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日月神示·神道

日月神示

神典研究家岡本天明に「国常立尊」(別名、国之常立神)と呼ばれている高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる。昭和19年から昭和27年に一連の神示が降り、6年後の昭和33-34年に補巻とする1巻、さらに2年後の36年に八巻の神示が降りたとされる。昭和33-34年に何かが発生。非公開の神示がこの前後に降りた物なのかは不明。 原文はほとんどが漢数字、独特の記号、そして、若干のかな文字の混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」も有る。本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられていると主張する「巻」が13巻有り、天明は、この未発表のものについて「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。」と昭和36年に語っている。 日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初はほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や自身を霊能者する者の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたといわれている。 しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的である。そのために、仮訳という副題を添えての発表もあった。 なお、原文を解読して漢字仮名交じりの文章に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれる。日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになって来たといわれている。第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史のことを聞く目的もあって東京の原宿で扶乩実験が行われた。扶乩とは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、二人が一組になって行う一種の自動書記現象であるが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一など、十数名であった。その場において審神者兼司会進行役をつとめたのが岡本天明であったが、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明に書記させていく「国常立尊」で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。ただこの時には「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。 (※この「天之日月神」は「国常立尊」自身ではなく「国常立尊」と天明との間を仲介した媒介神霊または媒介天使だったという説がある。) この扶乩実験の後、終戦直前の昭和20年の夏のある日に軍関係者(青年将校達数名)が天明のもとを訪れ、それまでに都合3度の内閣を組閣しその後も隠然とした力と、軍部の考えとは正反対に独自の終戦工作を画策していたらしい元内閣総理大臣経験者である「近衛文麿」に関して、将校達は「近衛は弱腰で役に立たない。このままでは日本は滅びるだけだ。そこで、御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わない」と述べ、神霊の御意見を伺うことを天明に促し求めたといわれている[要出典]。しかし、それは天明によって無事に回避されたという。「軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられない」と天明が語ったことと、軍関係者達に神霊の言葉に従うという内容の約束をさせたことであった。神霊の答えは「それはならぬ」だったという。この頃はまだ日月神示の解読は十分されてはなかったはずだが、軍人の一部にはすでにこれを信頼し神聖視していた者もいたらしい。神示にはその後の日本の敗戦を明らかに書記されている部分があり、希望を失っていた軍人の中でも、前もってそれを知っていたために終戦時に自殺を思いとどまった者も多く前述の扶乩実験の約2ヶ月後の6月10日に天明は同郷の先輩で知人でもあった高田集蔵の誘いで千葉県印旛郡公津村台方を訪れるが、そこに実験の時に現れた天之日月神を祀る延喜式内社で麻賀多神社の末社である「天之日津久神社」があった。 神典研究家で神名には明るかった天明でも天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座され祀られている神なのかが扶乩実験後もしばらくは分らなかったと後に述懐している。居たという。天明によると天之日津久神社を参拝し厚く御礼を申し上げ、社務所で一息ついている時に予期しない自動書記現象が起こったという。画家でもあった天明は矢立や画仙紙を常に持ち歩く習慣がありこの時も例外ではなかったが、突然、額のあたりに「ピリッ」とした強い衝動と右腕に非常な激痛を感じ(天明の言葉によれば、右腕に焼火箸を突っ込まれたような激痛だったという)、矢立と画仙紙を取り出し、筆を画仙紙にのせたところ自分の意思に反して猛烈な勢いで筆が走り意味不明の殴り書きをした。 以前から霊的体験が豊富で自らも霊媒役などを務めた経験がある天明は、右腕の激痛時にこれらは自動書記の前触れかもしれないと瞬間的に思ったという。同時にこれ程強く肉体に感応する場合は従来の体験から考えて幽界からの感応ではないかと思い、少し困惑もしたという。しかし、前方(特に額部分)からきた事と(天明自身の述懐では、それまでにあった霊体験のもので幽界からの感応は、そのほとんどが肉体の背後からのものだったという)、激痛を感じながらも気分は悪くないことから、神界からのものだと思い直しこれを確信したという(神界からの感応と幽界からの感応の違いについては、「霊界と現界との関係」の節を参照)。 これ以前に天明が経験していた自動書記や霊的現象では天明自身が中止しようと思えば中止出来たが、今回の場合は中止しようとすればさらに右腕の激痛が耐えられぬほどになり全く自由にならなかったという。 これが後に日月神示と呼ばれる神示、神典でこの日が発現の重要な日となった。なお、書記を終えた時には先程までの右腕の激痛は嘘のように消えていたという。その後も神示が降りてくる時には右腕が痛くなり、書記が終われば治まるということの繰り返しが続いたと言われている。 なお、この時に書記されたものが日月神示の第一巻である「上つ巻」(うえつ巻)の第一帖及び第二帖であった。

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