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日本典籍·神道

神典(しんてん)は、日本の神道において信仰の根拠とされる文献の総称である。神典とは仏教の聖典・経典の総称である「仏典」に対して考えられた用語であり、中世に神道の教典(経典・聖典)として想定された。現在の神道には、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」は存在しないとされるが[1]、正統な信仰の規範とすることができると広く認められる一群の文献が存在し、これらを神典と総称している[2][3]。神典と呼ばれる文献群は主として平安時代までに成立したもので、神代における神々の事績を記すとともに、その内容において仏教や儒教の影響が少ないものに限られている。また神道五部書はまれに神典に入れている例があるが、このような中近世の諸流神道家による著作は各流派における教義を示したもので客観性に欠けるために、通常は神典の範囲からは外されるのが普通である。なお、契沖はこれらの文献を「神代ヨリ有ツル事ドモ記セルノミ[4]」に過ぎないので、神道の根本を知るためには朝廷における公式行事(特に祭祀)や諸神社における祭祀に注目すべきであると説いた。一般に神典とされる文献には以下のようなものがある。

これ以外に『高橋氏文』、『皇太神宮儀式帳』、『止由気宮儀式帳』等も含めることがある。さらには『萬葉集』、『律令』、『続日本紀』以降の六国史、『延喜式』、『令義解』、『令集解』、『釈日本紀』といったものに収録されている神道関係の古記録等も神典とされる[5]

また戦後、「神道における大蔵経」を目指して編纂された叢書神道大系』『続神道大系』があり、神道を理解するうえで重要な古典籍が収録されている。

海部氏系図 あまべしけいず

『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。著者は不明だが、「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せる[1]ところから、著者は物部氏の人物であるという説もある。 蘇我馬子などによる序文を持つ[2]が、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる[2][3]。江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた[4][5]。近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから[6][7][8][9][10][11]、本文は研究資料(例:[12][13] [14] [15] [16][17])として用いられている。本書の実際の成立年代については推古朝以後の『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、延喜の頃矢田部公望が元慶の日本紀講筵における惟良高尚らの議論について先代旧事本紀を引用して意見を述べていること[18]、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年 - 938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は博士・藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年 - 906年)には存在したと推定され、『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前と推定されている。

  • また、868年に編纂された『令集解』に『先代旧事本紀』からの引用があるとして、『先代旧事本紀』の成立時期を807年 - 868年とみる説がある。

まず『先代旧事本紀』の成立時期であるが……巻七『天皇本紀』の神武即位の記述中に、『古語拾遺』の中ほどに見える神武東征の文を承けた箇所がある……そこで『古語拾遺』の末尾にいう「大同二年(八〇三)[19]が上限となる。下限は、巻三「天神本紀」[20] ならびに巻七「天皇本紀」[21]に見える十種の神宝の祝詞を『令集解』が引いている[22]ことから求められる。『令集解』の成立期は……瀧川政次郎先生により、弘仁格式を引くも貞観格式は引かずと考証された結果、貞観十年(八六八)と推定された(『定本令集解釈義』解題、昭和六年、内外書籍)。その年次をもって本書の成立下限とすべきである」— 嵐義人[23]

  • また『令集解』に引用される、穴太内人(あのうのうちひと)の著『穴記』(弘仁(810年 - 823年)天長(824 - 833年)年間に成立か。)に『先代旧事本紀』からの引用があるとして成立時期を807年 - 833年とみる説がある。ただし、『穴記』の成立年代は弘仁4年以後ということのみが特定できるにとどまるため、推定の根拠としては有効ではないともいわれる[4]

編纂者[編集]

興原敏久

編纂者の有力な候補としては、平安時代初期の明法博士である興原敏久(おきはらのみにく)が挙げられる。これは江戸時代の国学者・御巫清直(みかんなぎきよなお、文化9年(1812年) - 1894年(明治27年))の説で、興原敏久は物部氏系の人物(元の名は物部興久)であり、彼の活躍の時期は『先代旧事本紀』の成立期と重なっている[24]

編纂者については、興原敏久説の他に、石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。

物部氏

佐伯有清は「著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族か。」とする[1]

矢田部公望

御巫清直は序文は矢田部公望が904年 - 936年に作ったものとする[25]安本美典は『先代旧事本紀』の本文は興原敏久が『日本書紀』の推古天皇の条に記された史書史料の残存したものに、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文章、物部氏系の史料なども加えて整え、その後、矢田部公望が「序」文と『先代旧事本紀』という題名を与え、矢田部氏関係の情報などを加えて現在の『先代旧事本紀』が成立したと推定している。

評価[編集]

序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に今井有順、徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らに偽書の疑いがかけられていたが、近年の研究により後世付け足された序文以外の価値は再評価されている[6][10][11]。鎌田純一は「しかしその一方で新井白石はこれを信頼しているし、その後の水戸藩でも栗田寛などは「国造本紀」、あるいは物部氏の伝記といったところを非常に重視しています……ですから完全に偽書扱いされてしまうのは、江戸時代というよりも、むしろ明治からあとのことでしょう[26]」と述べている。

偽書説[編集]

  • 今井有順:「推古朝以後の記述が見られる」[27]

  • 徳川光圀:「聖徳太子の撰といいながら、天皇諡号を記している。天皇諡号は淡海三船が撰したものである。……応仁の乱以後に卜部氏が勝手に作った偽書」[26][28]

  • 多田義俊は『旧事記偽書明証考』(1731年)で偽書説を主張。

  • 伊勢貞丈は『旧事本紀剥偽』(1778年)を著し、「舊事本紀(先代旧事本紀)は往古の偽書なり」と記している[29]

  • 本居宣長は『古事記伝』巻一において、「"舊事本紀と名づけたる、十巻の書あり、此は後ノ人の偽り輯(アツ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子命(シャウトクノミコノミコト)ノ撰び給し、眞(マコト)の紀(フミ)には非ず"……"但し三の巻の内、饒速日命の天より降り坐ス時の事と、五の巻尾張連物部連の世次と、十の巻の國造本紀と云フ物と、是等は何ノ書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし、"こうした記事は古い文書の記事を採用して書き綴った記録であり、後世にほしいままに造作した捏造の物語ではない。本居宣長はこう推定している」[4]

  • 栗田寛は『国造本紀考』(文久元年、1861年)のなかで徳川光圀が「後人の贋書」とし、信用できないと述べたと記録している。[要出典]

藤原明の偽書説[編集]

藤原明は『旧事紀』は聖徳太子勅撰として、承平6年(936年)日本紀講(『日本書紀』講)の席で矢田部公望によって突如持ち出された書物であり、その後、本書は『日本書紀』の原典ともいうべき地位を獲得したが、矢田部公望が物部氏の権威付けのために創作した書物である可能性が高く(矢田部公望は物部氏であり、当時の朝廷内では、対立する氏族との権力争いがあったと指摘している)、実際に創作したのは別の人物の可能性もあるが、物部氏か矢田部公望に近い筋の者であろうと推定して、本書は偽書であるとしている[30]

偽書説の経緯[編集]

序文には推古28年(620年)に推古天皇の命によって聖徳太子蘇我馬子が著し推古30年(622年)完成したものとある。

時に小治田豊浦宮に御宇し豊御食炊屋姫天皇即位し二十八年歳次庚辰春三月の甲午朔戊戌に、摂政めたまふ上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊命す。大臣蘇我馬子宿祢等、勅を奉りて撰び定む……時に、三十年歳次壬午春二月の朔巳丑是なり— 『先代旧事本紀』序文[31]

このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。

江戸時代の偽書説の発生[編集]

しかし、推古朝以後の『古語拾遺』と酷似した箇所があり、『古語拾遺』[32]が『先代旧事本紀』[33]を引用したのではなく『先代旧事本紀』が『古語拾遺』を引用したと考えられたため、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになる。

又令天富命率齋部諸氏作種種神寶鏡玉矛盾木綿麻等櫛明玉命之孫造御祈玉(古語美保伎玉言祈祷也)— 『古語拾遺』[32]

複天留(富)命率齋部諸氏作種々神寶鏡玉矛盾木綿摩(麻)等 複櫛明玉命孫造新玉古語美保代(伎)玉是謂新(祈)諱矣— 『先代旧事本紀』[33]

御巫清直も『先代旧事本紀析疑』にて推古朝以降の記載を指摘している[34]

此連公難波朝御世授 [35]……此連公五本淡海朝御世爲[36]……浄御原朝御世[37]— 『先代旧事本紀』[38][39]

謂摂津職初爲京師柏原帝代改職爲国[40]……諾羅朝御世和同五年[41]……— 『先代旧事本紀』[42][43]

江戸時代の偽書・『先代旧事本紀大成経』事件[編集]

江戸時代・延宝年間に著された偽書・『先代旧事本紀大成経』の影響で、その発想の元に使用された『先代旧事本紀』への評価も下がった。『先代旧事本紀大成経』は僧侶・潮音と伊勢神宮別宮の祠官が著述したもので、伊勢神宮・幕府を巻き込む大事件となり著者2名は流罪となった[44]。 神官47名が伊勢志摩国から追放となり禁書とされたが版木は残り、三十一巻本・七十二巻本・三十巻本として伝わっている[45]

研究者による再評価[編集]

御巫清直は著書『先代旧事本紀析疑』にて「序文が悪いのであり、それを除けばどこにも偽作と見なすべき理由はない」と見なし、1947年飯田季治は『標注先代旧事本紀』の解題で偽書説を批判し、1958年G.W.ロビンソンは『旧事本紀攷』[46]にて「『日本書紀』が部分的には『先代旧事本紀』を材料にしたとする説」を著した[10][47]。 1962年鎌田純一の『先代旧事本紀の研究 研究の部』[8]・『校本の部』[48]は「研究対象としての『先代旧事本紀』の復権は、鎌田の著作なしにはあり得ないことであった」と評価されている[49]。鎌田純一は、先に成立していた本文部分に後から序文が付け足されたために、あたかも本書が成立を偽っているような体裁になったとして、本文は偽書ではないと論じた。鎌田は序文に関して、奈良・平安初期の他の文献の序文と比べると文法が稚拙であること、延喜4年(904年)の日本紀講筵の際に『古事記』と『先代旧事本紀』はどちらが古いかという話題が出ていること(当時すでに序文が存在していたならそもそもそのような問いは成立しない)、鎌倉時代中期の『神皇系図』という書物の名を記していることを指摘し、序文の成立年代を鎌倉時代以降とした。すなわち、9世紀頃に作られた本来の『先代旧事本紀』には製作者や製作時期などを偽る要素は無かったということである[8]。2001年の上田正昭との対談では、序文が付け加えられたのは「古代末期か中世初期」と述べている[50]

偽書説への反証[編集]

近年上田正昭鎌田純一、嵐義人、古相正美他の研究者によって偽作は後から付け足された序文のみだと考えられている[26][34][51][34][10][11][4]

……承平六年(九三六年)、朱雀天皇のときの講筵では、矢田部公望が講義をしているのですが、そこで『古事記』と『旧事本紀』とどちらが先に成立したのかということについて語っています。矢田部公望は「先師の説に曰く」として、醍醐天皇のときに講義をした藤原春海は、『古事記』の方が先で『旧事本紀』の方があとだと言っていたと述べています。そしてそのうえで、自分は、『旧事本紀』の方が先で『古事記』の方があとだと思うと自らの考えを言っているのです。

こういうことが書かれているということは、藤原春海、矢田部公望のときには、まだ序文が付いていなかったと考えられます。もしも序文が付いていたのなら、「序文にこう書いてあるではないか」[52]と論じるはずなのですが、そういうことを一切論じていない。したがって、この当時は序文はなく、序文はその後の時代に付け加えられたものだと考えられるのです。

それに國學院におられた岩橋小弥太先生も言っておられますが、序文がいかにも稚拙だということです。文章になっていない。— 鎌田純一[26]

  • 弘仁3年(812年日本紀講筵にて「天皇敕阿禮使習帝王本記及先代舊事」と日本紀私記に記録されている[53]

  • 904年延喜の日本紀講筵においての藤原春海の議論が936年承平の日本紀講筵にて引用されている。

  • 904年藤原春海は延喜の日本紀講筵にて日本最初の史書を『古事記』と唱えている(「師説。以古事記爲始」)と936年承平の日本紀講筵にて矢田部公望により引用されている(延喜の日本紀講筵では公望は補佐役の尚復だった)[54][55]

問。本朝之史以何書爲始乎。師説。先師之説。以古事記爲始。而今案。上宮太子所撰先代舊事本紀十卷— 矢田部公望[56]

  • 936年承平の日本紀講筵にて矢田部公望は聖徳太子撰の『先代舊事本紀』が最古(「而今案。上宮太子所撰先代舊事本紀十卷」)と説いたと『日本紀私記』・『釈日本紀』にて記録されている[54][55]

  • 『延喜公望私記』にて矢田部公望が『先代旧事本紀』第三の「湯津楓木」を引用してその前の元慶の日本紀講筵(878年)にて惟良高尚が神代紀「湯津杜木」の「杜」は「桂」の誤りではないかと問うて博士がそれを否定した箇所について惟良大夫を支持したと『釈日本紀』巻8にあるので、延喜の日本紀講筵(904年)の時期に公望は『先代旧事本紀』を読んでいる[18][57]

  • 『先代旧事本紀』の序文には完成年推古30年(622年)が明記されている。

以上の点から904年延喜の日本紀講筵の際には先代旧事本紀に序文は無く、その間に序文が添えられたとする学者たちがいる[26][51][8][10][11]

資料価値[編集]

本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。

巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」の一部、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」の尾張氏、物部氏の伝承(饒速日尊に関する伝承等)と巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられる。「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるとする意見もあり、国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見もある。

  • 青木和夫は巻五の「天孫本紀」は尾張氏,物部氏の古来の伝承であり、巻十の「国造本紀」も古い資料によっているとする[58]

  • 新野直吉は「国造本紀」について「畿内大倭から多鳥(たね)までの大化前代の地方官豪族である国造(くにのみやつこ)名を掲げ、その系譜と任命設置時を示している。後世の国造である律令国造の名や国司名も混入しているが、他に例のないまとまった国造関係史料なので、独自の価値を持ち古代史研究の史料となっている。」とする[59]

  • 佐伯有清は『鎌田純一著『先代旧事本紀の研究』全二巻(1960、62・吉川弘文館)』を参考文献にあげて「天孫本紀」「国造本紀」は史料として重要とする[1]

  • 上田正昭は「私もまたおりあるごとに『先代旧事本紀』はたんなる「偽書」ではなく、貴重な古典である所以について言及してきた」[60]、『先代旧事本紀』には注目すべき内容が多々あると述べている[61]

  • 鎌田純一は今も宮中で大嘗祭新嘗祭前日に行われる鎮魂祭での御玉緒糸結びの儀、宇気槽を衝く儀、御衣振動の儀において『先代旧事本紀』に記されている十種神宝に関する唱え言葉を唱えることからも重要な資料であると記している[62]。饒速日尊の降臨した「河内国河上哮峯」伝承地は、住吉大社の社伝『住吉大社神代記』の「膽駒神南備本紀」にて神南備である生駒山の北限を饒速日山と記載してあることから、大阪府交野市磐船神社近辺と推定している[63][64]

  • 渡邉卓は「平安時代には既に成立していたことは間違いない……偽書説を経ることにより、かえって本文に残された古伝の価値が指摘されたのであった」と評価している[10]

  • 心理学者の安本美典は物部氏の伝承や国造関係の情報は貴重であり、推古朝遺文(推古天皇の時代に書かれたとされる文章)のような古い文字の使い方があり相当古い資料も含まれている可能性があるとする[65][66]大和岩雄の饒速日尊の降臨した「河内国河上哮峯」伝承地について、河内国交野郡は交野物部の本貫地であること、「天神本紀」の天物部二十五部・肩野物部の肩野は交野であること、饒速日尊の六世孫・伊香色雄命の子・多弁宿禰が交野連の祖先と記載されていること、饒速日尊の十三世孫・物部の目の大連の子の物部臣竹連公が交野の連らの祖先であるとも記載されていることから哮峯は河内国讃良郡西田原・磐船山(饒速日山)説等から1713年貝原益軒 『南遊紀行』、1789年平沢元愷「漫遊文草」、1801年秋里籬島河内名所図会にも書かれた北河内磐船説が南河内説よりも有利との推定[67]を支持している[68]

  • 法学者蓮沼啓介[69][70][71]は「天神本紀」、「天孫本紀」、「国造本紀」に資料価値を認めつつも、これらの巻にも「後世に加筆した疑わしい記事が混じっている。」として、批判的に扱うべきであるとする[4]

影響[編集]

本書は序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したものとあるため、中世の神道家などに尊重された。

鎌倉時代の僧・慈遍は、『先代旧事本紀』を神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、度会神道に影響を与えた。

室町時代吉田兼倶が創始した吉田神道でも『先代旧事本紀』を重視し、記紀および『先代旧事本紀』を「三部の本書」としている。

先代旧事本紀大成経』(延宝版(潮音本、七十二巻本))、およびその異本である『鷦鷯(ささき、さざき)伝本先代旧事本紀大成経(大成経鷦鷯伝)』(三十一巻本、寛文10年(1670年)刊)、『白河本旧事紀』(伯家伝、三十巻本)などはすべて『先代旧事本紀』を基にして江戸時代に創作されたと言われ、後に多数現れる偽書群「古史古伝」の成立にも影響を与えた。

構成[編集]

神皇系図 1巻[編集]

現在、欠けて伝わらない。

第1巻「神代本紀」「神代系紀」「陰陽本紀」[編集]

天地開闢イザナギ神話。

第2巻「神祇本紀」[編集]

ウケイ神話スサノオ追放。

第3巻「天神本紀」[編集]

ニギハヤヒ神話、出雲の国譲り

第4巻「地祇本紀(一云、地神本紀)」[編集]

出雲神話

第5巻「天孫本紀(一云、皇孫本紀)」[編集]

物部氏尾張氏の系譜。

第6巻「皇孫本紀(一云、天孫本紀)」[編集]

日向三代神武東征

第7巻「天皇本紀」[編集]

神武天皇から神功皇后まで。

第8巻「神皇本紀」[編集]

応神天皇から武烈天皇まで。

第9巻「帝皇本紀」[編集]

継体天皇から推古天皇まで。

第10巻「国造本紀」[編集]

国造家135氏の祖先伝承。

伊豆国神階帳 いずのくにしんかいちょう

先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう、先代舊事本紀大成經)は、聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典。複数の研究者によって偽書とされている[1][2]。正部三十八巻と副部三十四巻の計七十二巻に分かれている。正部には神代七代から推古天皇までの歴史と祭祀、副部には卜占・歴制・医学・予言・憲法など広範な内容が記され、神道の教典としての格を備えている。正部神代本紀全一巻。先天本紀全一巻。陰陽本紀全一巻。黄泉本紀全一巻。神祇本紀上下二巻。神事本紀上下二巻。天神本紀上下二巻。地祇本紀上下二巻。皇孫本紀上下二巻。天孫本紀上下二巻。神皇本紀全六巻。天皇本紀全六巻。帝皇本紀全六巻。聖皇本紀全四巻。副部經教本紀全六巻。祝言本紀全一巻。天政本紀全一巻。太占本紀上下二巻。歴道本紀全四巻。醫綱本紀全四巻。禮綱本紀全四巻。詠歌本紀上下二巻。御語本紀全四巻。軍旅本紀上下二巻。未然本紀全一巻。憲法本紀全一巻。神社本紀全一巻。國造本紀全一巻。

1679年(延宝7年)、江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』(七十二巻本)[3]と呼ばれる書物が発見したとされた[4]。この大成経の内容が公開されると大きな話題となり、学者神職僧侶の間で広く読まれるようになった。しかし、大成経の内容は伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が主張していた、伊雑宮が日神を祀る社であり内宮外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるようなものであることがわかり、内宮・外宮の神職がこの書の内容について幕府に詮議を求めた。

1681年(天和元年)、幕府は大成経を偽書と断定し、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」、書店にこの書物を持ち込んだ神道家・永野采女と僧 ・潮音道海[5]、偽作を依頼したとされた伊雑宮の神職らを処罰した。後に大成経を始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販売が禁止された。しかし、幕府の目を掻い潜って大成経は出回り続け、垂加神道などに影響を与えている。

なお皇大神宮と伊雑宮は奉斎氏族は別であり、日神祭祀の起源主張には無理がある。

日本書紀 やまとぶみ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80

奈良時代に成立した日本の歴史書。養老4年(720年)に完成したと伝わる。日本に伝存する最古の正史で[3]、六国史の第一にあたる。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた[4]。同じく奈良時代に編纂されたとされる『古事記』と共に、日本のみならず東アジアの古代史、文学史、言語学における重要史料の一つであり、両者合わせて「記紀」と呼ばれる。『日本書紀』は全30巻、系図1巻(系図は現存しない)からなり、天地開闢から始まる神代から持統天皇代までを扱う編年体の歴史書である。神代を扱う1巻、2巻を除き、原則的に日本の歴代天皇の系譜・事績を記述している。ただし神功皇后など天皇とはされていない人物を1巻全体で取り扱う9巻や、事実上壬申の乱の記述に全体を費やす28巻などの例外も含む。全体は漢文で記されているが、万葉仮名を用いて128首の和歌[5]が記載されており、また特定の語意について訓注によって日本語(和語)で読むことが指定されている箇所がある[6]。このような漢文中に現れる日本語的特徴、また日本語話者特有の発想による特殊な表現は現在では研究者によって和習(倭習)と呼ばれている[7][8]。『日本書紀』は伝統的に純漢文(正格漢文)の史書として扱われる場合が多いが、この和習を多々含むためその本文は変格漢文(和化漢文)としての性質を拭い難く持つ[9]。太歳を用いた干支紀年、和歌の採録数の多さ、分註の多さなどは後世『日本書紀』に続いて編纂された日本の正史、いわゆる六国史の他の書籍と比較した場合際立って目立つ『日本書紀』の独特な特徴である[10]。また、『日本書紀』は単独の人物ではなく、複数の撰者・著者によって編纂されたと見られ、この結果として全体の構成は不統一なものとなっている。このため近代以降においては各巻の様々な特徴によってグループ分けを行う区分論が盛んに研究されている[11]。編纂にあたっては多様な原資料が参照されており、その中には日本(倭)の古記録の他、百済の系譜に連なる諸記録(百済三書、百済で作成されたものであるかどうかは不明)、『漢書』『三国志』(「魏志」「呉志」)などの中国の史書が参照されている[12]。特に百済を中心に朝鮮諸国の事情、対外関係史について詳しく記述していることも独特の特徴である[13]。歴史記録としての『日本書紀』は古代日本の歴史を明らかにする上で中核をなす重要な史料であり、また東アジア史の視点においても高い価値を持つ史書である。ただし、あらゆる史料と同じように『日本書紀』の歴史記録としての利用には厳格な史料批判を必要とする。坂本太郎は「六国史で、歴史を研究する前に、六国史を、研究する段階が必要だと思うのである[14]」と指摘しており、この点を象徴するものとしてしばしば引用される[15]。日本の学界では『日本書紀』の史料批判の研究は分厚い積み重ねがあり、編纂にあたって語句の修正(倭→日本、大王→天皇)が行われていること、編纂時の知識を古い時代に投影していること(例としては評を参照)などを始めとして、歴史記録・文学作品としての『日本書紀』の性質の多様な面が明らかにされているが、今もなお不明瞭な点も数多く残り熱心な研究が続けられている。

歴史的背景[編集]

『日本書紀』は日本の現存最古の「正史」とされるが、その編纂までには日本における文字の使用と歴史的記録の登場の長い歴史があった。日本(倭)における歴史、即ち過去の出来事の記憶についての記録としてまず言及されるのは「帝紀」(大王家/天皇家の系譜を中心とした記録)と「旧辞」(それ以外に伝わる昔の物語)である[16]。これらは津田左右吉継体欽明朝(6世紀半ば)の頃に成立したと提唱して以来、様々な議論を経つつも、元々は口承で伝えられていた伝承が6世紀にまとめられたものと一般的には考えられている[17][18][19]。さらに、文字に残された系譜情報を「史書」として見るならば、雄略朝(倭王武、ワカタケル大王、5世紀後半)にはその種のものが存在していたことが稲荷山鉄剣銘の存在によってわかる[20]

こうした歴史の記録には書記官の存在が不可欠である。日本における文字の使用が渡来人によってもたらされたことも含めて、日本の修史事業は朝鮮半島・中国大陸の情勢と深く関係していた。日本では5世紀後半から6世紀にかけて、倭王権の下に史(フミヒト/フヒト)と呼ばれる書記官が登場する[21]。彼ら、フミヒトの多くは渡来人によって構成され、人的紐帯に基づいて倭王権に仕える形態からやがて欽明朝期の百済からのフミヒトの到来を経て制度化されて行った[22]。「帝紀」「旧辞」がまとめられていったとされる時期がこの欽明朝にあたると考えられ、同時期には朝鮮半島において百済と競合する新羅でも修史事業が進められていた[22]

「書かれた歴史」を編纂する修史事業の記録は推古朝に登場する。『日本書紀』によれば皇太子(聖徳太子、厩戸皇子)と嶋大臣(蘇我馬子)の監修で推古28年(620年)に『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』がまとめられた[23]。推古朝の修史事業はこれらの史書が現存しないことや聖徳太子という伝説的色彩の強い人物と関連した記録であること、具体的な経緯などの情報に乏しいことなどから実態が必ずしも明らかではない[24](これらはいわゆる「国史」に分類されるようなものではなかったとする津田左右吉の見解や、それに反論する坂本太郎の見解など[25])。しかし、推古朝において日本における修史事業が始められたことは当時の東アジアの潮流と軌を一にする[26]。上に述べた新羅の修史事業は真興王6年(545年)に「国史」をまとめたものであり、高句麗嬰陽王11年(600年)に『新集』と呼ばれる史書を撰述している[27][28]百済については修史事業の具体的な記録は残っていないが、『三国史記』の記述からは近肖古王(在位:346年-375年)代以来、何らかの「記録」があったことがうかがわれる[29]

これらの諸国の修史事業は4世紀以来、国家体制の構築や中華王朝との関係の変化の時期に行われており、外交上の必要性を重要な要因として行われたものであったと見られる。このことは恐らく日本(倭)の推古朝の修史も同様であった[29]。後に中国大陸を統一したは外国からの朝貢使の受け入れにあたり国情聴取を制度として実施していた。実際に日本の遣唐使の使節が「日本国の地理及び国初の神名」を問われたことが『日本書紀』の記録に見え、このような外交の場のやりとりは、各国に自国の成り立ちを意識させることになったであろう[21]。推古朝に入り、日本は唐に先立つへの遣使(遣隋使)を始め、中華王朝との外交関係の構築に手をつけている。唐の場合と同じく、隋代の外交の場でもこのようなやり取りが必要であり、対外交渉を通じて日本は「自国史」を意識するようになっていった。こうして推古朝において修史が開始されたと考えられる[21]

『日本書紀』の記録によれば、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)において中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らによって蘇我本宗家が滅ぼされた際、蘇我蝦夷は私邸に火を放って自害した。この時、蝦夷の私邸に保管されていた 『天皇記』『国記』も珍宝と共に焼かれたが、『国記』は船史恵尺によって火の中から取り出され中大兄皇子に献上されたとされる(皇極天皇4年6月13日条)。 これに関連する情報は『新撰姓氏録』の序文にもあり、『国記』が焼かれたために各氏の出自が失われ偽る者も現れたが、船史恵尺が焼かれようとする『国記』を奉ったとある[30]。しかし、これらの伝承が事実であったとしても、『国記』は『天皇記』と同じくに現代には伝わっていない。

『日本書紀』の編纂[編集]

『日本書紀』は『古事記』と並び日本に伝存する最も古い史書の1つである。しかし『古事記』が序文において編纂の経緯について説明するのに対し、『日本書紀』には序文・上表文が無く編纂の経緯に関する記述は存在しないため、いつ成立したのか『日本書紀』それ自体からはわからない[31]。『日本書紀』の成立について伝えるのは8世紀末に完成した歴史書『続日本紀』であり、養老4年(720年)5月癸酉条に次のようにある。

先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷
以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した[32]

ここから、『日本書紀』の成立は養老4年(720年)とするのが一般的である。しかし『続日本紀』の記述は簡潔であるため、いつから編纂が始まり、どのような経緯を経て完成に至ったのか確認することはできない[33]。このため現代の学者は『日本書紀』の内容に基づいてその具体的な経緯を推定している。歴史学者坂本太郎は、天武天皇10年(681年)に天皇が川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという『日本書紀』の記述を書紀編纂の直接の出発点と見た[34]。21世紀初頭現在でもこの見解が一般的である[23][35][36]

なお、近年になって笹川尚紀が持統天皇の実弟である建皇子に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり[37]、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原資料の1つであったとする説を出している[38]。なお、『続日本紀』和銅7年(714年)2月戊戌条に記された詔によって紀清人三宅藤麻呂が「国史」の撰に加わったとする記事が存在しているが、『続日本紀』文中に登場するもう一つの「国史」登場記事である延暦9年(790年)7月辛巳条に記された「国史」が『日本書紀』を指し、かつ『続日本紀』前半部分の編纂の中心人物であった菅野真道本人に関する内容であることから、菅野真道が「国史」=『日本書紀』という認識で『続日本紀』を編纂していたと捉え、紀・三宅の両名が舎人親王の下で『日本書紀』の編纂に参加したことを示す記事であると考えられている[39]

書名[編集]

『日本書紀』の書名については古くから議論が重ねられている。これは元々の書名についての議論で、主として『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説が存在する。このような議論が生じた理由は近代以前の史料において『日本書紀』がしばしば『日本紀』と呼ばれていること、そして『続日本紀』を始めとした後の六国史が「日本紀」を書名に取っていることにある[40]。さらに、『日本書紀』の書名に違和感を覚える者は承平年間(931年-938年)には既に存在していたと見られ、『釈日本紀』に引用された私記には書名を巡る問答が記録されている[41]。『釈日本紀』においては、『後漢書』が帝王の事績を「書紀」、臣下の事績を「書列伝」という名でまとめているので、『日本書紀』はそれに倣ったのであるとされている[41]。しかし、坂本太郎の指摘によれば現存する『後漢書』には上記のような区分を採用している事実はない[41]。近世以降の学説について、以下に坂本太郎のまとめに拠って各説の概要を示す。

『日本紀』[編集]

『日本書紀』は元々『日本紀』だったという見解は江戸時代国学者伴信友が唱え、その後20世紀に入るまで通説として扱われた説である。その論拠は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に「書」の文字がなく日本紀と記載があること、以後の日本の国史が『続日本紀』『日本後紀』のように「日本紀」の名を取っていることにある[42][43]。しかし、元々の名前が『日本紀』ならば、なぜ後世に「書」字が加えられて『日本書紀』となり、さらにはこの新しい名前の方が正式な名前として扱われるに至ったのかが説明し難いこと、『万葉集』注釈などの奈良時代の書籍や『日本後紀』のような平安時代書紀の書物にも「日本書紀」の用例が見えることなどから、近代以降見直しが進められた[40]。「書」字の追加について、国文学者折口信夫は日本では中国の『漢書』『後漢書』に倣い、『日本書』が構想されたという見解を出した[41]中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。従って折口は、『日本書』の一部として「紀」が作られるはずであったが、それが実現せず部分として構想された「帝王本紀」だけが完成を見たために『日本紀』と名付けられたとした[44]

『日本書紀』[編集]

当初から『日本書紀』という名称だったという説は、『日本紀』説の検証と発展の中から出た[44]。『日本書紀』という書名の用例は非常に古く、奈良時代平安時代初期の成立時期に近い時代の史料と古写本とに『日本書紀』と記しているものは数多く見られる。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされ天平10年(738年)の成立といわれる。上で触れた折口信夫の見解は『日本書』の一部として「紀」が作られたものの、完成した部分は『日本紀』と名付けられたというものであったが[44]神田喜一郎は書名は本来『日本書』であり、『日本書』という題名の下に小字で「紀」としるしてこれが『日本書』の「紀」であることを表示したが、伝写を経る間に『日本書紀』となってしまったとする[45][44]

通説と現在の研究[編集]

かつて通説であった『日本紀』説は20世紀の検証を経て発展し、日本史学会の権威であった坂本太郎が神田喜一郎の説を支持したことなどを経て[46]、2018年現在では『日本書紀』を原名とする説を支持する学者が多い[43]。さらに、『日本書紀』の書名の研究では、2011年に塚口義信が「『日本書紀』と『日本紀』の関係について-同一史書説の再検討-」(『続日本紀研究』392号)において、これまでになかった第三の説を発表して注目を集めている[43]。塚口は『続日本紀』の養老4年5月癸酉条の従前の解釈において「紀卅卷系圖一卷」に登場する系圖一卷は紀卅卷に附属されていたものとしているが、実はこの解釈以外に紀に系圖が附属されていたとする根拠はないとした上で、『弘仁私記』序や『本朝書籍目録』にも「日本書紀三十巻」「帝王系図一巻」と分けて記載されており、舎人親王が献上したのは『日本書紀』三十巻と別の書物であった系圖(『帝王系図』)の2種類の書物で、親王が修したとされる『日本紀』とはこの両書を合わせた総称であるとした。塚口説は総称である『日本紀』とその一部を構成する『日本書紀』の名前が類似しているという問題点はあるものの、残存する史料に基づいて『日本紀』と『日本書紀』が同じ書物を指すことを否定した見解と言え、もしこの見解が正しいとすれば『日本紀』と『日本書紀』を同一のものという前提に立ってきた既存の説は再考を迫られるものとなる[47]

なお、平安時代初期には『続日本紀』と対比させる意味で、『前日本紀』と称している事例もある(『日本後紀』延暦16年2月乙巳条所引同日付詔)[48]

読み[編集]

書名は上記に挙げる説を述べたが、読みについても、「にほんしょき」なのか「にっぽんしょき」なのか、証拠となる史料が発見されていないため今でも答えは出されていない。当時、「やまと」と訓読されることもあった「日本」という語を、どのように音読していたかは不明であり、また、奈良・平安時代の文献に「日ほん」という記述があっても、濁音も半濁音もなかった当時の仮名遣いからは推測ができないからである。主な例として、岩橋小弥太は著書『日本の国号』(吉川弘文館、ISBN 4642077413)のなかで「にっぽんしょき」の説を主張している。現在では出版社における編集部の判断で「にほんしょき」として記述および出版されているが、前述したように答えが出ていない以上、これが結論となっているわけではない。

なお、一部には『日本紀』と『日本書紀』を全く別の書と考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されているのがその根拠である。

原資料[編集]

『日本書紀』の編纂にあたって多種多様な資料が参照されており、これらの原資料を坂本太郎は以下のように分類している[49]。なお、ここに挙げる原資料は漢籍を除いて多くの場合現存しない。このため、その内容・性質については後世の研究者による推測であり、様々な見解があることに注意されたい。

  • 帝紀:天皇の名前、世系、后妃および子女の名前、皇居の所在、治世中の重要事項、治世年数、陵墓の場所などをまとめたものであったと推定される[50]

  • 旧辞:神代や神々の祭りの物語、天皇や英雄の物語、芸能物語、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定される[51]

  • 諸氏に伝えられた先祖の記録:旧辞とは異なる諸氏の先祖の物語。持統天皇5年(691年)に十八氏に先祖の墓記を提出させたことが記録に残されており、これが修史と関係していた可能性もある[52]

  • 地方に伝えられた物語の記録:具体的にどのような記録があったのかは判然としないが、坂本は『日本書紀』中の地名説話や地方の物語の存在から、地方の伝承も採録されたと推測している[53]

  • 政府の記録:天武天皇・持統天皇の記録は後世の『続日本紀』と遜色ないほど細かい年毎の記録があり、これは政府記録が利用できたことによる。天智天皇以前の記録は年毎の記録密度が疎であるが、これは壬申の乱でそれ以前の政府記録が失われたことによると推定される[54]

  • 個人の手記:遣唐使の記録・私記や壬申の乱に従軍した舎人の日記などが利用されている。これらの私記・日記自体も恐らく修史用に編集されて提出されたものと見られる[55]

  • 寺院の縁起元興寺縁起を主として、寺院の縁起が参照されている。ただし対象となった寺院の範囲は狭く、たまたま参照できたものが使用されたのみで全国の寺院から記録を集めるような労は取られていない[56]

  • 百済に関する記録:百済三書と呼ばれる史書(日本国内で百済系の人々によって編纂されたと推定される場合が多い)を始めとした百済の記録[57]。特に継体天皇を取り扱った17巻などは大部分を百済関係の記事が占め、天皇の崩御年なども百済系の史書によって決定されている[58]

  • 漢籍:中国の史書類等。『三国志』のような例外はあるものの、中国の史書は基本的に歴史的事件の典拠としてではなく、漢文を格調高くするための作文の典拠として用いられた[59]

漢籍については、それを元に『日本書紀』の本文を潤色した部位が概ね特定されており、巻毎に典拠として利用された漢籍の名前が既に整理されている[60]。具体的には以下のようなものが利用された[61]

『日本書紀』の大半の巻に「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」という形式で分註が多数記されている。これらの中には典拠となった書名をしている場合があり、以下のような出典となった資料を知ることができる[12]。ただしこれらはいずれも現存しておらず、その内容は原則的に『日本書紀』内の引用文からしか知ることができない。

神代巻口訣 じんだいかんくけつ

『日本書紀』神代紀の注釈書。忌部正通著、全5巻。単に『神代口訣』とも称される。正通による『日本書紀』の注釈書『日本書紀口訣』全12巻の中から神代紀の注釈を抜き出したもので、神代紀の上巻を6節、下巻を3節に、内容によって9節に分けているところに特色がある。成立は、正平22年(貞治6年(1367年))とされているが、近世の偽作という説もある。 漢籍や仏典を用い、特に宋学の性即理説の影響が著しく、「明理」を尊ぶことによる日本の永遠性を述べ、天御中主神、高皇産霊尊、神皇産霊尊の造化三神は国常立尊1神に帰一すると説く点に特色がある。

日本書紀纂疏 にほんしょきさんそ

『日本書紀』の注釈書。一条兼良著、全6巻。『書紀』の神代巻のみを注釈したもので、成立は康正年間(1455年 - 1457年)。日本の古典籍のみならず、漢籍、仏典、韻書まで用いた注釈で、同巻の注釈書としては室町時代を代表するものといえ、卜部家の『書紀』研究にも大きな影響を与えた。また当時の神道思想の一般的傾向や、兼良の神道観がうかがえる点も特色となっている。 本書において兼良は、儒教思想に仏説を混じえ、父経嗣や卜部兼熈の学統を受け継ぎながらも独自の神儒仏3教一致論を展開する。また、当時建仁寺の僧、円月が提唱した皇室の祖先を呉の太伯に求める説に対して厳しい批判を下し、日本学者としての意気と見識も示している。

古事記 こじき

日本和铜四年(711年)9月18日,日本元明天皇命太安万侣编撰日本古代史。和铜五年(712年)1月28日,将完成的内容《古事记》献给元明天皇,为日本最早的历史书籍。内容大略可分成:“本辞”、“帝纪”两个项目,以及“上卷”、“中卷”、“下卷”三个部分。全书采用汉文写成。本书由太安万侣在712年呈献给元明天皇,记载了凭稗田阿礼口诵之《帝纪》和《旧辞》,以及一些历代口述相传的故事。如同《古事记》的序中所提到,其编纂原因是为了清除虚构以及建立真实,就如同日本书纪一般,最终的是希望可以强化帝国专制的正当性而成书。《古事记》建立了一个亲大和的历史叙事,结合将成为官方接受的帝国叙事,《日本书纪》,则是有助于确保历史和神圣的合法性和一个能够在上古生存下来的王朝的优越感。这段历史叙事清楚地分为神的时代和人类帝王时代,其中诞生了土地的神灵被告知,且转化成了具有统治正当性的天皇。这些叙述也清楚地表示了大和民族具有权力来统治这块土地,然后这种神给予人类权利的概念大多都借鉴于中国。有些文内的叙述只是为了清除过去的失败,以及建立过去皇帝的声誉,例如提到了征服朝鲜帝国一事。无论《古事记》的最初意图如何,它最终确定并甚至可能制定了根据皇帝统治考察日本历史的框架。 书中建构日本宇宙观,认为宇宙根本是天之御中主神,生成宇宙的是高御产巢日神与神产巢日神[注 2];日本诸岛及岛上的山川草木众神由男神伊耶那岐神与女神伊耶那美神生产,并且生下支配日本列岛与岛上万物的太阳女神天照大神,因此日本人自古以太阳民族自居,并视日本为神国。[1]

《古事记》大略可分成两个项目、三个部分:

旧辞 きゅうじ

『古事記』や『日本書紀』以前に存在したと考えられている日本の歴史書の一つ。『帝紀』とともに古くに散逸して現存しない。記紀の基本資料といわれる各氏族伝来の歴史書だと考えられている。『古事記』序文の「先代旧辞」及び「本辞」、『日本書紀』天武天皇10年3月条の「上古諸事」はこの書を指すとも考えられている。 ただし『帝紀』と『旧辞』は別々の書物ではなく、一体のものだったとする説もある。 日本史学者の津田左右吉は、『旧辞』は記紀の説話・伝承的な部分の元になったものであると考え、『古事記』の説話的部分が武烈天皇のあたりで終わっておりその後はほとんど系譜のみとなること、また『日本書紀』もこのあたりで大きく性格が変わりそれまではあまりなかった具体的な日時を示すようになることなどの理由から、『旧辞』の内容はこのあたりで終わり、その後まもなく6世紀頃になってそれまで口承で伝えられてきた『旧辞』が文書化されたと推論した。 その後この説は通説となったが、『古事記』の序文を厳密に読む限りでは、史書作成の作業は『帝紀』と『旧辞』の両方に行われたものであり、『古事記』の内容自体は『旧辞』のみに基づくはずであることから、『古事記』が系譜と説話の両方を含む以上、「『帝紀』= 系譜、『旧辞』= 説話」とする一般的な理解は成り立たないとする見解もある。 また、一定の条件を満たす複数の書物ないしは文書の総称である普通名詞としての「旧辞」と、特定の時点で編纂された特定の書物を示す固有名詞としての『旧辞』は明確に区別すべきだとする説もある。 またほとんどの場合に『帝紀』と『旧辞』が並記されることなどから、これらは組み合わせることを前提にしており、二つの史書を組み合わせた日本独自の歴史叙述の形態があった可能性も指摘されている。

国意考 こくいこう

『古事記伝』(こじきでん、ふることふみのつたえ)は、江戸時代の国学者・本居宣長の『古事記』全編にわたる全44巻の註釈書である。『記伝』と略される。1764年(明和元年)に起稿し1798年(寛政10年)に脱稿した。版本としての刊行は1790年(寛政2年)から宣長没後の1822年(文政5年)[1]にかけてである。医学の修行のために上洛していた宣長は、1756年(宝暦6年)、27歳の時に店頭で『先代旧事本紀』とともに『古事記』の巻を購入した。この頃、宣長は『日本書紀』を読んでおり、賀茂真淵の論考に出会って日本の古道を学び始める。宣長が本格的に『古事記』研究に進むことを決意したのは、1763年(宝暦13年)の、私淑する真淵と「松坂の一夜」ではじめて直接教えを受けた頃である。その翌年、1764年(宝暦14年)から『古事記伝』を起筆し、間に『玉勝間』や『うひ山ぶみ』などの執筆も挟んで1798年(寛政10年)まで35年かけて成立した。『古事記伝』[2][3]は、『古事記』の当時の写本を相互に校合し、諸写本の異同を厳密に校訂した上で本文を構築する文献学的手法により執筆されている。さらに古語の訓を附し、その後に詳細な註釈を加えるという構成になっている(こうした書誌学的手法は宣長のみならず江戸期の学芸文化から現在の国文学・歴史学に到るまで行われており、『古事記』に関してはのちの倉野憲司『古事記全註釈』にも引き継がれている)。『記伝』全44巻のうち、巻一は「直毘霊」(ナホビノミタマ)を含む総論となっており、巻二では序文の注釈や神統譜、巻三から巻四十四までは本文の註釈に分かれている。宣長の『古事記伝』は、近世における古事記研究の頂点をなし、近代的な意味での実証主義的かつ文献学的な研究として評価されている。国語学上の定説となっている上代特殊仮名遣も、宣長によって発見されたと評価されている。宣長は『古事記』の註釈をする中で古代人の生き方や考え方の中に連綿と流れる一貫した精神性、即ち『道』(古道)の存在に気付き、この『道』を指し示すことにより日本の神代を尊ぶ国学として確立させた。宣長研究の第一人者村岡典嗣は1911年(明治44年)に上梓した『本居宣長』(東京警醒社)の中で次のように述べている。

古道とは何ぞ。そは天地万国を通じてただ一すぢなるまことの道で、我が国にのみ正しく伝はつて、外国には既に、その伝来を失つてゐる。道といふといへども、そは、人間が究理作為の結果になつた道理道徳の類でなく、ただこれ、我が国の古典に伝へられた、神代の事実である。万国に勝った御国にのみ伝はつた古への言伝へ、これやがて古道の根拠である。而してこは、古事記、日本紀のニ書、殊に古事記に正しく伝はつた。日本紀に比して、古事記の重んずべき理は、そが古語の純粋を以て、「言ひ伝へ」をさながらに記して居るからである。而して、彼がかく考へたのは、已に、注意した如く、一方に彼が語学上言霊説の之を荷へるものがあつたので、即ち、彼がさる難者の「言ひ伝へ」の信ずべからざるを言つたのに答へた文に、言ひ伝へと文字伝へと各特質があつて、必ずしも言ひ伝へが、文字伝へに比して誤多い理由はない。殊に、「文字なき世は、文字なき世の心なる故に、「言ひ伝へとても、文字ある世の言ひ伝へとは大いに異にして、浮きたることさらになし。」となし、殊に「皇国は言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と、古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国に勝れたるをや。」といひ、更に進んで、「抑(そもそも)、意と事と言とは、皆相称へる物にして、上つ代は意も事も言も上つ代」となした思想に由来してゐるのである。(而してまた一つには、この點からして、古語を明らめて古伝説を説き明らむることによりて、やがて古道の研究に入るといふ、彼の学問の結論は生じたのである。)

古事記伝を離れて単独に古道を説いたものとしては、「直毘霊」・「葛花」・「玉くしげ」「秘本たまくしげ」 「伊勢ニ宮ささ竹の弁」等の著述がある。 彼が『古事記』を称揚した影響で、それまでは正史である『日本書紀』と比して冷遇されていた『古事記』に対する評価は一変し、神典として祭り上げられるようになった。宣長は、『古事記』の註釈にあたって、本文に記述された伝承はすべて真実にあったことと信じ、「やまとごころ」を重視して儒教的な「からごころ」を退けるという態度を貫いた。 なお、『古事記』本文の定本の一つとして、現在でも参考に用いられている『訂正古訓古事記』は、宣長の死後、1803年(享和3年)に、弟子の長瀬真幸が『古事記伝』の本文と訓のみを一部訂正して出版したテキストである。『古事記伝』は、単に『古事記』一作の註釈書としてのみならず、のちの古代文学研究、あるいは古代史研究にも極めて大きな影響を及ぼしており、21世紀にあっても、『古事記』および古代文化研究の基本書としての地位を保ち続けている。今日の『古事記』註釈書は、基本的には宣長の採用した読み・解釈にその後の研究による訂正を加えたものが主流となっている、と言っても過言ではない。一方で、そうした宣長流の註釈・解釈に異論を唱える立場からも様々な批判がなされている。邪馬台国論争に関しては、宣長は尊王攘夷の立場に立っていた『三国志演義』に基づき『魏志倭人伝』を解釈して[要出典]、卑弥呼女酋説・九州耶馬台国説を提唱したことから、新井白石とともにその後の耶馬台国論争の火種とされる。『古事記伝』の題字は宣長を召抱えた紀州藩10代藩主徳川治寶から下賜されたものである。

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