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奇幻生物

吸血鬼词源

 与想象不同,吸血鬼这个概念并非传说中描述的那样古老。到了16世纪末,西方才流传起吸血鬼的故事。直到1732年,这个概念才被人们大肆报道。

 吸血鬼(vampire)の語源については諸説ありますが、スラブ語源説では一致しているようです。ドイツ語 Vampir はセルビア語の vèmpïr からの派生と考えられますが、vèmpïr 自体もリトアニア語 wempi(「飲む」)、トルコ語 uber(「魔女」)、セルビア・クロアチア語 pirati(「吹く」)からの派生かもしれません。他方、チェコ語ではupir、ポーランド語では upior、ロシア語ではupyr'などの形があり、18世紀のフランス語辞書(Dictionnaire de Trévoux ,1752)で oupire, upire などの語形が現れるのはそのためだと考えられます。

 フランス語での初出に関して複数の文献28が1746年に Dom Calmet がドイツ語 Vampir から借りたのが最初だとしています。一方、これとは別の説もあります。Sabine JARROT29はJean-Claude Aguerre の説として1732年説を紹介した後で、Dictionnaire de Trévoux (1752) 中 のStryges の項目を転載していますが、この項目そのものが1693年5月と1694年2月に『メルキュール・フランセ』誌(Mercures Francois)に載ったという記事の引用からなっています。つまり、vampire という語が使われず、Stryges, Demon で説明されている点を別にすれば、近代的な吸血鬼に関するフランス語世界での内容的な言及としては1693年まで遡れることになるのです。なお、Jaques FINNE は前掲書でTony FAIVRE (Les vampires, Le Terrain Vague, 1962)に依拠して、1694年10月の『メルキュール・ギャラン』誌(Mercure Galant)に発表された記事(和訳はここ)が吸血鬼についての最初の本格的評論であったとしています。
  内容的な言及が1694年まで遡れることは二つの証言から確かだと思われますが、vampireという言葉自体の初出については1732年説をとりたいと思います。1732年はアルノルト・パウル(Arnold Paole)という吸血鬼についての調査報告書 Visum et Repertum(和訳はここ)が出版された年ですが、この報告がすぐに『ル・グラヌー』( Le Glaneur, historique, moral, littéraire et calotin)という雑誌(1732年3月号)でトゥルヌフォール(Tournefort)によって詳細に紹介され、ここに vampyre というフランス語がはじめて登場したようです。本文で紹介した複数の論者が1746年説をとるのは、この『ル・グラヌー』誌の記事をさらにDom Augustin Calmet (1672-1757)という聖職者が自著(Dissertation sur les revenants en corps, les excommuniés, les oupires ou vampires, broucolaques, etc)で取り上げたのが1746年だからです。英語の vampire についてもアルノルト・パウルの紹介記事が1732年に『ロンドン・ジャーナル』3月号に載ったのが初出です30。ドイツ語ではTony FAIVREが発見した吸血鬼ピーター・プロゴジョヴィッツ(Peter Plogojowitz)の公式報告書(1725)が最初のようです。
 なお、stryge( ストリガ)と vampire の混乱については次のように考えることができます。Le Grand Robert ではstrygeを次のように定義しています。「女や雌犬に似た吸血鬼。伝説によれば、夜徘徊して男の血を吸う。」「古くなった語」と注があり、strygeという綴りの初出が1534年、strigeに変わるのが1868年とあります。主に女性的な形象であった点などがlamie、empuse、onoscèleなどの古い民俗的な伝承を思わせます。吸血鬼の前近代的なイメージを担っていたのがこの語であり、18世紀に使われたときにはすでに近代的な vampire に対して古風な響きを持っていたと思われます。しかし、18世紀に吸血鬼像が 近代的に再定義されるうえで従来から存在した stryge という語も動員されたのでしょう。混乱は古語stryge と新語 vampireが共存し、ある者は同義語として使用し、ある者は区別して使おうとしたことから生じたと考えられます。

 吸血鬼(vampire)は皮肉にも啓蒙の世紀18世紀初頭に西洋に姿をあらわした未だに民俗的であると同時に近代が生んだ観念だったのは以上の語源の検討からもわかります。


 ちなみに啓蒙の代表的なシンボルとも言えるディドロ、ダランベールの『百科全書』Encyclopédie(1765年版)では次のような定義が与えられていました。

「吸血鬼、男性名詞(迷信史):夜間に生者の血を吸い、その血を死体に与えるいわゆる悪魔。当の死体の口、鼻、耳からは血が流れ出す」31 拙訳

 この定義は今日の我々が考える吸血鬼とは異なっています。この定義が問題にするのは死者そのものではなく、死者に生者の血(あるいは肉)を献ずる媒介的存在としての悪魔であり、悪魔自身が身体を有するかどうかも明確ではありません。今日の vampire は自ら血を求め、それを自らの滋養とする自立した身体的存在です。しかし、ここで注目すべきなのは、「迷信史」(Hist. des superstit.)という項目分けや「いわゆる悪魔」(prétendus démons)という表現などに容易にみてとれるように、『百科全書』を執筆した啓蒙主義者たちがもはや吸血鬼の存在など信じていなかったという事実です。

 ヴォルテールは『哲学辞典』(1769)で吸血鬼信仰を皮肉たっぷりに揶揄しています。

「ずっと以前からギリシア正教徒は、ギリシャで埋葬されたカトリック教徒の体が腐らないと思ってきた。(ギリシア正教からみればカトリック教徒は)破門されているからだ。これは我々カトリックの考え方とちょうど逆である。我々は体が腐らないのは永遠の至福を得たからだと信じている。だから、ローマで100エキュ払って聖人免状を出させてはその人たちを聖人として崇拝する。
 ギリシャ人はそうした死者は魔物だと信じ、bの発音方法によってブルコラカ、あるいはヴルコラカと呼んだ。死者たちは家々を訪れ、子供の血を吸ったり、親の夕食を勝手に食べたり、酒を飲んだり、家具をすべて壊したりする。彼らを正気に戻すには捕まえて焼かなければならない。ただし、体を焼く前に心臓を取り出しておき、これは体とは別に焼く必要がある32 。」拙訳

 異文化の習俗に対する文化人類学者を思わせる涼しげな眼差し、そして、それと相照らして自文化に皮肉な眼差しを向けてそれを相対化する聡明な精神、つまり啓蒙精神にとって吸血鬼はもはや迷信以外の何物でもないのです。以下の引用で、ヴォルテールの舌鋒はさらに冴え、吸血鬼が搾取者のメタファーとして実に使いかってのいいことを示しています。

「死者たちがご馳走にありついたのはポーランド、ハンガリー、シロンスク、モラヴィア、オーストリア、ロレーヌであった。ロンドンやパリでは吸血鬼の話は聞かれなかった。もっとも、この両都市には投企屋、収税請負人、実業家たちがおり、真っ昼間から民衆の血を吸っていたのだ。彼らは腐敗してはいたが、死んではいなかった。これら真の吸血者たちの住処は墓地ではなく、快適な豪邸だった33 。」拙訳

 当然のことながら、パリ大司教宛の手紙で次のように述べる、かのルソーも吸血鬼を信じてはいません。

「この世に証明された話というものがあるとすれば、それは吸血鬼の話だろう。調書、名士、外科医、司祭、役人たちの証明書、すべてがそろっている。法的証拠としては非の打ち所がない。それでも、誰が吸血鬼を信じるだろうか。信じなければ、我々はみな地獄へ堕ちるのだろうか。(「ローマ建国史」で)リウィウスが語る奇跡がたとえ疑い深げなキケロ風の口吻で証明されようとも、私は作り話と考える。そう思うのは私だけではない。」34 拙訳

 ルソーの話にもあるように、特に18世紀前半には吸血鬼の報告が多かったようです(年表)。とりわけ有名なのが、オーストリア皇帝が調査を命じたというセルビアの農民アルノルト・パウル(Arnold Paole)のケースです。これについては『ル・グラヌー』( Le Glaneur, historique, moral, littéraire et calotin)という雑誌(1732年3月号)にトゥルヌフォール(Tournefort)が詳細な報告を書いており、先のヴォルテールの情報はこれによっていると思われます。同報告についてはずっと後にバイロンも言及しているところをみるとかなり評判をとったのでしょう35 。後にみるように近代の吸血鬼物語の源流にバイロンが重要な役割を果たす以上、この報告が吸血鬼物語の誕生に間接的に関わっていることにもなります。

 ピーター・プロゴジョヴィッツ(Peter Plogojowitz)とアルノルト・パウル(Arnold Paole)に関する報告は拙訳を参照してください(前者はここ、後者はここ)。いずれの報告の場合も腐敗がない、新陳代謝が見られる、口の中の鮮血、さらに肉体性の急激な消滅といった吸血鬼の典型的な症状がみられ、一種の吸血鬼病の診断書の趣があります。また、先に教皇インノケンティウス8世が認定した悪魔的存在として男夢魔(インクプス)・女夢魔(スクプス)を挙げましたが、「夢枕に現れ、体を重ねて横になり、首を死ぬ ほどに締め付けた」という証言はまさに夢魔を思わせます。いずれの場合も吸血鬼は患者であるだけではなく、すでに加害者に変貌しています。ここに登場する吸血鬼は『百科全書』の定義とは異なり、自ら生者の血を求め、それを飲むと同時に相手を亡き者にするという点で今日の我々が考える吸血鬼とほぼ同じです。vampire という語にはこのように混乱があったようですが、後の吸血鬼物語の対象となるのはこの自立した吸血鬼だけであるといってもよいでしょう。

 問題が残ります。なぜ近代西洋にこうしたおどろおどろしい民俗的形象が入り込んできたのか、という問いです。近代の吸血鬼はキリスト教が生んだ存在だという話をはじめにしましたが、ジャン・マリニーの前掲書などに依拠してキリスト教の歴史を今一度繙くことにしましょう(年表参照)。

 ヨーロッパをキリスト教化するうえで、教会ははじめは(5~10世紀)異教の一部の民俗を同化して取り入れようとしました。元々は異教の神々だった存在を悪魔や天使としてキリスト教化・一神教化したわけです。一方で、フランク王国などでは異教の慣習を取り締まる動きも始まります。782-785年にカール大帝はザクセン人の反乱を鎮圧し、政令(De partibus Saxoniae)により王への謀反や秩序壊乱を謀る者を死刑とすることで異教的慣習を根絶しようとしました(Chronologie des Carolingiens 参照)。その「悪魔的」慣習には人肉饗宴や魔術などが含まれます。なお、ローマ教会は10世紀以降、異教的慣習を一切認めようとしなくなります。

 「生ける死体 mort-vivant」が教会との関わりで最初に現れるのは11,12世紀のフランスとイギリスです。1031年、リモージュ公会議(le Concile de Limoge)でカオール(Cahors)の司教が最初の生ける死体 のケースを報告しています。秘蹟を拒んだ騎士の死体が聖別された墓地に何度埋葬しても地上に出てくるので墓地外に埋葬したらおさまった、という話です36。吸血などの加害行為はありません。1304年の公会議記録にも内容的にはこれによく似た例が報告されています37。イギリスでは「血を吸う死体」が12世紀に登場し、幾例か報告が残っています。Walter Mapが書いた「廷臣閑話」"De nugis curialium" (1193)の一挿話はこうです。不信心のならず者が死後に現れ、隣人の名前を呼ぶとその人たちが次々と死んでいった。ヒアフォード司教の提案に従って、ウィリアムという兵士が死体を掘り出し喉を掻ききったが悪事はやまない。ついにウィリアムの名が呼ばれるに至ると彼は果敢に剣を抜いて「血を吸う死体」の跡を追い、終いには墓で首を切り落とした。以後、たたりはやんだ38。William de Newburgh の「英国列王伝」"Historia Regis Anglicarum" (1196)にも別の挿話が載っています39

 14世紀にも生ける死体現象が続き、1337年と1347年に発見された生ける死体は串刺しのうえで焼かれ、1343年にはプロシアのSteino de Retten男爵 (Lauenbrug) の死体にも疑いがかけられました40。なお、1346~1353年にペスト禍がヨーロッパを襲った事実にも注目しておきましょう。この後、西ヨーロッパでの報告は途絶えます。

 育まれた幻想を今度は王権あるいは教会が制度化することになります。異端裁判所が魔女の存在を認定したように、15世紀にはローマ教会が二つの魔物(超自然的存在)を公認します。1414年~1418年、神聖ローマ皇帝であったジギスモンド(Sigismond de Luxembourg)が招集したコンスタンスでの世界公会議(concile oeucumenique)では、教会に狼男の存在を正式に認めさせることに成功します41。1484年には、教皇インノケンチウス8世は「限りない愛情を持って要望する」の名で知られる教書により、二人のドミニコ会修道僧の著書『魔女の槌』(Malleus Maleficarum)の出版を許可します。これにより「生ける死体」の存在が男夢魔(インクプス)・女夢魔(スクプス)の名の下に公認されることになります。北ドイツの二人の異端審問官ハインリヒ・クレーマーとヤーコプ・シュプレンガーに権限を与えることを目的とした本教書は次のように始まります。

「最近、次のようなことをよく耳にする。深い苦悩をもたらさずにはすまないことだが、北ドイツの諸地方[...]のいたるところで、男女を問わず多くの人々が、自らの霊の救済を忘れ、カトリックの信仰から逸脱し、男夢魔(インクプス)・女夢魔(スクプス)に身をまかせてしまった。」42 

 権限を与えられた二人は2年後の1486年、異端審問官つまり魔女狩りの基本文献となる悪魔学の書『魔女の槌』を出版し、これが印刷術のおかげを被り空前のベストセラーとなります。

 生ける死体の後に続くのが狼男です。狼男の報告事例が1520~17世紀半ばで3万件に及びます。特にフランス、セルビア、ボヘミア、ハンガリーなどが多かったようです。

 そして、近代になって第2期目の「生ける死体」、吸血鬼が姿を見せます。はじめの頃はナハツェール(nachtzehrer)と呼ばれた吸血鬼の出現を抑えるため、1552年以後プロイセンやシロンスクでは死体が噛めないように口の中に石や硬貨を入れるようになる慣習が生まれたことは発掘調査などで明らかになっています。二期目の「生ける死体」出現はそのまま続き、18世紀には科学的な報告書が出されるに至り、西ヨーロッパでも一大ブームとなったことはすでに見たとおりです。第二期目の報告は主に東ヨーロッパ諸国でなされました。それはなぜなのでしょうか。ジャン・マリニーは二つに要因を挙げています。

 まず、ルネッサンスや古典主義の近代的な思考様式が生まれた西欧に比べ、東欧が経済的に立ち後れ、教育や情報網も発達していなかったということが挙げられます。人々は相変わらず魔物に囲まれて生きていたのです。この社会学的理由に加え、宗教的な理由があります。すでにみたように第1期目の吸血鬼は西欧で見られましたが、ローマ教会はその後異端審問(魔女狩り)に見られるように異端や迷信(民間信仰)を厳しく取り締まるようになりました。それに対して、ギリシャ正教会は俗信に寛容な姿勢をとり続けたことはブルコラカスが典礼に紛れ込んだ点などにも見て取ることができます。

 これにヴォルテールが指摘するようなギリシア正教徒とカトリック教徒の間の死体観念の違いを加えることもできます。つまり、ギリシャでは死体が腐敗しないのは不吉な悪意の徴ですが、同じことがカトリック教徒にとっては聖性の証だというわけです。腐らない死体は西欧では天使になり、東欧では吸血鬼になる

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根据《牛津英语词典》的记载,"vampaire一词于1734年被引入英语,但拼写尚未固定,有"vampire"和"vampyre"两种写法。受到马修-范森的《吸血鬼百科全书》第38页的拼写影响,"vampyre"这个词如今仍被用来形容特殊或强大的吸血鬼。最早将其翻译为"吸血鬼"的字典,则是日本弘治年间出版的「蕃語象胥」。此词典翻自1854年『Kramers: Woordentolk verkort』。原书以荷兰语写成,由于吸血鬼是18世纪前期才出现的造词,欧洲各国语言中的形式大致相似。在「蕃語象胥」中,吸血鬼并没有被写作vampire、而是写作了vampyre。

  由于1814年刊行的第一部英日字典「諳厄利亜語林大成」并不全面,江户幕府的通词(翻译家)堀辰之助等人将H.Picard的「新英荷字典」的荷兰语部分翻译成了日语、编撰出了「英和対訳袖珍辞書」。新英荷字典共有两个版本,初版为1843年,1857年的修订版中才收录了vampire一词,其中记载着:Vampire, s.bloedzuiger (soort van bleermuis)

  堀辰之助和他的同事们在将荷兰语翻译成日语时,很可能参考了『和蘭字彙』,该词典中"bloedzuiger"一词被译为 "水蛭"。故而在「英和対訳袖珍辞書」的初版(1862年)中,vampire也被翻译为了水蛭。

  这种词义偏差,源自1725年的佩塔尔·布拉戈耶维奇事件、以及随后几年发生的阿尔诺尔德.巴温事件。这两场事件导致了18世纪西欧的吸血鬼辩论,也是留有官方记录的最早的吸血鬼案件。当时,科学家、神罗帝国的官员、神职人员、伏尔泰、卢梭等启蒙思想家、甚至连甚至连玛丽亚-特蕾莎皇后的医生杰拉德-范-斯维腾和教皇本笃十四世都参与到了争论中。争论的中心地位于神圣罗马帝国,更准确说,是在奥地利哈布斯堡帝国。因此很多德语的报道常用"Blutsauger"这个词来描述吸血鬼,在德语中,这个词也有现实中吸血动物的含义。无论人们认为吸血鬼是否存在,辩论的证据多依靠宗教理论。只有一名叫做唐·奥古斯丁·卡尔梅特的法国神职人员从启蒙运动和科学的角度否定了吸血鬼存在。他用"sangsue(法语中的水蛭)"这个词,来解释吸血鬼信仰的原型。1823年,大仲马在一个吸血鬼剧团偶然遇到法国作家夏尔·诺迪埃,后来他在日记中写到,诺迪埃向其推荐了卡尔梅特的论文。由此可见,当时西欧报纸上就有人把吸血鬼比作水蛭。

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▲ 1857年出版的「蕃語象胥」

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▲ A New Dictionary of the English and Dutch Languages, H.Picard(1857)

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▲ 1862年(文化11年版)「英和対訳袖珍辞書」

▣ 佩塔尔·布拉戈耶维奇 Petra Blagojevich

塞尔维亚当地传说,他在1725年从坟墓中爬出来并杀死了九个人。

▣ 阿尔诺尔德.巴温 Arnold Paole

17至18世纪的吸血鬼调查报告

▣ 夏尔·诺迪埃 Charles Nodier

  法国小说家,诗人,浪漫主义文学运动的代表人物之一。

  而在1732年3月3日出版的法荷宫廷杂志《Le Granule》上,详细描述了阿尔诺尔德.巴温事件。吸血鬼是水蛭类怪物的概念便由此传入了荷兰语中。尽管从19世纪波利多里的小说《吸血鬼》开始,大众文学将吸血鬼描述为了贵族般有着理性与浪漫色彩的不死魔物,但学术书籍可能还是保有了"吸血鬼是附在尸体上、像水蛭一样吸血的恶鬼"的民俗观点。而大量参考学术典籍的字典,自然有很大可能性直接引用了吸血鬼辩论中的"权威"论点,把vampire翻译成了水蛭。

  尽管初版「英和対訳袖珍辞書」将vampire译为了 "水蛭",1866年堀越上野之助等人编纂的版本却明确将其指代为"大蝙蝠"一样的魔物。

  『妖鬼(小説ニテ夜中人ノ血ヲ吸ウト云ハレシ)大蝙蝠ノ名

   根据早川勇、三好彰的说法,堀越和他的同事们参考了1859年的韦伯斯特英英词典。 例如,1864年的版本记载:

  『In mythology, an imaginary demon, which was fabled to suck the blood of persons during thenight.…

  1859年版的《韦伯斯特词典》可能有与64年版相同的描述,堀越也许据此把demon翻译为妖鬼,把fabled翻译为小说。但这里的'小说'可能不是

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▲ 1866年「英和対訳袖珍辞書」

如今通俗意义上的小说。因为首次将novel翻译为"小说 "一词的坪内逍遥在1859年才出生。"小说"一词在中国最早指民间故事,即与国史・正史相对而言的市井民话(稗史小説)。因此,这里fabled的词意更接近于寓言、民间传承,而并非虚拟作品。堀越将vampire译为"妖鬼"这点也被后来的词典所继承,1869年高桥信吉的『和訳英辞書』、1871年前田正穀等人的『和訳英辞林』、1872年荒井郁之助的『英和対訳辞書』都出现了同样的译法。

  三年后,在吉田賢輔1872年出版的『英和辞典』中出现了如下定义:

「魔、血ヲ吸フ鬼(小説ノ)、大蝙蝠ノ名〇啐血之蝠、飛狗、牛蜞、蝙蝠」

  与之相似的词也见于Lobscheid的『英華字典』,可能参考同源。1873年,柴田昌吉、子安峻所著的『英和字彙 附音插図』中以振仮名「チヲスウオニ」表记了Vampire这个词,这是如今能找到与吸血鬼这个词相关的最早文献。大众认为是南方熊楠在1915年的《关于诅咒》在最早提到此词的观点是错误的。 由于找不到更古老的例子,基本可以肯定"吸血鬼"是由柴田和子安所创造的。

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▲ 1869年高桥信吉『和訳英辞書』

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▲ 1873年『英和字彙 附音插図』

▲ 1872年吉田賢輔『英和辞典』

だが6世紀の「仏説仏名経」では『吸血鬼王』という言葉があり、十四世紀の「渓嵐拾葉集」では「旱恩吸血鬼」という言葉があることが奏春氏の調査で分かっている。英語vampireの成立は一般的に1734年とされているので、これらの語に「ヴァンパイア」の意味はない。それでは柴田・子安らはこの「吸血鬼王」「旱恩吸血鬼」という言葉を知ってて、それを流用した可能性はあるのか。これらの言葉は古くから仏典で使われていたようである。だが調査人である奏春氏は、これらを柴田らが知っていたとは考えにくいとしている。私はまだそう言い切るのは早いのではと思い、奏春氏と議論を交わした。だが般若心経とか法華経などの見たり聞いたりする機会が多いものなら、柴田・子安らが知っていた可能性はあるかもしれないが、仏教徒でない人間が仏説仏名経とか渓嵐拾葉集を目にする機会はほとんどないだろうから、柴田、子安らが「吸血鬼王」「旱恩吸血鬼」という言葉を目にしたとは考えにくいということであった。自身の浅学さを思い知った次第である。さてもう一つ気になるのが、この辞書では吸血鬼に「チヲスフオニ」というルビを振っていたこと。これも先行で紹介した動画では、そう読ませていたものと勘違いして紹介してしまった。だがこれは森岡健二や湯浅茂雄などによると、「読み仮名」ではなく「意味の説明」なのだという。そのため、吸血鬼の読みは、「チヲスウオニ」ではなく「キュウケツキ」と想定されていた可能性は高い。この「チヲスフオニ」とルビを振っていたのは、1889年の岡上尚儀による「英和字彙」まで確認できる。 この柴田・子安らの1873年「英和字彙 附音插図」以降、ヴァンパイアの訳は「英和対訳袖珍辞書」に影響を受けた「妖鬼」と訳すものと、「英和字彙」に影響を受けた「吸血鬼」と訳すもの2系統に、大まかに分けることができる。英和字彙が出版された1873年から1900年の間に出版された英和辞典は、全78冊ある。その間で「妖鬼」と訳したものは17件、チオスウオニを含めて「吸血鬼」と訳したものは44件であったことが、奏春氏の調査で判明した。これは奏春氏のドロップボックス内にある「vampire訳一覧.pdf」で確認して頂きたい。このように19世紀末日本では、”vampire”の訳語は定まっていなかった。だが20世紀に入るころには、vampireの訳語は「吸血鬼」が主流となっていった。「妖鬼」は奏春さんが調べた限りでは、1904年、磯部清亮『最近英和辞林』が最後の例のようだ。 ここでもう一つ、明らかにしておきたいことがある。それは「吸血鬼」という漢語は本当に和製漢語であり、中国語由来ではないのか。現在、vampireの中国語訳は日本と同じく「吸血鬼」である(こちらも参考)。だが最初の記事で解説したようにvampireという存在は欧州の血を吸う化け物を指す言葉。”vampiare”という単語が出来たのもオックスフォード英語辞典によれば1734年とされている。ということで、たとえ中国で作られてとしても最短で1734年と、比較的新しいということになる。それで結論から先に行ってしまえば、吸血鬼という単語は和製漢語であり、それが中国へ輸出されたものとまず考えてもよい。 今の日本、特にビジネスの世界だと何でもかんでもカタカナ語で表現したがる傾向にあるが、幕末から明治にかけては、西欧の文物や概念を日本人でもすぐ理解できるように、西欧の語彙や概念を漢字に置き換えてきた。 科学、哲学、野球、接吻、共産、失恋、進化などは、全て日本で作られた漢語である。和製漢語は特に近代以降、中国に輸出されたものも少なくない。中国が近代化を遂げる過程で、特に日清・日露戦争前後に、中国人留学生によって日本語の書物が多く翻訳されたことが大きいとされる。先ほど挙げた和製漢語は、どれも中国語となっている。(参考:wikipedia記事) 英単語を中国語対訳したものを「英華事典」というが、これも国立国会図書館デジタルコレクションなどで閲覧が可能。これも奏春氏が一連の調査を行った。1815~1823年のモリソン『英華字典』、1869年の復刻版のウィリアムズ『英華字彙』には、vampireの項目自体がない。1865年のメドバースト『英漢字典』、1866~69年のロプシャイト『英華文典』、1872年のドーリットル『英華萃林韻府』には「Vampire 蝙蝠」。 1897、1898年のF.キングセルの『新増英華字典』にはvampireの項目はあれど、「吸血鬼」という言葉がなかった。 これが1920年の顔惠慶(wikipedia記事)『英華大辭典』(画像掲載先)には、

『Vampire 1.吸血鬼(夜間出墓啜睡者血之鬼) 2.吸人膏血者,兇悪之人,勒詐者 3.吮血之蝙蝠,大蝙蝠』とある。

  この1920年の『英華大辭典』が、中国語で吸血鬼と訳していた最古の例であった。だが『英華大辭典』の初版は1908年である。また関西大学外国語教育機構・沈国威教授の研究によれば、和製漢語が中国へ流入したのは日清戦争前後、とくに中国人留学生が本格的に活動を開始した1900年から10年間と考えられるという。(PDF下番号47p)中国語で「吸血鬼」という言葉が確認できたのは、1908年『英華大辭典』が最古となる。

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▲ 1908年(光緒34年)「英華大辭典」

今回の調査をまとめると、日本で「吸血鬼」という漢語が確認できた最古の例は明治6年・1873年。一方、吸血鬼という中国語が見られる最古の例は、明治41年、中国がまだ清王朝だった1908年。和製漢語が中国へ流入したのは1900年から10年間がピークという研究結果も踏まえると、「吸血鬼」という漢語は日本で作られた和製漢語であると判断され、それが中国へと伝わったものと考えられるというのが、今回の調査の結論である。もちろん、これより古い例は探せばあるのかもしれない。とくに吸血鬼という訳語は明治6年が最古であったがここまで遡れたのなら、幕末には既に存在していれば面白いのになと思って調査したが、これより最古のものは見つからなかった。さて今回の調査では1873年が”vampire”を吸血鬼と訳した最古の例であった。一方、吸血鬼の代名詞であり、一般名詞として誤用されることもあるブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」の刊行は1897年。ドラキュラの刊行より24年も前に、日本では「ヴァンパイア=吸血鬼」という存在が伝わっていたことになる。それがいつしかドラキュラは吸血鬼の代名詞となるのだから、面白いものである。ドラキュラより刊行前の明治時代の人たちの「吸血鬼」とは、一体どんなイメージを持っていたのか気になるとこだ。

  前回は、vampireの訳語として「吸血鬼」という語があてられたのは、1873年(明治6年)の柴田・子安らの『英和字彙 附音插図』が、現状最古のものであることを解説した。そこから1904年までの間に出版された78冊の辞書を調査したところ、『英和対訳袖珍辞書』に影響を受けた「妖鬼」とするものと、先ほどの『英和字彙 附音插図』に影響を受けた「吸血鬼」と訳すものが混在していた。1904年の磯部清亮『最近英和辞林』を最後に「妖鬼」と訳す事典は見られなくなる。以降、”vampire”の訳語は「吸血鬼」でほぼ決定的となるが、実は1904年以降でも違う訳語が見られる。そしてそれは現在でも主流ではないが使われている事例があった。
 その例とは事典ではなくて小説であるのだが、1912年(大正元年)に田口桜村『黒手殺人団:探偵小説』という小説が刊行された。ちなみに「黒手殺人団:ブラックハンド」というルビが振られている。この小説には「吸血魔物語」という章がある。その章を見ていくと次のような文が目に入る。

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(中略)生き血を絞り血風呂を立てて、親分の妾が化粧するのだ。

何でも男の肌を知らない生娘の生き血を絞り、その血で風呂を立てて入ると、非常に肌がきれいになるという話からそんなことをするのだ。それだから、あの山の生き血を絞られた女は、今までに何十人あるかしれやしない。

先行して紹介した動画でも多くのコメントが寄せられたが、これは明らかに生きた吸血鬼と呼ばれた血の伯爵夫人・ハンガリーのエリザベート・バートリの逸話そのものである。バートリは若さのために、若い娘の血を浴びたことは有名で数々の拷問を行い、有名な拷問器具「鉄の処女:アイアンメイデン」を作り出したのではないかとも言われている人物である。また日本だけの俗説ではあるが、吸血鬼カーミラのモデルになったと紹介されることもある。

▲『黒手殺人団:探偵小説』

もちろんこれは俗説であり、バートリがカーミラのモデルとなったと示す資料は何一つないし、吸血鬼解説本では国内海外問わず、バートリを生きた吸血鬼と紹介はしていても、カーミラのモデルと紹介する本は皆無である。あるならぜひ教えて欲しい。こんな俗説が広まっているのは日本だけである。海外ではネットですらみたことがない。※1

明らかにエリザベート・バートリの逸話を流用されたと思われるので、この「吸血魔」という言葉は、吸血鬼:ヴァンパイアを指しているものと考えて間違いない。1930年「モダン辞典」では見出し語「ヴァンパイア」の意味として、「吸血魔の意から妖婦、妖婦役を云ふ。略して「ヴァンプ」と云ふ。」とある。

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▲「モダン辞典」

吸血魔を使っている事例は他にもある。ドイツの作曲家・ハインリヒ・マルシュナーが1828年に作曲を手掛けたオペラに「Der vampire(vampyre)」というものがある。詳細はゆっくりと学ぶ吸血鬼第12話をじっくり見てほしいが、ジョン・ポリドリの小説「吸血鬼:The vampyre」から始まる吸血鬼大ブームの最中に、ポリドリの「吸血鬼」から翻案されて作られたオペラである。「Der vampire」はそのまま日本語では「吸血鬼」の意味となり、種村季弘の「吸血鬼幻想」でも「吸血鬼」という題名で紹介している※2。ところが、コトバンクのマルシュナーの解説では「吸血魔」とあてて紹介している。
※2 「吸血鬼幻想」:種村季弘/河出文庫/1983年 P177

このように”vampire"の訳語には「吸血魔」というものも存在しており、今なお使われている例が確認できた。

 ちなみにマルシュナーのオペラ「吸血鬼」だが、ドイツ人作曲家のハンス・プフィッツナーが1924年に改稿しており、現在はその改稿版が通常上演されるという※3。
※3 「吸血鬼幻想」 P177、「Der vampyre」:英語wikipedia記事

もう一つ余談だが、「吸血鬼は日本の鬼と関係がある」として、色々な考察している方を掲示板などで見かけることがある。「鬼」の仲間であるなんていう意見も見たことも。確かに西欧でいうところのヴァンパイアは、日本の鬼の要素がある。どちらも力の象徴であるし、血に纏わる印象をもつ。日本の鬼は豆が弱点、そして吸血鬼は「豆」を数えると止まらないという弱点があることも、その一因だろう。だが吸血鬼がものを数えるものとしてまず挙げられるのは「ケシ」の種であり、その発端はどうも「ザクロの種子」である。吸血鬼が豆を数えるというものは、海外の吸血鬼本ではまず見かけない。これも日本の鬼の弱点が豆であることから、いつの間にかすり替わったに過ぎないだろう。ヴァンパイアは西欧で生まれた化け物であり、西欧の近代文学と映画で形作られたものであるから、日本の鬼とヴァンパイアがお互いに直接影響を与えたということはまずない。

 そしてこれまでの記事の解説を見てきたら分かるように、「鬼」の文字を使わず「吸血魔」とする例もある。「吸血鬼」という存在が一般的に知られるようになるのは、大体昭和頃である。なまじ吸血「鬼」とあるから日本の鬼と連想してしまっただけに過ぎない。夢を壊すようであるが、日本の鬼と西欧のヴァンパイアは、本来関係がないということをここで主張しておきたい。さて先ほど1930年「モダン辞典」には「吸血魔の意から妖婦、妖婦役を云ふ。略して「ヴァンプ」と云ふ。」と紹介した。ここで気になったのが、「妖婦」という意味を持たせていること。これは同じ1930年の「英語から生れた現代語の辞典」でも次のようにある。

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