日本典籍·神道
三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集
安倍晴明が編纂したと伝承される占いの専門・実用書。実際は晴明死後(成立年代は諸説ある)に作られたものである。『三国相伝宣明暦経註(さんごくそうでんせんみょうれきけいちゅう)』ともいい、『簠簋内伝(ほきないでん)』または『簠簋(ほき)』、または『金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』と略称される。ちなみに「簠({竹甫皿})簋({竹艮皿})」とは、古代中国で用いられた祭器の名称である。金烏は太陽に棲むとも太陽の化身とも言われる三本足の金の烏であり、太陽を象徴する霊鳥である。玉兎は月に棲むとも言われるウサギで、月を象徴する。すなわちこれは気の循環を知り、日月の運行によって占うという陰陽師の秘伝書であることを象徴している。本書中[1]には、その由来を示す逸話である「晴明朝臣入唐伝」が載せられている[2]。『金烏玉兎集』の注釈書で江戸時代初期までに出版されたと推察されている『簠簋抄』の記述では、本書は天竺で文殊菩薩が書いたもので、その後伯道上人に伝えられ、これが吉備真備の手に渡り、その際吉備真備に助力した安部仲丸(遣唐使として唐に渡った後死して鬼と化している)の子孫である晴明(『簠簋抄』では「清明」)に伝えられたことが記されている。さらに晴明の母はキツネであるとする葛の葉伝説も『簠簋抄』に記載されたものである。帝の御前で晴明と術比べをして負けた播磨の道摩法師(蘆屋道満)はその後、晴明の弟子になったという。しかし、彼は晴明を追い落とそうと狙っていた。そして晴明がある秘書(金烏玉兎集)を所有していることを知った。そこで道摩は晴明の妻・梨子と不倫関係となり、その秘書がどこにあるかを聞き出そうとした。自分と晴明の妻との仲がより親密になったと見計らった道摩は、彼女からその秘書が石の箱に入っていることを聞き出した。しかし、その開け方は妻にも分からないと言う。道摩はその箱を晴明が不在のときに見せてもらい、何とかして箱を開けてしまった。そして晴明が帰宅した時に「私はこの道の秘書を授かった」と彼に告げた。晴明は「その秘書は自分が唐に渡って修行してようやく手に入れたもの。お前が持っているはずが無い」と道摩を叱った。道摩は「今が晴明を抹殺する好機」と「ではその秘書を私がもっていたらその首をいただく」と言い、晴明はそれに応じてしまった。そして道摩は懐からあらかじめ書き取っておいた金烏玉兎集を見せ、晴明の首を刎ねた。同じころ、晴明に金烏玉兎集を授けた伯道上人は晴明が殺されたことを察知し、日本にやってきた。そして無残に殺された晴明の骨を拾い集め、術を掛けて蘇生させた。そして弟子を殺された報復をするため、生き返った晴明と共に道摩と、晴明を裏切った上に道摩の妻となっていた梨子の元へ向かった。伯道は道摩に「晴明はいるか」と尋ねた。道摩は「かつてここにいたが、首を刎ねられて死んだ」と答えた。すると伯道が「そんなはずは無い。先ほど彼と会った」と言った。道摩は「貴方の言うことこそ、そんなはずはない。もし晴明が生きていたらこの首を差し上げよう」と答えた。そして伯道は先ほど蘇生した晴明を呼び道摩に見せた。こうして道摩は約束通り首を刎ねられ、梨子も殺害したという。このことからこの書をみだりに、浅はかな気持ちで読むことは死に値するとして、この書が秘伝中の秘伝であるということをあらわし、この話を冒頭に置くことによってこの書の秘密性・神聖性を高めた。著者については晴明が仮託されているが、晴明の死後に編集されたものであるため信憑性は低い。しかし、「日本陰陽道史総説」によれば村山修一は西田長男の説明を受け、著者を晴明の子孫にあたる祇園社の祠官とみなしている。晴明の子である安倍吉平の後、安倍家は時親、円弥、泰親の3流に分かれた。その中の円弥の子孫が祇園社に入ったらしく、さらにその子孫の晴朝が簠簋内伝の著者ではないかとしている。 しかし、現存する簠簋内伝や刊本をすべて調査した中村璋八は自著にて「(晴朝が著者であるということは)確実な資料によるものではなく、必ずしも納得のできるものではない」として、簠簋内伝の著者については保留としている。また、江戸中期の「泰山集」に当時の安倍家陰陽道宗家の当主であった安倍泰福の言葉として「簠簋内伝は真言僧が作ったものであり、安倍家伝来のものではない。晴明が伝授したのは吉備真備が入唐して持ち帰った天文だ」という言が記載されているという。 いずれにせよ、晴明によってなんらかの伝えはあったであろうが著者についてはやはり不明とするのが妥当となる。
全5巻で構成されている。
第1巻は牛頭天王の縁起と、様々な方位神とその吉凶を説明している。
第2巻は世界最初の神・盤古の縁起と、盤牛王の子らの解説、暦の吉凶を説明している。
第3巻は1、2巻には書かれなかった納音、空亡などが説明されている。
第4巻は風水、建築に関する吉凶説をのべている。
第5巻は密教占星術である宿曜占術をのべている。
1〜3巻と比べて、4〜5巻はあきらかに異質である。最初に1〜2巻が書かれ、それの増補として3巻が加えられた。それに、別個に成立したと思われる本が加えられ、これが4巻、5巻であったと考えられる。
海部氏系図 あまべしけいず
京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。ともに古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として、昭和50年(1975年)6月に重要文化財、翌51年(1976年)6月に国宝の指定を受けた[1]。「本系図」は、現存する日本の古系図としては、同じく国宝である『円珍俗姓系図』(「智証大師関係文書典籍」の1つで、「和気氏系図」とも呼ばれる)に次ぐもので[2]、竪系図の形式を採っていることから、系図の古態を最もよく伝える稀有の遺品とされている。体裁は楮紙5枚を縦に継ぎ足した、幅25.7cm、長さ228.5cmの巻子仕立てで、中央に「丹後国与謝郡従四位下籠名神従元于今所斎奉祝部奉仕海部直等之氏」と標記し、以下淡墨による罫1線を引いて、その上に神名・人名を記しているが、その上に「丹後国印」と彫られた朱方印を押しており(その数は28顆に及ぶ)、丹後国庁に提出され、その認可を受けたものであることが分かる。また成立年代については、標記中に「従四位下籠名神」とあることから、籠神社が「従四位下」であった期間、すなわち貞観13年(871年)6月8日を上限とし、元慶元年(877年)12月14日を下限とするが[3]、下述「勘注系図」の注記にも貞観年中(859-77年)の成立とある[4]。作者は当時の当主である第33世(以下、世数は「勘注系図」による)海部直稲雄であると見られている[5]。
内容:始祖彦火明命から第32世の田雄まで、各世1名の直系子孫のみを記したきわめて簡略なもので[6]、内容的には次の3部からなる。始祖から第19世健振熊宿祢までの姓を有さない上代部。途中、2・3世と第5世から第18世までを欠いているため、わずか3人(神)を記すのみである。第20世都比から第24世勲尼までの、「海部直」の姓を持ち、伴造として丹波国(当時は丹後国を含んでいた)の海部(海人族集団)を率いていたと思われる海部管掌時代。第25世伍佰道から貞観時代の第32世田雄までの、「海部直」の姓を持つとともに名前の下に「祝」字を付け、籠神社の祝としての奉仕年数を注記する祝部時代[注釈 2]。
【勘注系図】
「本系図」に細かく注記を施したもので、竪系図の形式を襲うが、現存のものは江戸時代初期の写本であり[8]、原本は仁和年中(885年 - 889年)に編纂された『丹波国造海部直等氏之本記』であると伝える。その紙背には桃山時代に遡ると推定される天候や雲の形による卜占を図示したものが画かれており、本来は反故紙であった卜占図の裏に書写されたものであった(これら卜占図も貴重な古文献とされている)[7]。ちなみに編纂経緯として、注記中に「一本云」として以下のように伝えている。
推古天皇朝に丹波国造であった海部直止羅宿祢等が『丹波国造本記』を撰述[9]。
上記『国造本記』撰述から3世を経た養老5年(721年)、丹波国造海部直千嶋(第27世)とその弟である千足・千成等が『籠宮祝部氏之本記』を修撰(一説に養老6年(722年)8月ともある)。
貞観年中に、第32世の田雄等が勅を奉じて、上記『養老本記』を基にその後の数代を増補する形で本系帳としての『籠名神社祝部氏系図』(現在の「本系図」)を撰進。
仁和年中に、「本系図」が神代のことや上祖の歴名を載せておらず、本記の体をなしていなかったため、第33世の稲雄等が往古の所伝を追補して『丹波国造海部直等氏之本記』を撰述。
内容
始祖から第34世までが記され、各神・人の事跡により詳しい補注を加え、当主の兄弟やそこから発した傍系を記す箇所もあって、「記紀」は勿論、『旧事本紀』などの古記録にも見られない独自の伝承を記すとともに[10]、「本系図」上代部で省略されたと覚しき箇所もこれによって補い得る[7]。
【史料批判】
この系図に関する真贋論争など史料批判は非常に少なく、太田亮が系図に関して「但馬正税帳に見ゆる海直忍立の見えざるは不審と云ふべし」と言及した程度である。
これに関して古代氏族・東アジアの系図研究者である宝賀寿男は海部氏系図の内容に以下のような疑問を投げかけている[11][12]。
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まず『本系図』に見える始祖の彦火明命を除いた歴代17人については、他の史料にまったく所見がなく傍証がないこと。従って正史に埋もれた古代地方豪族の史料だと主張しても、系図史料の信頼性の裏付けにはならない。
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「海部直都比」、「海部直縣」といった表記法に疑問があること。大化前代庚午年籍以前の者については、当時は「都比直」という「名前+姓」の形の記載が一般的である。姓氏を先にあげて名前を記すような形で、しかもそれを繰り返すような表記は他例をあまり見ない[注釈 3]。この表記法に関しては、同じく国宝指定を受けている「円珍俗姓系図」と比べ、その表記の奇妙さがよく表れている。
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「都比」、「阿知」、「力」[注釈 4]は別にしても、「伍佰道」、「愛志」、「望麿」、「雄豊」という名前はその他豪族の系図史料に見えず、名称が奇妙であること。『勘注系図』内に見える「勲尼」[注釈 5]という名も同様。
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彦火明命が天忍穂耳命の第三子とするのは疑問であること。『古事記』や物部氏の伝承では天火明命は天忍穂耳命の長男としており、『日本書紀』のように邇邇芸命の子とする伝承もあるが、『本系図』のような記述は他にない。
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彦火明命が尾張氏の祖と伝える天火明命と同神だとしても、その三世孫に「倭宿禰命」という名は他書に見えないこと。『勘注系図』等に天忍人命の別名とするのも疑問である。また海部氏が尾張氏支流という系譜を唱えるのなら、肝腎の尾張氏の始祖高倉下(天香語山命)を書き込まない系図の意図が不明である。
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応神天皇の「健振熊宿禰」から天武天皇・持統天皇ごろの「伍佰道祝」までの世代数が非常に少ないこと。大多数の古代氏族の系図では応神天皇世代の者から天武天皇世代の者まで10世代ほどあるが、『本系図』では7世代しかない。「健振熊宿禰」と「海部直都比」との間の「」が世代の省略を意味するのだとしても、祠官家では「稲種命」と伝えるというのみである。
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和邇氏の祖である健振熊宿禰や尾張氏の氏人である日本得玉彦命が見えるなど、倭国造や和邇氏、尾張氏など他氏族から混入された名が見える。
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「伍佰道祝」、「愛志祝」、「千鳥祝」の奉仕年代に整合性がないこと。特に「伍佰道祝」の記事「従乙巳養老元年合卅五年」に関して、乙巳から養老元年までの任期は、645年あるいは705年から717年までで、35年にはならないため問題がある[注釈 6]。
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丹波国造の姓氏は丹波直であって、海部直ではないにもかかわらず、『本系図』では海部直を丹波国造の地位にあったとしていること[注釈 7]。氏姓国造において大国造は地域名を氏としており、そのことの例外になるのは不自然である。また、海部直氏が応神天皇の御代に国造として仕えたとしたら『国造本紀』の記事との関係でも疑問が大きい。
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『但馬国正税帳』に見える天平ごろの与謝郡大領「海直忍立」が見えないこと。忍立が海部直氏の傍系の人で系図中に見えないのか、系図に問題があって見えないのかについて、海部直氏は大化改新後に籠神社の祝に奉仕する一流と、与謝郡の郡司に任ずる一流とに分かれたのではなかろうかという推測もあるが、大化頃に祭政分離がなされた例は氏姓国造では見られない。出雲国造・紀国造・阿蘇国造などの諸国造の例と比較しても、こういった推測は疑問である。
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丹後の海部を管掌する伴造の姓氏の表記は「海部直」であったのかということ。『今昔物語』巻23でも、丹後の「海ノ恒世」という相撲人が見え、『但馬正税帳』とあわせて、「海直」と記された例しか見られない。同族とみられる但馬海直(『姓氏録』左京神別)もあり、海部直という表記は中世の苗字の海部氏に由来するものではないかと考えられる。
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「千鳥(千嶋)祝」の世代だけ、兄弟を記載する意図が不明であること。『勘注系図』にその弟の「海部直千足」を「丹波直足嶋」の父と記すことにも姓氏変更の点などで疑問が大きく、『勘注系図』の記事に基づき三兄弟の記述を説明することは無理である。なお『続日本紀』和銅4年(711年)12月条に犯罪者「丹波史千足」、『但馬国正税帳』には丹後国少毅無位「丹波直足嶋」が見えるが、別系統で姓が異なる渡来系の東漢直氏一族丹波史氏の者を同族系図に入れ込むのは論外である。
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『本系図』が本系帳ではないならば、『円珍俗姓系図』のように記事や系図の内容がもっと豊富であってよいということ。
八幡愚童訓 はちまんぐどうくん
鎌倉時代中期・後期に成立したとされている八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である。「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童蒙にも理解出来るように説いた」の意味である。諸本に書かれた書名によって『八幡大菩薩愚童訓』および『八幡愚童記』などともいい[2]、江戸時代初期に作成されたものの表題に附された訓に基づいて「はちまんぐどうきん」とも呼ばれる。元寇(文永の役、弘安の役)についての記録としても有名で、特に対馬・壱岐入寇について記された史料は他にないとされる[3]。著者は不明であるが、石清水八幡宮の社僧・祠官の作と考えられている。本書は同系統ながら内容にやや差異のある2種に大別されており[3][2]、分類上、甲種・乙種と呼ばれる。 成立年代については、甲種は延慶元年から文保2年以前(1308年 - 1318年)と考えられ、乙種は正安年間(1299年 - 1302年)頃の成立という。また、特に甲種本は一類・二類に分類される。一類は前文が具体的な内容になっており、文永の役についてもモンゴル・高麗連合軍による対馬・壱岐の侵攻が明記されている。一方、二類は前文が抽象的であり、対馬・壱岐の侵攻についての記載が殆どない。甲乙ともに上下二巻本で構成されるが、元来は一本であったとも考えられる。万治3年(1660年)書写のいわゆる柳原旧蔵本は下巻を欠いているが上巻と中巻があり、三巻本が存在したとも言われている。上述のように、甲乙本ではそれぞれ内容に差異があるが、以下はその概観を述べる。
甲種本
上下二巻。甲種本は、史上の異敵とその降伏(こうぶく)に関する事蹟が述べられ、上巻においては神功皇后のいわゆる「三韓征伐」、皇后の皇子であり八幡大菩薩とされる応神天皇の事蹟、文永の役における蒙古軍の襲来、対馬・壱岐への侵攻、九州上陸と九州御家人勢との戦闘の状況、箱崎八幡宮(筥崎八幡宮)の焼亡などが記される。下巻は弘安の役における思円上人・叡尊の修法、蒙古退却の奇瑞などを記述する。甲種本の特徴としては、文永の役におけるモンゴル・高麗連合軍である蒙古軍の対馬・壱岐侵攻に関する史料となっている点である。また、箱崎八幡による奇瑞や神威の顕現によって度々蒙古軍が撃退されたことが述べられている。さらに、叡尊の祈祷による霊験の成果が強調されており、本書の成立に社寺の祈祷に対する朝廷からの恩賞問題が関わっていた可能性が指摘されている。(群書類従 第一輯 神祇部 巻十三 収録)
乙種本
上下二巻。乙種本は、八幡大菩薩の霊験・神徳について14章にわたって述べ、阿弥陀信仰との習合を説いた教義書的性格を持つ。序にはじまり、垂迹、名号、遷坐、御躰、本地、王位、氏人、慈悲、放生会、受戒、正直、不浄、仏法、後世の十四章からなり、各項目にわたり広大無辺なる八幡大菩薩の神徳霊験が述べられている。(続群書類従 第二輯 神祇部 巻三十)
八幡愚童訓には写本が多数あり、内容も各本で異同がある。
以下、元寇に関する九州での御家人に関する記述についての異同事例を述べる。
菊大路本(鎌倉時代末期)
「九国ニハ少弐・大友ヲ始トシテ、菊池・原田・松浦・小玉党以下、神社仏寺ノ司マデ、我モゝゝト馳集ル。大将ト覚敷(おぼしき)者ダニモ十万二千余騎、都合ノ数ハ何千万騎ト云事ヲ不知。」(「八幡愚童訓 甲」[4]。
東大寺上生院本(文明12年)
「九國ニハ、少貳・多友、紀伊ノ一族・ウスキ・ヘツキ・松浦黨・菊池・原田・兒玉黨已下、神社佛寺之司マテ、我モゝゝト馳集リキ、十万二千余騎ト云フ、都合ノ數ハ、イクラ、何千万騎ト云事ヲ不知、」[5]
文明本(『八幡大菩薩愚童記 下』 愛媛県八幡浜市八幡神社蔵本、文明15年)
「九国ニハ少弐大友(トモ)ヲ始トシテウスキ(臼杵)戸次松浦党菊池原田小玉党以下神社仏寺ノ司マテ我モゝゝト馳集マル。大将トヲホシキ者タニ 十万ニ千余騎都合数ハ何千万騎ト云事ヲ不知。」[6]
筑紫本(『八幡大菩薩愚童訓』福岡県箱崎八幡筑紫家蔵 室町時代中期ないし初期?)
「九國ニ馳集軍丘(ママ)誰々ソ少貳大友菊池原田紀伊一類臼木戸次松浦黨兒玉黨以下神社佛寺之司及モ我モ々ト打立ケル大将軍一万二千余騎都合其勢十万騎ト云ヘ共[米+攵]ヲ不知」[7]
橘守部旧蔵『八幡蒙古ノ記』
「此九國にては、かねて攻来へしと思ひし事なりけれは、来ぬときより、馳参る軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、たとひ異敵十萬に及ふとも、何ほとの事かあらんとて、いさましく見えにけり」とあり、「十万」云々は武士勢のことではなく来襲してくるであろう蒙古勢のことになっている[8]。
神歌抄 しんかしょう
現存する最古の神楽歌の写本。22曲を載す。宮廷勤仕の地下楽家のひとつである安倍家に伝来した。伝源信義筆。巻子本、1巻。書写年代は10世紀か。毛詩並毛詩正義の唐代の写しの残巻の紙背を用いて書写されている。信義本神楽歌などとも。重要文化財。東京国立博物館蔵。巻子本、1巻、素紙、縦29.3cm、横241.5cm(後補の表紙等を含めると264.9cm)。原表紙に「神楽哥 信義自筆」の題。本文とは別筆であるが、平安期に遡る古風な筆致である。紙背巻末に「神歌少」とあることから、神歌抄と呼ばれる。 巻頭から「之名加取」の曲名までは万葉仮名、以後はほぼ平仮名を用いている。途中から表記が一変する理由は不明。加筆部分を除きすべて一筆。通行本の神楽歌とはかなりの異同がある。 巻末に「此間使舞人陪従被物人長疋絹差/次其駒然後事了 退出」との書入れがあるが、「此間使舞人陪従被物人長疋絹差」と「退出」は別筆か。この書入れによれば、ある時この神楽歌を歌って絹一疋を頂戴したらしい。 連綿がなくちびた筆による太めの朴訥とした書は、当時の日常的な筆跡だと考えられる。同様の遺品としては、藤原公任筆「稿本北山抄」、伝藤原道長筆「神楽和琴秘譜」、藤原道長筆「御堂関白記」の和歌の部分などがある 筆者の信義は醍醐天皇の孫源博雅の三男で、笛を得意とし「双調の君」と呼ばれたという(古今著聞集)。960年から980年頃に活躍か。 天保8年(1837)、安倍季良の代に修繕し新たに渋引き紙の表紙を継ぐ。表に外題「極秘神楽歌信義朝臣自筆」、見返しに以下の修理銘、
此神楽哥雅楽頭信義朝臣博雅卿二男自筆也為希代之古物之間加修理畢可為当家重宝者猥不可他見者也 于天保八年丁酉林鐘廿七日 雅楽助季良
また朱筆で
信義朝臣延喜帝曾孫村上帝御宇弾比巴事見文机談
紙背は毛詩並毛詩正義の残巻で、大雅蕩之什の韓奕6章の内の末2章と江漢全篇6章が残る。この内、韓奕第5章に通行本にない疏の文198字が確認できる。なお、大雅の章は宴席で朗唱する楽歌であり、楽道の家に伝来した古写本の紙背を利用したと考えられる。熊谷直好の『梁塵後抄』に引用されて知られるようになり、1930年佐佐木信綱が安倍家で披見、同年公刊された。1933年旧国宝に指定される。
神歌抄 しんかしょう
現存する最古の神楽歌の写本。22曲を載す。宮廷勤仕の地下楽家のひとつである安倍家に伝来した。伝源信義筆。巻子本、1巻。書写年代は10世紀か。毛詩並毛詩正義の唐代の写しの残巻の紙背を用いて書写されている。信義本神楽歌などとも。重要文化財。東京国立博物館蔵。巻子本、1巻、素紙、縦29.3cm、横241.5cm(後補の表紙等を含めると264.9cm)。原表紙に「神楽哥 信義自筆」の題。本文とは別筆であるが、平安期に遡る古風な筆致である。紙背巻末に「神歌少」とあることから、神歌抄と呼ばれる。 巻頭から「之名加取」の曲名までは万葉仮名、以後はほぼ平仮名を用いている。途中から表記が一変する理由は不明。加筆部分を除きすべて一筆。通行本の神楽歌とはかなりの異同がある。 巻末に「此間使舞人陪従被物人長疋絹差/次其駒然後事了 退出」との書入れがあるが、「此間使舞人陪従被物人長疋絹差」と「退出」は別筆か。この書入れによれば、ある時この神楽歌を歌って絹一疋を頂戴したらしい。 連綿がなくちびた筆による太めの朴訥とした書は、当時の日常的な筆跡だと考えられる。同様の遺品としては、藤原公任筆「稿本北山抄」、伝藤原道長筆「神楽和琴秘譜」、藤原道長筆「御堂関白記」の和歌の部分などがある 筆者の信義は醍醐天皇の孫源博雅の三男で、笛を得意とし「双調の君」と呼ばれたという(古今著聞集)。960年から980年頃に活躍か。 天保8年(1837)、安倍季良の代に修繕し新たに渋引き紙の表紙を継ぐ。表に外題「極秘神楽歌信義朝臣自筆」、見返しに以下の修理銘、
此神楽哥雅楽頭信義朝臣博雅卿二男自筆也為希代之古物之間加修理畢可為当家重宝者猥不可他見者也 于天保八年丁酉林鐘廿七日 雅楽助季良
また朱筆で
信義朝臣延喜帝曾孫村上帝御宇弾比巴事見文机談
紙背は毛詩並毛詩正義の残巻で、大雅蕩之什の韓奕6章の内の末2章と江漢全篇6章が残る。この内、韓奕第5章に通行本にない疏の文198字が確認できる。なお、大雅の章は宴席で朗唱する楽歌であり、楽道の家に伝来した古写本の紙背を利用したと考えられる。熊谷直好の『梁塵後抄』に引用されて知られるようになり、1930年佐佐木信綱が安倍家で披見、同年公刊された。1933年旧国宝に指定される。
旧辞 きゅうじ
『古事記』や『日本書紀』以前に存在したと考えられている日本の歴史書の一つ。『帝紀』とともに古くに散逸して現存しない。記紀の基本資料といわれる各氏族伝来の歴史書だと考えられている。『古事記』序文の「先代旧辞」及び「本辞」、『日本書紀』天武天皇10年3月条の「上古諸事」はこの書を指すとも考えられている。 ただし『帝紀』と『旧辞』は別々の書物ではなく、一体のものだったとする説もある。 日本史学者の津田左右吉は、『旧辞』は記紀の説話・伝承的な部分の元になったものであると考え、『古事記』の説話的部分が武烈天皇のあたりで終わっておりその後はほとんど系譜のみとなること、また『日本書紀』もこのあたりで大きく性格が変わりそれまではあまりなかった具体的な日時を示すようになることなどの理由から、『旧辞』の内容はこのあたりで終わり、その後まもなく6世紀頃になってそれまで口承で伝えられてきた『旧辞』が文書化されたと推論した。 その後この説は通説となったが、『古事記』の序文を厳密に読む限りでは、史書作成の作業は『帝紀』と『旧辞』の両方に行われたものであり、『古事記』の内容自体は『旧辞』のみに基づくはずであることから、『古事記』が系譜と説話の両方を含む以上、「『帝紀』= 系譜、『旧辞』= 説話」とする一般的な理解は成り立たないとする見解もある。 また、一定の条件を満たす複数の書物ないしは文書の総称である普通名詞としての「旧辞」と、特定の時点で編纂された特定の書物を示す固有名詞としての『旧辞』は明確に区別すべきだとする説もある。 またほとんどの場合に『帝紀』と『旧辞』が並記されることなどから、これらは組み合わせることを前提にしており、二つの史書を組み合わせた日本独自の歴史叙述の形態があった可能性も指摘されている。
旧辞 きゅうじ
『古事記』や『日本書紀』以前に存在したと考えられている日本の歴史書の一つ。『帝紀』とともに古くに散逸して現存しない。記紀の基本資料といわれる各氏族伝来の歴史書だと考えられている。『古事記』序文の「先代旧辞」及び「本辞」、『日本書紀』天武天皇10年3月条の「上古諸事」はこの書を指すとも考えられている。 ただし『帝紀』と『旧辞』は別々の書物ではなく、一体のものだったとする説もある。 日本史学者の津田左右吉は、『旧辞』は記紀の説話・伝承的な部分の元になったものであると考え、『古事記』の説話的部分が武烈天皇のあたりで終わっておりその後はほとんど系譜のみとなること、また『日本書紀』もこのあたりで大きく性格が変わりそれまではあまりなかった具体的な日時を示すようになることなどの理由から、『旧辞』の内容はこのあたりで終わり、その後まもなく6世紀頃になってそれまで口承で伝えられてきた『旧辞』が文書化されたと推論した。 その後この説は通説となったが、『古事記』の序文を厳密に読む限りでは、史書作成の作業は『帝紀』と『旧辞』の両方に行われたものであり、『古事記』の内容自体は『旧辞』のみに基づくはずであることから、『古事記』が系譜と説話の両方を含む以上、「『帝紀』= 系譜、『旧辞』= 説話」とする一般的な理解は成り立たないとする見解もある。 また、一定の条件を満たす複数の書物ないしは文書の総称である普通名詞としての「旧辞」と、特定の時点で編纂された特定の書物を示す固有名詞としての『旧辞』は明確に区別すべきだとする説もある。 またほとんどの場合に『帝紀』と『旧辞』が並記されることなどから、これらは組み合わせることを前提にしており、二つの史書を組み合わせた日本独自の歴史叙述の形態があった可能性も指摘されている。
国意考 こくいこう
江戸時代の国学者・賀茂真淵の著作。なお「国意」とは日本の精神を指す。儒教・仏教などの外来思想を批判し、古代の風俗や歌道の価値を認め、日本固有の精神への復帰を説いたもの。『国意考』は、真淵の学問をまとめたいわゆる『五意考』の一つであり、明和元年(1764年)ころに起稿され明和6年(1769年)までには完成したというのが定説である。『国意考』は、荻生徂徠のあとを受けた太宰春台の著『辯道書』にある「日本には、神武天皇から欽明天皇のころまで「道」というものがなく、儒教到来によって「神道」が成立することになった」という神道をおとしめるかのような主張を反駁するために書かれた。『国意考』は、賀茂真淵が把握していた古神道の意義の一部を示している。なお、一般の認識では、真淵は、歌意考・文意考・語意考などで古語の基礎的研究を大成したうえで古神道の哲学を組成しようとしたが、老齢のため、後継者である本居宣長に復古神道の学論を立てる企てを譲ったとされる。「神道つまり惟神道こそ、日本古代から伝わる純粋な天地自然の大道であったが、その精神は、後から伝わった仏教と儒教によって混濁させられた。国学者の責務は、古典研究によって神道の純粋さを取り戻すことである」という前提に基づき、朱子学などを排し日本人本来の生活と精神に戻るべきである、という主張に終始する。また、「国意」とはこの日本人本来の精神を指し、朱子学のように多角的な方形ではなく滑らかな弧線からなる円である、つまり窮屈よりも緩和、厳しさよりも優しさが勝るのが日本人本来の心なのである、とした。さらに文の終わりころにある「凡て天が下は小さきことはとてもかくても世々すべらぎの伝わり給ふこそよけれ」とか「すべらきのもとの如くつたわり給ふ国」などの言葉で知られるように、天皇の存在が日本にとって自然なこと、よいことであると主張した[2]。そして、「万葉集」には、和らぎの心があり、古代の素直な心情に帰ることが国家を治める上で肝要であるとの自説を強調して終わっている。本居宣長は、真淵の死後の明和8年(1771年)に、『直毘霊』で真淵の学説を紹介したが、このとき、より激しく「漢意」を排斥したため、儒家を刺激することとなり、その結果、『国意考』そのものが論争の的になった。天明元年(1781年)に古学派の野村公台が『読国意考』を著したのに対し、国学者・海量が『読国意考にこたえるふみ』で反駁し、さらに文化3年(1806年)に同じく国学者・橋本稲彦が『辯読国意考』でこの論争を一応締めくくる。しかし本居宣長はなおも論争を継続させる態度を示し、文政13年(1830年)に沼田順義『国意考辯妄』により、宣長の主張の根源として『国意考』が再度採りあげられ、安政年間に久保季茲の『国意考辯妄贅言』がこれを反駁している。その後、『国意考』は、太平洋戦争中の日本において、「万世一系の国体」を擁護する思想や「尊皇精神」の源流として理解され、利用されるなどした。
国意考 こくいこう
江戸時代の国学者・賀茂真淵の著作。なお「国意」とは日本の精神を指す。儒教・仏教などの外来思想を批判し、古代の風俗や歌道の価値を認め、日本固有の精神への復帰を説いたもの。『国意考』は、真淵の学問をまとめたいわゆる『五意考』の一つであり、明和元年(1764年)ころに起稿され明和6年(1769年)までには完成したというのが定説である。『国意考』は、荻生徂徠のあとを受けた太宰春台の著『辯道書』にある「日本には、神武天皇から欽明天皇のころまで「道」というものがなく、儒教到来によって「神道」が成立することになった」という神道をおとしめるかのような主張を反駁するために書かれた。『国意考』は、賀茂真淵が把握していた古神道の意義の一部を示している。なお、一般の認識では、真淵は、歌意考・文意考・語意考などで古語の基礎的研究を大成したうえで古神道の哲学を組成しようとしたが、老齢のため、後継者である本居宣長に復古神道の学論を立てる企てを譲ったとされる。「神道つまり惟神道こそ、日本古代から伝わる純粋な天地自然の大道であったが、その精神は、後から伝わった仏教と儒教によって混濁させられた。国学者の責務は、古典研究によって神道の純粋さを取り戻すことである」という前提に基づき、朱子学などを排し日本人本来の生活と精神に戻るべきである、という主張に終始する。また、「国意」とはこの日本人本来の精神を指し、朱子学のように多角的な方形ではなく滑らかな弧線からなる円である、つまり窮屈よりも緩和、厳しさよりも優しさが勝るのが日本人本来の心なのである、とした。さらに文の終わりころにある「凡て天が下は小さきことはとてもかくても世々すべらぎの伝わり給ふこそよけれ」とか「すべらきのもとの如くつたわり給ふ国」などの言葉で知られるように、天皇の存在が日本にとって自然なこと、よいことであると主張した[2]。そして、「万葉集」には、和らぎの心があり、古代の素直な心情に帰ることが国家を治める上で肝要であるとの自説を強調して終わっている。本居宣長は、真淵の死後の明和8年(1771年)に、『直毘霊』で真淵の学説を紹介したが、このとき、より激しく「漢意」を排斥したため、儒家を刺激することとなり、その結果、『国意考』そのものが論争の的になった。天明元年(1781年)に古学派の野村公台が『読国意考』を著したのに対し、国学者・海量が『読国意考にこたえるふみ』で反駁し、さらに文化3年(1806年)に同じく国学者・橋本稲彦が『辯読国意考』でこの論争を一応締めくくる。しかし本居宣長はなおも論争を継続させる態度を示し、文政13年(1830年)に沼田順義『国意考辯妄』により、宣長の主張の根源として『国意考』が再度採りあげられ、安政年間に久保季茲の『国意考辯妄贅言』がこれを反駁している。その後、『国意考』は、太平洋戦争中の日本において、「万世一系の国体」を擁護する思想や「尊皇精神」の源流として理解され、利用されるなどした。
古語拾遺 こごしゅうい
平安時代の神道資料である。官人であった斎部広成が大同2年(807年)に編纂した[1]。全1巻。大同2年(807年)2月13日に書かれたとされている。大同元年(806年)とする写本もある。だが、跋(あとがき)に「方今、聖運初めて啓け…宝暦惟新に」とある。このことから、平城天皇即位による改元の806年(延暦25年・大同元年)5月18日以降であることがわかり、「大同元年」説は誤りということが分かる。『日本後紀』の大同元年8月10日の条に、『以前から続いていた「中臣・忌部相訴」に対する勅裁があった』とある。この条文から、「大同元年」論者は『古語拾遺』をこの勅裁に先立つ証拠書類だと考えた。しかし、本文はこの8月10日の出来事を前提に書かれているので矛盾することとなる。斎部広成の伝記は『日本後紀』の大同3年(808年)11月17日の条に「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみで、ほかのことはわからない。ちなみに、この昇階は平城天皇の大嘗祭の功によるものだろうという。ところが、本書の跋には「従五位下」とあり、大同2年(807年)当時は「正六位上」だったはずである。これは後世の改変だと考えられている。「愁訴陳情書説」が古くから唱えられていた。現在では、朝廷が行った法制整備(式)のための事前調査(格)に対する忌部氏(斎部氏)の報告書であるという説が有力である。
愁訴陳情書説
元々、斎部氏(忌部氏)は朝廷の祭祀を司る氏族だった[1]。しかし大化の改新以降、同様に祭祀を司っていた中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)が政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった[1]。本書は斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであると考えられる。
調査報告書説
伊勢神宮の奉幣使の役職をめぐって忌部氏と中臣氏は長年争ってきたが、大同1年8月10日に忌部氏に対する勝訴判決が出ている。本書が上呈された大同2年2月13日はこの判決の後である。「勝訴」のあとに陳情を出すのは不自然なことから、「愁訴陳情書説」は説得力を欠くことになる。
ときの天皇である平城天皇は式(律令の施行規則)を制定する方針をもっていた。本書の跋に「造式の年」とあり、14年後の嵯峨天皇弘仁11年(820年)4月に『弘仁式』ができている。このことから、造式のための調査報告書だった可能性が指摘されている。また、同時期には『延暦儀式帳』が伊勢神宮から提出されている。これも造式に備えた事前調査の一環だったといわれており、『古語拾遺』と同じ流れに沿ったものだといわれている。
序
本文
神代古伝承
神武天皇以降の古伝承
古伝承に抜けた11カ条
御歳神祭祀の古伝承
跋
天地開闢から天平年間(729年 - 749年)までが記されている。『古事記』や『日本書紀』などの史書にはみられない斎部氏に伝わる伝承も取り入れられている。
斎部氏は天太玉命の子孫とされている。このことから、天太玉命ら斎部氏の祖神の活躍が記紀よりも多く記されている。例えば、岩戸隠れの場面においては天太玉命が中心的役割を果たしている。造化三神については古事記と共通するものの、神名については全て日本書紀に沿っている。しかし祝詞で登場するカムロキ、カムロミについて高皇産霊神と神産霊神とするのは古語拾遺が最初である。[2]さらに天璽の神器について「八咫鏡及び草薙の剣の二種の神宝」とし「矛と玉は自に従ふ」とするなど、記紀とは異なる記述があり、伊勢の神宮と大嘗祭の由紀殿、主基殿の造営に斎部氏が預かられていないこと(遺りたる四)だけではなく,鎮魂祭に猿女君が任命されていないこと(遺りたる九)など神代より祭祀を担ってきた姓氏が採用されず,大化の改新以来中臣氏が独占している弊害を記する。『先代旧事本紀』『本朝月令』『政事要略』『長寛勘文』『年中行事秘抄』『釈日本紀』や伊勢神道の文献などに利用・引用された。神典として重視されてきたことがわかる。安永2年(1773年)に奈佐勝皋(かつたか)が『疑斎』を著している。その中で、『古語拾遺』を「斎部氏の衰廃を愁訴したるに過ぎざるのみ」と批判している。これに対して、本居宣長は『疑斎弁』を著して『古語拾遺』を弁護した。近代以降では、昭和3年(1928年)に津田左右吉が『古語拾遺の研究』で、執筆当時の歴史史料とはなるが、記紀以前のことを知るための史料としては価値がないと評価している。記紀と比して重要性は薄いとされてきたが、現在では再評価されつつある。昭和天皇の大典の際に外国人として唯一建礼門の前に立つことを許可された神道学者のリチャード・ボンソンビー=フェインは記紀よりも重視している。
古語拾遺 こごしゅうい
『古史通』(こしつう)は、新井白石が著した古代史解釈の書。1716年(享保元年)成立。古代の神々を人として、歴史的立場から資料を精査しながら、合理的に事実を捉えようとする姿勢がみられる。[1]巻頭で、記紀を読み解く場合の基本的姿勢を開陳している。漢字の音(おん)を利用して古語を書きとめたのが昔の書物であるので、文字の音によりその意味や内容を読み取るべきであるとする。本文は4巻構成である。
林羅山らの儒者は当時、倭人の祖は古代中国の呉の王である太白の子孫と考えていた。また『釈日本紀』の卜部兼方や一条兼良といった神道の立場の学者は、神は万物の宇宙の根源であり、高天原は虚空にあるとしている。これに対し、言葉の音訓から日神が立たれた土地は日立国で常陸という表記になり、高天原の高は旧事紀で高国と記述あり、即ち常陸国多珂郡であるという。高天原とは私記には師説上天をいふ也按ずるに虚空をいふべしと見えたり後人の諸説これに同じ此等の説皆是今字によりて其義を釋(トキ)し所也凡我國の古書を讀には古語によりてその義を解(ト)くべし今字によりて其義を釋くべからず高の字讀で多珂(タカ)といふは古にいふ所の高(タカノ)國舊事紀に見えしところなり多珂(タカノ)國常陸國風土記に即チ今ノ常陸ノ國多珂ノ郡の地是也天の字古事記に讀ンで阿麻(アマ)といふと注しき上古の俗に阿麻といひしは海也阿毎(アメ)といひしは天也天亦稱して阿麻ともいふは其語音の轉ぜしなり原の字讀ンで播羅(ハラ)といふ上古之俗に播羅(ハラ)といひしは上也されば古語に多訶阿麻能播羅(タカアマノハラ)といひしは多珂海上之(ノ)地といふがごとし[2]
また、言葉の音訓以外にも常陸国には「高天(タカアマノ)浦」や「高天ノ原」という地名が実在していたことも傍証にあげている。
古語に播羅(ハラ)といふは上也とはたとへば日本紀に川上の字を讀ンで箇播羅(カハラ)といふがごとし今も常陸ノ國海上に高天(タカアマノ)浦高天ノ原等の名ある地現存せり[2]
白石の没後、本書も忘れられていた感があったが、祭祀や神話を宗教的よりも現実の人間の歴史として解釈しようとしたことが注目され、水戸藩の文庫に収められて太宰春台・伊勢貞丈・三浦梅園に多大な影響を与えた。
白石は中国の字書『爾雅』を参考に、「天」「日」等の言語学的考察に努め、神とか上も「加美」と同じで
神とは人のこと
であると述べている[3]。すなわち、
神とは人のことであって我が国では、普通尊敬しなければ成らない人を加美とよんでいる。これは昔も今も同じで、相手を敬う意味であると思う、今はこれに神の字を充てて使って、上の字であらわす使い方の区別も出て来た。
しかし上代特殊仮名遣の研究から「神」と「上」は古くは音が異なっていたことが明らかになっているため、単純に神=上とは言えなくなっている。
神社覈録 じんじゃかくろく
式内社を始めとする古社を考証した書物である。鈴鹿連胤著、全75巻。天保7年(1836年)に起稿され、明治3年(1870年)に完成した。体裁は、式内社や国史見在社、その他著名な神社を、六国史を始めとする諸書から各神社に関係する記述を引用しながら、社名の訓み・祭神・鎮座地等を考証しているが、当時の状況から引用諸書の中に偽書とされるものも混じるなどの問題がある。また、後日を期して空欄とした箇所も見られるものの、知られていた限りの『国内神名帳』の全文を参考として掲げるなど、類書中では最も要領を得たものと評価されていた。明治維新の後、神祇官より献上の内命が下されたため、稿本に補訂を施して清書本と控本とを作成、前者を明治3年11月22日に上呈した(現宮内庁書陵部所蔵本)。なお、連胤自身は、上呈の2日前に薨じている。明治35年(1902年)、当時皇典講究所の講師であった井上頼圀と佐伯有義が、鈴鹿家所蔵の矢野玄道による校正本を底本に句読点と訓点を施し、洋綴2巻本として同所から刊行した。
新撰亀相記 しんせんきそうき
平安時代の卜占書。神祇官の卜部の伝承・職掌に関する書である。亀の甲は古来卜占に使われ、書名の「亀相」は亀卜でのひびの形状から時勢を見通す様を表したとされる。成立・作者は、本文によれば天長7年(830年)8月の卜部遠継による撰。全四巻(甲巻・乙巻・丙巻・丁巻)のうち甲巻が現在に伝わる。現存写本(甲巻)の内容は、前半部を卜占・神事に関する所伝、後半部を卜占の作法・方法等とする。記述には『古事記』や祝詞との一致が認められるほか[1]、特に卜部氏独自の所伝が見られる点が注目される。なお、本書は天長7年(830年)に卜部遠継から淳和天皇に奏上されたとする説もあるが、確かではない。本文中の目録によれば構成は次の通り。
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甲巻:伊佐諾・伊佐波両神生淤能己侶島条以下30条
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乙巻:地之称候
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丙巻:天之称候
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丁巻:神人兆三卦称候
現存写本は甲巻部分とされる[1]。ただし現存写本にも乙巻・丙巻・丁巻の内容が見られることから、乙巻・丙巻・丁巻は目録通りでない可能性と、乙巻・丙巻・丁巻ではさらに詳述されていた可能性とが指摘される[2]。
神代巻口訣 じんだいかんくけつ
『日本書紀』神代紀の注釈書。忌部正通著、全5巻。単に『神代口訣』とも称される。正通による『日本書紀』の注釈書『日本書紀口訣』全12巻の中から神代紀の注釈を抜き出したもので、神代紀の上巻を6節、下巻を3節に、内容によって9節に分けているところに特色がある。成立は、正平22年(貞治6年(1367年))とされているが、近世の偽作という説もある。 漢籍や仏典を用い、特に宋学の性即理説の影響が著しく、「明理」を尊ぶことによる日本の永遠性を述べ、天御中主神、高皇産霊尊、神皇産霊尊の造化三神は国常立尊1神に帰一すると説く点に特色がある。
神代巻口訣 じんだいかんくけつ
神道五部書(しんとうごうぶしょ)とは、伊勢神道(度会神道)の根本経典で、以下の5つの経典の総称である。
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『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
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『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
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『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
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『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
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『倭姫命世記』
いずれも奥付には奈良時代以前の成立となっているが、実際には鎌倉時代に度会行忠ら外宮祀官が、伊勢神宮に伝わる古伝を加味しつつ執筆したものとみられている。歴史学・日本文学の分野からの研究では、伊勢神宮外宮の神職であった度会氏が、外宮を内宮(祭神・天照大神)と同等以上の存在として格上げすることを目的に、外宮の祭神である豊受大神を天之御中主神および国之常立神と同一神とすることで、天照大神をしのぐ普遍的神格であることを主張するために執筆されたと推定されている。また、伊勢神道自体は本地垂迹説に対する批判としての神本仏迹説に基づいていたが、その根本経典である本書の論理には、仏教特に修験道の立場からなされた神道説の書『大和葛城宝山記』などの影響が指摘されている。神道五部書は、江戸時代に、尾張の東照宮神官である吉見幸和により、偽書であるとして激しく批判された[1]。
神道集 しんとうしゅう
日本の中世の説話集・神道書。安居院唱導教団の著作とされ、南北朝時代中期に成立したとされている。全10巻で50話を収録。関東など東国の神社の縁起を中心としつつ、本地垂迹説に基づいた(当著に、「神々は仏の救いによって神となることができた」とする)神仏に関する説話が載っている。「諏訪縁起事」は甲賀三郎伝説を伝えるものとして知られる。江戸時代の考証学者小山田(高田)与清(1783年 - 1847年)が、本文の内部微証から文和・延文(1352年 - 1361年)頃と推定している。「安居院」(あぐい)は比叡山竹林坊(竹林院)の里坊で、上京区大宮通一条北大路にあって、応仁の乱で途絶えたが後に再興し、現在も安居院西法寺としてある。この安居院に唱導に優れた澄憲・聖覚親子が住み、その唱導は子々孫々受け継がれていった。そしていつしか彼らの唱導を安居院流というようになったらしい。『神道集』は「安居院作」とある以上、この安居院流の人達の手になったと思われるが、それを裏付ける確かな史料は現在のところまでない。安居院は日光・鹿嶋にもあって、これらとの関連も考慮しなければならない。内容全10巻50章。全国の神社縁起を集める。多くは東国に関するものとなっている。内容は、筑土鈴寛が、「神道論的なもの」と「垂迹縁起的なもの」とに分類したのが現在でも踏襲されている。「神道論的なもの」は神道教義について論じたものである。「垂迹縁起的なもの」は、公式的縁起と物語的縁起に分類され、前者は神社の由来や本地物を記すのに対し、後者は神々の苦しみや悲しみを基調として神々や神社の由来を説く。典型的な例が「熊野権現事」(二ノ六)の五衰殿である。かつて和辻哲郎は、この五衰殿から「苦しむ神」「悩める神」の観念を見出したように、中世文学史・思想史などを考える上で非常に重要な内容となっている。『神道集』が何を目的として成立したのか、不明である。ただ近世浄土宗の説教僧が『神道集』を活用していたことから考えて、説教資料を目的として成立したのではないかと考えられる。『神道集』は、現存・不明を含めて、二十本近い写本がある。それらは古本系統と流布本系統に分かれる。古本系統は、赤木文庫本(現天理図書館蔵)、真福寺本、天理図書館本など。流布本系統は東洋文庫本、旧豊宮崎文庫本・旧林崎文庫本(現神宮文庫蔵)、静嘉堂文庫本、無窮会本、河野省三旧蔵仮名本(現國學院大學蔵)など。最近確認されたものでは、天海旧蔵本(現盛岡市願教寺蔵)、国立歴史民俗博物館本(田中穣旧蔵)、同志社大学本がある。他に茨城県常福寺、東京大学にもあったようである。また慶応三年豊後国東郡田染の八幡宮に、多くの神道関係の書籍が奉納されたが、その内に神道集があったそうである[1]。
1巻 : 神道由来之事、宇佐八幡宮事、正八幡宮事、鳥居事、御正体事。
2巻 : 熊野権現事、二所権現事。
3巻 : 高座天王事、鹿島大明神事、香取大明神事、熱田大明神事、祇園大明神事、赤山大明神事、稲荷大明神事、武蔵六所大明神事、上野国九ヶ所大明神事。
4巻 : 信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事、諏訪大明神五月会事、越後国矢射子大明神事、越中国立山権現事、能登石動権現事、出羽国羽黒権現事。
5巻 : 日光権現事、宇都宮大明神事、春日大明神事、御神楽事、天神七代事、地神五代事、女人月水神忌給事、仏前二王神明鳥居獅子駒犬之事、酒肉備神前事。
6巻 : 吉野象王権現事、三島大明神事、上野国児持山事、白山権現事。
7巻 : 上野国一宮事、蟻通明神事、橋姫明神事、玉津島明神事、上野国勢多郡鎮守赤城大明神事、上野第三宮伊香保大明神事、摂津芦刈明神事。
8巻 : 上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事、鏡宮事、釜神事、富士浅間大菩薩事、群馬桃井郷上村内八ヶ権現事、上野国那波八郎大明神事。
9巻 : 北野天神事。
10巻 : 諏訪縁起事。
神道集成 しんとうしゅうせい
徳川光圀の著作。神道に関する類聚である。巻一の系図から、巻十二の一宮記倭姫世紀に至る。凡例には「凡そ是の書の始終両部習合の邪説を排して唯一宗源の正道に帰す」とある。
神皇正統記 じんのうしょうとうき
南北朝時代、南朝公卿の北畠親房が著した歴史書。神代から延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)の後村上天皇践祚までを書く。奥書によれば、「或童蒙」という人物のために、老筆を馳せて、延元4年/暦応2年(1339年)秋に初稿が執筆され、興国4年/康永2年(1343年)7月に修訂が終わったという[1]。慈円の『愚管抄』と双璧を為す、中世日本で最も重要な歴史書[2]、または文明史・史論書・神道書・政治実践書・政治哲学書と評される[3]。『大日本史』を編纂した徳川光圀を筆頭に、山鹿素行・新井白石・頼山陽ら後世の代表的な歴史家・思想家に、きわめて大きな影響を与えた[2]。はじめに序論を置き、神代・地神について記している。つづいて歴代天皇の事績を後村上天皇の代までのべている。伝本によりこれを上中下または天地人の3巻にわけている。その場合、序論から宣化天皇まで・欽明天皇から堀河院まで・鳥羽院から後村上天皇まで、と区分している。 神代から後村上天皇の即位(後醍醐天皇の崩御を「獲麟」に擬したという)までが、天皇の代毎に記される。そして、その史的著述の間に、哲学・倫理・宗教思想と並んで著者の政治観が織り込まれている[4]。 北畠親房が常陸国で籠城戦を繰り広げていた時期に執筆がなされており、手元にある僅かな資料だけを参照して書いているため、(当時知られていた)歴史的事実に関しての間違いも散見される。举例来说,承久の乱について、神皇正統記には次のように記されている。
源頼朝は勲功抜群だが、天下を握ったのは朝廷から見れば面白くないことであろう。ましてや、頼朝の妻北条政子や陪臣の北条義時がその後を受けたので、これらを排除しようというのは理由のないことではない。しかし、天下の乱れを平らげ、皇室の憂いをなくし、万民を安んじたのは頼朝であり、実朝が死んだからといって鎌倉幕府を倒そうとするならば、彼らにまさる善政がなければならない。また、王者(覇者でない)の戦いは、罪ある者を討ち罪なき者は滅ぼさないものである。頼朝が高い官位に昇り、守護の設置を認められたのは、後白河法皇の意思であり、頼朝が勝手に盗んだものではない。義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない。しかし、臣下が上を討つのは最大の非道である。最終的には皇威に服するべきである。まず真の徳政を行い、朝威を立て、義時に勝つだけの道があって、その上で義時を討つべきであった。もしくは、天下の情勢をよく見て、戦いを起こすかどうかを天命に任せ、人望に従うべきであった。結局、皇位は後鳥羽の子孫(後嵯峨天皇)に伝えられ、後鳥羽の本意は達成されなかったわけではないが、朝廷が一旦没落したのは口惜しい。南北朝合一後、北朝正統論を唱える室町幕府の影響下に改竄や、続編と称しながら親房の論を否定する『続神皇正統記』(小槻晴富)が書かれた事もあった。徳川光圀は「大日本史」で親房の主張を高く評価し、江戸幕府の中にも泰時の例などを引用して「武家による徳治政治」の正当性を導く意見が現れるようになった。水戸学と結びついた『神皇正統記』は、後の皇国史観にも影響を与えた。だが、明治になってから逆に国粋主義の立場から儒教や仏教、異端視された伊勢神道の影響を受けすぎているという理由で、重訂という名の改竄(親房思想の否定)を行う動きも起こったが、これは定着には至らなかった。『神皇正統記』研究が再び興隆するのは、現実政治から切り離された、戦後暫くたってからのことである[32]。窪田高明によれば、『神皇正統記』は歴史書という体裁を取ってはいるものの、著者の親房が、ただ歴史を客観的に叙述するのではなく、自身の何らかの主観的な思想を、非常に強い確信をもって、明快に述べているように「見える」という点で、きわめて不可思議な書である[33]。したがって、本書を読んだそれぞれの論者は、親房はこれこれの思想を明快に述べている、と断定的に主張するし、その「明快な思想」に、熱意をもって賛同するか、あるいは強烈な嫌悪感で拒絶する[33]。そうでありながら、親房が本当に何を言いたかったのかは未だに分かっていないと指摘し、『神皇正統記』本文および『神皇正統記』評を読む時は、この点に強く注意する必要があると述べている[33]。
初稿本・修訂本ともに原本は現存しない[2]。平田俊春によれば、初稿本系統では、宮地治邦所蔵本(1冊、残欠)が比較的はやく、これをもとに竜門文庫蔵阿刀本(1冊、残欠)のような形が成立したと言う[2]。修訂本系統では、白山比咩神社本(4冊、永享10年(1438年)写)が現存最古である[2]。
「或童蒙」
『神皇正統記』のうち、「白山本」など主要な底本にある奥書には、「或童蒙」のために老筆を馳せて書かれたと記されている[5]。この「或童蒙」とは誰なのか、そもそもその内容を鵜呑みにしてよいのか、と言った点で議論が争われており、決着が付いていない[5]。
『神皇正統記』とは,誰に向けて、何のために書かれたのかは確定していない[6]。最も有力な説は、幼少の後村上天皇を教育するための、帝王学の書という説である。この場合、主に『易経』(周易)および『孟子』からの影響が見られると言われる。それは、「南朝の正統性を主張した」などという素朴な国粋主義ではなく、「徳がない君主の皇統は断絶し、別の系統の皇統に正統が移る」という厳しい理論を後村上に突きつけたもので、易姓革命論ならぬ「易系革命」論とも言うことができる。そして、自身の皇統が正統であり続けるために、自己修養を疎かにせず、欲を捨てて民のために尽くすように訓戒したものであるという。
第二の説は、結城親朝ら東国武士を南朝に勧誘するための書という説である。武士にも日本の歴史がわかりやすいように、既存の歴史書よりも簡単に書くとともに、結城宗広(親朝父)や結城親光(親朝弟)の南朝への忠誠心を褒めることで、親朝らを自派へ引き込もうとしたのではないか、という。20世紀後半の一時期は通説に近かったが、その後の支持はやや落ちている。
第三の説として、「善とは何か」「正統、つまり過去・現在・未来に渡って持続する善は存在するのか」という哲学的命題を、自分自身に問いかけた哲学書であるという説がある。静的な現在の善は、儒学の有徳君主論によって保証することができる。過去から現在への善の持続は、天照大神の神勅や三種の神器などの神道の論理によって保証することができる。しかし、現在から未来への方向、動的に今まさに次の時間の流れに持続している現在の善は、本質的に行動を要請するものであり、言葉や文字によって全てを表現することはできない。『神皇正統記』の内容に揺れがあるのは、このためである。そして、親房が死の際に至るまで苦闘を続けたのは、『神皇正統記』では書き表すことができなかった摂理を行動によって示すためであり、北畠親房という人間の生涯そのものが、一つの生きた哲学書なのであるという。
主要説
後村上天皇への帝王学の書説
『神皇正統記』の執筆目的として比較的有力なのは、初稿執筆時12歳だった後村上天皇を英明な君主として教育するための、帝王学の書だったとする説である[7]。この説はもともと江戸時代から存在したが、その時は伝・親房の奥書が知られていなかったため、「或童蒙」とは関連付けられていなかった[1]。奥書が知られるようになると、「或童蒙」は後村上天皇を指すと解釈されるようになった[1]。
ところが、その後、松本新八郎によって、親房が主君を童蒙つまり「愚かな子ども」と呼ぶことは考えにくい、として#東国武士への勧誘書説が唱えられた[8]。
これに対し、我妻建治は、『易経』の蒙卦および六五の爻辞を用い、「易」によればここで言う童蒙は「君主」の意であり、まさしく後村上天皇を指す、と反論した[8]。我妻によれば、『神皇正統記』は徳による「正理」の流れを説明するものであるという[9][10]。つまり、皇統の継承と断絶、および皇室に限らず家系の興亡は、「正道」「有徳」「積善」があるかどうかに依っているという[11]。この思想は、主に『周易』と『孟子』からの影響が多いと見られるが[3][12]、そのほかにも『大学』『中庸』や大乗仏教の「自利利他」思想などの影響もあるという[13]。また、親房が君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件としているのは著名である[注釈 3]。我妻によれば、これは単に物質的に尊んだのではなく、それぞれの神器を三達徳に対応させて意味を捉えた、思想的な象徴としての根拠が主であるという[14]。親房は自身の思想に極めて率直だった[15]。たとえば、総合評価では最大の名君とする後醍醐天皇であっても、その政策を全肯定する訳ではなく、部分的には痛烈な批判の対象とした[15]。逆に、相手がたとえ武家であったとしても、正しい政治を行ったものは評価した[16]。承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は非難され、逆に官軍を討伐した北条義時とその子北条泰時のその後の善政による社会の安定を評価して、「天照大神の意思に忠実だったのは泰時である」という論理展開をした[16]。これも徳治を重視する親房から見れば、正理なのである[16][注釈 4]。
平田俊春は、我妻の易経説への反論を試み、平安時代の用例を探した[17]。そして、藤原頼長『台記』で、久安元年(1145年)4月25日、小内記守光が当時7歳の近衛天皇の宣命に、天皇を表す語として「童蒙」を用いたところ、頼長が『周易』によれば妥当ではない、として「幼齢」と書き直させたという、我妻説への有力な反論を発見した[17]。ところがその一方で、久安5年(1149年)に大内記藤原長光が作成した宣命では、「童蒙」が天皇を指す語として使われていた[17]。童蒙=天皇を、頼長は不可だとしたが、長光は可だとしたのである[17]。結果、頼長と長光の解釈の差をどうすればよいのか、我妻説へどのように用いればよいのかはっきりとわからず、平田は結論を避けた[17]。
窪田高明は、平安時代の例は、宣命、つまり形式上は天皇の言葉であるから、天皇が自分を謙遜する自称を、家臣がどこまで代筆して書いてよいのかわからないから問題になるのであって、親房のように明らかに他称として「童蒙」と呼ぶのは考えにくいのではないか、として童蒙=後村上天皇説を疑問視した[18]。
岡野友彦は、我妻の周易説を支持し、やはり後村上天皇を名君に育てるための帝王学の書であろうとしている[7]。岡野によれば、「正統」とは「南朝が絶対に正しい」といったような素朴で楽観的な南朝正統論とは、全くかけ離れているという[7]。親房は、『孟子』の易姓革命思想の影響を受けており、易姓革命思想のうち天皇位が天皇家以外の人間に渡るかもしれないという部分は拒絶したものの、君主の徳によって、天皇家内部の皇統間で「正統」が移動することは認めており、『神皇正統記』はいわば「皇統内革命」あるいは「易系革命」という思想を示した書であるという[7]。そして、親房はまだ幼い後村上天皇に対し、自分の欲を捨てて民のために尽くさねば、たとえ正しい血筋と三種の神器を兼ね備えた天皇であっても、帝位を失う可能性があり、北朝など別の皇統に敗北し自身の皇統が断絶する可能性は常にある、と厳しい現実を突きつけたのだという[7]。ところが、親房の儒学思想自体は後世に大きく普及したのに、その一方で結果論として南朝は内乱に事実上敗北して断絶してしまったため、江戸時代前期には新井白石の『読史余論』で、南朝が断絶したのは南朝の君主が不徳だったからだ、と、敗者=悪玉論が論じられるなど、皮肉な結果になってしまった、という[7]。
東国武士への勧誘書説
#後村上天皇への帝王学の書説に次いで有力視されているのが、結城親朝を代表とする東国武士たちを南朝へ勧誘するための書として書かれたとする説である[7]。
1965年、松本新八郎は、北畠親房が主君である後村上天皇を「或童蒙」=「ある愚かな子ども」と呼ぶことは考えにくい、と反論した[19]。そして、「童蒙」とは結城親朝のことであり、最期まで南朝のために戦った結城宗広(親朝父)や結城親光(親朝弟)の忠誠心を『神皇正統記』で称えることで、親朝を南朝側に引き入れようとしたのではないか、と唱えた[19]。
この説は当時、佐藤進一や永原慶二ら、日本史研究における代表的研究者からも支持されたため、ほぼ通説に近い地位を占めていた頃もあった[19]。しかし、#後村上天皇への帝王学の書説で述べたように、我妻建治が『周易』によって童蒙=君主説を唱えてから、全盛期に比べて支持される勢いは衰えた[19]。
坂本太郎もまた、親朝は「童蒙」と呼ばれるような年齢ではないし、確かに『神皇正統記』は漢字かな交じりで書かれており、分量・表記・記述の全てで、『日本書紀』などそれまでにあった歴史書よりは遥かに読みやすいものの、はたして武士たちへの勧誘手段として有効かどうかは疑問である、と勧誘書説を否定した[18]。
窪田高明も、この時期に親房が親朝に宛てた書簡として『関城書』があるが、『関城書』と『神皇正統記』では親房の姿勢が全く違い、同一著者が同一対象者に同時期に送ったものとは考えにくい、と疑問視した[20]。
自己との対話説
『神皇正統記』を、正義論について真摯に思索した哲学書と見なす傾向は、政治学の研究者である丸山真男によっておぼろげながら提示された[21]。丸山は1942年に執筆を依頼されて、「『神皇正統記』に現れたる政治観」(『日本学研究』所収)という論文を著したが、皇国史観が正しい歴史学とされた戦時中の論文であるため、皇国史観とは違う自身の思想を率直に出しすぎて周囲から危険視されないように、注意深く書かれており、またそれとは別に丸山自身の思想も固まっていなかったと見られるため、ややわかりにくいところがある[21]。
丸山の論文で特異なのは、伝統的な『神皇正統記』評で必ず論じられる「正理」「正統」といった概念にはほとんど言及せず、『神皇正統記』を「行動の書」と位置付けているところである[21]。そして、本書を「平板的な「概論」」ではなく、「実践的意欲から動態的に理解され」るべき政治論であるとしている[21]。確かに、北畠親房の政治的実践は、後世から結果論として見れば失敗だった[21]。しかし、一つの理論を提示し、そしてその内面性に従って自ら主体的に行動した思想家としての親房は、高く評価することができる、という[21]。また、丸山の論理の筋道に従えば、親房は「正直」(心情の倫理)と「安民」(責任の倫理)を混同しているため、『神皇正統記』は客観的な思想書とはなっておらず、むしろそこにこそ、主体的な思想書としての価値があるのだという[21]。
その後、佐藤正英が主体性と正統を関連付けて考察した[22]。佐藤は、「永遠」と「無窮」を別のものとし、「永遠」は「時間の流れを超越する」もので、「無窮」は「時間の現前として現在が持続すること」であるという[22]。そして、「正統」の時間意識は、「永遠」ではなく「無窮」の方である[22]。つまり、正統が持続を保証するのではなく、その逆に、持続が正統を示すのであるという[22]。『神皇正統記』が儒学の有徳君主論に近づくのはそのためであるが、その本質には、「現在の主体の行為が「正統」の持続を生み出す」という思想があるのだという[22]。
窪田高明は、丸山・佐藤説を補強し、『神皇正統記』は「善とは何か」「そしてそれをいかに実践すべきか」を求めて、自己との対話を行った哲学書であるとした[23]。その論拠として、『神皇正統記』には君主に対して政治の心構えを説くことを述べた文の次に、唐突に、人臣の側の弁えを語る文が続くなど、対象が二転三転していることが挙げられる[24]。親房ほどの学者・著作家がこれを意識していない訳がなく、誰に対して書いたのか一貫した解釈ができないということは、つまり誰に対して書いたのでもなく、自問自答を行った哲学書であると解釈するのが妥当であるという[23]。奥書の「或童蒙」については特に深い意味はなく、その次の「老筆」の方が重要であり、単に自分を「老」として、この作品は老いぼれが書いた不完全な書であるという謙遜の定型句であり、その対比としてたまたま読者に対して童蒙という語を用いたに過ぎないという[25]。
窪田の主張によれば、親房は過去・現在・未来を貫いて持続する善の存在を、理論付けたいと考えたのであるという[26]。儒学における有徳君主論は、現在の徳によって、現在の秩序が維持されることを保証してくれる[26]。しかし、それは過去から現在への善の流れは保証しない[26]。そこで親房が持ち出したのが、天照大神の「天壌無窮」や三種の神器といった神道思想であり、これらの装置によって、始原から現在まで一貫して善が続いてきたことを保証することができる[26]。しかし、何に依っても、未来に対し、「持続する現在」という善を表現することはできない[26]。それは常に消滅の危機にあるのである[26]。「持続する現在」というのは、書物という固定的な媒体とは本質的に相容れないものであり、『神皇正統記』の記述に矛盾や混乱が見られるのは、そこに求められるという[26]。
未来への善の持続性というのは存在そのものに対する問いであり、そこに何らかの原理はあるとしても、それは言語によっては決して表現できない[26]。したがって、思索者にして行動者たる親房は、「原理として語りえない原理的なるものを自らの生をとおして表現」しようとしたのではないか、という[26]。
その他
日本史概説書説
江戸時代の慶安2年(1649年)2月、『神皇正統記』は、風月宗知によって刊本が出版された[27]。その後、林羅山らによる江戸幕府の公式史書『本朝通鑑』(寛文10年(1670年))では、「正統記簡約易見、今存而行於世」と、日本史を概観するに便利な書だと評されている[27]。20世紀の日本史研究者の平田俊春もまた、わかりやすい日本史概説書としての一面を肯定的に捉えている[27]。
一方、窪田高明は、歴史書としてわかりやすい本であるとは思いにくい、と主張する[27]。記述は客観的ではない上に、『吾妻鏡』や『増鏡』といった他の中世の歴史書としても比べても異質である[27]。また、江戸時代の人も、多くの人は本書を単純な歴史概説書だとは思わなかったのではないか、と推測している[27]。
神国思想書説
1977年、神道研究者の久保田収は、『北畠父子と足利兄弟』で、親房の確信に溢れた神道観・国家観・政治観には、後世の読者も必ず奮い立ってしまうほどの気魄が窺えるとした[27]。
『国史大辞典』「神皇正統記」(大隅和雄担当)もまた、「明確な歴史への態度と、強い意志を表わす明晰な文章とによって(略)」と本書の執筆目的は明らかであると断じ、皇統の移動を儒学的な歴史論と伊勢神道で正当化しようとした、中世の神道的な歴史論・神国思想を代表する古典とした[2]。
無価値説
日本史研究者の今谷明は、『神皇正統記』は国粋主義・南朝プロパガンダ・北畠家が属する久我源氏贔屓を表現した単純で稚拙な書であると断じた[28]。そして、後醍醐天皇・北畠親房は民心を失った無能な政治家であると主張し、北畠は久我源氏中心の史観から抜け出せず、誤った現実認識に基づいて自派の皇統の正統性を述べている時代錯誤の思想書であると酷評した[29]。
国威発揚説
イスラエルの歴史研究者ベン=アミー・シロニーは、王朝が非常に古いという「万世一系」の主張は、日本の自国民を感心させるためだけではなかったと主張した。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあったという。中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良いという[30][注釈 5]。
日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中したという。『神皇正統記』では以下のように論じられている[30][31]。
モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前三三〇八年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。
神道大意 しんとうたいい
中世・近世において様々な神道家によって書かれた神道書の書名である。その中で最な著名ものは、文明18年(1486年)に吉田兼倶が足利義政のために著した、吉田神道(唯一神道)の要旨を略述したものである。また、兼倶の曾孫に当たる吉田兼見によるものや、兼倶の先祖の吉田兼直のものも著名である。ただし、兼直撰とされているものは、実際には兼倶による偽作とみられている。
神鳳鈔 じんぽうしょう
伊勢神宮(内宮および外宮)の領地の諸国一覧表である。『群書類従』第1巻に収録されている。建久四年(1193年)に、原本の書き出しを始め、その後追記がなされ、延文5年(1360年)に原本完成し注進とある。慶安3年(1650年)に、写本作成。群書類従に収録にあたって、小野高潔本を本書とし、屋代弘賢本および武州足立郡人福島東雄本を校合したと記録されている。さらに、嘉永6年(1853年)にも校勘とある。原本は現存しておらず、写本に異同があり、校正して作成されている。なお、現存する最古の写本は、伊勢神宮の所有するもので、室町時代の内宮禰宜の荒木田氏経による写本である。伊勢神宮の領地は、諸国において神戸、御厨、御薗、神田、名田などと表記されており、所在地の伊勢国に集中している。そのため本書では、伊勢国内に関しては、郡単位に詳細が記述されている。※伊勢神宮領については、神宮雑例集、太神宮諸雑事記などにも記載がある。
住吉大社神代記 すみよしたいしゃじんだいき
古より住吉大社に伝来し、その由来について述べた古典籍。全1巻、719行。古代史研究の上で重要な文献の1つである。重要文化財(国指定)である。『住吉大社神代記』は、住吉大社の神官が大社の由来を神祇官に言上した解文である。主要部分は祭神である住吉三神の由来と鎮座について述べた「住吉大神顕現次第」で、これに加えて大社の神域、神宝、眷属神、各領地の四至や由来などが詳細に述べられている。『神代記』の名が史料に登場する最初の例は藤原定家の『明月記』である。藤原定家は当時住吉大社と四天王寺との間に起きた領地問題について、住吉大社側が証拠資料として『神代記』を提示したことを述べている。『神代記』はその後も史料にしばしば言及されたが、元来神代記は秘中の書として秘蔵され、社家の人間でも拝観は許されなかった。しかし、学会で注目され始めた明治以降わずかながら拝観が許可され、写本も残されるようになり、1907年(明治40年)には佐伯有義によって「住吉大社神代記事」として刊行された(『神祇全書』第3輯)。この原書(住吉大社所蔵本)が広く知られるようになったのは昭和に入ってからで、1936年(昭和11年)宮地直一によって『神代記』の原寸大の写真複製本が刊行された。さらに田中卓が本格的に研究し、1951年(昭和26年)に研究書『住吉大社神代記』を刊行した。ちなみに『住吉大社神代記』という名は仮称であり、これまでも「住吉神代記」、「住吉神社神代記」などと呼ばれ学者の間でも一定しなかった。しかし田中卓が『住吉大社神代記』の名称を強く推して以降、この名称が定着した。3年後の1954年(昭和29年)に『住吉大社神代記』は重要文化財に指定された。巻末には天平3年(731年)7月3日の日付で神主従八位下津守宿禰嶋麻呂と、遣唐使神主正六位上津守宿禰客人(津守吉祥?)の2名の撰者の名が挙げられている。さらに延暦8年(789年)8月27日の日付で、『神代記』の真正のしるしとして津守宿禰屋主ら計8名の署名が書き加えられている。これによれば成立は天平3年(731年)の撰であるが、これは従来から疑問視されており、その根拠として本記は訓点が用いられているため、成立は十世紀以前に遡れないとされる。巻頭部分に「合す」の語の後に「従三位住吉大明神大社神代記」と「住吉現神大神顕座神縁記」と2種の文献の名が挙げられており(2 - 4)、このことから上記2種類の文献を1つにまとめたものと考えられるが、本文のどの部分がいずれの文献に属したのかは不明である。住吉三神の由来について述べた「住吉大神顕現次第」は全体の6割を占めるが、主に『日本書紀』から住吉三神と関係の深い、神代、仲哀天皇、神功皇后の部分を引用した文で構成されている。しかし、全くの引用ではなく、改変、抄約されていたり、独自の伝承が挿入されているなど、その独自性がうかがえる箇所も少なからずある。
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たとえば神代では『日本書紀』本文の神話ではなく、一書の神話を採用している。しかもそれは『古事記』神話に似たものである。しかし、これは当然で、住吉三神はイザナミの死後、黄泉国を訪れたイザナギが禊をした際に化生したためであり、イザナミが死なない本文の神話を挙げることはむしろ考えられない。ただし、天地開闢の造化神を『日本書紀』の国常立神とせずに、『古事記』と同じ天御中主尊としている点は注目される。なお住吉三神は、三所大神、三軍神などと称されている。
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仲哀天皇の引用部分では、父の日本武尊が天皇と呼ばれている(『記紀』ではヤマトタケルは即位しない)。また、成務天皇が祖父と呼ばれ、さらに成務天皇は孫(つまり仲哀天皇)を立てたとしている。
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『神代記』最有名な伝承は、神功皇后に関するもので、神功皇后が住吉大神と「密事」があり、俗に夫婦の間柄となったと、いう主旨の註記が付されている。この伝承は神功皇后と関連してしばしば取り上げられる。
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神殿・神戸・神域四至・大神宮・部類神・子神
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神財流代長財
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住吉大神顕現次第
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御封奉寄本記(山河奉寄本記)
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胆駒山・神南備山本記
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長柄船瀬本記
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開口水門姫神社・田蓑島姫神社
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豊島郡城辺山・河辺郡為奈山
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為奈河・木津河
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荷前二処・幣帛浜等本縁
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神前審神浜
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奉寄木小島・辛島・粟島・錦刀島御厨本縁起
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周芳沙麼魚塩地領本縁
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船木等本記
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明石郡魚次浜一処
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賀胡郡阿閇津浜一処
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八神男・八神女奉供本記
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天平瓮奉本記
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奉幣時御歌本記
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雑
諏方大明神画詞 すわだいみょうじんえことば
長野県の諏訪地域に鎮座する諏訪大社の縁起。『諏訪絵詞』『諏訪大明神御縁起次第』『諏方縁起絵巻』『諏訪縁起画詞』等とも称される。1356年(正平11年 / 延文1年)成立。全12巻。著者は諏訪円忠(小坂円忠)。 元々は『諏方大明神縁起絵巻』・『諏方縁起』等と称する絵巻物であった[1]。しかしながら早い段階で絵は失われ、詞書(ことばがき)の部分の写本のみを現在に伝え、文中には「絵在之」と記すに留めている。 著者の諏訪円忠は、神氏(諏訪大社上社の大祝)の庶流・小坂家の出身で、室町幕府の奉行人であった[1]。そのため足利尊氏が奥書を書いている。外題は後光厳天皇直筆である。成立に関しては洞院公賢の『園太暦』にも記されており、失われていた『諏方社祭絵』の再興を意図したものであったという[1]。 現在は権祝本・神長本・武居祝家本等があり、権祝本が善本とされている[2]。
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縁起(5巻): 諏訪社の起源と諏訪明神にまつわる故事縁起 上巻
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神降の由来、『先代旧事本紀』における国譲り神話(第一段)
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神功皇后の三韓征伐に際しての諏訪明神の活躍(第二段 - 第四段)
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持統天皇の勅使派遣、諏訪社の祭礼の始まり(第五段)
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諏訪明神、開成皇子の写経を守護する(第六段 - 第八段)
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縁起 中巻
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諏訪明神、坂上田村麻呂の安倍高丸に参戦する(第一段 - 第三段)
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社殿の式年造営について(第四段)
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歴代天皇や武士の崇敬、位階の上昇(第五段)
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千部経の知識に預かる諏訪明神(第六段)
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諏訪明神、慈覚大師の写経を守護する(第七段)
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諏訪明神、良忍上人の融通念仏勧進に協力する(第八段 - 第九段)
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縁起 下巻
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諏訪明神、文永・弘安の蒙古襲来に際して龍の姿となり神風を起こす(第一段)
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奥州騒乱の時に龍の姿をした諏訪明神が出現する(第二段)
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弘安2年8月、明神化現の大軍が東へ向かうという大乱の予兆が現れる(第三段)
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各地の諏訪社の別宮[注釈 1]の事、仏法に帰依する諏訪明神(第四段)
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縁起 第四(追加上): 諏訪社の社家(主に神氏)にまつわる話[注釈 2]
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八幡太郎と神氏のかかわり、諏訪郡を出てはならないという掟を破った大祝為仲の死(第一段 - 第三段)
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為仲死後の大祝継承の話(第四段)
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下宮の金刺盛澄、源頼朝によって赦免される(第五段 - 第六段)
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承久の乱における諏訪信重の活躍、神氏の西国・北国への発展(第七段)
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中先代の乱での大祝頼継の父祖一族(頼重・時継ら)の滅亡、頼継の潜伏と復帰、足利尊氏の入洛(第八段 - 第九段)
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縁起 第五(追加下): 諏訪社の頭役人にまつわる話
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頭役人に鷹を貸さなかった人が失明(第一段)
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頭役人に害を加えた内管領・果円の滅亡(第二段 - 第三段)
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焔王宮に到った男がその年の頭役人であるということで生き返る(第四段)
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僧・妙通の修行と頭役に当たった地頭の妻を通しての諏訪明神からの神託(第五段 - 第六段)
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流罪になっている頭役人を召し返さなかった北条時村と北条宗方の滅亡(第七段)
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頭役人に馬を貸さなかったため馬の耳が消える(第八段)
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諏訪明神の使い、北条高時邸に北条氏の滅亡を告げる(第九段)
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頭役人に犬を貸さなかったため犬が死んでしまう(第十段)
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諏方祭(7巻): 諏訪上社・下社の年中祭事巻第一 春上(1月 - 2月)
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序文(第一段)
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荒玉社・若宮社への参詣(1月1日)(第二段)
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上社大祝職の起源
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蛙狩神事(同日)(第三段 - 第四段)
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上社(本宮)の社殿の配置
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諏訪社の生贄の事
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御占神事、大祝の代理となる神使(おこう)を当てる(同日)(第五段)
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歩射神事(1月17日)(第六段)
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下社神宮寺の常楽会(2月15日)(第七段)
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下社の春宮と秋宮
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荒玉社の神事、神使の精進始め(2月晦日)(第八段)
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祭二 春下(3月)
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外県[注釈 3]神使の御立御(みたてまし)(第一段)
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内県[注釈 4]・小県[注釈 5]神使の御立御(3月酉日)(第二段)
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神使の巡回(廻神)(第三段)
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大宮(本宮)の御祭、国司使奉幣(3月寅日)(第四段)
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祝日射礼(3月卯日)(第五段)
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禰宜送り、野焼社神事(3月辰日)(第六段)
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新申、上社神宝の公開(3月巳日)、磯並社神事(3月午日)(第七段)
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祭三 夏上(4月 - 5月上旬)
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神事、大宮にて花会(4月1日、3日、7日)(第一段)
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上社神宮寺の法会(4月8日)(第二段)
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大宮臨時神事(4月15日)(第三段)
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矢崎(やがさき)神事(4月27日)(第四段)
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御狩押立(5月2日)(第五段)
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祭四 夏下(5月上旬 - 6月)
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五月会(5月5日)(第一段)
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流鏑馬(5月6日)(第二段)
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臨時祭(6月1日、20日)、御作田狩押立(6月27日)(第三段)
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藤島社にて田植神事(6月晦日)(第四段)
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藤島明神の由来、諏訪明神と洩矢の悪賊の戦い
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諏訪湖にて鯉馳せ(鯉を射る漁法)(第五段)
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祭五 秋上(7月)
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下社の御移徒(遷座祭)(7月1日)、梶の葉が用いられる七夕饗膳(7月7日)(第一段)
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御射山への「登りまし」、酒室社神事(7月26日)(第二段 - 第三段)
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山宮参拝、御狩(7月27 - 28日)(第四段)
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祭六 秋下(7月下旬 - 9月)御射山御狩(7月27 - 30日)(第一段)
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御狩りの由来、天竺波提国王(諏訪明神の前身)の狩り
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御射山より「下りまし」、来年の頭役人への御符渡し(7月晦日)(第二段)
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御作田の熟稲奉献(8月1日)(第三段)
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放生会(8月15日)(第四段)
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重陽の神事(9月1日)、秋尾祭御狩(9月己亥日)(第五段)
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秋尾御狩の3日目(第六段)
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国司使参詣、神宝の公開(9月甲寅日)(第七段)
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祭七 冬(10月 - 12月)
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10月(神無月)には祭典がない(第一段)
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祭事がないため立ち入りが制限される御狩場・神野(こうや、八ヶ岳西麓)を侵す者の出没(第二段)
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神使の冬の御立御(11月28日)(第三段)
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一の祭り、御室(みむろ)の造営(12月22日)(第四段)
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シンフクラの舞(狂言)(12月24日)
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(あらすじ)腹痛を訴える陸奥国の姫君が諏訪明神の御室の中にある「シンフクラ」という鳥を薬にすれば治ると教えられる。御室の前にやってくる使者が神官にその旨を伝えて、鷹を献上する。神官に呼び出された福太郎という犬がシンフクラを捕らえようとする。
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乱舞興宴(12月28日)、大夜明・大巳祭(12月29日)
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葛井の池にて御手幣送り(12月晦日)(第五段)
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御神渡りについて(第六段)
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御神渡りを自分の目で確かめようとした僧の話
仙境異聞 せんきょういぶん
平田篤胤の代表的神道書のひとつ。全2巻。1822年(文政5年)刊行。神仙界を訪れ、呪術を身に付けたという少年寅吉(とらきち)からの聞書きをまとめたものである。別名『寅吉物語』。寅吉は7歳のときに杉山僧正にともなわれて、常陸国の岩間山に行き、修行して幽冥界に行き、外国も廻ったと主張し、呪術を操って江戸で評判となった。このことを聞いた篤胤は最初に寅吉を保護していた山崎美成のもとから半ば強引に自分の家に連れてきて数年間住まわせた。篤胤は神仙界に住むものたちの衣食住・祭祀・修行・医療・呪術などについて、くまなく質問をして、その内容をこの本に収めた。 その経緯を篤胤は、以下のように説明している。
此は吾が同門に、石井篤任と云者あり。初名を高山寅吉と云へるが、七歳の時より幽界に伴はれて、十四歳まで七箇年の間信濃国なる浅間山に鎮まり座る神仙(寅吉の師翁で杉山僧正と名乗る山人)に仕はれたるが、この間に親しく見聞せる事どもを、師の自ずから聞き糺して筆記せられたる物なるが、我古道の学問に考徴すべきこと少なからず、然れど此は容易く神の道を知らざる凡学の徒に示すべきものには非らず。
以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得して幽冥で寅吉が見た師仙の神姿を絵師に描かせ、以後はその尊図を平田家家宝として祭った[注釈 1] 。自己の神学体系に幽冥信仰を導入し、またみずから「幽世(かくりよ)」の実在を信じた篤胤の神秘思想をうかがわせる内容となっている[1]。当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧を許されないとされた。現在では岩波文庫から平田篤胤(子安宣邦校注)『仙境異聞・勝五郎再生記聞』(2000年、岩波書店)として公刊されている。2018年、異世界転生ものブームに伴ってTwitterで話題になり、増刷された。[2]
仙境伝印図 せんきょうでんいんず
江戸時代後期に紀州藩士である参澤宗哲明という求道者が、嶋田幸安という町医者の託宣を受け、異界に伝わる印形を詳細に書写したという秘事伝法書のことである。この写本は参澤氏と所縁の深い旧家に保管されており、『名古屋自由学院短期大学研究紀要』第10号所収の岸野俊彦編「紀州藩平田学派国学者三沢明の思想的特長」には、調査された三沢(参澤)明著作目録リストを年代順に掲載しており、宗哲の著述や幸安から聞き書きした写本類も保管されていることがわかる。 当時宗哲の書写したと思われる写本は全て年月日が記載されてはいるが、いくつかのものには記載不明のものがある。それでも書き写された本の題名や関連する文献から年代を推測すると、本書は嘉永年間頃(19世紀中頃)写されたのではないかと思わる。伝印図の末尾後文に 「清玉異人(幸安)曰く、仙境の印は凡人に見すべからず。袖の中にて結び、或いは手に帛紗を覆ふべし。秘印類は僧家へ洩らす事を堅く禁む。人界 神仙国 利信山人明 拝書」とある。
菟芸泥赴 つぎねふ
貞享元年(1684年)に国文学史研究の北村季吟が著した、神社などの由来・遍歴を記した文書である。名所、名勝記でもある。主に京都、山城国及び近畿圏地域の古社に詳しい。岩清水八幡宮などに関する古い記録は貴重である。本書は淀城主、稲葉氏の強い願いにより、貞享元年、山城一円の、名勝旧跡に関する故事由緒について、国文学的な色合いを強く持った書物として完成した。八幡市に関する記述は八幡宮、譽田皇、上高良、下高良、狩尾、下院、石清水、極楽寺、鳩峯、男山、女郎花塚、放生河、片岡達磨、狐河の14項がある。
高橋氏文 たかはしうじぶみ
日本の歴史書、古記録である。宮内省内膳司に仕えた高橋氏が安曇氏と勢力争いしたときに、古来の伝承を朝廷に奏上した789年(延暦8年)の家記が原本と考えられる。しかし完本は伝わっておらず、逸文が『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』その他に見えるのみである。伴信友が1842年(天保13年)に自序の『高橋氏文考註』にまとめた。これに関する791年(延暦11年)の太政官符が存在する。
高橋氏文 たかはしうじぶみ
『日光山縁起』(にっこうざんえんぎ)とは、栃木県の日光山にまつわる神々についての縁起を記したもの。上下二巻、本地物のひとつ。
主な登場人物
有宇中将=日光権現(男体権現)…本地は千手観音
朝日の君(朝日長者の娘)=女体権現…本地は阿弥陀如来
青鹿毛(中将の乗っていた馬)→馬頭御前(有宇中将と朝日の君の間の子。青鹿毛の生まれ変わり。のちに中納言となる)=太郎大明神(太郎権現)…本地は馬頭観音
雲上(有宇中将の飼っていた鷹)…本地は虚空蔵菩薩
阿久多丸(中将の飼い犬)…本地は地蔵菩薩
小野猿丸(馬頭御前の子。原文の中では「猿丸大夫」とも呼ばれる)…本地は勢至菩薩
朝日長者
大将(有宇中将の父)
有宇中将の母
有成の少将(有宇中将の弟)
赤城大明神
鹿嶋大明神
上巻
(上巻の冒頭には日光山の神である日光権現の威徳について述べるが、その由来について記された物がわずかに仮名で記した縁起一巻のみで、その内容を絵によってここに紹介するという趣旨の文章がある)
有宇中将と朝日長者
その昔、都に有宇(ありう)中将という人がいた。才芸優れた公家であったが、鷹狩が大好きで朝廷の務めを疎かにし帝の怒りに触れたので、有宇中将は野山にその姿を隠そうと、飼っていた雲上という名の鷹と犬の阿久多丸のほかは供も連れず、青鹿毛という馬に乗ってひとり都を去っていった。中将が青鹿毛の歩むに任せて道を行くと、やがて東国下野国の二荒山に至った。その野原をなおも行くと三日目に、由緒ありげな館が目の前に現れる。土地の者にいかなる者の館かと尋ねると、「朝日長者という東国では隠れも無い有名なお方です」と答えた。さらにいうことには、朝日長者には十四になる姫君がひとりいるという。中将はその姫君に興味を持ち、話を聞いた土地の者のつてで、姫君に恋文を届けさせた。姫君の母や父朝日長者はその文を見て、「これはただ者ではない」と館に招き入れると、案に相違せずその立派な姿に長者は満足し、中将を婿に迎え入れたのだった。
妻離川
中将と姫君は仲良く暮し、六年が経った。一方都では有宇中将が突然姿を消したので、中将の両親の嘆きはひとかたではなかった。そのころ中将も夢に母親が出て、「おまえのことを思うあまりに私は死んでしまった」というので都が恋しくなり、ひとまず都へ帰る事となった。姫君は自分も連れて行ってほしいと中将に頼んだが、「今回はつれては行けない」という。姫君は中将に、「途中で妻離(つまさか)川という川があるが、その川の水を飲むと夫は二度と妻には会えないといわれているので絶対に飲まないでください」と言った。中将は来たときと同じように、鷹の雲上と犬の阿久多丸を連れ、青鹿毛に乗り長者の館を出て都へ向った。
中将が青鹿毛に乗って道を行くと、妻離川に至った。だが川を目の前にして中将は喉の渇きに抗えず、ついに川の水を飲んでしまう。ところが具合が悪くなり、中将は川の側の野辺に五日も病み臥せる。
それから中将はなんとか容態を持ち直したが、「自分の命はもうながくはないと思われる。心静かになれるところに私を連れて行け」と青鹿毛に命じたので、青鹿毛は二荒山の山中に中将を連れて行った。中将はそこで母と姫君に宛てて文を書き、青鹿毛を都に、雲上を姫君のもとにとそれぞれ文を届けに行かせた。
一方姫君は中将のことが気になりついに館を出て、妻離川に至ると、雲上が現れ文を落とした。姫君はそれを見て返事を書き、それを雲上に持たせて中将のところへ行かせた。
阿武隈川
そのころ都では、中将の母は亡くなっていた。そこに中将の乗っていた青鹿毛が、母宛の文を付けて現れる。中将の父である大将がその文を見ると、この世の暇を述べた和歌なのでその嘆きはたとえようもない。
有宇中将には有成の少将という弟がいたが、中将を探すために父大将に暇乞いをし、青鹿毛に乗りその歩みに任せると、はたして中将のところに行き着いたが、すでに中将は亡くなっていた。かたわらには姫君の返事もある。少将はこの有様を見て嘆き悲しんだが、姫君の文を見てこの女の行方を尋ねようとまた道を行くと、妻離川で姫君に出会った。少将は自分が中将の弟であることを話し、せめて亡くなった中将の遺体を見せたいと姫君を馬に乗せて連れて行った。これにより妻離川を、「あふ(会ふ)くま川」(阿武隈川)と呼ぶようにはなったのである。
下巻
閻魔王
さて有宇中将は死後、閻魔王のいる閻魔王宮にいた。ところがさらにそこに現れたのは、中将の母と妻の姫君だった。ふたりは互いの姿を見て、涙を流す。閻魔王に仕える倶生神は、「この二人の女はまだ死ぬべき時ではないので、娑婆に返す。しかし有宇中将はその寿命が尽きている。この上は浄玻璃の鏡を以って地獄に落ちるかどうか罪を糺そう」といって浄玻璃鏡を覗いた。そこに映ったものとは…
有宇中将の前世は、二荒山の猟師だった。その猟師の母は山に入り薪や木の実を採り、猟師は鹿を狩るために山に入った。或る時、母は寒さを防ぐために鹿の毛皮で出来た着物を着て山に入ったが、息子の猟師はそれを鹿と見誤って母を弓で射てしまったのである。猟師は、「このように貧しい暮しをしていなければ山に入る事もなく、こんな目にあう事もなかったのに」と嘆き悲しんだが、母親は息絶えた。猟師は次のように思った。「願わくば自分はこの山の神となり、何度生まれ変わろうとも自分たちのように貧苦にあう者を助けよう」と。
閻魔王は猟師が立てたこの願いを聞き届け、これを果たさせるために中将を娑婆へと蘇らせた。(このあと蘇った中将は姫君に再び現世で会い、朝日長者のもとでまた暮らしたと思われるが、原文にはその記述が無い)
馬頭御前と小野猿丸
中将が蘇ってその後、姫君は懐妊し男子をひとり生んだ。その名を馬頭御前という。中将は都に帰ると大将に昇進し、朝日長者には陸奥国を治めさせた。馬頭御前は七歳になって都に上り、十五歳には少将に、それからほどなくして中納言にまで出世した。
そののち、馬頭御前こと中納言はまた東国に下り、朝日長者のもとにいたことがあったが、その時朝日長者に仕える侍女に男の子を産ませていた。しかしその子はあまりにも容貌が醜かったので、中納言は都に上らせなかった。中納言の子は奥州小野という所に住み、名を小野猿丸と称した。猿丸は弓の名手となり、飛ぶ鳥だろうと地を走る獣だろうと、射られない物はなかった。
日光権現と赤城大明神の争い
さて、有宇中将は大将になっていくばくもなく、神とあらわれて下野国の鎮守すなわち日光権現となったが、日光権現と上野国の赤城大明神は互いの神域に接する湖(中禅寺湖)をどちらのものにするかで度々争った。しかしなかなか決着がつかなかった。日光権現は鹿嶋大明神を呼んで、この事について相談した。すると鹿嶋大明神は、「あなたの孫に猿丸大夫(小野猿丸)という弓の名人がいるから、彼を頼みにしてはどうか」という。
そこで女体権現が姿を鹿と変え、みちのくのあつかし山(厚樫山)へと赴き猿丸大夫を見つけたが、猿丸は鹿の姿の女体権現を見てよい獲物がいたと、そのあとを追っていった。女体権現は猿丸を日光山まで誘い入れると姿を消し、代わって日光権現が現れ猿丸大夫に次のように言った。「自分は満願権現(日光権現の別号)である。上野国の赤城大明神が、わが国下野の湖や山を奪おうとしているので、汝は弓においては天下無双の聞えあれば、我らに力を貸してはくれないか」と。猿丸大夫はこれを了承した。
猿丸大夫の活躍
そのあくる日はいよいよ決戦の日となった。日光権現は大蛇の姿となり、その従える神兵は雲霞のごとく飛び出す中で、猿丸大夫は櫓を立て、その上から敵が来るのを待ち構えていた。すると湖に、大きな百足に姿を変えた赤城大明神が現れる。猿丸大夫はその百足めがけて矢を射ると、矢は百足の左目に命中した。百足はそのまま退散し、戦いは日光権現が勝利した。
日光権現は猿丸の働きに感じ入り、「汝の働きでこの国を守ることが出来た。汝はそもそもわが孫に当たるから、今からこの国を汝に譲る。わが子太郎大明神(馬頭御前)とともにこの山の麓の人々を助け守るがよい。そして汝をこの山の神主としよう」といったので、猿丸は喜びのあまりに舞い踊り歌を唄った。それで湖の南の岸をうたの浜(歌ヶ浜)とはいうのである。
すると、空から紫の雲が降りてきて、その雲の中より一羽の鶴が現れた。その羽の上には左に馬頭観音、右に勢至菩薩が現れていると見るや、鶴は女の姿に変じて猿丸に次のように告げた。「馬頭観音は太郎大明神、勢至菩薩は汝猿丸の本地である。汝は恩の森(不詳、小野のことだろうともいう)の神となって衆生を導くがよい」と。鷹の雲上は本地虚空蔵菩薩、阿久多丸は地蔵菩薩、青鹿毛は実は馬頭御前(太郎大明神)に生まれ変わり、さらに馬頭観音として現れた。有宇中将は男体権現その本地は千手観音、またその妻の姫君は女体権現にして阿弥陀如来の化身である。のちに太郎大明神は下野国河内郡の小寺山(現在の宇都宮二荒山神社近くの下宮山)に鎮座して、若補陀落大明神と号し人々の尊崇を集めたのである。
解説
上巻の特徴と疑問点
この『日光山縁起』は室町時代後期の成立といわれている。『日本思想大系』に収録される本文を見ると、しかし疑問に思われるところがいくつかある。
下巻冒頭では死して地獄の閻魔宮に行った有宇中将の前に、母と姫君が現れるのであるが、母親のほうは上巻において死去していることが記されているものの、姫君については死んだなどという記述は無い。上巻の末尾では有成の少将が姫君を青鹿毛に乗せ亡くなった有宇中将の所に連れて行こうとし、ついでに阿武隈川の名の由来も述べて巻を終えている。その原文は「…われは身をやつしつゝ、旅人なんどのやうにてともなひ申させ給(ひ)けり。それより妻離(つまさか)川をあふくま川とは申せり」とある。しかし「身をやつし」とは有成少将のことであるが、なぜ身をやつす必要があったのか、その理由は記されない。
また有宇中将は上巻の中で三たびほど人に宛てて文を書いているが、上の梗概では略したがこれはすべて和歌である。そして二荒山で最期を迎える時にも辞世の和歌を詠んで事切れる。下巻の内容が小野猿丸が活躍する神仏の縁起譚という趣が強いのに対して、上巻の内容はどちらかといえば『伊勢物語』や『源氏物語』以来の、王朝物語の流れを汲む貴種流離譚と見られなくも無い。その本文にはなにか憶測をめぐらしたくなるような所がいろいろとあるが、この縁起自体は日光山における山岳信仰を象徴するもののひとつであることは間違いないといえよう。なお本文に「是を後素にあらはす」とあり「後素」とは絵画のことを指すので、当初この縁起は絵巻物か垂迹曼荼羅に類する絵を説く際の詞章として作られたと見られる。
「猿丸」の伝説
『日光山縁起』に登場する「小野猿丸」と同一人とされる猿丸大夫。「三十六歌仙額」(狩野探幽筆)より。
下巻に登場する小野猿丸という人物の由来は古いらしく、南北朝時代に成立した『神道集』の「日光権現事」には、「往昔ニ赤城ノ大明神ト諍(アラソヒ)ツ、唵佐羅麼ヲ語(カタラヒ)…」とあり、この「唵佐羅麼」を「オンサラマ」と読みこれが小野猿丸のことだという。文明16年(1484年)の年紀がある『宇都宮大明神代々奇瑞之事』にはその名を「温左郎麿」(おんのさろうまろ)とするので、「唵佐羅麼」の「麼」とは「麿」の誤写の可能性もあるが、いずれにしても小野猿丸という名前そのままではないようである。ちなみに宇都宮二荒山神社は祭神を太郎大明神とするが、祭神はこの小野猿丸であるという伝承があったことを林羅山著の『二荒山神伝』他は記している。
南会津地方では弓の名手である猿丸は、日光権現を助けた猟師の始祖であり守り神であるという信仰があり、その地方の猟師は猿丸の子孫と称し、これを祀ることがあったという。また鎌倉時代後期の成立といわれる『続古事談』の巻第四には、「宇都宮は権現の別宮也。狩人、鹿の頭を供祭物にすとぞ」という記事がある。宇都宮とは宇都宮二荒山神社のことで、この社に狩人が獲物の鹿の首を祭の供え物として奉納していたということである。『日光山縁起』も含めこれらからは、狩人すなわち猟師たちには宇都宮はもとより日光山に対する信仰が古くからあり、そして日光山をめぐる伝説の中に自分たち猟師の代表として、「小野猿丸」(もとからこの名だったという保証はないが)という人物を形成していったと見るのは容易である。
この猿丸は『日光山縁起』の本文でも見られるように、民間伝承では三十六歌仙の猿丸大夫と結び付けられる。猿丸大夫は『古今和歌集』の真名序(漢文の序)にその名が出てくるほかは一切が不明の人物である。しかし小野猿丸というのが当初からの名ではなく、古くは「唵佐羅麼」(或いは「唵佐羅麿」)ともまた「温左郎麿」とも称したのであれば、同じ「猿」つながりでの後付けによる付会の可能性が高いといえる。なんにせよ小野猿丸は伝説上の人物であり、その実在を確認することはできない。
高橋氏文 たかはしうじぶみ
琉球神道記(りゅうきゅうしんとうき)は琉球王国に渡った日本の僧の袋中良定が著した書物である。神道記と題しているが、むしろ本地垂迹を基とした仏教的性格が強い書物となっている。また、薩摩藩が侵攻する以前の琉球の風俗などを伝える貴重な史料でもある。袋中による自筆稿本は京都府の袋中庵が所蔵し、国の重要文化財に指定されている。本書は後述のような構成を持って書かれているが、『古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』[1]ではこの構成について、仏教をインド・中国から説明し、さらに琉球伽藍の本尊仏を説明、最終巻で琉球の神祇に顕れた本地垂迹を説明することにより、琉球の神祇が真言密教と深く関係していると説くことを意図し、書かれたものだと述べている。以上の様な内容のため、神道記とは題しながらも、琉球の神祇について書かれているのは最終の巻第5のみとなっている。 本書は大きく2種類に分類することができる。第1は袋中良定の自筆した京都五条の袋中庵に所蔵されている稿本、第2はその後作られた版本である。『書物捜索 上』[2]によれば、稿本と版本では以下の点が異なっている。
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稿本と版本では序文に記述された本書の執筆動機が異なる。(詳細は後述する成立を参照)
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本文中に少々の相違があり、稿本では巻第5に「鹿嶋明神事」、「諏訪明神事」、「住吉明神事」の3条が無い。
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稿本の奥書には、版本に無い部分がある。
また、『古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』[1]では、本書に袋中良定の直接見聞したと思われる記事が散見されることから、本書の記事が袋中良定の聞書的な性格を持つものだと考察している。このため、後の時代の書物と本書の記事を比較することで琉球における風俗の変遷を知ることができる貴重な史料となっているとし、その例として『琉球国由来記 巻2』の「石奉行」の条と本書巻第5の「公廨(きがい)の袖結の事、又、鉢巻の事」の条にある「袖結」を挙げ[3]、更にこの他にも興味深い記事は多いと述べている。
東恩納寛惇が著した「中山世鑑・中山世譜及び球陽」[4]では、『中山世鑑』の「琉球開闢事」にある「天より下った男女が子をなしたのが国の始まり」と言う記述が、本書巻第5にある「キンマモン事」の記述より取ったことは疑いが無く、本書が『中山世鑑』編纂の際の資料とされたと述べている。
『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』[5]においても「天久山大権現縁起」や「普天満山三所大権現縁起」に「見神道記」の記述があるなど、同巻の数箇所で本書を参照したことが示唆されており、密門諸寺縁起の編纂にあたっては参考文献とされていた。
序文によれば本書は万暦33年(1605年、和暦では慶長10年)の完成である。慶安元年(1648年)には版本の初版が開板された。著者である袋中良定は浄土宗の僧侶で、その伝記である『袋中上人絵詞伝』によれば、明への渡航を望んで琉球まで来たが琉球より先への乗船を許す船が見つからず、3年間この地に留まったあと日本へ帰国したのだと言う。また『中山世譜 巻7』には「万暦31年(1603年、和暦では慶長8年)扶桑の人である僧袋中、国に留ること3年、神道記一部を著して還る。」とあり、袋中良定が琉球に滞在していた3年の間に本書が著されたことが分かり、序文の記述を裏付けている。
しかし、稿本の奥書のみに見える部分には「この1冊、草案あり。南蛮より平戸に帰朝、中国に至る、石州湯津薬師堂において之を初め、上洛の途中、しかして船中これを書く、山崎大念寺において之を終える。集者、袋中良定 慶長13年12月初6 云爾」とあり、序文とは成立年が相違している。
このため、昭和53年(1978年)に出版された『書物捜索 上』[2]では序文が万暦33年(1605年、慶長10年)、奥書が慶長13年(1608年)となっていることから本書の製作年代は簡単には決定できないと述べた上で、序文が明の元号である万暦となっているのは、袋中良定が琉球に滞在していた時に書かれたからであろうと推測している。
また、稿本と版本では序文に記述された本書の執筆動機が大きく異なっている。
稿本の序文には「帰国の不忘に備える」とあり、本書が備忘録的な意味で書かれたことを窺わせるが、版本の序文では国士黄冠位階三位の馬幸明に「琉球国は神国であるのに未だその伝記がない。是非ともこれを書いて欲しい。」と懇願され、本書を作成したと記している。袋中が入滅した西方寺の『飯岡西方寺開山記』にも、馬幸明に懇願された袋中が、旅行中の身であることを理由にこれを断ったが、頻りに懇願されたので本書5巻と『琉球往来』1巻を著したと記されている。
この馬幸明と言う人物は琉球王国の士族と考えられているが、中山王府では王族・貴族・上級士族の家譜が整備されていたにもかかわらず、『古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』[1]によれば馬幸明に関する家譜資料が確認されていないため、何者なのか不詳なのだと言う。しかし、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では、慶長8年の年紀がある『琉球往来』の奥書に「那覇港馬幸氏高明」とあること、また『飯岡西方寺開山記』には「是以国士黄冠〈彼国第三位〉馬幸明ト云モノ」とあることから、馬幸明は那覇港に勤務していた士族で、しかも黄冠の中では最上位となる位階三位であることから、中山王府の高官ではないかと推測している[6]。さらに袋中自筆の『寤寐集』(ごびしゅう)には、馬幸明に孫が生まれたが、この子は泣き声を発さず乳を飲むばかりで、やがて死んでしまいそうな様子であったことから、馬幸明は必死に袋中を頼ってきた。そこで、ある夜、袋中はこの子の元へ行き、文を書いて御守りとして渡すと翌朝この子は泣き出し、馬幸明は大いに喜んだと言う話があり、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では馬幸明が実在する人物で、袋中とかなり親しい間柄であったと考察している[6]。昭和後期では判然としなかった本書の成立年代と執筆動機であったが、『書物捜索』から約30年後の平成23年(2011年)に出版された『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では「従来説」と言う表現で、現在は以下の説が定説と考えられていることを述べている[7]。
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馬幸明に本書作成を懇願された袋中が、万暦33年(1605年)に本書の草案を完成し、この草案を基に清書した正本1冊を馬幸明に渡した。その後、琉球から平戸に帰国した袋中は、持ち帰った草案を基に石見国湯津の薬師堂において推敲を初め、京都に向かう途中の船中でも執筆を続けた。京都山崎の大念寺において推敲を終えて正本を清書したのが慶長13年(1608年)。この清書された正本が、現在、京都五条の袋中庵に所蔵されている自筆稿本である。
『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では、馬幸明は実在の人物であるから上記説の通り馬幸明に渡した正本を想定しても良いのではないかと述べ、さらに、稿本では書かなかった本来の動機を出版にあたって書き加えたとしても不思議では無いと考察している。しかし、稿本には「帰国の不忘に備える」としかないことから、馬幸明依頼説を疑問として唱えられている以下の説があることも紹介している[7]。
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袋中が備忘のため万暦33年(1605年)に本書の草案を完成し、琉球から平戸に帰国した後、持ち帰った草案を基に石見国湯津の薬師堂において推敲を初め、京都に向かう途中の船中でも執筆を続けた。京都山崎の大念寺において推敲を終えて正本を清書したのが慶長13年(1608年)。この清書されたものが、現在、京都五条の袋中庵に所蔵されているもので、唯一作成された正本である。
『古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』[1]では馬幸明依頼説を前提とした上で、本書にその時代にはいない人物が登場している箇所があったり、正史に比べて記述が簡略で史料が参考にされた形跡が見られない箇所があること、本書の内容からしても王府が袋中良定に公的に依頼したような書物と考え難いことから、馬幸明からの要請が王府からの正式な依頼では無く、個人的な依頼に近いものであったろうと考察している。
琉球神道記は以下の構成となっている。序文によれば巻第1は三界、巻第2は竺土、巻第3は震旦、巻第4は琉球の諸伽藍本尊、巻第5は琉球の神祇について記述している。
巻次 内容
巻第1並に序 三界事
巻第2 過去七仏事、釈迦八相事、釈迦如来昔縁事、仏生国事、転輪聖王事、仏国殊勝事
巻第3 磐石王事、歴代王位事、三皇事、五帝事、十四代事
巻第4 奉安置釈迦牟尼仏道場、奉安置文殊師利菩薩道場、普賢菩薩事、多聞天王道場、観世音菩薩道場、千手観音道場、 勢至菩薩、阿弥陀如来道場、薬師瑠璃光如来道場、大聖不動明王道場、地蔵菩薩道場、虚空蔵菩薩道場、弥勒菩薩道場、阿閦仏、大日如来
巻第5波上権現事、洋ノ権現事、尸棄那権現事、普天間権現事、末吉権現事、天久権現事、八幡大菩薩事、天満大政威徳大自在天神事、天照大神事、天妃事、天巽、道祖神事、火神事、権者実者事、疫神事、神楽事、鳥居事、駒犬事、鹿嶋明神事、諏訪明神事、住吉明神事、キンマモン事
高橋氏文 たかはしうじぶみ
本朝神社考(ほんちょうじんじゃこう)は、林羅山の著。中世以来、仏教者のために王道が衰え、神道が廃れたのに憤り筆をとった。神仏混淆を斥け、国家を上古の淳直の世に立ち返らせようとこいねがい、口碑縁起を訪ね歩き、これを『古事記』、『日本書紀』、『延喜式』、『風土記』その他に証し、日本のおもな神社の伝記その他をしるしたものである。
高橋氏文 たかはしうじぶみ
三宅記(みやけき)は、伊豆地方の神々の縁起。寺社の起こりや由緒を記した寺社縁起の1つで、旧伊豆国地方、現在の静岡県伊豆半島・東京都伊豆諸島地域の神々に関して記述されている。書名「三宅記」は通称の1つで、現在残る写本はその他にも「三嶋大明神縁起」「嶋々御縁起」「白浜大明神縁起」など様々な通称を持つ[1]。本書は本地垂迹説に基づき寺社の縁起を説く、いわゆる本地物の1つで[2]、原本は鎌倉時代末期に完成したと見られている[3]。内容は主神「三嶋大明神」の出自に始まり、伊豆諸島の造島、そして三宅島を中心とした開拓の伝承が記される。国史記載の伝説との相関も見られ、伊豆諸神の考証にあたって重要視される史料である[2]。文中では、後半から壬生御館実秀(みぶのみたちさねひで)に始まる壬生家の人物が記されている。壬生家は、三宅島の信仰の中心である御笏神社・富賀神社・薬師堂の二社一堂。
『三宅記』の記述は、3つの物語から構成される[11]。あらすじは次の通り[12]。まず第1部では、天竺に生まれた王子(三嶋神)は、継母の懸想による父の怒りを買って流浪し、支那、高麗と渡り、孝安天皇(第8代)元年に日本に到来する。そして富士山頂でまみえた神明に安住の地を請うと、富士山南部の地を与えられた。この地では狭かったので「島焼き」(造島)を行うこととしたが、その前に一度天竺に帰国する。再び渡来した際、丹波で出会った翁媼との会話の中で、自身の名が「三嶋大明神」であること、正体が薬師如来であることを知る。翁(天児屋根命)からは「タミの実」をもらい、翁媼の子の若宮・剣宮・見目を連れて伊豆に向かう。そして孝安天皇21年、多くの龍神・雷神達とともに「島焼き」を行ない、7日7夜で10島を生み出した。その島々には自身の后を配置し、各后は王子達を産んだ。第2部では、三嶋神は箱根の湖辺に住む老翁媼の女3人を大蛇(龍神)から救い、3人を后として三宅島に迎える。3人の后もまた多くの王子を産んだ。最後に第3部では、三嶋神は富士山において、東遊・駿河舞の芸を習得した壬生御館(みぶのみたち)という人物に出会う。御館は神々が造った島々を見ようと三宅島に渡来、三嶋神の命に応じて築地を築いた。推古天皇2年(594年)正月、垂迹の時を迎えた三嶋神は御館に奉斎を命じ、500年後に守護神となることを宣言、石笏を託して垂迹する。御館は息子の実正(実政)に東遊・駿河舞の技を、三嶋神は実成に亀卜の技を教えた。そして御館は本国へ帰り、三嶋神は白浜に飛び立ったが、その後も御館の子孫は三宅島において三嶋神を奉斎し続けたという。
七島文庫蔵本(壬生家旧蔵本、壬生本、三宅島本)
三宅島(東京都三宅村)の神官・壬生家に伝えられた写本[4]。現在は三宅島七島文庫所蔵[4]。内題は「三嶋大明神縁起」[6]。御笏神社内陣に納められた内陣本と見られている[6]。壬生家は、最初の三嶋神奉斎者とされる壬生御館実秀の末裔という[4]。
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翻刻:「三嶋大明神縁起」『国学院大学紀要 第16巻』、1978年、98-125頁。
前田家蔵本(新島本)
新島(東京都新島村)に伝えられる写本[7]。写本は3冊あり、1冊は無題、2冊は通称「島々御縁起」[8]。無題のものは文明13年(1481年)の奥書を持つ[3](写本の中でも古い部類[7])。
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翻刻:「(無題)」『国学院大学紀要 第16巻』、1978年、98-125頁。
伊古奈比咩命神社蔵本(白浜本)
静岡県下田市白浜の伊古奈比咩命神社に伝わる写本。奥書から、享保年間(1716年-1735年)後半から元文年間(1736年-1740年)初めの成立と推定されている[9]。文書は漢字片仮名混じりで、朱筆の注が付記されている[9]。
この写本の底本は同社の旧別当寺・禅福寺に伝来していたが(禅福寺本)、その後失われ、現在は寛政3年(1791年)作の外函のみを残している[3]。主な翻刻は次の通り。
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翻刻:「白濱大明神縁起」『道守』伊古奈比咩命神社社務所、1918年、付録1-付録31頁。
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『道守』(国立国会図書館デジタルコレクション)174-189コマ参照。
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翻刻:「白濱大明神縁起」『伊古奈比咩命神社』伊古奈比咩命神社、1943年、70-95頁。
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『伊古奈比咩命神社』(国立国会図書館デジタルコレクション)153-165コマ参照。
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翻刻:「三宅記(白浜本)」『下田市史 資料編 1 -考古・古代・中世-』下田市教育委員会編、下田市教育委員会、2010年、471-498頁。 - 要約を併記。
内閣文庫蔵本(太政官文庫旧蔵本)
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翻刻:「三宅記(一名 伊古奈比咩命社記)」『神道大系 神社編 16 -駿河・伊豆・甲斐・相模国-』神道大系編纂会編、神道大系編纂会、1980年、220-240頁。
無窮会神習文庫蔵本(井上頼圀旧蔵本)
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翻刻:「異本三宅記(三嶋白濱嶋々大明神御縁起)」『神道大系 神社編 16 -駿河・伊豆・甲斐・相模国-』神道大系編纂会編、神道大系編纂会、1980年、240-255頁。
その他の写本
上記以外の写本として、内閣文庫蔵本(和学講談所旧蔵本)、来宮神社蔵本、原家蔵本(2冊)、浅沼家蔵本、三嶋大社蔵本のほか、10本以上が存在する[10]。
現代語訳
『三宅記』の現代語訳を著した書籍。
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『下田市の民話と伝説 第1集』下田市教育委員会編、下田市教育委員会。 - 『三宅記』前半部を紹介。
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伝説「伊豆の国焼きと島焼き」(下田市教育委員会)参照。
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唯一神道名法要集 ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう
卜部兼延の著作とされるが、祖先に仮託した吉田兼倶の偽作であろうとされる。唯一神道に関する事項を問答形式で記述する。唯一神道の経典の第一とされる。
吉田家日次記 よしだけひなみき
室町時代の神祇官人・吉田神社祠官である吉田家当主の手に成る日記の総称。すなわち、吉田兼煕の『兼煕卿記(かねひろきょうき)』、兼敦の『兼敦朝臣記(かねあつあそんき)』、兼致の『兼致朝臣記(かねむねあそんき)』、兼右の『兼右卿記(かねみぎきょうき)』の4日記を指し、狭義には、前二者のみの写本を指す場合もある。現存する吉田家当主の日記はこれらに限らないが、特に天理図書館に所蔵される室町期の日記を指して呼称する。なお、『兼敦朝臣記』は兼敦が神祇大副に治部卿を兼ねたので治大記、『兼致朝臣記』は兼致が同じく左近衛将監を兼ねたので将大記とも称した。伝存する記録年次は、数日分の断簡・抜書も含まれており、まとまって参照できる範囲は限られる。内容については、神祇作法・神事及び朝儀に関する記事を主とするが、兼煕・兼敦の日記は将軍足利義満の全盛期における公武関係に詳細で、兼致の日記は父・兼倶の確立した吉田神道の隆盛期における大元宮再興などの史料を残し、兼右の日記は吉田神道を教宣するために旅した伊賀・越前の様子を伝えるなど、代々の吉田家が当時の権力者に接近し、自家の神道説を伸張・発展させていく様相がよく示されている。この他、世相や風聞、洛中の諸事件に関する社会記事が多い。自筆原本は全て巻子装で、その大部分に当たる48軸(兼煕4軸・兼敦28軸・兼致7軸・兼右9軸)が天理図書館吉田文庫に所蔵されている。写本としては、兼煕・兼敦の2日記を11冊本としたものが東京大学史料編纂所・静嘉堂文庫にある。全体の翻刻はなく、『兼敦朝臣記』の一部が『歴代残闕日記69』などに収められるのみである。かつては西田長男らの校訂で『史料纂集』(全4冊)に収録される予定があったが、八木書店が同集の出版事業を引き継いで以降、刊行計画は定かでない。
大日本国一宮記 だいにほんこくいちのみやき
『群書類従』第二輯「神祇部」巻第二十三に編纂されている日本国内の一宮一覧で、室町時代の成立とされる。諸国一宮の社名、祭神、鎮座地を記した史料は「一宮記」と呼ばれ同種の本が多数存在するが、『大日本国一宮記』はその内の一つである。『大日本国一宮記』自体にも写本が多数存在する。一宮の研究における重要な資料であり、現代においても巡拝や取材する一宮の選定基準とされることがある。[1]『大日本国一宮記』は、全国67社の名称、祭神と別称、鎮座地が記載され、最後に「右諸国一宮神社如此。秘中之神秘也」との言葉で閉められている。記載神社名や割註から分かるとおり本地垂迹説の影響が見える。また安房国、豊後国では異なる2つの神社を同一社のごとく記載していることから[2]、現地を調査して編纂されたものでは無いことが推測される。鹿児島神社の割註に「兼右云。」とあることから、吉田兼右の在世である16世紀頃に成立したであろうこと[3]、吉田家あるいは吉田家に近い人物が編纂に係わっていることが推測できる。写本が多数存在するが、写本同士で内容が若干異なる場合がある[4]。また、『大倭国一宮記』、『日本国一宮記』と題する諸本は内容がほぼ同じで、『大日本国一宮記』の類本と考えられる[3]。『「一宮記」の諸系統』[3]では、応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)2月24日以前に成立した卜部宿禰奥書[5]『諸国一宮神名帳』と『大日本国一宮記』[6]を比較している。両書を比較した場合、成立が後となる『大日本国一宮記』が記載を改めたとすると、同一社の神名を書き換えている神社19社の内14社が『延喜式神名帳』の記載神名に基づいて訂正されており、また卜部宿禰奥書『諸国一宮神名帳』では陸奥国一宮と豊後国一宮に式外社が記載されていたものが『大日本国一宮記』では式内社へ変更されている[7]。この事実等から『「一宮記」の諸系統』[3]では、選者は『延喜式神名帳』の式内社であることを強く意識して編纂に当たったのではないかと考察している。しかしながら、この改訂が一宮はどこかと言う事実を追求した成果なのか、あるいは政治的意図があったのかは別の検証が必要であるとも同書では述べている。近世に『一宮記』が参照された際は、『大日本国一宮記』が用いられることが多かった[8]。江戸時代初期の神道者である橘三喜が延宝3年(1675年)から元禄10年(1697年)までの足掛け23年に亘って全国の一宮を巡った際は[9]、『大日本国一宮記』の類本である『吉田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡った[3]。また伴信友が天保8年(1837年)に著した『神社思考』[10]では、世の一宮記に書かれている神々は全て『延喜式神名帳』に載っていると記しており、伴信友も『大日本国一宮記』系統の本を参照していたと思われる。『大日本国一宮記』には以下の67社が記載されている。記載順や社名、鎮座地は群書類従版に同じ。