題のとおり百物語を行うことで富を得たという話である。伝承上では百物語を終えると怪異が起こるといわれるが(詳細は百物語#方法を参照)、逆に富を得たとする話を百話目に用いるのは、そうした怪異が現実に生じることのないようにとの、一種の魔除けの意味との説がある[4]。江戸当時には、前述の現存本の書肆により後に『新諸国百物語』が刊行されており、本書がいかに好評であったかが窺い知れる[5]。この人気の要因は、江戸時代は遠隔地への旅行もままならなかったことから、当時の人々にとって遠方の国々は想像も及ばない一種の異界ともいえ、本書のように諸国の出来事を綴った書は、読者に対してまだ見たことのない国々の魅力を与えるものであったこと、加えてほとんどの話がどこの土地でどんな人物が遭遇した話であるか記されているため、リアリティに富んでいることが読者の目を惹きつけたためと考えられている[1]。本書の記述上の趣向は当時の読者たちに受け入れられたことから、後の怪談本に与えた影響も大きく、この趣向を受け継いだ書も多い。諸国の話集という形式を受け継いだとされるものには井原西鶴による『西鶴諸国ばなし』『一宿道人懐硯』[5]、本書同様に巻末に富貴・出世などの話を用いている話集には『御伽百物語』『太平百物語』などがある[6]

卷之一

  • 一 駿河国板垣の三郎変化物に命をとられし事

  • 二 座頭旅にてばけ物にあひし事付タリ三条小鍛冶が銘の刀の事

  • 三 かわちの国くらがり峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事

  • 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事

  • 五 木屋の介五郎が母夢に死人をくいける事

  • 六 狐山伏にあだをなす事

  • 七 蓮台野二つ塚のばけ物の事

  • 八 後妻うちの事付タリ法花経の功力

  • 九 東洞院かた輪車の事

  • 十 下野の国にて修行者亡霊にあひし事

  • 十一 出羽の国杉山兵部が妻かげの煩の事

  • 十二 するがの国美穂が崎女の亡魂の事

  • 十三 越前の国永平寺の新発意が事

  • 十四 せつちんのばけ物の事

  • 十五 敦賀のくに亡霊の事

  • 十六 栗田源八ばけ物を切る事

  • 十七 本能寺七兵衛が妻の幽霊の事

  • 十八 殺生をして白髪になりたる事

  • 十九 会津須波の宮首番と云ふばけ物の事

  • 二十 尼が崎伝左衛門湯治してばけ物にあひし事

巻之二

  • 一 遠江の国見付の宿御前の執心の事

  • 二 相模の国小野寺村のばけ物の事

  • 三 ゑちぜんの国府中ろくろ首の事

  • 四 仙台にて侍の死霊の事

  • 五 六端の源七ま男せし女をたすけたる事

  • 六 かゞの国にて土蜘女にばけたる事

  • 七 ゑちごの国猫またの事

  • 八 魔王女にばけて出家の往生を妨げんとせし事

  • 九 ぶんごの国何がしの女ばう死骸を漆にて塗りたる事

  • 十 志摩の国雲松と云ふ僧毒蛇の難をのがれし事

  • 十一 熊野にて百姓わが女ばうを変化にとられし事

  • 十二 遠江の国堀越と云ふ人婦に執心せし事

  • 十三 奥州小松のしろばけ物の事

  • 十四 京五でうの者仏の箔をこそげてむくいし事

  • 十五 西江伊予の女ばうしうしんの事

  • 十六 吉利支丹宗門の者の幽霊の事

  • 十七 紀伊の国にてある人の妾死して執心来たりし事

  • 十八 小笠原どの家に大坊主ばけ物の事

  • 十九 もりの美作どの屋敷の池にばけ物すみし事

  • 二十 ゑちぜんの国にて亡者よみがへりし事

巻之三

  • 一 伊賀国にて天狗座頭にばけたる事

  • 二 近江国笠鞠と云ふ所せつちんのばけ物の事

  • 三 大石又之丞地神のめぐみにあひし事

  • 四 江州白井介三郎が娘の執心大じやになりし事

  • 五 安部宗びやうへが妻の怨霊の事

  • 六 ばけものに骨をぬかれし人の事

  • 七 まよひの物二月堂の牛王にをそれし事

  • 八 奥嶋検校山の神のかけにて官にのぼりし事

  • 九 道長の御前にて三人の術くらべの事

  • 十 加賀の国あお鬼の事

  • 十一 はりまの国池田三左衛門どの煩の事

  • 十二 古狸さぶらひの女ばうにばけたる事

  • 十三 慶長年中いがの国ばけ物の事

  • 十四 豊後国西迎寺之長老执着于金子之事

  • 十五 備前国うき田の後家まんきの事

  • 十六 下総国にて継子を悪みてわが身にむくふ事

  • 十七 渡部新五郎が娘若宮の児に思ひそめし事

  • 十八 いがの国名張にて狸老母にばけし事

  • 十九 艶書のしうしん鬼となりし事

  • 二十 賭づくをしてわが子の首を切られし事

巻之四

  • 一 端井弥三郎ゆうれいを舟渡しせし事

  • 二 ゑい山の源信ぢごくを見て帰られし事

  • 三 酒のいとくにてばけ物をたいらげたる事

  • 四 ゆづるの観音に兵法をならひし事

  • 五 牡丹堂女のしうしんの事

  • 六 たんば申楽へんげの物につかまれし事

  • 七 筑前の国三太夫と云ふ人幽霊とちぎりし事

  • 八 土佐の国にて女のしうしん蛇になりし事

  • 九 遠江の国にて蛇人の妻をおかす事

  • 十 あさまの社ばけ物の事

  • 十一 気ちがいの女を幽霊かと思ひし事

  • 十二 蟹をてうあひして命をたすかりし事

  • 十三 嶋津藤四郎が女ばうゆうれいの事

  • 十四 死霊の後妻うち付タリ法花経にて成仏の事

  • 十五 ねこまた伊藤源六が女ばうにばけたる事

  • 十六 狸のしうげんの事付タリ卒塔婆の杖の奇特

  • 十七 熊本主理が下女ぼうこんの事

  • 十八 津のくに布引の滝の事付タリ詠歌

  • 十九 竜宮乙姬 五十嵐平右衛門が子にしうしんの事

  • 二十 大野道観あやしみをみてあやしまざる事

巻之五

  • 一 釈迦牟尼仏といふ名字の由来の事

  • 二 二桝をつかいて火車にとられし事

  • 三 松村介之丞海豚魚にとられし事

  • 四 播州ひめぢの城ばけ物の事

  • 五 馬場内蔵主大じやをたいらげし事

  • 六 紀州わか山松もと屋久兵衛が女ばうの事

  • 七 三本杉を足にてけたるむくいの事

  • 八 狸廿五のぼさつの来迎をせし事

  • 九 吉田宗貞の家に怪異ある事付タリ歌のきどく

  • 十 ぶぜんの国宇佐八まんへよなよなかよふ女の事

  • 十一 芝田主馬が女ばう嫉妬の事

  • 十二 万吉太夫ばけ物の師匠となる事

  • 十三 丹波の国さいき村いきながら鬼になりし人の事

  • 十四 栗田左衛門介が女ばう死して相撲をとりに来たる事

  • 十五 いせにて金のしうしんひかり物となりし事

  • 十六 松坂屋甚太夫が女ばう後妻うちの事

  • 十七 靏の林うぐめのばけ物の事

  • 十八 大森彦五郎が女ばう死して後双六をうちに来たる事

  • 十九 女の生霊の事付タリよりつけの法力

  • 二十 百物がたりをして富貴になりたる事

《夭怪着到牒》ばけものちゃくとうちょう

1788年,由鶴屋喜右衛門(仙鶴堂)出版、北尾政美绘制封面的书。以插图为主、文字量极少。内容为多种多样的妖怪、以及被妖怪们所惊吓到的人们。是由赤本和黑本等先出版的草双纸作品中存在的『化物尽し』等构成的。故事情节的展开并不固定,描绘了各种各样的妖怪出现的场面

上巻

  • 八つ(午前2時ごろ)の僧侶が鳴らしている場面。女の首が夜空を飛んでいる。

  • 見越し入道が妖怪たちを呼び集める場面。見越し入道のほかに大頭小僧・鳥の妖怪・女の妖怪などが描かれている。見越し入道は「ばけものの親玉」との解説が書き込まれている。

  • 大侍(おおざむらい)が顔を出して座敷の人間を驚かせる場面。

  • 河太郎が人を襲う場面

  • の木の下に妖怪が現われる場面。人間を襲う様子が描かれる。猫・巨大な足・尼入道が描かれている。

  • 逆女(さかおんな)が人間の前に出る場面

下巻

  • 海坊主が舟を襲う場面

  • 妖怪们在晦日集会,演奏太鼓与三味线、载歌载舞。出现的妖怪有馬・狸・狐・天狗・三目入道・猫等。

  • 树下出没的妖怪们。姫路的刑部姫・三面乳母・一つ眼(まなこ)・女人魂・くら虫が描かれる

  • 水边出没的妖怪们。也描绘了人被袭击的样子。悪息・蛸入道・狸・狒狒・一目小僧。狸猫用变大的睾丸盖住人类。

  • 树下出没的妖怪们。大蛇・車巡り(くるまめぐり)・蛞蝓化物・蝙蝠妖怪・風尼(かぜあま)・骸骨・赤鬼等。

  • 朝比奈退治恶鬼。妖怪には名称が付されているものもあれば、書き込まれていないものもあり、そのような点も先行する草双紙に存在する『化物尽し』などの構成に近い。

《化物土筆帖》ばけものつくしちょう

每一本画册上都画着妖怪的画,并添加了它的名称。全部描绘了21种妖怪,除了人鱼等著名妖怪之外,还有《百怪图卷》、《百鬼夜行绘卷(松井文库)》等其他作品中也描绘的妖怪(白うかり・にがわらい・下国の人(五体面)等),以及一些独特的妖怪(龙田姬・よばぐも等)。虽然文献中出现过"加賀島興正"这个人名,但是否是作者不详。

《化物年中行状記》ばけものねんじゅうぎょうじょうき

1796年(寛政8年)蔦屋重三郎(耕書堂)から出版された、十返舎一九の作による黄表紙である。十返舎一九が妖怪を取扱った草双紙作品の最も初期のものの一つである。のちに十返舎一九自身によるリメイク作品『妖怪一年草』(1808年)がある。内容や描かれる妖怪には異同がある。人間世界の年中行事と似ているが価値観の違いによって内容が変わっていたりする妖怪世界の様子という設定で、行事ごとに場面を区切って描写している。内容の錯誤や変転が主な笑いの要素である。正月の挨拶は「化けましては良い春でござります」。四月に見越し入道の先祖「おさかさま」を祝う(花祭りのおしゃかさまのもじり)。六月の川涼みには狐たちが花火を売ったり見せたりする。お盆には先祖代々の幽霊たちが瓜や茄子の牛馬に乗ってやって来て、実際に逗留してゆく。十月に相撲が開催される。冒頭には「人を脅すのなんのといふ事はなく、とんと別に世界をたてて、おのれおのれが家業を大切に勤め、おとなしく暮らしける。」という世界設定が描かれており、人間たちの世界とは別の世界であるということが明確にされている。

《妖怪一年草》ばけものひととせぐさ

1808年(文化5年)山口屋藤兵衛(錦耕堂)から出版された、十返舎一九の作、勝川春英の画による草双紙である。喜多川月麿による摺付表紙がつけられた合巻仕立てのもの(東北大学附属図書館狩野文庫など)と、絵題簽表紙の黄表紙仕立てのもの(大東急記念文庫など)とが確認されている。十返舎一九自身が寛政8年(1796年)に手がけた黄表紙『化物年中行状記』のリメイク作品である。人間世界の年中行事と似ているが価値観の違いによって内容が変わっていたりする妖怪世界の様子という設定で、行事ごとに場面を区切って描写している。内容の錯誤や変転が主な笑いの要素である。 正月の挨拶は「ももんがア 化けましてよい春でございます」。門松ではなく柳を建てる。 穴見に出る。(花見のもじり) 四月に見越し入道の先祖「おさかさま」を祝う。(花祭りのおしゃかさまのもじり) 五月には軒ごとにいろいろな草を屋根にむさくるしくさして邪気を増すようにする。(端午の節句にショウブの葉を魔除けとしてさす行事からの逆発想) 見越し入道の木像を神輿にかついでまわる。(天王祭がモチーフ) お盆には先祖代々の幽霊たちが実際に逗留してゆくので出費が非常にかさむ。 闇見に遊ぶ。(月見のもじり、逆発想) 十月に貧乏神をまつる下卑須講をおこなう(商家などで行われていた恵比須講がモチーフ) 節分の掛け声は「鬼はうち、金時はそと」と言いながら豆をまく。(坂田金時が初期の草双紙から妖怪を退治する存在として登場している事を踏まえたもの)

《百器徒然袋》ひゃっきつれづれぶくろ

1784年(天明4年)に刊行された鳥山石燕の妖怪画集。上中下の3巻。『画図百器徒然袋』とも。『画図百鬼夜行』『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』と続いた石燕の妖怪画集の中でも最後に刊行されたもの。鳥山石燕の刊本作品としては最晩年(石燕の没年は1788年)の作のひとつである。内容は室町時代から江戸時代にかけて御用絵師たちが多く画題として用いられてきた百鬼夜行絵巻に登場する妖怪を題材としたものが多く、同絵巻に器物を素材とした妖怪が多い点から本作にも道具の妖怪たちが数多く描かれている。石燕自身による本書の序文には、百鬼夜行絵巻を見たあとに夢のなかに出て来た妖怪たちを描いたと記しており、先行している3種の妖怪画集に較べると、妖怪そのものの題材として求める典拠にばらつきはなく、一貫した制作構成をとっている。巻頭と巻末には七福神と宝船が描かれているが、これは先行する『今昔百鬼拾遺』での「隠れ里」や『今昔画図続百鬼』での「日の出」と趣向を同じくするものである。『百鬼夜行絵巻』を手本とした石燕の創作による妖怪が多数を占めており、その題材となった器物に関連する故事や歌を『徒然草』や謡曲などから引き、その連想を膨らませている。例えば塵塚怪王[1]。・文車妖妃は『百鬼夜行絵巻』に登場する妖怪を題材に描き、『徒然袋』にある「塵塚の塵、文車の文」という「見苦しいもの」のたとえとして挙げられた二つの事物を妖怪の名前に用いたものである。松明丸や栄螺鬼に用いられている妖怪は東京国立博物館所蔵の『百鬼夜行絵巻』の系統にみられるもので、真珠庵本系統の『百鬼夜行絵巻』にはみられないものである点から、石燕が参照した絵巻は真珠庵本系統のもの以外の構成を含んだ複数の系統の図様が描かれたものであったとも考えられる。それ以前の作品とは違い、各妖怪に対して「夢のうちにおもいぬ」という文などが示されるのも石燕自身による創作[6]を明確に示している。

巻之上

宝船(たからぶね) 塵塚怪王(ちりづかかいおう) 文車妖妃(ふぐるまようひ) 長冠(おさこうぶり) 沓頬(くつつら) ばけの皮衣(ばけのかわごろも) 絹狸(きぬたぬき) 古籠火(ころうか) 天井嘗(てんじょうなめ) 白容裔(しろうねり) 骨傘(ほねからかさ) 鉦五郎(しょうごろう) 払子守(ほっすもり) 栄螺鬼(さざえおに)

巻之中

槍毛長(やりけちょう) 虎隠良(こいんりょう) 禅釜尚(ぜんふしょう) 鞍野郎(くらやろう) 鐙口(あぶみくち) 松明丸(たいまつまる) 不々落々(ぶらぶら) 貝児(かいちご) 髪鬼(かみおに) 角盥漱(つのはんぞう) 袋狢(ふくろむじな) 琴古主(ことふるぬし) 琵琶牧々(びわぼくぼく) 三味長老(しゃみちょうろう) 襟立衣(えりたてごろも) 経凛々(きょうりんりん) 乳鉢坊(にゅうばちぼう) 瓢箪小僧(ひょうたんこぞう) 木魚達磨(もくぎょだるま) 如意自在(にょいじざい) 暮露々々団(ぼろぼろとん) 箒神(ほうきがみ) 蓑草鞋(みのわらじ)

巻之下

面霊気(めんれいき) 幣六(へいろく) 雲外鏡(うんがいきょう) 鈴彦姫(すずひこひめ) 古空穂(ふるうつぼ) 無垢行騰(むくむかばき) 猪口暮露(ちょくぼろん) 瀬戸大将(せとだいしょう) 五徳猫(ごとくねこ) 鳴釜(なりがま) 山颪(やまおろし) 瓶長(かめおさ) 宝船(たからぶね) 宝船(たからぶね)

《北越奇談》ほくえつきだん

文化9年(1812年)出版的六卷随笔集,作者是越后国文人橘昆仑,插画大部分由葛饰北斋完成。橘昆仑生卒年不明,而且一生的记录也很少,是个谜一般的人物。内容以北越地区的怪异故事、奇岩怪石、植物等的博物学记录为中心,特别是4、5卷以"怪谈"为中心收录、穿插约200年间北越地方的文化地貌,以及昆仑自己对这类传说如何产生的推测。随笔家铃木牧之的《北越雪谱》和本书被称为越后两大奇书。牧之在自己的著作《北海雪见旅行集》中说,在撰写《北越雪谱》的取材过程中遇到了橘昆仑,两人相谈甚欢,昆仑在执笔时也参考了《北越雪谱》。与让人感受到雪国生活艰辛的《北越雪谱》相对,《北越奇谈》作为娱乐故事的趣味性很强,在江户广受欢迎。

《百鬼夜講化物語》ひゃっきやこう-ばけものがたり

1785年(天明5年)伊勢屋治助(いせ治)あるいは村田屋次郎兵衛(栄邑堂)[1]から出版された江戸の草双紙(黄表紙に属する)である。妖怪を主題として描いており、半丁ごとに1体の妖怪の絵と名前、戯文調のせりふや本文が書き込まれている。版面の中心にあたる柱には「いきやう」という題が書かれている。作者ならびに画工については本文中に明確な表示がなされていないために何者であるかははっきりしていないが、巻頭に配されている序文の文末には「古狼野干(ころうやかん)化物屋敷の玄関におゐて書す」という文言が見られ、これを作者名とみることも出来る。本文は序文を含めて全10丁であり、総数としては19の妖怪が描かれている。みこし入道やうぶめといった江戸時代においてひとびとの間に知られていた妖怪、猴王(『西遊記』の孫悟空[2])など漢籍を用いたものなども描かれるが、コワバカラチキなど当時の吉原などで使用されていた言葉あそび(オストアンデル=饅頭などのように日本語を南蛮渡来の言葉めかしたもので、コワバカラチキは「これはばからしい」という意味の南蛮ことば)[3]を題材としたものなども見られる。 各丁に書き込まれているせりふの中身は画面のストーリー上に沿っているものではなく、おおよそ笑いを主としており、洒落や地口、画面上での描かれ様に対しての登場人物自身の感想などがすべての画面に書き込まれている。たとえば、石塔ノ火(せきとう の ひ)は石塔が化けてお歯黒をつけた女の姿になって出没していたものを武士が刀で斬ったという話が描かれているが、そのことを記した短い本文の後に書き込まれたせりふは、武士は大道商人のひとつであった歯磨き売り(大きな刀をふるって通行人をあつめて販売していた)を意識したせりふ、妖怪側はそんな歯磨き売りを知らぬ顔していった通行人という体のせりふがそれぞれ書かれており、画面上での構造(刀を抜いて道で立っている男がいるという図)から連想された喜劇的な展開が描かれている。

一ッさん首

山ノ神(魑魅魍魎

首釣り柳

石塔ノ火

うぶめ

山鬼

コワバカラチキ

蚘虫(いちゅう)

遊魂

肉吸

髪長女

鬼火

おどり山伏

蛇腹女

蓑むぐら

みこし入道

倡妓霊

海蝙蝠

猴王

首の飛ぶ様子を歌舞伎劇場におけるケレンの演出のようだと語る

人間の母子の会話に見立てる(母=山の神という俗語から)

ぶらさがっているのは煮売り屋のタコのようだと語る

大道芸の歯磨き売りに遭遇した通行人のようなそぶりをとる

柳の下から出る様子を夜鷹(低廉な私娼)の会話に見立てる

浄瑠璃(『菅原伝授手習鑑』の松王丸)のせりふをもじる

吉原の花魁ことばや南蛮ことばを素材としている

双頭のすがたをしているので行動が大変であると語る

きちんとした弔いを受けられなかったとぼやき語る

遊女と遊客の会話に見立てる

髪が長いので妖怪稼業をやめてかもじ屋を開店できると語る

花火のようだと語られる

長唄(『京鹿子娘道成寺』)のせりふをもじる/浅草にいた薬売りの山本宮内を素材としている

万歳などの厄払いの文句をもじる

背中が(みの)なので雨のときでも困らないと語る/両国の見世物に見立てる

万歳の文句(徳若に御万歳など)をもじる

吉原に関する語句(八朔など)をおりまぜる

住みつき方を一般的なコウモリに見立てる

「さる」尽くしの口上を語る

このような半丁ごとに個別の妖怪を一画面として描く絵本形式は『画図百鬼夜行』(鳥山石燕、1776年)などに形式をならったものであり、「百鬼夜講」という「百鬼夜行」を意識した題も何か意識をしたところがあったのではないかと考えられている。『画図百鬼夜行』のような妖怪を個別に紹介してゆく妖怪図鑑とも見られような形式は、妖怪をあつかった黄表紙作品のなかでも多数を占めていた初期の草双紙(赤本・黒本・青本)から存在する化物尽しもの・化物退治ものなどの構成(見開きの一丁に複数の妖怪を描き込む構図など)とは異なる形式であるが、『百鬼夜講化物語』での妖怪と人間の会話文を記す点・妖怪たち自身の発するせりふに笑いの要素が存在する点などの要素は、むしろ化物尽しもののような形式に近い描かれ方であり、『夭怪着到牒』(北尾政美、1788年)などにもつらなる流れにあたる作品であるとも言える[4]

《百鬼夜行絵巻》ひゃっきやこう えまき

日本的妖怪画本。多数の作品が現存しており、代表的な作品は京都大徳寺山内の塔頭・真珠庵に所蔵される『百鬼夜行図』(『百鬼夜行絵巻』、真珠庵本と称される)である。「百鬼夜行絵巻」とは、妖怪たちが行列をする「百鬼夜行」のさまを描いたとされる複数の絵巻物の総称である。室町時代から明治・大正年間頃まで数多く制作されており、国内外を問わず多くの機関・個人によって所蔵されている。当初より、数種の絵巻が存在していて、それが模写・転写される間に様々なパターンを構成し、今日に伝わったものなのではないかと考えられている。制作された時代から名称・総称が固定されていたわけではなく、まったく同様の図が描かれた絵巻であったとしても、「百鬼ノ図」「妖怪絵巻」など別の題名が名付けられている場合も見受けられる。 「百鬼夜行」という言葉が使われているが、『今昔物語集』などの説話集に見られる平安時代の人々に恐れられていた鬼や異形の者が行列をする「百鬼夜行」と、本作品に見られる「百鬼夜行」とされる行列は同一のものではなく、別のイメージであると考えられている。また、作品中に登場する妖怪たちは、器物の妖怪たちが中心となっている点に大きな特徴があるが、百鬼夜行絵巻に描かれるのは、器物だけであるとは限らず、器物以外の動物や植物なども描かれており、鳥獣草木器物戯画絵巻という性格から作品を鑑賞することも出来、『鳥獣人物戯画』や『付喪神絵巻』との関係もあるのではないかとも考えられている。 近代以後、田中一松などによる紹介にはじまり、展覧会・書籍などを通じて最もその存在が流布されているのは真珠庵に所蔵されている『百鬼夜行図』(『百鬼夜行絵巻』)である。真珠庵本は室町時代(16世紀)の制作であり、土佐派の画家・土佐光信の筆であると伝承されているが確証はない。また、真珠庵本がすべての百鬼夜行絵巻の祖型であるというわけではなく、室町時代・あるいはそれ以前に存在した「百鬼夜行絵巻」を手本として制作された作品のうちのひとつであると考えられている。21世紀現在でも、複数伝存している百鬼夜行絵巻のうち、どの系統のものが最も古い形を残し、祖型を保っているのか、その前後関係はまだ研究途上にある。 『本朝画図品目』など江戸時代に編まれた絵画の伝存や所蔵先を記した文献には、土佐光重による明徳年間(1390-93年)頃と考えられる1巻、近衛家に土佐経隆(藤原経隆)によって正和5年(1316年)描かれたとされる奥書きをもつ百鬼夜行絵巻が伝来していたことを記しているが、現在存否は確認はされておらずどのような内容であったかは不詳である。古川躬行は、土佐経隆は12世紀の人物なので14世紀に描かれている点を考えると画家名は疑わしいと『増補考古画譜』で考察を示しており、後者の画家名はあくまでも仮託であったと考えられる。絵巻物に描かれた内容や物語を示す詞書が付けられていることはほとんどなく、妖怪たちがどのような事をしているのか正確な内容は不明である。そのため、本作品がどのように受容され、鑑賞されていたかもはっきりはしていない。詞書を持つ百鬼夜行絵巻は非常に珍しく、わずかながら数点詞書のあるものが確認されている。詞書の内容には、治承年間の末に福原に都が移り、持主を失って荒れ果ててしまった屋敷に異形たちが現われた、とある。構成などに異同があるものの、真珠庵系統の絵巻物とほぼ同様の妖怪が描かれている。これらが真珠庵系統の絵巻物の原典となった祖型に元々あったものであるのか、後になってから付け加えられたのかはまだ不明である。百鬼夜行絵巻と総称されているが、まったく同じ図柄のものも存在すれば、描かれる妖怪の順番の違うもの、全く違うものなど複数の系統が存在している。確認される伝存作品のなかでは真珠庵の蔵品が最も古い[8]部類にあたり、『本朝画図品目』などの文献上にのみ確認が出来るそれ以前の時代(14世紀・鎌倉時代の末や南北朝時代)の製作であるとされる作品がどのような図柄であったものかはいまだ明確ではない。

《百怪図巻》ひゃっかいずかん

英一蝶の門人である江戸時代中期の画家・佐脇嵩之によって元文2年(1737年)に描かれた、妖怪を主題とした絵巻物である。 風俗史研究家・日本画家の吉川観方の旧蔵品であり、現在は福岡市博物館が所蔵している。絵巻の奥書きに「本書、古法眼元信筆 阿部周防守正長写 元文第二丁巳冬日 佐嵩指写」とあり、「古法眼元信」とは室町時代後期の絵師・狩野元信を指すことから、本書は元信の描いたと伝来されていた写本をさらに嵩之が模写したものとされる。 本作品には全30点の妖怪画が収録されており、筆致は丁寧で質の高い作品とされている。制作年代が明確にわかり、異同なく同一数の妖怪を収録した絵巻がほかにも存在することから、図鑑的なえがき方をされた妖怪絵巻のなかでも標準的な作品であり、現代における妖怪を描いた絵巻物の研究にあたっては指標となり得る不可欠な作品の一つであるとも評されている。江戸時代に描かれた作品には、本作品とほぼ同じ配列・構成によって描かれた絵巻物が存在している。ただし奥書などが書かれておらず制作年が明確でないものが多い。そのため前後関係は明確では無い。 構成される妖怪がほぼ同じ主な作例『化物づくし』-巻末には「鳥羽僧正真筆」とある『化物絵巻』 -『百怪図巻』よりも収録数は少ない構成される妖怪が増えている主な作例 『化物づくし絵巻』(個人蔵)1802年 -狩野派の画家・狩野由信よるもの。『百怪図巻』などよりも少し数は多く、35種が収録されている『化物之繪』 -『百怪図巻』などより収録妖怪数は多く、海坊主・海男・ぬりかべなども描かれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%80%AA%E5%9B%B3%E5%B7%BB

《怪奇談絵詞》かいきだんえことば

日本の妖怪絵巻。作者不詳だが、幕末から明治時代初期にかけて作られたものと見られている。全33点の怪奇譚を収録した作品であり、福岡市博物館に所蔵されている。この絵巻独自の大きな特徴は「ヲロシヤの人魂」「イギリスの蟻」「カピタンの螻蜓」など、諸外国を奇抜な姿の妖怪として描いたものが多いことで、これらはロシアやイギリスを風刺して創作された妖怪と考えられており、当時の時代性を反映したものと見られている。強欲の僧を風刺した「虎にゃあにゃあ」、江戸幕府の鋳造による天保通宝を風刺した「ちょうせん一賈婦人」など、風刺としての妖怪も多い。また伝承・空想上・創作の妖怪のほかにも、身体的特徴を見世物とする者を記録した「大きな陰嚢」「提灯男」、当時はまだ珍しかった動物を妖怪視したものとして、アザラシまたはオットセイを描いた「鐘崎浦の珍獣」といったものもある。日本各地の多種多様な怪奇譚が雑多に収録されている中、特に筑前、肥前、福岡などの話が多いことから、この絵巻は九州に関連したものとの指摘もあるが、類例の絵巻が確認されていないこともあって、この絵巻のおける数々の怪奇譚がどのようなコンセプトにのもとに取り上げられたかは、まだ判明していない。

《怪奇鳥獣図巻》かいきちょうじゅうずかん

作者·年代不详,推测是江户时代的妖怪绘卷。收录了《山海经》中出现的七十六种妖怪(30种鸟类·46种兽类)。『山海经被认为是从奈良到平安时代传入日本的,但并不是日本人感兴趣的对象。在中国,明朝时期《山海经》的二创书籍再次传入日本,江户时代后也出现了仿本。《怪奇鳥獣图卷》被认为是当时制作的作品之一。书中的名称表记和解说,比如"相柳"读作そうよく,"洵山"读作くじょう等,与原文相比差误极大。

《今昔画図続百鬼》こんじゃくがずぞくひゃっき

1779年に刊行された鳥山石燕の妖怪画集。雨・晦・明の上中下3巻構成。『画図百鬼夜行』の続編にあたり。巻頭は逢魔時、巻末は日の出が描かれており、妖怪たちが動きはじめるたそがれ時と、妖怪たちが姿を消す朝の太陽とを対比させた構成になっている。 『画図百鬼夜行』に較べ、土蜘蛛・酒呑童子・般若・橋姫・長壁姫・鵺など芸能で広く認知されていた妖怪が多く描かれるようになったほか、陰摩羅鬼・片輪車・骨女などのように『諸国百物語』や『伽婢子』などのような説話集から題材を得たり、魍魎・覚・水虎・野衾などのように『和漢三才図会』に掲載された記事を引用したり参考にするなどして描かれたものもあり、山精や魃など中国の妖怪も含まれている。 いっぽうで、百々目鬼・天井下・大禿などのように典拠が明確ではない妖怪もあり、石燕による創作による部分が多い妖怪では無いかとも考えられている。同様の妖怪は続作(『今昔百鬼拾遺』)にも見受けられる。

上之巻

雨逢魔時·鬼·山精·魃·水虎·覚·酒顛童子·橋姫~般若·寺つつき·入内雀·玉藻前·長壁·丑時参

中之巻

晦不知火·古戦場火·青鷺火·提灯火·墓の火·火消婆·油赤子·片輪車·輪入道·陰摩羅鬼·皿かぞえ·人魂·船幽霊·川赤子·古山茶の霊·加牟波理入道·雨降小僧·日和坊·青女房·毛倡妓·骨女

下之巻

明鵺·以津真天·邪魅·魍魎·狢·野衾·野槌·土蜘蛛·比々·百々目鬼·震々·骸骨·天井下·大禿·大首·百々爺·金霊·天逆毎·日の出

《蕪村妖怪絵巻》ぶそんようかいえまき

江户中期的俳人·画家"与谢芜村",在宝历4~7年于丹后国宫津修行期间、借宿见性寺时所绘制。相传为宫津町的俳人黑田芝英所有,乾猷平恳求他将俳谐相关的文献借给北田紫水文库保管。此后实物下落不明,只有文库的复刻版本流传。芜村的绘画特征是用柔和的笔触描绘幽默的场面。比如榊原家的猫妖;鎌倉若八幡的银杏妖;林一角坊前出没的赤子;山城的真桑瓜怪物;木津的西瓜怪物;京都帷子之辻的尻目,横手的产女,远州的夜泣婆;1797年的『新花摘』等作品中有很多关于狐狸和狸猫的体验,可以看出芜村是在周游日本时创作的这部作品。

《土佐妖怪草紙》とさおばけぞうし

作者不详、全16集的江户后期妖怪谭。日本各地的妖怪集结在土佐,最后以黎明到来而逃走的场面为结尾。吝啬火、山父等江户时代土佐流传下来的民间传说也被收入其中。根据战后被翻修后写下的奥书记载,

土佐筆頭家老である深尾家の御櫛役を寛延2年(1749年)から長年にわたって勤めた吉本家の第3代栄助正成が本作品を拝領し、6代武平の娘が嫁ぎ先に持参したとあり、平成以降においてもその嫁ぎ先の家に伝えられている。奥書によれば幼君の夜伽に用いられたものとされ、作者は近世中期以降の妖怪画や幽霊画のような著名な絵師ではなく、田舎に住んでいた無名の絵師と見られている。一方で佐川町教育委員会蔵のものは、巻末の記述によれば製作時期は安政6年(1859年)とある。前述の個人蔵品と妖怪譚の大筋は同じであるため、この絵巻が当地で描き継がれていたことや、個人蔵版を模写してこちらの作品が描かれた可能性も示唆されている。しかし物語の順序や、描かれている妖怪の特徴などに違いが見られることから、単純な模写品とも言い切れず、佐川町教育委員会に所蔵された経緯も不明であり、本書がどのように描き伝わっていたかは、今後の研究が待たれている。

《百鬼夜行絵巻(松井文庫)》ひゃっきやぎょう えまき

尾田乡澄以"尾田淑太郎"的笔名、于天保3年(1832年)绘制的江户妖怪画卷。与室町时代描绘的百鬼夜行类作品不同,本卷在采用与图鉴的样式排版、每个妖怪都有命名。开头为进行百物语的人物绘画。收录的妖怪数量为58只,是佐胁嵩之的《百怪图卷》的两倍。据说乡澄向松井家的御用画师甲斐良乡学习了绘画妖怪的技术,继承了肥后细川家御用画师"矢野派"的绘画流派。关于制作的经过和内容的由来等并没有传来,只传说从制成之后就被保管在肥后国八代城主松井家,现在收藏在松井文库。

《化物草紙》ばけものぞうし

也被称作《化物草子》《案山子妖絵巻》。推测为室町時代後期土佐光茂所作。内容由5个短篇故事构成,分别为:(1)蚂蚁和虱子变成人类小孩,在别人家的院子里相扑;(2)勺子变成人手,想要栗子料理的故事;(3)坏掉的铫子变成人类模样出现的故事;(4)梦见帮助了掉进提子里的苍蝇,自己在快被淹死时被附近的人救了出来;(5)稻草人化身为男性,与女性私会的故事。早稻田大学收藏的画卷中,有一本以守纯的嘉永元年(1848年)的《化物草纸》为主题的摸本,这本书的内容与上述故事不同,被认为是异本。其中包括有:(1)空房里有各种各样的妖怪出现的故事;(2)平维茂遇到女幽灵的故事;(3)阎王遭火灾等灾难的故事。

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