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【アルカヴェ】ミス・ユー

「世界から色が消えたようだった」

パイセンに無体を働いたら逃亡されたハイゼンのところにパイセンから手紙が届き続ける話

なお全編通してつき合ってない

作者:あおさ

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 頭がおかしい。

 齢が五を数える頃には気づいていた。

 他の子どもが目を輝かす何にも興味を持てなかった。

 他の子どもに混じったとて何の会話も続かなかった。

 たったひとつ、両親の遺した書庫だけが宇宙。

「おかしいのではないのよ」

「あなたはとても聡明な子」

「特別であることはあなたの財産」

 祖母は陽だまりであった。

 全て肯定してくれた。時に戒めをくれた。

 故に子どもでいられたし、大人になれた。

 陽だまりが消え、一面、鈍色の平坦。

 眠れぬ夜と不規則なノイズ。

 耳を塞ぎ、薄い膜を張って、世界を隔てた。

 心が凪いだ。心地よかった。

 そしてただ、ページを繰る。

 規則正しい活字の羅列は、叡智と自信と安寧をくれた。

 宇宙は絶えず膨張を続ける──煩わしい大地にもはや足はなく。

 世界から、アルハイゼンは失踪していた。


Chapter: 一


「は? 失踪ってそんな」

「そう思うじゃないか。ただ実際、昨年の卒業式を最後にもうずっと、姿を見た者は誰もいないんだとか」


 ささくれた指の上を、象牙色の万年筆が踊っている。


「いや、だってあの人、去年エントランスホールにとんでもない模型展示してあったやつ……招聘されていたよな? 国立プラマーナ博物館の新築移転チーム」

「招聘だって? まさか。あれはあの人が在学中に作った設計図書一式を当局が申し受けたものだ。あの人ありきの属人的プロジェクトだった、それも飛んだ」


 ぐるり。

百八十度。薬指と中指の間から、マジックのごとく一瞬にして、中指と人差し指の間へ。本来万年筆が滑るべき机上のノートは、白紙のページが開かれたまま、お役御免を強要されている。


「スケールの違いすぎる話だな。……それなら今頃妙論派の連中は顔面蒼白だろうな。あれだけ華々しい広告塔があったからこそ、これでもかと外部の研究資金を引っ張ってこられたんだろうに」

「ご明察。それだよ、クシャレワー学院が特別講師のポストを用意したのだってそのためだ。卒業後もあの人の所属先の一つであるためにな。ま、そういうことで、ハーバッド会は頭を抱えているってわけさ」


 ぐるり。

 次は人差し指で弾かれた反動をもってして、親指の上をちょうど一回転。そして再度、ペン尻が人差し指に戻る。男の赤茶の髪を覆う制帽には、誇り高き紅孔雀のエンブレムが所在なさげに鎮座していた。


「それはなんともご愁傷様というか……あの人の薫陶を受けたいがためクシャレワー学院を志した学生もいたろうに」

「そう、そのとおりだ! 俺だって他学派聴講の資格は持っている。本当に楽しみにしていた!」


 ぐるり、ぐるり。

 百八十度の回転、のちに人差し指に戻ったペン尻を弾き、親指の上を一回転。その繰り返し。まるで筋と意思を持った生物のように、それはリズミカルに躍動した。


「まあその楽しみだってどんな意味だか」

「否定はしないな。ただでさえ論文審査に怯え過ごす身なんだ、それくらいの楽しみが欲しいと思うのは人の心じゃないか。だってあの人ときたら、そのへんの女優なんか顔負けの別嬪──」


 ぐらり。

 男の中指の上で、勢い余った万年筆は大きくバランスを崩す。

 男が下卑た単語を発するのと、月長石の床にラウンジチェアが引かれるのと、その床を万年筆が転がるのと、同時だった。探求と研鑽を旨とする荘厳の空間に、地獄の三重奏が響き渡る。雑談に興じていた男たちは慌てて万年筆を拾い上げる。そして机の対角線上にて椅子を引いて立ち上がった人物に、収まりの悪そうな会釈を送った。


「お気になさらず、此方はもう帰宅の時間ですので」


 制帽に黒牛のエンブレム。立ち上がった端正な男が慇懃に告げ、場を辞した。しかし男たちの椅子の背後で、不意にその靴音が止む。


「そうだ、先輩方。一つ気になっていた。不出来な後輩にご教示願えないだろうか。──スパンタマッド学院のシラバスに、『公共施設におけるマナー・基礎編』があったかどうか」


 斯くしてその夜、知恵の殿堂には憤死寸前の紅孔雀が二羽、残された。


 教令院はその施設全体を古い大樹と一体化させる形でデザインされているため、往々にして実用性の面が棄損されている──数年前、入学考査の席に着いたその日のうちにアルハイゼンは断じた。草神のおわすスラサタンナ聖処を戴き、眼下には日々忙しなく躍動するスメールシティ。大方、この俗世離れしたロケーションに身を置くことで崇高なる理念と矜持を、とでもいったところであろうが、その種の選民意識で気持ちよくなっていられる学者など、所詮その程度。


『虚栄心から追求し続けることはすべて塵よ』


 祖母の言を借りるまでもなく、驕りや陶酔は目を曇らす。学に身を立て、真理の追求を旨とするのであれば尚更、その目は公平かつ客観的でなければならない。故に、一種の勘違いを助長しかねないこのような立地に学舎を置いたことは悪手だったのでは──との難癖を付けたくなる程度には、要は遠い。便が悪い。

 実用性を欠く最たるもの──厭というほど続く石造のスロープをシティへと下りながら、アルハイゼンは己のざらついた感情を自覚する。


 ──妙論派の栄誉卒業生が失踪した。


 ここのところ、学派や入学期問わず学生たちの社交の場において広く流布される噂話である。栄誉卒業生の称を賜る者など、この教令院の歴史においても限られた極少数──いずれも大陸史に名を残す偉大なる学者たちであるのだが、その中でも妙論派、しかも存命の人物、ともなればそれが指すはたった一人。

 カーヴェという男は、斜陽の妙論派にとって再興を託す若き才であり、多くの学生にとってよき友であり、追うべき背中であり、心を酔わす華であり、スメールシティの民草にとって善良かつ天真爛漫な隣人であり、アルハイゼンにとって後悔と代償であった。

 その男は、首席で学を修めた約半年前、スメールシティから姿を消した。国家の一大プロジェクトも母校も友人も何もかもを放って、忽然と。

 妙論派の高名な学者が行方不明、というだけで多くの者はかの賢者カビカバスの悲劇を想起し青ざめ、そして天を仰いだ。

 しかし実のところそれは全くの杞憂である。

 カーヴェは今日もこのテイワット大陸に、伏することなく立っている。

 そしてそのことを知るのは、少なくともこのスメールシティでは現状アルハイゼンただ一人。そうは言ってもアルハイゼンとてそれを知ったのはつい二週間ほど前であるのだが──。

 二週間前のその日もやはり、実用性の面に不満を抱きながら、アルハイゼンは厭というほど続く石造のスロープをシティへと下っていた。そのうなじには、一筋の汗。

 日頃から閑静な自室にてひとり過ごすことを好むアルハイゼンであるが、暑季だけは二十一時の閉館時間まで知恵の殿堂に居座ることと決めている。

 夜の帳が幕を下ろして久しいというのに、太陽の暴力をたっぷりと蓄積した街は、快適な帰宅を許してはくれない。灼熱の街並みを抜け郊外の自宅に到着する頃には、制服の下の肌はじっとりと汗ばんでいた。

 祖母から相続したこの家は、古いながらも手入れが行き届いており、天涯孤独となった学生が慎ましく暮らす分には十分なものであった。唯一難点を挙げるとすれば鍵穴の経年劣化による施錠の甘さであったが、世の物盗りが目を輝かすような財産はこの家にはない。

 祖母と暮らした少年時代の思い出と、両親及び祖母が遺した大量の古書。それがこの家に内在するアルハイゼンの全てだった。

 この日までは。

 郵便受けに入っていた一通の封書の差出人の名に、アルハイゼンの喉が灼ける。

 空色の上質紙に繊細なレースカット。アルハイゼンが手にするには全くもって不釣り合いなその封筒の裏には、リターンアドレスも何もなく、青のインクでたったの五文字。

 ──Kaveh

 スメールシティから、教令院から、アルハイゼンの前から姿を消して久しい人の名が記されていた。

 一呼吸おき、アルハイゼンはそれを鞄の奥に仕舞い込む。世界から隠すように。

 洗濯、ベッドメイク、軽めの夕食、鉢植えの手入れ、入浴、ストレッチ、両親の書庫から一冊拝借、入眠改善剤を二錠。

 一日を終えるためのルーティーンを淡々とこなし、アルハイゼンは己に平静を課す。ベッドに入りアルハイゼンが手にしたのはしかし、書庫から持ち出した一冊ではなかった。

 たっぷり四分間。

 アルハイゼンは空色の封筒と対峙した。

 それが己に齎す影響について、いくつかの可能性とともに整理し、やがて意を決したように鋏を入れる。中からは空色の便箋が数枚と、色鉛筆で描かれたポストカード大のスケッチ。大きな木と白い平原……風景画のようだった。

『親愛なるアルハイゼンへ』

 見慣れた右上がりの癖字に確信を持つ。

 ため息を一つ、続く羅列へと飛び込んだ。

Chapter:薫風、風立ちの地から

 親愛なるアルハイゼンへ

 元気でやっているだろうか。

 僕のペンは今、宛名を書いたところでしばらくの逡巡を余儀なくされている。だって、今更きみに手紙なんて。

 勢いでレターセットを買ってきたはいいけれど、何を書くか、どう書くか浮かばないものだね。伝達すべき事項があったから便箋を買ったのではないのかと、きみがいたなら言うのだろうね。確かにその通り、その通りだったと思うけれど。かつては声を掛けたら届く距離にいたきみに、手紙という形で伝えることが慣れないのだと思ってくれ。

 ところで消印は見てくれたか? きみのことだからどこのどんな文字でも読めてしまうのだろうけど、そう、僕は今モンドに滞在している。

 驚かせただろうか。僕も正直驚いている。僕が驚いているならきみはもっとか。いや、きみが驚くことなんかそうそうないか。

 求めるものがあり、僕はスメールを離れることにした。それで、かなりの紆余曲折を経て、今この自由の国に流れ着いている。元気でやっている。何も問題はない。

 いや嘘だ。問題ならあった。

 アーカーシャが使えない。知ってはいたが、スメールを離れてすぐに応答がなくなってしまった。仕方ないのでシャットダウンして今やトランクの奥底だ。

 僕はきみと違って心の赴くままに(きみの言を借りるならば無計画に・衝動的にだろうけど、情緒がないので返却する)出歩く性分だから、アーカーシャがないと高頻度で詰む。それでも、ありがたいことに街の人は皆フランクで親切だったから、困ることはなかった。

 モンドの地を踏むのは初めてだったから、目にするものの全てが真新しく刺激的で、興奮が抑えきれなかった。どうしても建造物に目が行ってしまいがちになるのはご愛嬌だ。

 中でも、書籍と写真でしか触れたことがなかった西風大聖堂はさすがに圧巻だった。きみも写真でなら見たことがあるだろう? 荘厳な尖塔と可憐な円花窓が印象的な、モンドを代表する建造物だ。あれだけの高い尖塔をどうやったら倒壊させずにいられるものかと思うだろう? 詳細は割愛するけれど、天井からの推力を柱だけに逃がし、その柱に外壁から梁を渡すことで支えている。高い尖塔は信仰の象徴だ。より高く、高く、天上の神に祈りを捧げようと──その心がこの建築法を生み出し、塔を高くした。建築に限らず、技術や学問を発展させるのはいつだって人の願いなのだと僕は思う。

 それとやはり、スメールとの気候の違いに驚かされる。それほどスメールの気候が特徴的ということなのだろうけれど。モンドはいま春だ。春といっても、スメールの過酷な春と違って、とても穏やかで過ごしやすい。街も花も鳥も水も、全てが瑞々しい喜びに満ち、自由を、生を謳歌している。何もかもが風光明媚で美しい国だ。

 そして僕は今日、花薫る風に誘われて、モンド城にほど近い丘に立った。

 その小高い丘は、モンドの英雄を象徴する大樹と風神バルバトスの像が大平原を見渡し、人々を見守っている。言わば守護の丘だ。その丘に身を投げ出して、木漏れ日の隙間から、流れる雲を一日中眺めていた。そうしたらいつの間にか眠ってしまってね、きみの夢を見たよ。

 夢の中できみは怒っていた。いや、多分泣いていた。

 可笑しいと思うだろうか。僕はきみの険しい顔と仏頂面と真顔なら記憶だけで絵に描けるくらいは見てきたけれど、泣き顔なんかただの一度だって見たことがない。それなのに瞼を閉じて浮かぶのが泣き顔だなんて、どうしてそんな夢を見たのだろう。

 もしかしたらきみは泣いているのか? いや、そんなわけはないと僕だってわかっている。じゅうぶんわかっているけれど。

 それで、こうして手紙を書くことにした。ご機嫌取りなど不要だと怒るか?

 アルハイゼン、春のモンドには蒲公英という花が咲く。

 黄色くて可憐な、まるで太陽のような明るい花だ。

 そして黄色い花弁が萎むと、白いふわふわの綿毛という状態になるんだ。種子を風に乗せて遠くまで飛ばせるよう、羽に似た形をしている。文字でうまく説明できている自信がないから、スケッチしたものを同封した。

 モンドの人々は、この綿毛に息を吹きかけて飛ばすそうだ。遠くにいる大切な人に、未来に、希望に思いを馳せて。

 本当は、この蒲公英の綿毛を同封しようかと思ったけれど、聞けばその見た目の儚さとは裏腹に、とても生命力の強い、逞しい品種なのだそうだ。検疫を通していない外来植物の種子をスメールに持ち込むことの罪は、生論派の連中に言われるまでもなく僕だって弁えている。

 だから僕は明日、風神の像の丘で、この綿毛を吹くよ。偏東の貿易風が、遥かスメールの空の下にいるきみへ、僕の祈りを届けてくれるようにと。

 そして僕も明日、モンドを発つ。

 探し物が見つからなかったから、また別のところで探してみようと思う。

 もしかしたらそこでまた、手紙を書くかも。と言っておきながら忘れるかもしれない。僕のことだからな。

 スメールは今頃暑季か。教令院の石造のスロープを下りながら、きみがますます早足になる時期だな。きみの入学年度の出藍会のことを思い出す。僕を置いて歩くやつなんか初めてだった。なんだこいつはと思ったものだ。今でも思っているけれど。

 せっかく見晴らしの良い場所を歩けるのだから──これをきみに言った回数は百を下らないだろうな、仏頂面で本ばかり眺めていないで、たまにはその眺望に目を向けたらいい。きみが立つ世界はきっと美しいはずだ。

 アルハイゼン、薫風の風立ちの地にて、きみの健康と幸福を願う。

 カーヴェ

 ***

 ──くだらない。

 因論派の男子生徒がそわそわと要領の得ない質問をするのを、アルハイゼンはもはや半分とて聞いていなかった。

「質問ありがとう、それについてはレジュメ四ページの図表を──」

 すり鉢状のホールの中心部では、登壇者がにこやかにそして丁寧に、レジュメに既に記してある(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)内容を嚙み砕いて説明していた。

 新入生を対象とした行事は各種存在するが、出藍会と呼ばれるこの特別講義もその一つ。新入生の模範となるに相応しい──要は学にも徳にも優れた上級生が、各学派を代表し全新入生に講義を行う。一種のオリエンテーションでありデモンストレーションだ。

 そしてアルハイゼンが入学した年度の最終登壇者を務めたのが、六大学派序列に従い妙論派代表のカーヴェであった。その講義に際しては、新入生のみならず上級生からも多くの聴講希望者が集まり、ホールは満員御礼となっていた。

 蝶のような講義であった。

 テーマは、フォンテーヌ地方における建築様式の変遷から見られる宗教観について。新入生向けの軽やかさ、しかし学術的興味をこれでもかと刺激する華やかさ、そしてさらなる好奇心をしっかり煽ってくる鮮やかさ。本日の講義で唯一、聴講の価値──対価を支払ったとしても、があったとさえアルハイゼンは感じた。

 しかし人は所詮、己の持ちうる言語の形に世界を切り取ることしかできぬ生き物。講義後の質疑応答では次々と手が挙がるものの、説明済みの内容、浅薄な考察、アルハイゼンには聞くに堪えないものばかりであった。

 それもそのはず。

 ──過ぎた存在なのだ。

 誰一人、登壇者と対等に──その質問者たり得る次元に立てている者はなかった。

 己の理解の範疇を超えるものに遭遇した際、人は不安を、焦燥を覚える。それでも目を背けることのできない特異に、度し難い不安と焦燥に、仕方なく人は、自らが理解しうる形にそれを切り取り再定義することで、漸く折り合いをつけるのだ。

 アルハイゼンにはよくわかる。

『変なやつ』

『気持ち悪い』

 幼少期に己に向けられた刃と同じ構造であったからだ。しかし嫌悪の形に切り取られ忌避されたアルハイゼンに対し、この蝶は偶像化され愛でられる形で消費されようとしている。

 先程から質問者たちに見え隠れするのはカーヴェと話してみたい、カーヴェにこちらを見てほしい……およそ学究とはかけ離れたものであった。それでも登壇者はひとつひとつ真摯に対応する。蝶がひらひらと、大地に遍く鱗粉を振り撒くように。

 ──あの講義の価値がわかる者はいないのか。

 我慢がならなかった。質疑応答の残り時間二分というところで挙手をしたアルハイゼンに、カーヴェが手を差し出す。

「先輩、ご講義に感謝します。ハルヴァタット学院のアルハイゼンです。弾圧を受けたアニミストたちが暗喩的に用いるようになった、寓意としての建築意匠のお話がありましたが──」

 すり鉢状のホールを、ベルベットのテノールが滑り降りる。

 四百二十六人。カーヴェの瞳が歓喜に輝くのを見た聴講者の数だ。

 その質疑応答の後に挙手しようという者など、誰一人としていなかった。

「きみ、ちょっと待って、ねえ」

 散会後の人波をかき分け、厭というほど続く石造のスロープをカーヴェは駆け下りる。

 雨季と乾季の変わり目。天候の安定しない時期であった。空には鈍色の雲が垂れ込め、少しの肌寒さを覚える午後を、その背中目掛け、カーヴェは息を切らした。

「ねえ、えっと、あ、アルハイゼン!」

 その声にアルハイゼンは漸く振り返り、ヘッドホンの遮音機能をオフにした。

「先輩、何か」

「いやきみ、歩くの早いなあ。ちょっと待ってくれよ、こういう時は立ち止まって話を聞くなり、相手のペースに合わせて歩くなりするものだぞ。相手が困るじゃないか」

「それは俺には関係のないことだ」

「何だそれ、とんでもないなきみ」

 声を上げて笑うカーヴェにお構いなしに、アルハイゼンは歩き続ける。カーヴェが追いつき、その横に並ぶ。

「それで、俺に何か」

「ああそうだ、さっきは時間切れになってしまったけれど、本当はもっと質問があったんじゃないのか?」

「だからと言ってわざわざ追いかけてくるのか。一聴講者を」

「だって望まれるのであれば応えたいじゃないか」

 成程。

 それであのような質問とも呼べない消費すら甘受するし、たった一人の新入生を息を切らして捕まえに来ると? 才に見合わぬ性分を持った男だ。

「制限時間はもう過ぎたのだから結構だ。先輩にもご自分の勉学の都合があるだろう」

「別に僕は構わないぞ。新入生の役に立ってこその上級生だ。ていうか、待てよ、ほんと、歩くペースをだな、」

 カーヴェは遂にアルハイゼンの肩を掴み、その歩行を止めさせた。そして膝に両手をつき、ぜえぜえと背中で呼吸を整える。

「どうしてまだ質問があると」

「だって、……そういう顔をしていた」

 蝶のはためき、魔法の鱗粉。

 ぐい、と覗き込んでくるカーヴェの表情に、瞬間、アルハイゼンは理解してしまう。要領の得ない質問を投げかけていた新入生たちの──その、何やらを。

「……近代においてもフォカロルスを信仰の対象としない地域に見られる──」

「ほら、やっぱりあるんじゃないか! はは、あはは……!」

 風に舞う蜂蜜色の髪を押さえ、カーヴェが朗らかに笑った。

 低く垂れこめた雲が少しずつ割れる。

 その隙間から薄陽が差し込み、厭というほど続く石造のスロープに、この世界に、アルハイゼンの影ができた。

 ***

 どうしたものかと躊躇うことは一瞬とてなかった。手紙を受け取ったのち、アルハイゼンはすぐにそれを仕舞い込み、この二週間取り出すことはなかった。

 寝室の小さな木箱の中に。

 自分一人の胸の内に。

 カーヴェの出奔により方々の者たちが参っていること、情報としては知っていた。しかしアルハイゼンには関係のないことだ。

 カーヴェの消息を、自分だけが知っている。

 その仄かなる優越感が全て。

 洗濯、ベッドメイク、遅めの夕食、鉢植えの手入れ、入浴、ストレッチ、両親の書庫から一冊拝借、入眠改善剤を二錠。

 一日を終えるためのルーティーンを淡々とこなしてもしかし、アルハイゼンの心はざらついていた。

『その楽しみだってどんな意味だか』

『だってあの人ときたら、そのへんの女優なんか顔負けの──』

 姿を消して半年以上、アルハイゼンにしか預かり知らぬところへ行ったとて今なお、彼は偶像的に消費されようとしている。そしてそのことが、アルハイゼンに苦々しい──ある種の自罰にも近い感傷を齎すのだ。

 本を読み終えてもベッドに潜っても、どうにも感情を扱いきれない。入眠剤を増やそうともしたが、それで何度か痛い目を見ているので選択肢から除外する。

「……」

 ──意味はなかった。

 アルハイゼンはベッドから降り、カーヴェの手紙を仕舞い込んだ木箱を手に、証悟の両袖机へ向かう。引き出しを開けるが、不必要なものは持たぬ性分であるため、適した用紙がない。

 仕方なく取り出したものは教令院の指定レポート用紙。誰かがよく引いていたような正確無比の平行線がびっしり並ぶそれに、アルハイゼンはペンを滑らせる。

『カーヴェへ』

 今や送り先は、その名以外は知らぬのだ。

 自分らしからぬ、随分と酔狂なことをしているとアルハイゼンは感じる。眠れぬ夜を押し付けただけの、手慰み。

 アルハイゼンは常より、己を大きく見せるとか飾り立てた振る舞いをする類の男ではない。それでも差し出すあてのない手紙は、彼の知らぬところで彼の装甲を軽くした。

 そしてアルハイゼンを熱帯夜の檻から解き放ち、凪いだ水平線の向こうへと見送る。

 新月の夜間飛行、忘れじの面影を瞼に。

 カーヴェへ

 息災とのことで何よりと思う。

 手紙という形式に慣れないと君は言うが、手紙というものをおそらく受け取った経験のない俺が読むのだから、正解も不正解もないに等しい。気にする必要はないと考える。その点については、俺が返信を便箋でなくレポート用紙にしたためているということからも察してほしい。

 正確には返信ではないのだろう。君に届くことはないのだから。自己満足だ。満足することはないのだが。自分でもナンセンスなことをしていると思う。一笑に付してくれて構わない。

 君が出奔しモンドの地にいること、驚いたかとの問いについてだが、驚きはない(モンドという土地に関しての予測は立てられなかったが。)。君の衝動性と行動力が齎す厄介事に散々巻き込まれた身とすれば、仮に君が今日油田を掘り当てようが、明日その油田に沈んでいようが、少なくとも驚きはしない。芸術家が他人の予想の上に踊るのみではどうすると、以前にどこかで聞いた気がする。誰の言だったか。

 西風大聖堂については、むしろ以前カフェテリアで、君のありがたいご講釈つきで写真集を見せられた記憶があるのだが。君がホットレモネードで舌を火傷した時だ。その時も君はやはり、外壁の梁について言及していたし、人の願いが発展の原動力だという趣旨のことを言っていた。君にしては珍しい一貫した主義主張のようなので、覚えておこうと思う。もっとも俺は君と違い、忘れるという経験がそもそもないが。

 そして蒲公英についてだが、君のスケッチと自宅にあった図鑑とを見比べた。葉の形が少々異なっているように見える。それとも蒲公英の中でも品種が異なるのだろうか。

 俺の近況を随分とご心配のようだが、大事はない。これまでと同じよう過ごしている。つまり君が言うように、おそらく仏頂面で本ばかり眺めている。そしてこれからもそのように過ごすのだと思う。君が心配せずとも。

 ただし君が言うのなら、明日はあのスロープで五秒だけ足を止めようと思う。

 君の出奔が旅行なのか転居なのか、目的も期間も次の行先も知らないが、君の健康と安全を願っている。

 アルハイゼン

Chapter:二、

 プルースト効果。

 五感と大脳、大脳新皮質と大脳辺縁系。そして海馬。その特性と機序。

 すなわち、五感の中で唯一、思考を司る大脳新皮質を経由せず、感情を司る大脳辺縁系に直接情報を届けるのが、嗅覚。そのため五感のうち最も、「記憶」に働きかける力が強く──。

「教令院の学生さん? 見事なもんだろう」

 夕刻、雨宿りのために立ち寄ったグランドバザールにて、アルハイゼンは今しがた己の大脳において発生した事象について紐解いていた。

 初老の女性店主がアルハイゼンに差し出したのは、プルメリアの鉢。

 純白の花弁が中心部に向かって鮮やかな黄色へと変化し、優雅に、気高く微笑んでいた。雨季のスメールでは、朝露に濡れるその清新な姿をそこかしこの民家の庭先で目にすることができる。季節を象徴する花の一つであった。

「この時期は特によく出回るからね、どうだい、ひとつ」

「生憎、俺は香りの強いものは苦手だ。遠慮する」

「あら、自分用だったの? てっきりいい人に贈るもんだと。さっきずっと眺めていた時、そういう目をしていたよ」

 甘やかな香りがアルハイゼンの鼻腔を、大脳の海馬を、一つの記憶を撫でてゆく。

 アルハイゼンが初めて、華に触れた日の記憶を。

「……贈る相手など」

「おや、そうなの。それは失礼」

 深く皺が刻まれた目元を細め、店主は含みのある笑みを浮かべていた。

 花屋を辞し、雨上がりの清涼な空の下、家路につく。

 民家の庭、道端の植栽、至るところに色とりどりの花が咲き乱れる。雨季のスメールシティは、街全体がさながら植物園と化すのだ。

 スコールの轟音も、雷鳴も、植物の芳香も、アルハイゼンの得意とするところではない。この時期は屋外の刺激にいつにも増して神経をすり減らしてしまうため、足取りは非常に早い。もっとも、そのスピードを咎める者はいないし、咎められたとてアルハイゼンには関係のないこと。

 早く自宅の書斎で分厚い皮の表紙を開き、安寧と静謐の宇宙へ身を委ねたかった。

 世界を隔てながら、アルハイゼンはその足を進める。

 ところがその日、世界からの便りがあった。

 郵便受けに空色の封筒。

 前回のモンドから四ヶ月以上、彼が姿を消してから約一年が経った夏の夕暮れだった。

Chapter:夕凪、鳴神島から

 親愛なるアルハイゼンへ

 元気でやっているだろうか。

 僕は今どこにいると思う? 今回ばかりは消印を見ても意味はないぞ。だってここには国際郵便というインフラはない。なんと稲妻だ。

 鎖国して久しい稲妻に外国人の僕がどうやって辿り着けたかと思うだろう。それについては璃月で知り合った武装船隊の船長や、草笛が得意な稲妻出身の青年、稲妻についてから僕の面倒を見てくれたモンド人の青年、彼が仕える貴人たちのことを語らなければならない。が、あまりに長くなるので割愛したい。ペンを持つ握力がおそらく追いつかないし便箋が足りない。一つだけ言えるのは、皆おそろしく酒飲みでおそろしく気のいい奴だったということだ!

 経緯については平たく言えば、どうしても稲妻に来たかった僕を、普請のための技術者として迎えてもらったと思ってくれ。

 これには教令院の栄誉卒業生という肩書が非常に役立った。稲妻人は肩書とか面子とかいうものに非常にセンシティブなようだ。僕には、おそらくきみにも理解できない感覚だろうが、ひとまず学生時代真面目にやってきてよかったと思った。真面目ではなかったろうときみは言うだろうが。僕もそう思う。

 稲妻は長らく鎖された島国ということで、当然ながら大陸共通語はほぼ通用しない。僕は人生においてこんなにもアーカーシャが恋しくなったことはない。当然か。今までシャットダウンしたことなんかなかったんだから。さすがのきみでも稲妻の言語はわかるまい。いやそんなことはないか、きみだもんな。

 とにかく稲妻はとんでもなくユニークな発展を遂げた国だ。そして筆舌に尽くしがたいほど美しい国だ。自然も文化も建造物も。

 中でも僕が傾倒したのが庭園だ。僕は庭園建築はあまりやってこなかったけれど、稲妻風の庭園も知識としては知っていた。しかし実物を見て圧倒されたよ。水を一切使わず、岩と石と砂だけで自然の姿を表現するんだ。意味が分からないだろう? 僕もわからかなった。だって僕らスメール人は太古より連綿と続く雨の恵みの中で生きているんだから、当然だ。ちなみに例によらずまた何日も通い詰めてスケッチしたので一枚同封した。

 あとは稲妻風の歌? 詩? だろうか。字数と形式に制限があるんだ。僕はすっかりこれに魅了されてしまった。制限があるからこそ、一語一語に全身全霊を込めて紡ぐ。僕が稲妻の言語をある程度習得できたのは、この稲妻の詩を理解したいという思いが強かった。歌集が僕の語学教本だった。

 何もかも美しすぎて、ここでなら僕の探すものが見つかるかもしれないと期待したけれど、結果として見つからなかった。だから僕は明日の船で稲妻を発つ。今日が稲妻で過ごす最後の日だ。またどこか別の土地で探し物の続きをするよ。

 これを書いている今は夕刻で、海風が止んでしまったから少々蒸し暑い。もうしばらくすれば、海風を追うように濃紺の宵闇がこの空を塗り替えにくる。遠くで潮鳴りが聞こえる。スメールシティでは聞くことなかった音だ。きみはきっと、耳を塞ぐだろうな。

 昨晩、僕はかの有名な花火を見た。

 これが見たいがために稲妻に来たと言っても過言ではない。どうしても見たかった。「たかが炎色反応」だったか? きみと見ることのなかった花火だ。あの時、僕はそれなりに楽しみにしていたんだけどな。「たかが炎色反応」の意味を、あの時の結論を知るために、僕は打ち上がる花火を一人で眺めた。

 結果から言おう。これはきみには無理だ。爆発音がすごい。きみはおそらく耐えられない。一発目で離席すると思う。賭けてもいい。

 長年引っ張り続けた答えがこれなんだから、僕はもう笑い転げてしまったよ。おかしくておかしくて、いっそ涙が出た。こんなもんだよな、学生時代からの拗らせなんて。

 そんなわけで、きみは生涯花火を見ることはないと思う。よって慈悲深い僕がその視覚の美しさだけでも伝えてやろうと、絵にした。絵といっても、ちぎり絵だ。色紙を細かく細かく千切って貼り付けた。昨夜花火大会から帰ってきてからずっと、無心で千切って貼っていた。お察しの通り、いつもの過集中だ。寝ていない。さすがにつらい。この手紙を書き終えたら休むことにする。

 稲妻に来てからも、きみの夢をよく見た。やはり泣いていたように見えた。泣きながら、耳を塞いでいた。だから今夜は、耳を塞ぐその手を外してあげようと思う。もう花火は終わったから大丈夫だよ、と。

 きみに会うために、僕は今日も眠る。

 スメールは今頃雨季か。ラザンガーデンが極彩色に狂い咲く時期だな。激しいスコールの音にきみはまたヘッドホンを遮音にして歩くのだろう。そうだな、こればかりはきみに「ヘッドホンを外せ、世界の美しい音を聞け」とは言えない。きみが煩わされていた姿をよく見たから。

 きみの心がどうか穏やかであれ。

 まあそうは言っても騒音の何割かは僕が原因だったな、多分。

 アルハイゼン、夕凪の鳴神島にて、きみの健康と幸福を願う。

 カーヴェ

 ***

「カーヴェ先輩、こちらにいらした!」

 カフェテリアに響く声に、昼食のピタを頬張っていた蜂蜜色の頭がゆらりと振り向く。甘やかな香りが向かいに座るアルハイゼンの鼻腔をくすぐった。

「あの、先日はご助言ありがとうございました。これ、刷り上がったので当日は是非いらしてください」

「ああ、来月の。それなら助言も何も、僕が何か言うまでもなくきみ達の力だけで概ね出来上がっていたじゃないか」

「いえ、とんでもないです、先輩の──」

 制帽に白獅子のエンブレムをつけた小柄な男子生徒が駆け寄り、カーヴェと談笑の末に小さなカードを手渡し、再び立ち去っていく──その一部始終をアルハイゼンは懐疑的な眼で眺めていた。

 なぜこれ(﹅﹅)に対し、一切の違和感を呈さずにおられるのだと。

 これの正体とはすなわち、大輪のプルメリア。ひらひらと手を振り男子生徒を見送るカーヴェの髪には、純白のプルメリアが芳しく微笑んでいた。

 それは今朝彼が教令院に向かう途中、カーヴェをして曰く「小さなレディ」が頭に差したものだ。先日その少女の愛犬が行方不明になっていたのを、半日に及ぶ大捜索の末カーヴェが見つけ出したのだが、そのお礼にと今朝庭先に咲いた中で最も美しいものを彼の髪に飾ったのだという。ちなみにその大捜索の結果として、カーヴェは指導教員とのアポイントをまるまるすっぽかすに至ったのだが。

「理解が及ばない……」

「なんだってアルハイゼン、僕でよければ相談に乗るぞ。何がわからないんだ?」

「結構だ」

 カーヴェの頭に花が咲いていようが羽が生えていようが、何なら鳥が乗っていようが、目を見開く者などクシャレワー学院には、否、おそらく教令院にも誰一人いない。それは彼がいつの日か誰かに渡した善意が形を変え巡ってきたものか、はたまた愛らしいものを更に愛らしく愛でたいという誰かの遊び心か──いずれにせよ何ら珍しいことでなく、多くの者にとって見慣れた光景であった。

「あれ、二枚ある」

「それは」

「ああ、観覧席の入場券だよ。来月の研究発表会に合わせて、妙論派(うち)の機関術専攻の後輩たちが花火を打ち上げるんだ。知っているか? 花火」

 文献を通した知識でしかないが、アルハイゼンも聞きかじったことはある。

 璃月発祥・稲妻において開花したその文化を、やはり文献を通して知った機関科の者たちが、元素力学を応用し、元素力で操作と制御を行う半自動打ち上げ装置を自作した。折角なので研究発表会という一大イベントに文字通り花を添えようと、催しの一つとしてデモンストレーションを企画したのだという。

「僕は機関術の方はさほど明るくないからね。乞われたアドバイスに対してもロケーションとか、そういった発言しかしていないんだよ。それでも礼にと観覧席を用意してくれた。可愛いじゃないか」

 目を細めて入場券を眺めるカーヴェを一瞥し、アルハイゼンは昼食をとる手を早めた。普段通りカフェテリアの隅で一人座っていたところ、この日はたまたまアルハイゼンを見つけたカーヴェが「ここいいかい?」と尋ねたまではいいが、アルハイゼンの「空席なら他にいくらでもあるが」を待つ間もなく向かいの席に陣取ったのだった。

 出藍会で言葉を交わして以来、カーヴェは学内でアルハイゼンを見かけると何かと声を掛けてくる。既に「友人」と認定された模様で、世界を隔てて生きてきたアルハイゼンにとっては、彼の他者との垣根の低さは異様でしかなかった。

 ……もっとも、カーヴェにとってその瞳に映る人間はすべからく「友人」であったのだが。

「カーヴェ、新商品が出ていたわよ」

「ああ、ありがとう! 見逃していたよ」

 背後を通った女子学生が、二つ手にしていた紙製タンブラーの一つをカーヴェの席に置き、「熱いからね」と言い残し去っていく。このような具合に、先ほどからカーヴェのもとには訪問者が絶えぬのだ。

「……先輩のせいで、落ち着いて食事がとれない」

「うわ! 熱っつ!」

 舌をべえっと突き出し涙目で水を流し込むカーヴェに、当然アルハイゼンの抗議は届かない。プルメリアが再び匂い立つ。水の入ったグラスを勢いよく置き、口元をぬぐったカーヴェはアルハイゼンにカードを一枚差し出した。

「これ、きみに」

 先ほど、妙論派の学生がカーヴェに渡していった観覧券だった。

「なぜ」

「え、二枚あるから……?」

「なぜ俺なんだ」

「え、ちょうど今目の前にいるから……?」

 羽根よりも軽い、そんなふわりとした理由でこの男は隣を差し出すのだ。その日たまたまそこにいただけ(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)の「友人の一人」に。

「生憎、興味がない。たかが炎色反応だろう」

「あはは、きみ本当にとんでもないな! 面白すぎるぞ! 一つ教えてやろう、たかが炎色反応だとしてもそこに意味づけをするのはきみ自身だ。きみ次第で炎色反応は炎色反応を超越するぞ」

「では先輩はどんな意味があると……?」

「ええ、そうだな……きみと僕の相互理解が深まるというのはどうだ。見物の合間に雑談でもするだろう。それは意味がある。よし、決まりだ」

 己の中で得心がいけばそれで終わり。アルハイゼンに観覧券を押し付け、何の脈絡もなく鞄から本を取り出した。

「それよりちょっと見てくれよ、この写真集なんだが……」

 花火もアルハイゼンも置き去り。既に異国の聖堂の建築様式に夢中だ。こうしてカーヴェは、常人の優に倍は回転する頭と口と手をもってして、目まぐるしく世界を振り回すのだ。

 ひと時として同じ顔を見せない。

 スイッチの入らぬときは昼下がりの怠惰な猫、スイッチが入れば孤高の孔雀、スイッチが切れれば波打ち際に打ち上がったミズクラゲ。

 パースを引く横顔は青く研ぎ澄まされた月であるし、壇上の立姿は手の届かぬ星であるし、そして今、アルハイゼンの前で瞳を輝かす無邪気は太陽であった。

 それら全ての姿が人々の心を柔らかくくすぐる。

 カーヴェという存在そのものが周囲に振り撒く、博愛とか善意とかはたまた眼福とかいう名のひとひらの羽根が、いつしか形を変え相手を変えカーヴェに降り注ぎ、そしてあの白磁の頬をそっと撫でる。

 そういった不思議な循環の中に生きる男だった。

 ぽとり。

 蜂蜜色の髪からプルメリアが落下する。カーヴェは気づかない。見かねたアルハイゼンがその花をあるべき場所に再び差す。それすらも気づかずカーヴェは話し続ける。

 触れた髪の柔らかさにあてられた指先が、カフェテリアの机上を彷徨い──収まりのつかなさをやがて観覧券を拾うことで収束させる。アルハイゼンはそれを言語統計学の基本書の間に挟み、鞄に押し込んだ。

 指先に残る甘やかな芳香は、アルハイゼンの記憶にこびりついてしばらく離れなかった。

 それきり、炎色反応を超越する意味を創造するチケットが捥ぎられることはなかった。

 機関科有志の花火企画はその後、華美に寄り娯楽色が強いため研究発表会の催しとして相応しくないとのことで、当局から却下された。

 そしてアルハイゼンはその研究発表会において、知論派の新入生代表として発表を行い、全ての教員と上級生を黙らせ金賞を勝ち取った。

 ***

 証悟の両袖机にて、便箋を折り畳む。

 カーヴェの手紙は稲妻でしたため、璃月に戻った後に投函したのだろう。消印から読み取れる地名は璃月港であった。

 そして同封のちぎり絵は、おそろしく手間暇をかけて作られていることがアルハイゼンにも見て取れた。芸術と対極のところにある者に贈るというのに、彼はその命すら千切って貼ってきたのだ。世界でただ一人、アルハイゼンだけに見せる作品に。

 その作品と便箋を、決して誰の目にも触れぬよう、再度封筒に仕舞う。

 カーヴェの渡航は、彼の言う通り多くの者の力添えがあって実現したのだろう。しかしそれも、アルハイゼンにしてみれば妙に納得がいくものであった。

 カーヴェはその類い稀なる才知であるとか技術であるとか、そういった換価価値のあるものをいくらでも提供できる男であったし、それでなくとも特別な存在であったから。

 やはり、不思議な循環の中に生きる男なのだ。

 彼が困窮なり切望なりすることがあれば、人々は手を差し伸べることを惜しまない。凡人の口を介せば天然の人たらしといったところであるが、アルハイゼンは彼を、世界に愛された男なのだと、そう考えている。

 そして今宵も、レポート用紙にしたためる。

 決して彼に降り注ぐことのない、ひとひらの羽根を。

 カーヴェへ

 稲妻にまで足を伸ばしてしまうとは、君の強運というか、突破力というか、他者を巻き込む厄介さというか、いずれにせよその行動力は健在なようで。

 そして君の目的遂行のために尽力してくれた現地の人々に、スメール人の品性が疑われるような印象を植え付けていないことを祈る。疑われたとて俺には関係のないことだが。

 そして君の予想どおり、俺は稲妻の言語を解することはできる。できるが、他国の言語と比較して、かなり構造が複雑で表現が曖昧であったと記憶している。おそらく大陸中の言語のうち、ネイティブスピーカーでない者が習得することが最も困難な言語と言って差し支えない。それを短期間である程度使いこなせるようになったというなら、やはり君が搭載する処理能力は抜きんでていると言わざるを得ない。

 あるいはその、稲妻の詩、それへの情熱のなせるわざか。君をそこまで魅了するものであるなら、何かの折に触れるのも悪くないと思った。

 そして同封の作品に感謝する。

 俺に芸術を解する心や審美眼があったらよかったのだろうが、そうでなくとも、価値のあるものと思う。

 しかし徹夜はいただけない。こんなことを言っても無駄だとはわかっているが、しかしこれが君の在り方なので仕方ない。相変わらず睡眠の薬が手放せないものだ、君も、俺も。

「たかが炎色反応」の顛末についてだが、今更君に言われるまでもなく、花火というものの原理を知れば当然それなりの爆発音がすることはあの頃から織り込み済みだ。

 それでも俺は本にあの観覧券を挟み、自宅に持ち帰っていた。置いていくことも捨てることもできたのに。そういうことだ。

 そして先ほど、君からの手紙に懐かしさを覚え、書棚を検めた。長らく仕舞い込んでいたあの本に、まだ観覧券が挟んであるかと探した。最終ページまでめくり隈なく探しても既にそれはなかった。

 君の言うとおり、学生時代の拗らせなどこんなものだと実感し、少々笑ってやりたい気分になった。気分になっただけだが。

 俺の聴覚過敏についてのご配慮をどうも。

 しかしこれはもう一生付き合っていくものと覚悟はできているし、ヘッドホンの遮音機能も年々向上している。生活の仕方である程度コントロールすることもできる。君が気に病む必要はない。

 騒音の原因の何割かを占めていたものも今はない。静かだとは思う。心穏やかと言われればそうだな、どうだろう。

 いずれにせよ、君の健康と安全を願っている。

 アルハイゼン

Chapter:三、

「アルハイゼン、君は……いや君たちは本当にこの研究を放棄してしまったのか?」

 壮齢の男性教員が困惑の表情を浮かべていた。

 一日のカリキュラムを終えたハルヴァタット学院の回廊、行き交う学生たちの靴音が響く。

「はい。研究自体は一定の成果はありましたが、平たく言えば喧嘩別れです。教令院では特段珍しいことではないかと」

 あの氷のような瞳は幽霊しか映さぬのだ。

 そう言われても十人中百人が納得する程には単独行動しかしないアルハイゼンが、かつてたった一度だけ、他者と共同名義で研究を行ったことがある。資料室の書架の片隅に仕舞われていた、その中間成果の報告と資料を目にしたという教員の一人から、アルハイゼンは呼び止められていた。

 眉間に寄せた皺を指先で叩きながら、教員は続ける。

「一定の成果どころではないだろう、これは……。君は非常に優秀な学生だが一方、惜しいことだらけだ。この研究も、ご尊父のことも……」

「父をご存知で?」

「ご存知も何も、私が在学中最も世話になった先輩だぞ。私が入学した年度の出藍会、知論派代表の講義を行ったのは君のご尊父さ。あの時の、雷に撃たれたような衝撃を私は今でも覚えている」

 ──アルハイゼンには、両親の記憶がほぼない。僅かに残された写真から姿形を認識し、このように人の口から人柄を把握するのみで、己の中に確固たる「両親」の形を持たぬのだ。

 故に両親の話を聞かされても、まるで物語の登場人物のようで。

「君と同じく朝から晩まで本に埋もれていたし、君と同じくその鋭い眼力で万物を公平に、客観的に捉えていた。ただし君と違って、非常に面倒見のいい人物だった!」 

 アルハイゼンが相槌など打たぬ男であることは誰しもが知るところであったため、教員は一方的に続ける。

「論文の相談に乗ってもらったこともあればフィールドワークにも誘ってもらった。何なら私の代のハルヴァタットの男子学生に酒と水煙草を教えたのも大体があの人だ。本当に、得難い友だった……」

 節くれた指で顎髭に触れながら、彼は寂しそうに目を細めた。

「私は君に今更後輩の面倒を見ろなんて野暮なことを言うつもりはないし、学術的な部分で私が君に授けられるものも最早多くはないだろう。ただ一つだけ、……よき友を亡くした経験を持つ人生の先輩として、君が共同研究相手と和解し、再びよき友として歩めるよう祈っておくよ」

「和解も何も彼は、」

「そうか。そうだったな、すまない……」

 報告に印字された共著者の名を認め、彼は再度寂しそうに目を細めた。

 

 カーヴェが姿を消してから、一年半近くが経った。

 未だ一度たりとも戻ってはいないようで、その消息を知る者はアルハイゼンの他いなかった。

 カーヴェからアルハイゼンの自宅に届く手紙は、彼の性分をよく表すよう非常に不定期で、分量も内容も語り口もその時によってまちまちであった。

 そしてその日、実に三ヶ月ぶりに、アルハイゼンは郵便受けにそれを見つけたのだった。

 

 

Chapter:晩秋、帰離原から

 

 親愛なるアルハイゼンへ

 

 元気でやっているだろうか。

 僕はつい一昨日まで臥せっていた。

 いやきみが他人の体調など気に掛ける男ではないことはもうわかっている! きみの悪辣極まる「俺は平気だが」に幾度頭を抱えたことか。きみにこの口癖をやめさせただけでも僕の功績は大きい、感謝してもらいたい。まさか口うるさい僕がいないからといって再発してはいないよな。きみがそういう男だとわかった上でそれでも書かせてもらうが、今はもう回復している。大丈夫だ。

 

 僕が床に伏していた理由──単に肌寒い季節に夜通し外にいて風邪を引いたからなんだが、それを語るには僕がこれを書いている場所からだ。消印を見てくれたまえ。僕は今、璃月に滞在している。と言っても璃月港でなく、そこからもっと北上──望舒旅館の名はきみも聞いたことがあるだろう。大平野のど真ん中、巨大な石柱の上に、それと一体となって建築されている。教令院のイメージに近いかもしれない。天気が良ければ璃月港はもちろん、仙人が住むという雲海の岩山群まで見渡すことができて実に絶景だ。素晴らしい。

 ここは交通の要衝かつ有名なロケーションスポットなので、各国の観光客や商人で賑わっていてね、因論派の遊学者に出会ったんだ。何期生と言っていたか……ソラヤーという女性だ。璃月の神代の歴史を専門にしていると。異郷の地で思いがけず同郷者、しかも母校の関係者に出会うなんて妙に気分が高揚してね、食事をご一緒しながら盛り上がったんだ。

 そして彼女から教えてもらった近辺の遺跡を一人で見に行って、一晩中そこにいたら見事に風邪を引いたというわけだ。きみの呆れた顔が目に浮かぶようだ。

 

 けれど僕がその遺跡から離れられなかったのはそれなりの理由がある。

 帰離原という土地は、魔神戦争より以前は璃月の中心地だったそうだが、今はもう崩れ落ち、朽ち果てた遺跡や廃墟がところどころ残るのみの侘しい場所だ。

 僕ら建築家の仕事は建造物が完成して終わりではない。人に使ってもらい、いつかその役目を終え、何らかの形で世に還るまでを想定して造らなくてはならない。万物は流転する。それは無機物であろうと同じだ。

 だから僕はいわゆる廃墟に出会うときは、どうしてもそのストーリーに思いを馳せてしまう。浸ってしまうんだよ。そこに行き交った人々の生活や感情を勝手に感じ取ってしまって、しばらく動けなくなる。廃墟は過去から見た未来、すなわち現在の行く末でもある。いずれは僕らが過ごす「今」もこのように朽ちてゆくのだろうという、悠久の諦念が胸に落ちる。

 きみはこの手のノスタルジーはどうだろう。ちなみに帰離原は古代文字で書かれた石碑なんかもたくさんあったから、きみがいたら全て解説してくれたことと思う。そのすべを持たない僕は、ソラヤーから聞いたこの帰離原のストーリーをそのまま受け売りできみに伝えよう。それこそが、僕が風邪を引いた原因だ。

 

 この地はかつて、一面に花が咲き乱れる美しく豊かな土地だったそうだ。

 そこを、智と徳を持つ神、武と力を持つ神、仲の良い二柱の神が互いの力を持ち寄り、協力して人々を導き、国を治めていたのだそうだ。帰離原という名もこの二柱の神の名から一文字ずつをとって名付けられたものとのことだ。その二柱の神のもと、国は栄え、人々は平穏に暮らしていたと。

 ところが魔神戦争で侵攻を受けた帰離原は破壊され、二柱の神のうち一柱は戦いの末に命を落としてしまう。もう一柱の神は残された人々とともに帰離原を去り、新たな国を築いた。その場所が今の璃月港で、その神が岩神モラクスなのだそうだ。

 故に帰離原はモラクスにとっては、盟友と語り合った地であり、盟友を喪った地であり……と思いを巡らせるうちに、僕は日が沈もうが月が登ろうが廃墟を動けなくなってしまった。

 僕はその二柱の神の共同統治の話を聞いて、僕らの、あの共同研究のことを思い出してしまって。きみは笑うだろうか。不遜だ不敬だと呆れるだろうか。

 あの頃、僕らは互いの力を持ち寄り、共に成し遂げようとした。きみと僕が力を合わせれば不可能なことなんかないと、僕は確かに思ったんだ。まあ、きみと僕が力を合わせることがまず不可能だったんだから、今となってはこの慧眼(﹅﹅)に笑うしかないな。

 二柱の神もそうだったのだろう。二人の力を持ち寄れば何でもできる、幾久しく栄える国になると。その思いが、痛いほどわかってしまってね。廃墟と化した帰離原に立ち、僕はその無常に圧倒された。

 僕らの研究が破綻に至った諸々については今更語るまい。それはそれ。過ぎたことだ。

 僕は楽しく、美しい思い出で生きていきたい。

 あの頃、僕らは教令院の閉門時間になっても飽き足らず、帰り道でも、時にはきみの家にまで場所を移し延々と議論を尽くしたものだ。夜明けのコーヒーってものを、まさかきみと啜る羽目になるなんてな。楽しかった。僕は本当に楽しかったんだ。

 きみと僕で、世界の何だって掴んでしまえると思えた。

 戻り得ぬ、素晴らしい青春だった。

 

 璃月は今ちょうど秋で、空気が澄み、月がとても美しい。

 廃墟を照らす月はとても静かで、青白く、冷たく研ぎ澄まされていた。あの頃帰り道できみと見上げた月はいつも、夜に溶け出しそうな輪郭をしていたのに。

 月の見え方の差など、季節や気候など諸条件の違いだときみは言うだろう。実際はその通りなんだろうと思う。けれどあの頃本当に、蜂蜜のように今にも溶けてしまうんじゃないかと、僕はそう思っていたんだよ。

 アルハイゼン、きみはあの頃の月を覚えているか?

 きみのその冷めた目にはどんなふうに映っていた?

 

 そんな思い出を懐かしみながら月を見送った。

 僕たちの研究は確かに破綻したし、きみとの友人関係も一度は、破綻とは書きたくないけれどそれに近いところまで行ってしまった。

 けれど僕らは、今生の別れをしたモラクスたちと違ってふたりとも健在だ。僕らの人生は続くし、今こうしてきみに手紙を書いている。あの一件できみという学者の、不可侵の領域を僕も知ることができた。人生において無駄なことなどないのだと、僕はそう思っている。

 僕たちのプロジェクトは一面の花畑を見ることはなかったけれど、それでも僕にとってきみは変わらず、得難い生涯の友だ。

 それだけは、この帰離原と同じく、一つの事実としてただそこに在る。

 

 スメールは今頃乾季か。冷え込む日もあるから、制服はちゃんと上着も用意していくんだぞ。くれぐれも一晩中月見をして風邪を引くなどないように。

 けれどたまには月でも見上げてみたらいい。同じ月を、僕もきっとどこかで見ている。

 僕の探し物は、ここにもなかった。次はどこで月を見上げよう。

 アルハイゼン、晩秋の帰離原にて、きみの健康と幸福を願う。

 

 カーヴェ

 

 

 ***

 

 

「あ、アルハイゼン見ろ、月が」

 厭というほど続く石造のスロープを下りながら、カーヴェが夜空を指さした。

「もう本当に施錠しますから」と涙ながらに巡回してきた職員に誰か(﹅﹅)が「別に構わないが」と真顔で返し、二人揃って知恵の殿堂を蹴り出された帰り道。

「月がどうした」

「見事じゃないか。明日か明後日が満月か? 僕らのプロジェクトの前途を照らしてくれている!」

 夜空のど真ん中を陣取る小望月が、いっそ傲慢なほどに二人の足下に降り注ぐ。街灯が用を成さぬほどの月夜であった。

「ご都合だな」

「なあ二百回は言ったか? 情緒。心模様は空模様と言うだろう? 月は見上げた者の心を映す鏡だ。アルハイゼン、きみにはどんな月が見えている?」

「誰が見ようが月は月だ。見え方の差など、季節や気候など諸条件の違いでしかない。よって少なくとも今俺の目には、君が見ているものと同じだ」

「予想と寸分違わぬご回答をどうも。きみのそういうところに僕はいっそ安心すら覚えるよ」

「ご安心いただけたようで何よりだ。真理に基づき予見しうることが安心という感情を惹起することを学んだ君に、これはとある衝動性と行動力の申し子による突拍子もない言動に振り回され続けた立場からの提案だが、君も安心を生み出す振る舞いというものを身に着けてはどうか?」

「おお、なんと可愛い後輩だろう! 僕は幸せ者だ。たいへん示唆に富む提案に感謝しよう。しかし芸術家が他人の予想の上に踊るのみではどうする、血の涙をこぼしながら却下しよう」

「せいぜいその涙の海で溺死しないことだな」

 二人ともやけに饒舌だった。

 カーヴェが持ち掛けた共同研究は構想の段階でスポンサーがついた。中間成果物を見た指導教員をして「完成の目を見れば史上最年少でのカビカバス賞は確実」と言わしめた。

 二人にとってはどうでもよかった。

 ただただ、自分と同じ次元で自分と異なる視座を持つ相手と共に、議論を重ね真理を追求できることが、愉しくて愉しくて仕方なかった。

 

 やがて上機嫌極まるカーヴェが、ステップを踏み始める。

 ステップ、ステップ、ターン、ステップ、ターンアンドスピン……傲慢な月光と戯れるように、軽やかに、出鱈目に。念のため、ノンアルコールだ。

「カーヴェ、知っていたか? スロープとは坂だ。転ぶぞ」

「僕が転ぶならきみが支えたらいいだけだ。その鍛え上げられた筋肉は何のためにある。遊休未稼働の設備にも資産税はかかるのだから、勿体ぶらずに稼働させるがいい!」

「少なくとも今君の鞄まで運んでやるためではない。独立した一人の人間ならば自分の荷物くらい自分で持つことだ。おい、」

 アルハイゼンが抱える資料になど一瞥もくれず、カーヴェが踊ったまま駆け出し、アルハイゼンがそれを追っ──たのも一瞬であった。

「アルハイゼン!」

 突如立ち止まったカーヴェが振り向く。

「大変だ! 僕は今、世界の真理に触れてしまった。今きみは先を行く僕を追った。そして最近僕はきみに待てと言うことがなくなった。これが意味するところがわかるか?」

 天の声を聞き製図台に向かう顔だ。

 溢れ出る閃きを微塵も逃さぬよう、追われるようにカーヴェは形を与え続ける。

「きみが(﹅﹅﹅)僕と並んで歩きたいんだ! 他人のため(﹅﹅﹅﹅﹅)には歩幅を合わせないきみが、気づいたら隣を歩いてるんだぞ。つまりそういうことじゃないか」

 途轍もなく無配慮の開示ではあったが、アルハイゼンの肚には落ちた。

 判別しかねていたのだ。

 初めて踏んだその日から辟易していた、厭というほど続く石造のスロープ。このスロープがまだ続けばいいなどと、そんなことを己が考える理由を──。

「……さすが博愛の薄利多売屋カーヴェ先輩。俺のような不出来な後輩にもお慈悲をくださろうと?」

「きみが欲しいならあげるよ。僕の隣」

 そこに揶揄するような色味はなかった。

 さやけき月のように、ただ佇んでいた。

 にも関わらず、アルハイゼンは腹の底から全身が冷えていく心地がした。

「結構だ」

 振り切るようにスロープを下る。背後からは相変わらず、出鱈目で軽やかな足音がした。

 やがてスロープの果て。右の道はカーヴェの帰る学生寮、左の道はアルハイゼンの自宅というところで、案の定ノンアルコール泥酔野郎が躓いた。

 咄嗟に腕を引き寄せたアルハイゼンの眼前に、今宵の月より麗しいひと。

 互いに視線を外さず、黙秘権の行使、六秒間。

『きみが欲しいならあげるよ』

 ──違う。違うんだ、そんなものではない。

 アルハイゼンの選択は流局だった。地面に散乱する資料を拾い集めるアルハイゼンの耳に、鞄を拾う人の声が聞こえた。

「意気地なし」

 確かにそう、微かな声で。

 

 

 ***

 

 

 証悟の両袖机に向かい、レポート用紙を広げる。

 糊綴じの背表紙、残りの用紙は四分の一ほど。何枚かの書損の後、やがてしたためた返信をカーヴェからの手紙と組にして束ね、木箱へ。

 カーヴェの手紙と、アルハイゼンの返信、その数を一つ一つ検める。間違いなく同数、その数、三。つまり返信を受け取った者はいないということ。

 そしてアルハイゼンはふと気づく。

 書損など放っておけば良かったのだ。どうせ受け取り手のない返信なのだから──と。

 それでも書き直すのはアルハイゼン元来の特性もあろうが……価値のあることと知ったから。

 同じ空の下に友がいる、というその事実が。

 共にある時間はおそらく束の間、今宵の空と同じ。

 雲隠れにし夜半の月かな。

 

 

 

 カーヴェへ

 

 冷涼な季節に君が一晩中屋外で過ごした結果床に臥すはめになったとは、学生時代と寸分違わぬようで俺はいっそ安心すら覚える。

 常人よりも感受性が豊かであるということは、君の美点だ。ただしそれを適切に扱うことができる場合に限る、という注釈が付く。

 過ぎたる才が身を滅ぼす例は、洋の東西を問わず枚挙に暇がないところだ。俺は、君の持って生まれた類い稀な才を容れておくには、君という器は些かひ弱であるし感性の純度が高すぎると思っている。いつかその才の重さに耐えきれず君自身が潰れるだろうと。君がいたくご執心の西風大聖堂の工法のように、倒壊を防ぐため外側から支える梁でも架けることだな。

 そして無意味とは思うが君に教訓をやろう。人より聡明であればこそ、誰よりも用心深く、冷静であれ。亡き祖母の遺言だ。

 いずれにせよ、体調が回復したとのことで何よりと思う。

 

 それはそれとして、君をそうさせた原因の一端に、あの共同研究があったこと、それについては光栄と受け取っておこう。あの日々について君が記した言葉についても、そのまま受け取ろうと思う。

 そして、同じ言葉を返そう。

 君がそれを二柱の神の国造りに準えたとしても笑い飛ばしはしない程度には、俺にとっても価値のある日々であったし、若さ故の万能感のようなものを抱いていたのも事実だ。

 

 あの頃の月が俺の目にどう映っていたかについてだが、正直なところあまり印象に残っていない。

 遥か上空の月よりも、目の前にわけのわからないことを喚き散らしながら覚束ない足取りで奇行を繰り返す出鱈目な者がいたせいで、月どころではなかった。

 あの頃じっくりと月見に興じることができなかった分、今夜は見上げてみようと思う。と思っていたが、雲に隠れてしまっている。

 明日また、見上げるつもりだ。

 君の旅はまだ続くのか。それならば誰よりも用心深く、冷静であれ。

 君の健康と安全を願っている。

 

 アルハイゼン

Chapter:四、

「……大陸共通語版、引証文献リスト、ええと肝心の研究届。確かに、受領した。ご苦労様」

「ご指導ありがとうございました」

 薄青色の万年筆がさらさらと滑る。

 恰幅のいい指導教員がサインした受領証を受け取り、アルハイゼンは一礼した。

「では今後は規定に従い、ハルヴァタット四学科のハーバッド代表で構成される審査会に付される。標準応答期間は四十五日間。却下及び補正を要する場合……は君には関係ないか。それと審査会からの聴聞がある場合は──」

「結構だ。規定及び諸手続きについては承知している。それ以外特にないようでしたらこれで」

 踵を返し教官室を辞そうとする背に、指導教員は声を張り上げる。

「論文提出者にひととおり説明することも規定のうちなんだ。後々トラブルを招くこともある」

「それであれば先程、却下及び補正を要する場合の異議申立てについての説明を省略されたようだが?」

「……」

 振り向いたアルハイゼンとたっぷり三秒視線をぶつけたのち、指導教員は豪快に笑った。

「いやすまない。君の論文を受領するのもこれが最後かと思うと惜しくてね。……本当に、研究者として残る気はないのか? 君を望む研究室はいくらでもあるというのに」

「生憎、予算や人事のような政治的雑事に煩わされるのは性に合わないので」

「まあ、君はそういう男だよな……」

 ひらひらと手を振る指導教員に背を向け、アルハイゼンは重厚なドアを閉め、教官室を辞す。

 教令院の多くの学生にとって胃痛の種、卒業論文の提出を終えた。スメール中のあらゆる資格試験のどれよりも厳しいと言われる審査会を通過すれば晴れて学位取得、雨季の半ばの頃に卒業の運びとなる。

 ハルヴァタット学院の回廊を抜け、共用のエントランスホールへと抜ける。

「そう言えば去年までここに……」

「ああ……あれはだって、ほら……」

 立ち話に興じる女子学生の脇を通り抜け、屋外へ。厭というほど続く石造のスロープを、アルハイゼンは足早に下る。

 乾季から暑季へ移り変わるこの時期は、気圧の変化が大きく、アルハイゼンが穏やかに過ごせない季節の一つだった。

 不快感を引きずりながら郊外の自宅へ帰り着けば、今夜も大した手応えもなく玄関は開錠される。アルハイゼンが祖母から相続したこの家の鍵穴は、いよいよ限界を迎えようとしていた。

 そして郵便受けにはまた──。

 彼が消えてから、優に一年半以上が経っていた。

Chapter:終雪、海屑町から

 親愛なるアルハイゼンへ

 元気でやっているだろうか。

 僕はつい一昨日まで臥せっていた。この書き出しの手紙を以前も送った気がする。今回は雪原に一日いたせいだ。もうどうしようもなかったんだ。

 僕は今スネージナヤに滞在している。

 璃月港から北へ向かう船に乗り、いくつもの月と太陽を見送って、僕はこの冬国に辿り着いた。至るところを見て回り、今は海屑町という海辺の小さな村に身を寄せている。

 ここに住む人懐こい少年がとても僕を慕ってくれた。彼にはきょうだいがたくさんいて、けれどよく遊んでくれた三番目のお兄さんが今は遠く離れた場所にいるから、ずっと会えていなくて寂しいのだと言っていた。頼まれて機械仕掛けのおもちゃなんかをいくつか作ってあげたら、とても喜んでくれて、それで家族ぐるみで歓待してくれた。僕が寝込んでいる間に面倒を見てくれたのも彼の家族だ。本当にありがたかった。

 アルハイゼン、きみは雪を見たことはあるか?

 すまない、ないとわかって聞いた。僕らスメール人の生涯は多くの場合雪を見ることなく終わるのだから。

 僕は先日、この海屑町に近い雪原に出かけた。近いと言っても、その雪原から一番近い集落がここ、というレベルだ。

 雪原に向かう途中、僕は疎らな林の中を歩いた。林には脹脛ほどの高さしか積もっていないのに、足が取られて歩きづらいことこの上なくて。きみがいたら、どんなふうに歩いただろうと思った。こんな道を僕と並んで歩くなら、それなりにこつが要るだろうと。

 しばらく歩くと視界が明るく開けて──人生観が変わる光景だった。上下左右、見渡す限りの世界という世界が全て、白。

 息をのむような美しさだった。

 僕は高揚を抑えられなくて新雪へ足を踏み出した。でもそれを追いかけてくるもう一つの足音は聞こえなくて。僕の足音だけ、無音の世界だった。

 その雪原で、僕は君を想った。

 静寂の闇に音もなく舞う粉雪とか、凛と張り詰めた月のない帰り道とか、澄んだ夜空に溶けてゆく白い吐息とか……スネージナヤに来てそういうものに触れる度、僕はきみを思い出した。

 アルハイゼン、きみは真冬のような人だ。

 僕は多分、きみの冷めた目が好きだった。

 よく晴れた真冬の朝の湖面。その澄んだ瞳は真実を映す鏡。いつでも万物を公平に客観的に映し出し、時に不都合な事実すら詳らかにしてしまう。僕も経験がある。エントランスホールの、あのとき。あれは堪えたな。ああいいんだ、きみの言を借りるならば「事実を述べたまで」なんだから。純然たる事実だったんだから。

 きみはそして真冬と同じく、真白な厳しさのその内に、白紅梅の蕾を秘めた人。人知れず、おそらくきみ自身も知らずその蕾を温め、芽吹く日を待っている。そんな人。

 僕は雪原に身を投げ出して空を見上げた。

 それは祝福だったんだ。

 きみの髪と同じ色をした空から、羽根のような綿雪が次々と舞い降りて、僕に降り注ぐ。それはやがて僕を少しずつ世界と同化させた。

 不思議なことにどこか温かくて。

 このまま僕は世界に還る、僕はここでなら死んでもいい、死ぬのならこの雪原がいい……きみのような真冬に包まれ、そんなことを思った。

 世界の果てがあるのならそれはここなのだと。

 それで、救助された。

 救助、だったな。雪原で動けなくなっているところを、なので。

 床に臥している間、僕はきみを迎えに行く夢を見た。やはりきみは一人で泣いていて、僕は堪らずきみに手を伸ばす。

 そこで目が覚めてしまう。

 夢から覚めると僕は泣いていた。

 そんな夢を何度も見て、何度も目が覚めた。

 体調はもう回復した。幸いなことに凍傷などもない。

 僕の床の傍ではあの人懐こい少年が泣いていて。もう一緒に遊べないのかと思ったと。

 けれど僕はきっとまた彼を泣かせてしまう。僕はじきにこの国を離れる。僕の探すものはスネージナヤでも見つからなかった。きみのような真白な国にも、なかったんだ。

 どこまで行けば見つかるのだろう。

 スメールでは乾季の終わる頃か。

 きみは卒業論文を提出し終えた時期だろうか。きみのことだから一回目の審査で難なく通ってしまうのだろう。きみの論文は読んでみたいな。僕はこのとおりスメールの外にいるから、どこかの国際学術誌に投稿する予定があるといいのだけれど。

 アルハイゼン、終雪の海屑町にて、きみの健康と幸福を願う。

 カーヴェ

 ***

『気高き白獅子、その叡智の牙

   ──国立プラマーナ博物館』

 銅製のキャプションプレートに刻印された文字を、翠石の瞳はどこか冷めた色を湛え眺めていた。

 プレートが貼られた台座にはコルクでできた建造物の模型。前衛的な三次元曲面の壁面を基調に、スメールの伝統的な尖頭アーチなどの意匠を調和させた、非常に精緻な模型であった。

「見に来てくれたのか」

 教令院の閉門時間間際、無人のエントランスホール。月長石の床に静かな声が響く。声の主について、アルハイゼンにとっては振り向くまでもない。

「通りかかっただけだ。この位置に展示されていれば、図らずとも通りかかることになる」

 アルハイゼンとカーヴェが言葉を交わすのは、件の共同研究が破綻して以来であった。もっともその間カーヴェは、卒業に必要な研究論文に取り組んだり長期の学外実習に参加したり……そもそも教令院の共用スペースに姿を見せることが稀であった。そして学内でアルハイゼンを見かけたとしても、昔のように駆け寄ってくることもなかった。

 ふたりは袂を分かったのだ。

 ──沈黙が落ちる。

 据わりの悪い沈黙であった。以前であればおおよそ二人の間に沈黙などは存在しなかったし、あったとしてもそれは互いが手元に没頭するが故の穏やかな無言だったというのに。

「この建設チームに合流するから、卒業後はシティを離れることになった」

「それも奉仕か」

「それは仕事として引き受けた。卒業後は僕も活計を立てる必要がある」

 この国立博物館の移転新築に伴い、カーヴェは設計図書一式の権利を放棄し、当局に無償提供した。この規模のデザイン・設計委託ともなれば通常、報酬は数千万モラ……あるいは億を下らない。辞退した分のモラで、オープン以降当面の間は子どもたちの入館料を無料に、というものがカーヴェの条件だった。

 この決断に対して教令院は勿論、スメール中から惜しみない賞賛が寄せられた。趣旨に賛同し、クシャレワー学院に寄附を申し出る篤志家まであった。そして面目を施し実入りまであった教令院は、「当代において最も優秀にして最も誇るべき制作」として、全学生の動線の起点たるエントランスホールに、二十四分の一スケールの模型を展示したのだ。

 さながら、数か月後に卒業を控えたカーヴェからの、教令院への置き土産である。

「一貫性がないだとか所詮偽善だとか嘲るか?」

「いや。俺には関係のないことだ」

「……そうだ。そのとおりだ」

 互いに顔も合わせず、視線は模型に置かれたまま、抑揚のない言葉が交わされる。

「ただ、個人的な意見としては──技術や知識の提供に対しては、正当な対価が支払われるべきだと思う。安売りは君自身への冒涜だ。また、福祉と医療と高等教育まで無償、窮する者などこのスメールにはいない。君が重ねて施してやる必要性は乏しいとも」

「いいや、その政策のおかげで僕は今こうしてここにあるのだから、世に還元しなければならない。教令院の学費すら僕は国費で全額免除されている。カリキュラムの一環で制作したものが国立の文教施設に活用されるのであれば尚更だ」

「なるほど、君の施しは義務感からか。君はいつもそうだったな。望まれるのであればとか、義務だとか」

「なに──!」

「君の意思はどこにある」

 心臓を一突きされたかのような表情だった。

 カーヴェはその紅玉の瞳を剝き出しにし、唇を噛む。そして震える声で絞り出した。

「……それはきみに関係のあることか?」

「……さあな」

 カーヴェとはそれきり。彼の卒業まで言葉を交わすことはなかった。

 ***

 全身の血液がごっそり抜かれる心地であった。

 スネージナヤからの手紙に、アルハイゼンの心が穏やかでいられるはずはなかった。

 これまでに届いた手紙とは明らかに異質、いっそ少女趣味とも言えるほど甘ったるい陶酔が伺えた。その浮ついた心地のまま、カーヴェはいとも簡単に死の淵に立った。アルハイゼンの知らぬ間に、アルハイゼンの知らぬところで。

 どれだけ振り回せば、どれだけ掻き乱せば気が済むのだと。

 怒りにも似た焦燥と、後悔──もう、ずっとだ。カーヴェの卒業の日からずっと燻っていた苦々しい感情。理性で蓋をしようとも、叡智の光で満たそうとも、ふとした瞬間に顔を覗かせ、アルハイゼンの残火を焚き付けてゆく。

 それは長い月日を経てもなお、痣となりアルハイゼンに残ったまま。

 白紙のレポート用紙を前に、自虐にも似たため息が漏れた。瞳を閉じ、深く呼吸を吐き出す。

 やがて、「いい加減にしてくれ」と書き出していたレポート用紙を破り捨てる。所詮届かぬ手紙。何を吐露しようがぶつけようが一人芝居でしかない。それでも彼の名を宛名として記した以上、投げやりな言葉を綴ることはアルハイゼンにとっては相応しくなかった。

 カーヴェからの手紙は四通目。

 糊綴じのレポート用紙は、いよいよ残りが一枚となった。

 そして入眠改善薬を増やしてみても、その夜の寝付きは悲惨なものであった。

 カーヴェへ

 体調が戻ったとのことで、その点においては何よりと思う。

 俺は雪を見たことはないし、おそらく生涯見ることはない。よってその上を歩くこともないだろう。

 論文は提出を済ませた。国際学術誌への投稿について予定はないが、君が希望するのであればしない。

 アルハイゼン

Chapter:五、

 教令院の卒業を目前に控えたその日、アルハイゼンは朝から晩まで本に埋もれていた。

 いや、埋もれるだけであればこれまでもそのような生活であったのだが、今回は文字通り、物理的に、本の山に埋もれていた。

 ──祖母から相続したこの家を、手放すことにした。卒業後はアルハイゼンにとって、教令院は学舎から職場へと変わる。そして、己が権利を持つ一軒家が教令院至近にある。卒業は相応しいタイミングであった。

 少しずつ引越しのための荷物整理を進め、そしてアルハイゼンは本日遂に書庫に手を付けた。

 三人の学者が遺した学術書で未読のものは一冊たりともない上に、今日では既に新しい説に置き換わっていたり否定されていたりといった内容も多かった。それでもアルハイゼンはそれらを全て新居に運ぶこととした。

 遥か昔、自分次第で炎色反応は炎色反応を超越すると誰かが宣ったように、家族の縁の薄かったアルハイゼンにとって、それらの学術書は学術書以上の意味を持つものであったから──。

 ふと、その中の一冊が目に止まる。

 記憶にある、あの人の瞳と同じ色をした革表紙。アンティーク調の上質な装丁が施されたそれを開くと、くすぐったい古紙のにおいが広がり、扉に懐かしい筆跡を見つけた。

「おばあ様──」

 周囲から忌避されがちであったアルハイゼンの全てを肯定し、多くの教えと抱えきれぬ愛を与えてくれた、陽だまりのような人。祖母の教えはこれまで、ふと歩みを止め己を顧みる場面において、アルハイゼンの極星であった。

 旅立つ前、皺の刻まれた柔らかい手を握るアルハイゼンに、祖母は最後の教えをくれた。

『誰よりも慎重に、冷静に、あなたの最大の知恵をもってして最良の選択を──』

 時を経て今、その最後の言葉がアルハイゼンに影を落とすのだ──。

 そしてその日、アルハイゼンは約四ヶ月ぶりに彼からの手紙を受け取る。

 カーヴェの卒業から二年。

 アルハイゼンの卒業まで、あと僅か。

Chapter:テイワットのどこかから

 親愛なるアルハイゼンへ

 元気でやっているだろうか。

 僕は問題ない。とても元気だ。

 今日は何を、というわけではないのだけれど、僕が旅に出てからもう二年が経とうとしていることに気づいて、それで。

 僕はスメールを飛び出したこの二年間、毎日テイワット中の美しいものを見て、毎晩きみの夢を見た。

 筆舌に尽くしがたい景色、可憐な花、荘厳な建造物、風流な詩、精緻な工芸品……本当にテイワットのありとあらゆるものを見た。僕はそれらを手紙や絵にしてきたけれど、ほんの欠片でもきみに伝わっていたら嬉しい。

 アルハイゼン、テイワットは美しい。

 世界はこんなにも美しく、ただそこに在る。

 そして、山も、鳥も、木々も、街の灯りも、この世界の全ては等しくきみを愛している。

 きみは愛された存在なんだ。

 どうか忘れないで。

 スメールは今頃──もうすぐきみの卒業の時期か。首席章を佩用する凛々しい姿が目に浮かぶ。似合うのだろうな。

 僕の探し物は、まだ見つかっていない。七国中を旅して、ありとあらゆるものを見てきたのに、まだ見つからないんだ。

 僕にはもう時間がないのに。

 アルハイゼン、テイワットのどこかで、きみの健康と幸福を願う。

 カーヴェ

 ***

 深林色の制帽が一斉に、雨上がりの空に舞う。

 雨季の雲の合間から顔を覗かせた太陽が、この日のために祝福を授けていた。

 晴れやかな笑顔を浮かべ、誇らしげに学位記を手にする深林色の人だかりの中に、彼もいるのだろう。多くの同級生や後輩に囲まれ、笑い合っているか、名残を惜しんでいるか。

 誰よりも美しく、誰よりも聡明で、周りを天国にも地獄にも変えてしまう、カーヴェは今日、教令院を卒業する。

 アルハイゼンはそれを遠くから眺める。そして華やかな歓声を背に、厭というほど続く石造のスロープを一人下った。

 挨拶に行くつもりはなかった。

 喧嘩別れしたきり今更話すこともなく、渡すべき卒業祝いもない。

 それでよかった。それでいいのだと思った。

 賑やかな街並みを通り抜け、郊外の自宅へ。

 書斎で分厚い皮の表紙を開き、規則正しい活字の羅列に身を委ねてもしかし、安寧と静謐の宇宙はアルハイゼンを掬い上げてはくれなかった。

 ページから顔を上げれば、そこは共同研究の頃、二人朝まで議論を重ね語り合った書斎。

 アルハイゼンは立ち上がる。

 書斎を出れば、徹夜明けの妙なテンションのまま、二人並んでコーヒーを啜った窓際。

 家を出れば、向かいの家の庭先には純白のプルメリア。彼の髪に触れた日の香り。

 アルハイゼンは歩き出す。

 街並みを通り抜け、厭というほど続く石造のスロープへと続く広場。蕩けるような月光の下、見つめ合ったあの夜。

 ──どこだ。

 アルハイゼンは駆け出す。厭というほど続く石造のスロープを。

 出会ったあの日彼が追いかけてきたスロープ、歩くのが早すぎると彼に咎められたスロープ、いつからか彼に合わせて歩いていたことに気づいたスロープ、何度も何度も何度も何度も二人並んで歩いたスロープを、アルハイゼンは今初めて、息を切らし駆け上がっていた。

 ──クソ。だからこんな実用性を欠く構造は。

 しかしスロープを駆け上がった先、教令院正門前の広場にも彼はいない。卒業生の集団は既に解散し、皆が思い思いの途についていた。

 痛む肺にも乱れる呼吸にも構わず、アルハイゼンは再び駆け出す。制服のローブの裾が絡まり、足が縺れる。裾を掴み、形振り構わず、力の限り大地を、この世界を蹴った。

 ──どこにいる。

 ラザンガーデン、知恵の殿堂、カフェテリア、妙論派のアトリエ……隈なく探し回っても姿の見えない彼が、いっそ憎らしくもあった。

 そして遂に、漸く、アルハイゼンはカーヴェの姿を捉えた。

 学生寮の部屋の前、彼は世話になった自室に施錠し、今まさに退寮しようとしていた。

「アルハイゼン! 来てくれたのか」

 カーヴェが顔を輝かす。

 しかしその姿に、アルハイゼンは言葉を失う。

 彼は真っ新なシャツに着替え、右手には手回りの品を収めた小さなトランク、左手には花やプレゼントが詰まった大きな紙袋を持ち、晴れやかに、軽やかに笑っていた。

 わだかまりなど何もなかった、出会ったあの頃のように──。

「どうした? 卒業祝いでも持ってきてくれたのか?」

 息が上がったままのアルハイゼンは、言葉を返せない。

「何だよ、卒業おめでとうの一言も言ってくれないのか?」

 祝いなど──。めでたいことなど何もないのに、何を祝えと。

 いや、違う、違った。

 言えなかった。何も。

 揃いの制服を脱ぎ、ひとり先に大人になってしまうカーヴェに。

 引きずったままの自分のもとから、軽やかに羽ばたいていくカーヴェに。

 隣が欲しいならあげると言ったくせに、影すら踏ませぬところへ行ってしまうカーヴェに。

 今更、その隣が欲しかったなどと言えるはずもなかった。

 今更、重荷にしかならぬ思い出を持たせるわけにいかなかった。

 喉が灼け落ちる──アルハイゼンはカーヴェの肩に手を置く。そして彼の眩しさから目を逸らすよう、くちびるを重ねた。

 何の技巧も装飾もない、ただ触れるだけの、あまりに無垢なくちづけ。青春との決別。

 カーヴェの荷物が散乱する音を、どこか遠くに聞いていた──。

 アルハイゼンにとってそれは完全敗北を意味した。

 手の届かぬものを目の前にしたとき、度し難い不安と焦燥に駆られ、理により己を律することも、知のもとに言葉を尽くすことも放棄し、ただ、未熟な己の知りうる形に彼を切り取り、汚した。身勝手で醜いエゴを、彼にぶつけた。

 カーヴェを消費していた連中と、己と、違いはなかったのだ。

 激しく自己嫌悪した。未熟さを恥じた。屈辱ですらあった。けれどそれ以上に、己の至らなさから彼に無体を働いてしまったことを、ただ悔いた。

 アルハイゼンはそして、その代償としてカーヴェを失う。

 翌日、カーヴェはスメールから消えた。

 ***

 深林色の制帽が一斉に、雨上がりの空に舞う。

 雨季の雲の合間から顔を覗かせた太陽が、この日のために祝福を授けていた。

 晴れやかな笑顔を浮かべ、誇らしげに学位記を手にする深林色の人だかりの中に、首席章を佩用したアルハイゼンがいた。常の彼を知る者からは信じ難いことだが、アルハイゼンは卒業生のハットトスに参加していたのだ。

 制帽の描く放物線を追う。二年前のカーヴェの追体験。

 誰よりも聡明で、誰よりも公平で、周りを常に黙らせてきた、そんなアルハイゼンは今日、教令院を卒業する。

 ハットトスを終え、決して多くはない知論派の同窓や後輩たちと少々の言葉を交わし、香りのきつくない花を一本受け取って、アルハイゼンは学舎を辞した。華やかな歓声を背に、厭というほど続く石造のスロープを一人下る。どうせ今後も厭というほどここを歩くことになるのだ、感慨はなかった。

 賑やかな街並みを通り抜け、郊外の自宅へ。

 転居に向けた荷物整理はあと、寝室を残すのみとなっていた。

 荷物整理とは往々にして思い出に耽るための中断を余儀なくされるものであるが、思い出をほぼ持たぬアルハイゼンにとっては関係のないこと。しかし、ひとつの小さな木箱は完全にアルハイゼンの手を止めてしまった。

 カーヴェが姿を消してから丸二年。彼からの手紙は五通。そしてつい先日届いた、テイワットのどこかから書かれた五通目の手紙が、この一方通行の文通の最後のものとなることが確定していた。アルハイゼンは近いうちに転居し、そしてこの家は解体される。よって今後、カーヴェの知る宛先は消滅する。

 アルハイゼンはこの最後の手紙に対して、ずっと返事を書けずにいた。書き終えてしまったら正真正銘これが最後、彼との糸が切れるものと。そんな気がしていた。しかしこの家が物理的になくなる以上、返信を書こうが書くまいが終わりは終わりなのだ。

 痣となり残ったままの記憶とともに二年間、燻った日々──。

 アルハイゼンは立ち上がり、証悟の両袖机へ向かう。取り出したレポート用紙は残り一枚。しかし宛名を書いたきり、ペン先は虚空を彷徨う。カーヴェとのあの日々のピリオドとするに相応しい、そんな言葉は、知論派首席卒業生の叡智をもってしても捻り出せるものではなかったのだ。

 当然だ。世界に存在するどの言語のどの言葉をもってしても、語り尽くせるような日々ではないのだから。

 この叫びの行き場がなかった。

 同様に煩悶していた彼の卒業式の日は、力の限り駆け回れば彼の姿を捉えることはできた。しかし二年の時を経て今日はどうだ。最早どこを駆け回ればよいのかすら、誰一人、知る者はいないのだ。

 これまでに届いた五通の手紙を読み返す。彼はこの二年間、確かにこのテイワットにおいて躍動している。だというのに、なぜ今、この瞬間、最も必要とされている場所にいないのだ──。

 呼吸が乱れる。喉が灼ける。くちびるを奪った日の比ではない。

 一通目、モンドで蒲公英の綿毛を飛ばした。二通目、稲妻で花火を見た。三通目、璃月の廃墟で月を見上げた。四通目、スネージナヤの雪原で死にかけた。五通目、毎晩きみの夢を見た──……ここで、誰よりも聡明な知論派首席卒業生は一つのことに気づく。

 ──即ち、スメール人の特性(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)と異なる事象。

 そして再度、五通の手紙を最初から最後まで隈なく精読し、カーヴェの綴った言葉をもとにアルハイゼンは一つの推論を立てる。推論とも呼べぬような最早暴論であるが、仮に誤っていたとしても失うものはない、リスクは極めて低い。そう判断した。

 入眠改善薬、ありったけ。アーカーシャを外し、シャットダウン。落ちるまでの間に、さらに彼の手紙を読む。ああ、五通目、返事も書かなければ。

 完全敗北でも自暴自棄でも、何でもよかった。

 もう何でもいい。夢でも幻でもいいからただ──。

 一面、鈍色の平坦であった。

 暑くはないし、寒くもない。眩しくもないし、暗くもない。

 そして煩いノイズはなかった。

 なぜなら一人だったから。

 鈍色の平坦を一人歩いた。

 歩けど歩けど進まぬ。歩幅がおかしい。

 夢の中でアルハイゼンは、幼き少年の姿をしていた。

『アルハイゼン』

 懐かしい声が聞こえた。優しい、陽だまりのような声。

 声のした方を振り向くと、確かに今歩いてきたはずの背後に、誰かが立っていた。顔はよく見えぬ、けれど見間違うはずはない。

『アルハイゼンなの?』

 陽だまりのようなその人、今は儚き──。

「おばあ、様……」

『アルハイゼン、なんて顔をしているの』

 その陽だまりはアルハイゼンに手を伸ばし、丸い頬を愛おしそうに撫でる。懐かしい温かさだった。

「……おばあ様、申し訳ありません。いただいた教えのとおり、常に慎重に、冷静に、最大の知恵をもって最良の選択を心がけ生きていきたかったのですが……俺は未熟だ。貴方の教えを守れていない」

『大丈夫、あなたはあなたの全てをもってして、既に最良の選択をしているわ』

 祖母はアルハイゼンの前に膝をつき、目線を揃えて告げた。

『理により己を律することも、知のもとに言葉を尽くすことも、とても大事。あなたはいつでもそれを実行している。素晴らしいわ。けれど、理と知をもってしても、それでも目を背けられなかったその蕾こそ、あなたの心』

「心……」

『そう、心。いい? よく聞いてちょうだい』

 最良の選択とは、あなたを偽ることではないわ。

 最良の選択とは、あなたの中にしかないのだから。

 それでいいの、あなたはそれでいいのよ。

 おばあちゃまはいつでも、あなたの全てを肯定するからね。

 ああ、泣かなくていいの。

 おばあちゃまが祈っているから、あなたは大丈夫。

 私の愛するアルハイゼンが、平和な生活を送れますように──。

『さあ、行きなさい。彼もわかった(﹅﹅﹅﹅)みたいだから』

 そう言い残し、陽だまりは煌めく光のプリズムとなってアルハイゼンに降り注ぐ。その懐かしい煌めきは、涙の跡が残る頬をそっと撫でていった。

 煌めきを纏ったアルハイゼンは歩き続ける。

 歩幅が広くなる。スピードが上がる。手足の大きさ、肉付きが変わっていた。自分でもわかった、アルハイゼンは大人の姿をしていた。

 突如、ノイズに襲われる。耐え切れず、耳を塞ぐ。しかし耳を塞いだその手に、触れるものがあった。

『アルハイゼン』

 とても強く、美しい光だった。顔はよく見えぬ、けれど見間違うはずはない。

『……アルハイゼン、ねえここ、暗くない? しかも寒いし』

「俺は平気だが」

『僕が平気じゃないんだ! ねえ一緒に行こうよ』

 顔はよく見えない、見えないが、表情は手に取るようにわかった。

「俺は遠慮しておく」

『どうして』

「そちらの世界は好きではない」

『……アルハイゼン、いいか、世界とは即ち己だ。人は皆、己が知りうる形に世界を切り取り、咀嚼する。きみが受け取る世界は全て、きみの意識や思考を経たもの。きみがこうだと思えば世界はその通りになる。──世界を変えるのはきみだ』

「詭弁だ」

『ふふっ、そう思うのならそれでいいよ。それでも、きみの心はもう走り出してしまっている。僕は──ううん、僕だけは(﹅﹅﹅﹅)知っているよ』

 耳を塞いだ手をそっと外される。ノイズは随分と小さくなっていた。

『もう花火は終わった、大丈夫。気になるならヘッドホンはつけたままでいい。行こう、僕はきみと一緒に歩きたいんだ、同じ歩幅で』

 光は凛々しく微笑み、アルハイゼンに手を差し出す。

『きみを迎えにきたよ』

 アルハイゼンはその太陽に手を伸ばす。

 強く、美しい光が差して。

 鈍色の平坦に、この世界に、アルハイゼンの影ができた。

 右手。

 及び見慣れた天井。

 アルハイゼンの視界に映ったものは天井へと伸ばした己の右手であった。自室のベッドの上で、アルハイゼンは目を覚ましたのだ。

「あーもうやっと起きたよ。プリンセス、お目覚めはいかが? と言ってももう夜だ」

 心底面倒くさそうな声が、無人のはずの部屋に零れた。声のした方──証悟の両袖机を向くと、カーヴェが、見紛うことなくカーヴェが退屈そうに頬杖をついていた。

「……なぜここに」

「なぜじゃない。あんな甘い錠前、不用心にもほどがある。すぐ開錠できたぞ。壊したとも言うが」

「不法侵入と器物損壊だ」

「いいや緊急避難だ! だって窓の外から覗いてみたらきみが倒れていて、周りに薬の空シートと紙がたくさん散乱しているのが見えた! 僕がどれだけ焦ったと思ってる!」

「相変わらずの早合点だ」

 アルハイゼンは起き上がり、カーヴェに冷ややかな視線を送る。

「でも呼吸も脈拍も体温も正常で、寝てるだけだってわかって……この体格差でベッドに引っ張るのにどれだけ苦労したと思ってる! 感謝してもらおう」

「いや、そうではなく、なぜシティにいる」

「今日帰ってきた。何とか間に合った、ぎりぎりきみの卒業の日だ。良かった」

 証悟の両袖机から立ち上がったカーヴェは、ベッドサイドに向かいながら「ただいま」と笑った。

「妙だ。聞きたかったことも言いたかったこともそれなりにあったはずなんだが」

「それなら先輩が一つずつ聞いてやるから、まずは挨拶だ。僕は今ただいまと言った」

 スプリングが軋み、ベッドに掛けたカーヴェが不敵に笑う。麗しい紅玉が、アルハイゼンの顔を覗き込んだ。

「……おかえり」

「なんだよいやに素直じゃないか」

「薬のせいでまだ頭がよく働かない」

「じゃあそういうことにしておいてやろう」

 その笑みは出会ったあの日と同じ。軽やかに、華やかに、鮮やかに、アルハイゼンに魔法の鱗粉を振り撒く。

 アルハイゼンの卒業の日、カーヴェが帰ってきた。

 あの頃より伸びた髪とあの頃と変わらぬ声で、スメールに、アルハイゼンの前に──。

「それで君は、なぜいなくなった。何をしていた。なぜ帰ってきた」

「一つずつだと言ったろう! しかしまあいい。それら全て同じ答えだ。僕は嬉しかったんだ。……あの日きみにキスされて、嬉しかった」

「……」

 アルハイゼンは驚かない。

 カーヴェがどれだけ突拍子のないことを言い出そうが、今更驚きはしない。仮に彼が今日油田を掘り当てようが、明日その油田に沈んでいようが、少なくとも驚きはしない。

「だってあの瞬間、溢れて、あの、色彩が。一気に、押し寄せるみたいに。極彩色が、雨季のラザンガーデンよりもっと。それで僕、もう居ても立ってもいられなくて」

 カーヴェの顔が輝き始める。

 アルハイゼンはこの表情に非常に見覚えがあった。スイッチの入ったときの顔だ。しかも「厄介な方」のスイッチ。すなわち、カフェテリアで西風大聖堂の建築様式について延々講釈を垂れていたときの、何もかも置き去りにしてアルハイゼンを振り回すときの、あの顔。

「いつも冷静で理知的だったきみが、形振り構わず剥き出しのエゴみたいなものを、初めて僕にぶつけてくれた。嬉しかった。だってあれ、僕への卒業祝いだったんだろう? 僕は嬉しくて、幸せで、どうにかなってしまいそうで。我に返った後、ああそうだ、お返しをしなきゃ、僕はきみを幸せにしなきゃって」

 この表情にも見覚えがある。

 天の声を聞き製図台に向かう顔だ。溢れ出る閃きを微塵も逃さぬよう、追われるようにカーヴェは──。

「だって初めてだったんだ、僕が(﹅﹅)自分の意思で誰かに何かをしたいと思ったのは。きみにも指摘されたよな。誰かに望まれたからでもなく、義務でもなく、僕が初めてそう思った。それで、出かけたんだ。きみの卒業祝いを探しに」

「……もしかして君がこれまで大陸中を旅していたことは」

「そう。きみの卒業祝いを探す旅だ!」

 アルハイゼンは驚かない。

 驚かない。が、自信満々に腕を広げるその姿に、入眠改善薬のせいでは決してない頭痛が止まらなかった。要は、カーヴェの出奔もとい、アルハイゼンの二年間に及ぶ煩悶の日々については、半分どころかそのほぼがアルハイゼンのせいであった。

「だって、当然だろう? 僕をこんなに幸せにしてくれたきみに、この喜びと感謝を伝えるため何を贈ろうと僕は必死に考えた。でも思いつかなくて。けれどテイワットにはまだ見ぬ素晴らしいものがたくさんあるはずだから、その全てを見て、触れて、その中から僕が決めたくて探しに出た。このテイワットで一番、僕がきみに贈りたいものを」

 ──アルハイゼンが(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)喜ぶものではなく、カーヴェが(﹅﹅﹅﹅﹅)贈りたいもの。

 一見すると本末転倒のようだが、しかし贈り物とは往々にしてエゴ、いわば自己満足。カーヴェはこの極めて純度の高い初期衝動に、文字通り突き動かされたというわけだ。

「それで、七国中を探した。数えきれない人に尋ね、数えきれない本を漁り、僕が一番きみに贈りたいものを血眼になって探した。これはそのせいだ」

 自身の紅玉の瞳を悪戯っぽく指差し、カーヴェが笑う。

「その節穴がどうかしたか」

「慧眼だ!」

「それで、見つかったのか。お目当てのものは」

「ああ、僕はそうしてこのテイワットのありとあらゆる美しいものをこの目で見た。けれど──」

 ふ、と。

 カーヴェの声から、一切の装飾が落ちた。

「きみがいないと、世界から色が消えたようだった」

 あまりに澄んだ、無色透明の表情。

「……やっとわかった、僕の世界が美しいのは、きみがいるからだった。そして僕は漸く見つけた、きみに贈りたいもの。だから僕が(﹅﹅)帰ってきた──受け取りたまえ、これが僕のエゴだ」

 ベッドが軋む音がした。

 カーヴェはアルハイゼンの首に腕を回す。そして蜂蜜色の睫毛を伏せ、かつて自分に祝福をくれたくちびるに、同じものを返した。

 何の技巧も装飾もない、ただ触れるだけの、あまりに無垢で──あまりに厄介なくちづけ。

「卒業おめでとう、アルハイゼン」

 窓の外では、月すら覆う雨季の雲から、街に、スメールの大地に、この美しい世界に恵みが降り注ぐ。

 太古より連綿と続くこの循環は、眠れぬ夜と街の喧騒を洗い流し、明日の朝、庭先に純白のプルメリアを咲かせるのだ。

「アルハイゼン、アルハイゼン……」

 額、瞼、鼻、頬……。

 狂い咲きの季節を謳歌する小鳥のように、カーヴェはアルハイゼンの顔じゅうにくちびるを落とす。アルハイゼンは眉一つ動かさず、されるがままその戯れを甘受した。

「君は暗愚か。最良の選択とは君の中にしかないのに、これまで一度も行ったことのないような場所で見つかるとでも思ったのか。酒場の手洗い場に貼ってある自分探しの旅などという貼り紙に踊らされる手合いか」

「う、……ものすごく刺さったぞ、それ」

 華奢な背中に回される腕が、力の限り彼を掻き抱く。

「──気が狂いそうだった」

 カーヴェの耳元に落ちたベルベットのテノールは、熱っぽく掠れていた。

 どこからどう読もうが『愛してる』としか書いていない恋文だけが勝手に届き続け、されど相手の姿はどこにもない。髪に触れることも声を聞くことも顔を見ることもできず、命あるうちに再会が叶うのかすらわからず、それが二年だ。くちづけ一つで足りるわけがあるか。それ以上のものも全部、身も、心も、人生も、何もかもを差し出させねば割に合わぬ──。

 アルハイゼンはカーヴェの後頭部を掴み、腹の底から引き摺り出される激情のまま、そのくちびるを貪った。舌を絡め、吐息すら許さず、二度とどこへも行けぬよう、いっそ喰らい尽くしてやりたかった。

 やがてカーヴェの肩口に埋まる端正な顔は、固く顰められていた。大きく上下する背中を、カーヴェは幼子を宥めるよう撫でさする。

「すまない。すまなかったアルハイゼン。それでも僕は旅に出てよかった。だって嬉しかった。返事、ありがとう」

「──は?」

 後にも先にも、アルハイゼンが聞いた己の声のうちで最も、それこそ閨中に漏れるそれよりも無防備な声であった。

 アルハイゼンは驚かない。

 ……はずであった。カーヴェが想定の遥か斜め上を行きすぎただけなのだ。芸術家が他人の予想の上に踊るのみではどうする。

「きみが寝ている間大事に読ませてもらった、全部。宛名が僕だったから。まさかきみがこんなことしてくれているなんて想像もしていなかった」

 そうだ、想像もしていなかった。テイワット中の誰よりも、アルハイゼンが一番。

 床に置かれたトランクからカーヴェが取り出した紙束に、アルハイゼンは見覚えしかない。誰も読むことのない、差し出すあてのない、つもりで書いた──。

「しかしきみ手紙だと素直だよな……知らなかったよ。ふふ、一番最後のこれ。だって僕これだけは絶対書かないようにしてたんだ! 僕が決めた禁句だったのに。それが、ふっ、まさかきみともあろう者がこんな、何の捻りもない、たった一言だけ……んふふふ……」

 カーヴェは、ほぼ白紙のレポート用紙に書かれたたった一言の文字を愛おしそうになぞり、目を細めた。テイワット中の、ありとあらゆる美しいものを見てきた目を。

「……気が狂いそうだ」

Chapter:ミス・ユー(会いたい)

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