大正史料
乘具
❁卧铺列车初次登场
日本卧铺车始于1900年4月8日。 当时火车的速度很慢,长途火车难免要在夜间运行。 在这种情况下,山阳铁路在大阪和三田尻(如今的防府)之间设置了一等卧铺车。车厢是公司自家工厂生产的,有一个餐车,卧铺是开放式的,上下铺设置在过道两侧, 载客量为16人。 除了头等舱票价外,还收取2円的铺位使用费。 卧铺服务是在大阪和广岛之间。 开通理由据说是为了与濑户内线进行竞争而改善的服务。 同年10月1日,官铁开始在新桥至神户的特快列车上接驳一等卧铺车。 这是一列有5个四人包房、可容纳20名乘客的车厢。 与山阳铁路一样,在票价之外还设置了卧铺车票价,白天票价为2円,昼夜票价为4円,仅夜间票价为3円。 1902年7月,官铁开始为卧铺车厢提供电风扇。
❁ 伽婢子
❁ 狗張子
❁ 稲生物怪禄
❁ 異魔話武可誌
❁ 画図百鬼夜行
❁ 絵本百物語
❁全盛时期的山阳铁道
21年の開業当初から本州発の列車トイレを設置し、早々に全車両(貨車は貫通管のみ)に真空ブレーキの装備をし、30年からの列車電灯採用、33年には日本初の蒸気暖房と、次々と新機軸を取り入れてきた山陽鉄道は、運用面でも27年から急行列車を設定しました。28年には官鉄の京都まで乗り入れを果たし、32年三田尻(現防府)まで開通の時点で、後の特急に相当する「最急行」が設定され、同じ32年には日本初で国産の食堂車を採用し、翌33年に最初の寝台車を投入しました。官鉄に比べてはるかに安い料金の簡易式の二等寝台や、座席料金のままで利用できる三等寝台(と称する)、それに座敷のある客車も出てきました、もちろんこれらも日本最初です。明治34年に馬関(現下関)まで全通して当初の目的を果たし、充実した日々が始まりました。初回は、これらの車両たちを紹介しようと思います。32年、最初の食堂車、一等室と合造です。国有後の形式ホイシ9180
食堂は、当初は定員10人の大テーブルだったものを13人の個別席に改造しています。一等室=ロングシートで、3人おきにひじ掛けがある。上は製造当初の大テーブルの食堂、下は別の形式ですが、一等室は同様と思います。
❁二等卧铺登场
1903年5月1日,山阳铁道开始将自厂建造的二等卧铺车接驳到一辆大阪至下关、两辆大阪至京都的列车上。 卧铺车厢为13排2段式构造,中间有开放过道,可容纳52名乘客。上铺票价是20钱,下铺票价是40钱。 1906年3月16日,山阳铁路被官铁收购。两年后,官铁通过帝国铁路局成立了铁道院。 1910年9月21日,铁道院开始在新桥至神户的特快上使用二等卧铺车,可容纳28名乘客。 原本山阳铁道的二等卧铺车改名为二等轻卧车。 此后,二等卧铺普及到全国各地,原本有 "一人床 "和 "二人床 "两种,但在1918年11月16日改名"並型 "和"大型",改为一人使用
❁特別急行「富士」登场
1912年6月15日,新桥至下关之间开通了 "特快",仅有一、二等舱乘客。 该列车是连接下关和釜山的国际列车的一部分。 列车由7节车厢组成:邮件行李车、二等车厢、二等卧铺车、餐车、一等卧铺车、一等观察车。 所有的车厢都是为这列火车新造的。 上午8:30从新桥发车,9:38到达下关,晚上7:10从下关发车,8:25到达新桥。 1915年2月1日,随着东京站的开通,东京站的时间改为上午8:00,下关站改为9:38,东京站改为19:10,下关站改为21:05。 随后的线路变化和机车性能的改善改善了行车时间。 1929年9月15日,从公众中选出的 "富士号 "名称,被命名为东京至下关的1、2等 "特快号"。 1923年开通的东京至下关的第3等 "特快 "也被冠以 "樱花 "之名。
明治45(1912)年6月15日新橋 - 下関間に1、2等のみの「特別急行」が登場する。この列車は下関 - 釜山間の連絡船と接続する国際列車の一翼を担う列車であった。列車は郵便手荷物車、2等車、2等車、2等寝台車、食堂車、1等寝台車、1等展望車の7両編成であった。車両は全てこの列車の為に新造されたものだった。時間は新橋発8時30分下関着翌日9時38分、下関発19時10分新橋着翌日20時25分であった。大正4(1915)年2月1日に東京駅開業に伴う時刻修正され東京発8時下関着翌日9時38分、下関発19時10分発東京着21時05分となった。その後のルート変更、機関車の性能向上などにより所要時間は向上される。昭和4(1929)年9月15日東京 - 下関間の1,2等「特別急行」に公募により選ばれた「富士」の名称が与えられる。また、大正12(1923)年から登場の東京 - 下関間3等「特別急行」にも「櫻」の名称が与えられている。
3等寝台車の登場
昭和6(1931)年2月1日から東京 - 神戸間の列車に3等寝台が初めて登場する。車両はスハネ30100型(後のスハネ31型)。車内は3段式で上段80銭、中段と下段は1円50銭と1・2等に比べ格安で利用できた。大正9年料金改定時寝台料金は1等上段5円、1等下段7円、2等並型上段3円、下段4円50銭、2等大型6円50銭であった。当時東京 - 下関を結んでいた「櫻」にも同年6月25日から3等寝台車が連結されのちに各地の普及していくこととなる。
シャワーバスの試行
昭和10(1935)年7月15日「富士」の寝台車にシャワーバスが設置され使用料30銭で利用が開始された。しかし、その年の秋には休止となり昭和13(1938)年5月19日には廃止されている。
寝台車の消滅
太平洋戦争などの戦局が激しくなると国民の行動も制約を受けてくることになる。まずは、昭和16(1941)年7月16日には3等寝台車の連結を取りやめている。そのような中、昭和17(1942)年に関門トンネルが開通すると11月15日改正から「富士」は長崎へ延伸している。但し、「櫻」は廃止されている。「富士」は昭和18(1943)年10月1日より博多止まりとなり、そして、戦局が悪化した昭和19(1944)年4月1日改正では第一種急行「富士」の廃止に合わせて寝台車の連結が全て取りやめられる。戦時中、寝台車は座席車などへ改造されたものもある。
寝台車の復活
昭和23年(1948年)年末東京 - 大阪間の列車に12月15日東京 - 鹿児島間の列車と常磐線経由上野 - 青森間の列車と函館 - 旭川の列車に特別寝台車(翌年5月1日からは1等寝台)の連結が開始され、一般に寝台車が復活した。昭和24年9月15日常磐線経由の上野 - 青森間の一等寝台車が連結され、この車両のみは青函連絡船で航送され札幌まで結ぶことも行われている。この後徐々に寝台車が復活していくこととなる。昭和25年までには2等寝台車も復活している。
戦後新製・復旧した主な車両
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マイネ40 昭和23年に新製された二人用特別室3室とプルマン式寝台定員16人の1等寝台。
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マイネ41 昭和25年に新製されたプルマン式寝台のみ定員24人の一等寝台。
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マロネ29 戦前製2等寝台。ツーリストタイプでロングシートのように下段を配置。14区画定員28人であった。
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マロネ38 戦前製2等寝台。4人用区分室2室とツーリストタイプ16人の2等寝台。
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マロネ39 昭和25年に戦前車両を寝台車に復旧する際に4人用区分室8室とした2等寝台。
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スロネ30 昭和26年からマロネ39を元に新製した4人用区分室8室とした2等寝台。
なお、個室はばら売りであった。
一等寝台の廃止と3等寝台の復活。
昭和30(1955)年7月1日寝台車について割高であった一等が廃止されている。1等廃止に伴い1等特別室を2等A室に1等一般寝台を2等B室に既存の2等を2等C室と改称した。3等はそのまま残された。昭和31(1956)年3月20日より東京 - 大阪間の急行「銀河」「明星」などに3等寝台が復活した。車両は新たに新造されたナハネ10型であり、1両当たりの定員は60名で各室毎にカーテンなどが設置された。料金は上段720円、中段840円、下段960円であった。
あさかぜの登場と寝台列車
昭和31(1956)年11月19日東京 - 博多間に特急「あさかぜ」が登場しました。当時は東京と大阪を結ぶ「つばめ」と「はと」、京都と博多を結ぶ「かもめ」が存在し、定期列車としては「あさかぜ」は戦後4番目の特急列車であり、戦後初の夜行特急列車でした。急行列車では東京を午前中にでて、山陽区間で夜行になり朝に九州に入るパターンと東京を夜に出発して東海道線区間で夜行となり、山陽区間を昼行で通り過ぎ九州で再び夜行運転し朝に目的地に着くパターンが主流でした。後者で乗り通すにには車内で2晩過ごす必要があります。また、当時は東京駅から普通列車が九州の入口まで運行されていました。そのような状況下において、東京 - 山陽・九州間の輸送に徹する為に京阪神を夜間に発着させた上に、速達化した今までにない運行形態は画期的な運転でした。時間は東京発18時30分博多着11時55分、博多発16時35分東京着10時00分となっていました。
昭和32(1957)年10月1日改正では初めて寝台専用列車が登場します。それが、 東京 - 大阪間を結ぶ「彗星」で全車指定で1両を除き全て寝台車での運転を行いました。1両だけ寝台車両でないのはその当時、寝台車両には客車列車の運行に欠かせない緩急車がなかったための措置です。これが、寝台専用急行の登場につながります。のちに寝台急行となるものです。
20系客車の登場
昭和33(1958)年10月1日東京 - 博多間に特急「あさかぜ」に20系客車が登場する。それまでの在来客車は1両単位の設計であり各車両が混結可能であったが、20系では集中電源方式により編成単位で設計し全車冷暖房完備、食堂車なども含めサービス電源を電源車により確保された。寝台車は2等A寝台ナロネ20型はルーメット式一人用個室10室と二人用個室4室、2等B寝台ナロネ21型は寝台幅94cmの開放二段寝台、3等寝台のナハネ20型は寝台幅52cmの3段寝台定員54名であった。あさかぜ投入当初は2等座席車のナロ20型、3等座席車のナハ20型とナハフ20型、食堂車のナシ20型、電源車のマニ20型の8形式が投入された。また「さくら」に投入する際には2等AB寝台のナロネ22型、ナハフ21型、カニ21型が投入される。「はやぶさ」投入時にはカニ22型が登場している。昭和39(1964)年には座席車両の寝台化が行われナハネフ20型、ナハネフ21型が登場している。また新製でナハネフ22型、ナハネフ23型も登場する。昭和38年には分割された車両の行き先が異なることにより必要となる電源車としてマヤ20が旧型車両の改造で登場する。車両は青に白のラインを3本入った固定編成はのちに「ブルートレイン」と呼ばれるようになる。20系の増備は昭和45(1970)年まで続く。新製車両523両、他編成からの編入6両の合計529両の車両が存在した。この車両の登場時には輸送力の増強が国鉄にとって緊急の課題であったことから輸送力に重点が置かれ3等車(現在のB寝台)は3段式の52cmというベッド幅と狭いものでした。寝台特急として活躍したのは昭和55(1980)年10月1日までであった。後継車両へと引き継がれると急行列車に転用され昭和51年2月20日の「銀河」を皮切りに急行列車へと進出していくこととなる。
等級が改訂
昭和35(1960)年6月1日に「こだま」「はと」が電車化された。これに伴い1等展望車が廃止され1等車が全て廃止された。一等展望車に変わりパーラーカーが登場しているが6月30日までは2等扱いで特別座席料金が必要であった。7月1日に等級制の変更が行われ、1等が廃止されそれまでの2等が1等に、3等が2等になった。2等寝台のA室、B室、C室もそれぞれ1等寝台A室、B室、C室となっている。
581系寝台電車の登場
電化区間の進展と共に効率的な車両運用を行い、車両基地スペースの不足を補う為に電車寝台が誕生する。昭和42(1967)年10月1日改正で新大阪 - 博多間に581系寝台電車を用いた「月光」が登場する。夜は寝台、昼は座席として使用され、昼間は新大阪 - 大分間の「みどり」として使用された。581系寝台電車は「月光」でデビューしたことから「月光型」と呼ばれた。寝台は2等(のちのB寝台)のみであった。581系は直流区間と交流60ヘルツ区間に対応していた。のちに583系が交流50ヘルツにも対応して登場している。昭和47年までに両形式合わせて474両が製造された。この電車の寝台幅は下段102cm、中段・上段は70cmもありゆとりある寝台幅となった。電車寝台登場の背景からもわかるとおり、この時点でも輸送力が国鉄にとって課題でした。この車両に関しては昼夜兼行にするために、寝台幅に余裕ができたことが特長となります。1968年に581系寝台電車は鉄道友の会によるブルーリボン賞を受賞しています。
等級制の廃止
昭和44(1969)年5月10日に等級制の廃止が行われ運賃のモノクラス化が行われる。1等がグリーン車、2等が普通車になりグリーン車にはグリーン料金が適用されることになる。寝台車では1等寝台がA寝台に2等寝台がB寝台となった。1等A室、B室は統合されA寝台となっている。
14系寝台車の登場
昭和44(1969)年電源分散方式の12系客車が登場しています。12系では基本的に6両編成の1両に電源装置を搭載することで電源をまかなうことが可能でした。20系では集中電源方式を採用したことから分割併合する列車では分割駅に電源車を準備して連結する必要があり非効率でした。また、月光型が投入されていたこともありゆたかさをもとめる時代へと変わっていました。乗客からもゆったりと寝れることが求められており、寝台幅は20系の52cmから70cmへと拡大した3段式寝台となりました。また、昼間時の居住性確保のためにB寝台では中段の格納を行っていたが、格納方法を自動昇降装置にて行え乗務員の労力削減なども計られています。スハネフ14型、スハフ14型が試行用に準備され、昭和46(1971)年10月1日に急行「瀬戸」で14系寝台車は試行されました。その後、昭和47(1972)年3月10日から「さくら」「みずほ」「あさかぜ」の各一往復を14系に置き換え運行を開始しています。投入にあたり、A寝台のオロネ14型、食堂車のオシ14型の各形式も加わります。14系は188両製造されました。1972年に14系寝台車は鉄道友の会によるブルーリボン賞を受賞しています。
24系寝台車の登場
昭和47年11月北陸本線北陸トンネル内で急行「きたぐに」に火災事故が発生しました。当初、食堂車の石炭コンロが出火原因とされたことこともあり同型の食堂車を利用していた客車急行列車の食堂車が編成から外され、食堂車の連結は行われなくなります。他の車両についても火災対策が行われることとなります。寝台設備が備わる寝台車では火災の発見が難しい為、発火しやすい燃料を客室から分離できる電源集中方式に戻すことになります。寝台や備品の難燃化、不燃化を進めた24系が登場します。車内設備は14系を継承しています。24系客車は昭和48(1973)年10月1日から「彗星」「あかつき」に導入されました。24系にはA寝台のオロネ24型、B寝台のオハネ24型、オハネフ24型、食堂車のオシ24型、電源車のマヤ24型の5形式が導入されています。マヤ24は新聞輸送などの対策のためカヤ24へと改称されました。24系は118両製造されています。
なお、14系および後述する15型と24系および後述する25型は車内設備が同等であり、大規模な改修を必要としなかったため形式を14系から24系へ、24系から14系へ必要に応じて改造して運用されてました。また、分割併合列車では24系編成と14系編成を連結して運行される措置が取られた時期もあります。
24系25型寝台車の登場
14系・24系からさらにゆとりを求めそれまで3段式であったB寝台が2段式へと変革し、画期的なサービスとなりました。2段化には新幹線博多開業を控えた乗客の減少や料金値上げによる乗客の減少など予測されていたことが大きく、これまでの輸送力確保よりも快適性に主眼を置かれて寝台設備を設けたものとなります。それまで戦前から伝統的にB寝台は3段式のベッドを用いられてきており24系25型が登場し2段式へと寝台空間が発展を遂げることになります。2段化は寝台時だけでなく昼間の居住スペースとしてかなり発展していました。導入時は上段を収納させる機構も導入し座席利用時の空間確保に努めています。24系に対し定員を少しでもカバーするために更衣室を廃止し、トイレの配置を見直して1列分寝台を増やしています。ただ、従来の3段式とは値段には差が付けられ値上げとされています。昭和49(1974)年4月25日から「あかつき」「彗星」に登場しています。登場時にはオハネ25型、オハネフ25型、カニ24型の3形式が登場しました。九州・山陰方面の列車として増備する際には100番台となり上段寝台の収納機構を省略し固定されることになります。新たな車両としてオロネ25型が増備されています。オロネ25は当時はただの個室と呼ばれていましたが、後のシングルデラックスとなります。B寝台が2段化されるとA寝台の2段化は見劣りすることは避けられません。そのため、20系で導入実績がある1人用個室を取り入れて、各部屋に洗面台を備えた個室が提供されました。固定編成では車両の向きを揃えて機器の省略が可能であるが、車掌室に関しては運用において向きを変えて運行したい場合があり、それらに対応できるオハネフ25型200番台も登場している。25型ではクリームの帯にステンレス板が使用され高級感を出している。電源車に関してはカニ24が引き続き増備されており、25型グループには存在しません。24系のマイナーチェンジバージョンであるものの、顧客サービスへの配慮が評価され1975年には鉄道友の会によるローレル賞を獲得しています。この25型のグループには試作車としての要素が強い夢空間もある。オロネ25型901番、オハ25型901番、オシ25型901番の夢空間が存在します。なお、このグループでは食堂車の増備は行われませんでした。既にあるオシ24のみで運用させるため、車両の連結位置を変更させ「はやぶさ」は東京と熊本、「富士」は東京と大分のみ連結させるなど、基本編成から付属編成へと連結位置を変更し使用車両を減少させる合理化を行っています。また、東京と九州を結ぶ列車と東京と浜田を結ぶ「出雲」(付属編成に切替により食堂車は東京と出雲市間連結となる)以外の列車に導入の際は食堂車の連結を取りやめています。これは、営業時間が短いこと、特急列車の増発や新幹線に食堂車が導入され、移動しながら接客するなっど特殊な職であり人員の確保が困難になりました。そのため、食堂車の連結が行われていた列車でも営業ができない状態となっており食堂車の営業を休止した列車があります。この車両の登場によりB寝台内での種別が増えて区別する必要があり、「★」マークを利用した「星の寝台特急」という広報活動が行われます。これは「★」は3段式客車寝台、「★★」は3段式電車寝台、「★★★」は2段客車寝台とされ、時刻表にもこの表記が利用されるようになります。その後、登場した個室のカルテットは「★★★★」となります。24系25型は415両新製されています。夢空間の3両を合わせると418両となります。
15型寝台車の登場
それまで24系が増備されてきましたが昭和53(1978)年10月2日「あかつき」に14系15型寝台が登場します。「あかつき」では分割併合列車が行われており電源分散方式が求められていました。14系15型では自動消化装置の装備の導入や難燃化構造をさらに強化して登場しています。車内は25型同様に2段式B寝台となります。寝台特急で使用される14系、24系も寝台設備サービス向上のため3段寝台を2段寝台への改造が行われています。14系15型はスハネフ15型、オハネ15型の2形式のみ増備され63両新製されています。
グレードアップ化
昭和59(1984)年7月1日に14系客車の改造によりB寝台4人用個室「カルテット」が登場し「さくら」「みずほ」に連結されます。B寝台の通路側に仕切を取り付け、下段ベッドはソファーにも転換できる機構を備えた個室でB寝台4人分の料金で個室が利用できました。ファミリー層の利用を想定したものですが、料金設定が大人4人利用の前提で行われていることから利用は芳しくなかったようです。昭和60(1985)年3月14日からくつろぎの空間「ロビーカー」が既存車両の改造により登場して「はやぶさ」に連結されました。のちに「富士」にも連結されています。今まで寝台車では食堂車以外には寝台設備で一昼夜過ごすことになりますが、東京と九州を結ぶ列車では長時間になるため、余剰となっていた食堂車と寝台車の車内にあった食堂設備や寝台設備を全て取り払い、ソファーや長椅子を配置して無料でくつろげるホテルのロビー・ラウンジのような空間を提供したものです。1両全てがロビーカーとなっため定員0名の車両を増結して、利用者へのサービス向上を行います。これには牽引機関車を貨物用に開発したEF66への切替も必要となっています。ロビーカー形態の車両は名称にバリエーションがあるものの他の列車でも導入されています。また、食堂車が営業を休止した後も連結を続けてフリースペースとしロビーカーと同様の役割を持ったものもあります。昭和62(1987)年4月14日には改造によりB寝台二人用個室「デュエット」やシャワー室を備えた車両とオリエント風食堂車が「あさかぜ」に連結されます。昭和63(1988)年3月に青函トンネルが開通し上野 - 札幌間に「北斗星」が登場します。こちらにも改造によって豪華A寝台個室「ロイヤル」、ゆうづるで試用されたA寝台二人用個室「ツインデラックス」、B寝台一人用個室「ソロ」、B寝台二人用個室「デュエット」が連結されました。一方、平成元(1989)年7月21日から大阪 - 札幌間には「トワイライトエクスプレス」が団体専用列車として運転を開始しています。「ロイヤル」の他にB寝台二人用個室のツイン、B寝台一人用個室で補助ベッドで二人利用が可能なシングルツイン、そしてツインベッドとソファーを個室内に備えた「スイート」を加えた豪華編成を誇り誕生しています。トワイライトエクウスプレスではB寝台の通路側を壁で仕切ることができますが、カルテットのような個室とせずBコンパートメントとして座席毎の販売形態とし4人で利用すれば個室形態になる方法を採用している。その後も各列車に改造により個室寝台の連結が行われています。個室車両は利用形態から1人用と2人用だけで、補助ベッドにより3人まで利用できる個室があるにとどまります。国鉄の分割民営化で各社間の方針が異なることから個室の作りも様々なものが登場している上に、改造時期が異なると方針が変わるため仕様が変わる状況となりました。B寝台においては初期に改造されたものは比較的快適に過ごせるものが多い傾向でしたが、その後は定員を確保するために狭い物が増えています。車両によって名称と料金が同じにもかかわらず寝台設備に差が生じる結果となりました。この時期には高速夜行バスの普及があり座席車の導入を試行して、独立3列シートを備えたレガートシート車が登場しています。既存列車において寝台設備の個室化は慎重であり、1編成に1両を個室車両に置き換える例がほどんどで試行面が強いものでした。このころはお盆や年末年始など繁忙期には列車の利用が見込めたものの、改造を伴う上に定員が減る個室車両の増加には慎重でした。
個室主体列車(285系とE26系)の登場
平成10(1998)年7月10日に個室を主体に構成された電車寝台サンライズエクスプレスこと285系が登場します。サンライズ出雲・サンライズ瀬戸のために新製されたこの車両は東京と四国、山陰地区を結ぶ列車として登場しています。寝台設備は全て個室となり、B寝台は「シングル」「シングルツイン」「サンライズツイン」、A寝台は「シングルデラックス」が提供されました。座席となる席が設けられ、それまでのレガートシートのような独立3列シートではなく、フルフラットシートの座席として「ノビノビ座席」が提供されました。座席であるために寝台料金が不要となり、リーズナブルな料金で利用できるものでした。様々な設備が提供され、ビジネス・観光に便利なようになっています。
平成11(1999)年7月16日より北斗星を発展させた「カシオペア」E26系が登場しました。こちらは全てA寝台二人用個室で構成され豪華さを売り物としました。個室は「カシオペアスイート」「カシオペアデラックス」「カシオペアツイン」の3種類の個室が揃えられています。また、ダイニングカーとラウンジカーが提供されています。サービスは行き届いておりダイニングカーが利用できなくてもデリバリーサービスなどが存在していました。
寝台列車の縮小
東海道新幹線開通後、鉄道は高速化が始まる。その中で寝台列車は取り残され続け縮小の道を歩むこととなる。20世紀前半は鉄道の役割は大きく列車の直通サービスの面からも寝台列車は有効に機能していましたが、新幹線の開通以降、鉄道は高速化の道が始まり、新幹線の延伸とともに寝台列車は縮小されていくこととなります。1969年に東海道新幹線が開業すると東京と大阪を結ぶ寝台列車を含む夜行列車はほとんど無くなります。新大阪を起点に山陽・九州を結ぶ列車になります。時間を求める客層は新幹線と新大阪等から乗り継ぎに流れることになります。東京発九州方面の列車には乗継割引がなく、客層の維持が見込まれたのかもしれません。ただ、今までは同じような速度で同じような距離を走行していた列車が昼夜走っていたものが、昼間帯は新幹線という非常に高速になったことと客車夜行列車は寝台列車に切り替えられており、夜行列車のほとんどが寝台列車でした。新幹線の存在により、寝台列車は所要時間のかかる遅い交通機関だという認識が世間に広がります。その中で高速化と直通サービス両面を機能させる有効な対策が見つからず、グレードアップ化はあるものの車両面、サービス面でも寝台列車は見劣りさせられてきました。特に寝台特急が在来線特急に抜かれる状況まで発展しています。また、寝台列車では寝台料金が昼行列車より上乗せされることによる利用者側からみると高い商品となり、高くて遅いイメージが定着し払拭しきれない状況となってきます。寝台特急のサービスは向上することなく廃止へと進もうとしています。その他にも理由としてはいろいろな要因がからみます。航空制度の改革が進み航空運賃が多様化して航空機が大衆化したこと、都道府県単位だけでなく、各地方にも地方空港が開港したこと、そして高速道路網が発達した後の1980年代に格安な長距離夜行高速バスが台頭したこともあります。ビジネスマンにおいては運賃と時間が命題であり、航空運賃が鉄道に比べ対費用高価で高値の存在でないこと。新幹線網ができてくると既に寝台列車で夜間に移動時間を節約する労力も求められていませんでした。高速バスでは価格がJRの運賃以下にまで低下しており、さらに夜行バスを中心に独立3列シートを導入してプライバシーにも気を使いメディア等にも登場し知名度が上がり女性層や年配にも受け入れられています。寝台列車では女性の方には販売することを敬遠するような窓口も存在していたようで、利用率の低下を助長させる販売体制となっていました。そのため、寝台列車の有効性は減少を余儀なくされてきました。1970年代、1980年代にかけて、国鉄の赤字に伴う運賃・料金の値上げ、特に寝台料金は大幅な値上げを繰り返しておりました。国鉄の運賃・料金の度重なる値上げや労使関係悪化に伴う順法闘争が繰り返されたことにより、国鉄離れが加速的に発生した時期が存在します。その時期には旅客の減少が著しく夜行列車にも影響を与えていました。このような状況になり、寝台列車は「高くて、遅い」のイメージが完全に定着してしまいました。寝台だから他の夜行移動手段に比べたら快適ですが、「高くて、遅い」のイメージが強い状況です。快適が価格と見合わない状況でした。そのため、個室寝台などが登場しているもののそのイメージを払拭できるだけの宣伝やメディアへの登場がなかったことから移動手段の選択肢にも登場しない存在となってしまいました。そして、国鉄の分割民営化により各社間を跨いで運行される寝台列車は各社の思惑が入り乱れ有効な対策が遅れ、合理化の名の下で魅力的なサービスを提供することを諦めてしまったと言わぞうろう得ない状況と思います。寝台列車が利用可能だった割引きっぷの廃止なども行われています。国鉄時代は国内で広域的に車両のやりくりをして、他方面転用するなどし車両を有効に使用した寝台列車サービスを提供してきましたが、JR化後には各社内で完結してしまうことが多くなり、JR各社間で車両の有効利用が見られなくなりました。サービス向上が期待できる車両達が有効に活用されず廃車されているのが現状であると言えると思います。
寝台列車縮小のもっとも大きなトピックスは平成6(1994)年12月3日ダイヤ改正でしょうか。東京 - 博多間を結んでいたあさかぜ1/4号、いわゆる博多あさかぜの廃止でしょう。昭和62(1987)年にデュエットの連結・食堂車の改装などグレードアップ改造を行い安泰かと思われた博多あさかぜでしたが、廃止により衝撃が走りました。東京 - 熊本・長崎を結んでいた「みずほ」も同時に廃止されました。そして、平成9(1997)年11月29日改正では東京 - 西鹿児島を結んでいた「はやぶさ」が東京 - 熊本に、東京 - 南宮崎を結んでいた「富士」が東京 - 大分にそれぞれ、区間を縮小しています。さらに平成11(1999)年12月4日改正では東京 - 佐世保を結んでいた「さくら」が廃止され、さくらは東京 - 長崎を結ぶ列車のみになり東京 - 鳥栖間は「はやぶさ」と併結となりました。平成12(2000)年3月11日改正では京都 - 佐世保を結んだ「あかつき」が廃止となりました。佐世保から寝台特急が消滅しました。あかつきは京都 - 門司間を「彗星」と併結し、京都 - 長崎を結ぶ列車のみとなりました。平成14(2002)年12月1日ダイヤ改正では東北初のブルートレインである「はくつる」が東北新幹線の延伸により廃止されました。平成16(2004)年3月13日改正では「なは」が新大阪 - 熊本間に縮小され鹿児島からブルートレインは消滅しました。そして平成17(2005)年3月1日ダイヤ改正では東京 - 下関を結ぶ「あさかぜ」、東京 - 長崎を結ぶ「さくら」が廃止された。歴史のある両列車ですが、名称が消滅します。同時に東京 - 熊本を結ぶ「はやぶさ」と東京 - 大分を結ぶ「富士」は東京 - 門司間を併結して運転となります。平成17(2005)年10月1日ダイヤ改正では京都と南宮崎を結んでいた寝台特急彗星号が廃止され、寝台特急あかつき号と寝台特急なは号が併結運転へと変化しました。平成18(2006)年3月18日ダイヤ改正では東京と出雲市を鳥取経由で結んでいた出雲号が廃止されました。地元とのいざこざもあり、鳥取からはいなば号による上郡でサンライズ出雲・瀬戸に接続する措置がとられるという珍しい現象もみられました。この改正では寝台特急日本海1/4号の運転区間大阪 - 函館から大阪 - 青森に短縮され、特急利尻号は夏季のみ運転、特急オホーツク9/10号が冬季のみ運転という季節列車へと変化しました。平成19(2007)年10月1日には、札幌と釧路を結ぶ特急まりも号が臨時列車へと変化しました。
寝台列車の絶滅への序章
2002年の高速バスの自由化により夜行高速バスが増えたこと。さらに格安を売り物にしたツアーバスが誕生し夜行高速バスの料金が格別に下がりました。そして格安なカプセルホテルなどが充実したこと、漫画喫茶やインターネットカフェなど格安で泊まれる空間が増えてきました。さらに2007年問題として騒がれた寝台列車を出張などで利用した世代が現役から引退したことなどにより利用する世代が減ったこと。JRはブルートレインと呼ばれる列車を中心に改善するということができなかったこと。特にJRの分割民営化して各社間をまたがる列車の方向性を示すことができなかったことも大きいと思います。在来線を走行する夜行列車では、所要時間は必然的に伸びて遅くなります。そして、現在は寝台列車が中心のため寝台料金が加わりJRの運賃制度では高くなります。東京と九州間の列車ではのぞみ料金が登場時は高かったため、寝台列車で東京と九州間に乗った方が安い時期もありました。ただ、のぞみ増発時にのぞみ料金が下げられたことから状況は逆転しました。お客に取っては、寝台料金が上乗せされ値段が高くて遅い、事業者にとっては特殊車両であり寝台設備のため定員が少なくその上で3段から2段にして定員を減らしており寝台列車の維持が難しくなっている状況に置かれていました。それでも、乗客が多ければ売り上げが見込めて維持も可能だった可能性はあります。ただ、インターネットで無料で乗換案内ができるようになると、直通列車を探すことがなくなります。乗換案内のサービス開始当初は寝台列車は検索条件の仕組みから検索に出なることがない状況でした。乗換案内サービスで条件指定が細かくできるようになるまでは寝台列車は完全に蚊帳の外でした。利用するために条件を入れないとならないほどの寝台列車は利用する側にとっても親しみがない状況になります。これらの乗換案内サービスの普及と無料化は企業や個人でも時刻表を置かないことになり、交通の選択肢が乗換案内サービスで決められることになります。そこに登場しない寝台列車は厳しさを増すことになります。その上、都心側では完全に「高くて、遅い」のイメージが定着しており、JR化以降では「寝台列車に乗る」と言うと鉄道好きな方と思われる存在だったと思います。この時期、青函トンネルを有効活用するには必須であった「北斗星」とその後継増備の「カシオペア」、そして「トワイライトエクスプレス」が食堂車と豪華個室も持つことを売りにして、ブランド化されており旅行商品に組み込まれたり関連商品も多数販売している状況にありました。ただ、北斗星は登場時のような勢いはない状況になっていました。他の寝台列車の置かれた環境下では、10年以上も寝台列車に対して設備は貧弱になっているにも関わらず、現状の設備を維持していました。例えばであるが料金を安しなる割引きっぷを出すことで宣伝になり、乗車率を上げて売り上げを伸ばすという努力などの施策を見受けられなかった。唯一が国鉄時代から続くフルムーン夫婦グリーンパスでB寝台とデュエットに乗車でき、これを利用して希に旅行会社が商品を企画して販売が見られるものでした。販売窓口においても寝台列車は少数になった上に、個室の種類が多岐にあり定員や補助ベッドなど制度が複雑で販売に手間取ることも多くなっていた。分社化の影響は大きくホームページによく現れており、JR東日本には他社線から乗り入れてくる車両の紹介がまったくありません。他社のホームページも似たような状況でした。割引きっぷに関してもこのころは首都圏発はほぼ東北方面に限られ、東京から西日本・九州方面は皆無に等しい状況でした。ただ、逆方向の地方から都心への割引きっぷは細々と存在していました。このような環境下で、寝台列車の置かれた環境は著しく変化しおり、利用率の低下を招いてしまいました。また、インターネット環境が整い新幹線を含む特急列車の予約はインターネットで可能になりましたが、一部を除き寝台列車の予約ができないという状況が生まれています。さらにはJRが旅行会社に販売しているシステムでも寝台列車の予約ができないという状況を生んでいます。それらが絶滅への序章として寝台列車5往復という大量廃止時代を迎えました。
時は平成20(2008)年3月15日ダイヤ改正では、戦後すぐに東京と大阪に運行を開始してのちに銀河と名が付いた寝台急行銀河号、関西と九州を初めて結んだ寝台特急である寝台特急あかつき号、沖縄の本土復帰の願って名付けられ昼行特急として活躍しのちに寝台特急として関西と鹿児島・後に関西と熊本を結んだ寝台特急なは号、廃止ではないが日本海沿いを大阪から青森まで結んだ寝台特急日本海号が2往復から1往復へ、名目上は青函トンネル工事のために上野と札幌を結ぶ寝台特急北斗星号が2往復から1往復に減便されました。
平成20(2008)年3月15日ダイヤ改正で残った寝台列車は10名称のみです。寝台車両を連結した急行列車を含めても12名称のみとなります。
今後も整備新幹線の開業を控え寝台列車サービスは激動の時代が予想されます。直通列車サービスという魅力ある商品をJRには有効に生かして頂き、各社間の思惑だけでなく利用者の立場にたった商品を展開して頂きたいと思います。そして、経営者が叫ぶようにV字回復を寝台列車にも果たせるような環境を整えて欲しいと願います。
九州ブルートレインの全廃
平成21(2009)年3月14日ダイヤ改正にて東京と九州を結ぶ寝台特急はやぶさ、寝台特急富士が廃止されます。この廃止により九州地区を結ぶブルートレイン、寝台列車は全廃となります。昭和31(1956)年11月19日東京 - 博多間に誕生した特急「あさかぜ」以来活躍を続け、昭和33(1958)年10月1日より20系の運転となり青い車体からブルートレインと呼ばれて走り続けてきました。全国にブルートレインが走り始めると九州方面へのブルートレインは九州ブルートレインと区別されました。東京から九州を結んだ寝台特急には「みずほ」「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」「富士」が、名古屋と九州を結んだ寝台特急には「金星」、関西と九州を結んだ寝台特急には「月光」「きりしま」「明星」「彗星」「なは」「あかつき」などがありました。特に関西と九州を結んだ「あかつき」は最大7往復、彗星は最大5往復など多数運転されていました。今回、廃止となる「はやぶさ」「富士」が九州とを結ぶ最後のブルートレインであり、由緒ある九州ブルートレインは終止符を迎えます。同時に九州地区から寝台列車が消滅します。
首都圏と北陸を結ぶ夜行列車の終焉
平成22(2010)年3月13日ダイヤ改正にて上野と金沢を結ぶ寝台特急北陸および急行能登が廃止されます。この廃止により首都圏と北陸を結ぶ定期夜行列車はなくなります。
九州内夜行列車の終焉
平成23(2011)年3月12日ダイヤ改正にて博多と南宮崎・宮崎空港を結ぶ特急ドリームにちりんが廃止されます。この廃止により九州内を走行する定期夜行列車もなくなります。また、この列車の廃止により日本における定期座席夜行列車がなくなることを意味します。
プルマン式A寝台の消滅と583系電車の定期運用終了
平成24(2012)年3月17日ダイヤ改正にて大阪と青森を結ぶ寝台特急日本海、大阪と新潟を結ぶ急行きたぐにが廃止されます。それに伴い、二段式のA寝台車両を連結した列車が消滅します。二段式のA寝台はプルマン式A寝台と呼ばれています。プルマンとはアメリカのプルマン社に由来するものです。プルマン社は19世紀の初頭に活躍した寝台車両保有会社です。プルマン社が主に所有していた寝台車両と同様の設備が現在残っているA寝台車両の設備にあたることからA寝台をプルマン式寝台と呼んでいました。寝台特急日本海ではオロネ24型車両が、急行きたぐにではサロネ581型車両が最後までプルマン式A寝台として運行されていました。客車であるオロネ24型は新製時からプルマン式A寝台で、電車であるサロネ581型は急行きたぐにへ583系導入時に改造によりプルマン式A寝台として誕生した形式になります。平成24(2012)年3月17日ダイヤ改正により、最後まで運用を続けていたオロネ24型とサロネ581型の定期運用がなくなりプルマン式A寝台の定期運用が廃止となります。1900年に日本で最初に導入された寝台設備もプルマン式寝台でした。寝台設備として日本で最も歴史のあるプルマン式A寝台は消滅することになります。臨時列車でも連結が見込まれないと思われるので、プルマン式A寝台に用いられていたA寝台上段およびA寝台下段という区分は実質的に消滅となります。A寝台に関する設備は個室タイプのみ残されることとなります。また、プルマン式のB寝台である電車3段式B寝台も急行きたぐにの定期運用廃止により、定期列車からは消滅します。
平成24(2012)年3月17日ダイヤ改正では急行きたぐにが廃止されることにより583系寝台電車を用いた定期列車の運用は終了となります。583系は昭和42(1967)年10月1日改正にて581系寝台電車を用いた「月光」として登場し、後継の583系を含めて、夜は寝台、昼は座席として使用されました。「月光」として使用を開始したことから月光型と呼ぶようだが、月光がなくなっていることから581系を含めて583系と呼ばれることの方が多く書籍などでも583系と表記されることが多い。主に新幹線と接続し山陽本線を経由し九州各地および東北本線で583系の設備を有効に活用されていた。しかし、B寝台では、客車列車が2段寝台の導入や改造が進められたのに対し、583系にはそれが及ばなかった。また、座席列車としてもリクライニングシートが特急列車の主力である中、寝台設備の関係上でボックスシートの設備のまま残されることとなった。リクライニングシートの機能が向上していくとボックスシートは見劣りがしていた。山陽新幹線の開業や博多延長開業、東北新幹線の開業により平行する在来線の特急が廃止され、夜は寝台、昼は座席として活躍できる環境も狭まっていった。そして、普通列車への転用改造など583系から形式が変わっていた車両が登場する。現在は転用改造された車両も含めて定期運用では急行きたぐにのみが583系寝台電車を使用した最後の定期列車となっていた。最後の定期運用となった急行きたぐにでは、夜行列車のみの設定であるが、座席と寝台の両方の設備を利用した他、グリーン車やA寝台など多様な座席種別を用意していた。今回の改正にて、583系寝台電車の定期運用は終了となる。
平成24(2012)年3月17日ダイヤ改正にて残された定期夜行列車は「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」「あけぼの」「北斗星」「はまなす」の5名称(5往復)となり、所定曜日に運転のある「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」を入れても7名称となります。
寝台車両によるクルーズトレイン時代の幕開け
JR九州では、平成23(2013)年10月15日よりクルーズトレイン「ななつ星in九州」の運行が開始予定となっている。「ななつ星in九州」には専用のディーゼル機関車1両と客車7両が新製される。寝台設備にはスイートとDXスイートがある。スイート(1両に3部屋)が4両、DXスイート(1両に2部屋)が1両、ラウンジカーと食堂車が連結された7両の客車となる。この車両は九州を列車で周遊しながら魅力を強力に引き出することをコンセプトに旅行商品の中に組み込まれる団体列車として運行される。この列車のために特別公開をする施設があるなど、特別な旅が演出される。そのため、値段も同様のコースで考えた場合、高額な設定となる。ななつ星in九州には3泊4日コースと1泊2日コースの2つのコースがある。この列車利用の旅行商品もこの2つを基本にコースが組まれている。3泊4日コースは福岡、大分、宮崎、鹿児島、熊本の5県を、1泊2日は福岡・佐賀・長崎・熊本・大分の5県を巡る列車となる。3泊4日コースでは寝台車両であるものの、列車内ではなく旅館に宿泊する日があるのもこの列車を利用した旅行商品の特徴である。車両の完成前に発売された第一期、第二期では申込多数により抽選で当選者が決められており、出だしは好調である。コースは第一期、第二期を基に記述しており、変更される可能性がある。JR九州以外の他社線での運行は想定されていないようである。
ななつ星in九州の編成
Lounge car
休闲车厢
1
Dining car
餐车
2
3
Suite
1室(可用轮椅)
4
Suite
2室
5
Suite
3室
6
Suite
3室
DX Suite B
1室
DX Suite A
1室
7
トランスイート 四季島の編成
车头·展望台 动力车厢
1
Dining car
餐车
2
3
4
deluxe suite
豪华套房 2室
5
Suite
3室
6
7
Suite
3室
Suite
3室
Lounge car
休闲车厢
8
Suite
1室(可用升降台)
Suite
2室
9
Suite
3室
10
车头·展望台 动力车厢
JR東日本でも、2016年春以降の運行を目指し、クルーズトレインを新製する旨の発表が行われている。こちらの発着地については未定ながら、東日本エリアを中心に運行される予定である。車両に関しては新開発のEDC方式(電化区間では架線からの電力を動力に、非電化区間では発電機による電力を動力にする方式)を採用し、1両に2~3室の客室を準備した2クラスのスイートルームを完備する予定となっている。また、ダイニングやラウンジも提供される予定である。1編成10両の車両が新製される予定となっている。このクルーズトレインは「トランスイート 四季島」と命名されました。
JR西日本では、2017年度までの事業目標として「新たな豪華列車」の導入が計画されている。報道によるとディーゼル車で、食堂車を連結した寝台列車となる模様です。2014年の発表ではバスタブを備え展望室をもつ部屋が1両に1室のみ設定された個室が含まれた車両を客車として制作されることになりました。この車両はハイブリッド式のディぜール車となります。このクルーズトレインは「トワイライトエクスプレス瑞風(みずかぜ)」と命名されました。
トワイライトエクスプレス瑞風の編成 (号車は予想)
展望车厢
1
Dining car
餐车
2
3
4
twin
3室
6
7
twin
3室
Suite
1室
Lounge car
休闲车厢
8
Suite
3室
10
展望车厢
5
twin·Suite
3室
Suite
3室
9
クルーズトレインでは寝台設備がスイートルームクラスでの提供となり、価格面で高額になる。また、運転日がかなり限られたものとなる他、旅行商品に組み込まれた販売になり、毎日運転される寝台列車と比べ敷居が高くなる気がする。
国鉄時代に設定された区間のみ運行のブルートレインに終止符
平成26(2014)年3月15日ダイヤ改正にて東京の北の玄関口、上野と青森を結ぶ寝台特急あけぼのが廃止されました。この廃止により東京と青森を結ぶ寝台特急を含む夜行列車が全て全廃されることになります。比較的利用の多かった北へ向かう寝台列車ですが、近年は新幹線の新青森延伸や秋田新幹線の高速化などにより、旅客鉄道会社としてはそちらに力を入れる必要に迫れレていました。そのため直通ニーズはある程度あるにしても、運行の維持を行うには旅客鉄道会社だけでは苦しくなっており廃止される運びとなりました。1970年代に石川さゆりさんが熱唱した「上野発の夜行列車降りたときから青森駅は雪の中」の情景はこれで完全に過去の物になります。青函連絡船は既になくなっており、この歌の情景も完全に思い出の中のものとなります。
国鉄時代に設定された寝台特急の内、最後まで残ったブルートレインはこの寝台特急あけぼののみとなっておりました。寝台特急瀬戸が寝台特急サンライズ瀬戸として残ってはいるものの車両も新製され個室主体の寝台特急として新たな道を歩んでおり、JR化後に四国の高松まで延伸されています。それとは対照的に、従来のブルートレインとして寝台特急あけぼのは最後までブルートレインとして走り続け、JR化後に経路変更はあったものの国鉄時代に設定された区間を守ってきた列車はこの寝台特急あけぼのをもって終了となります。国鉄の名残を残した車両を使い、昭和を色濃く残した運転区間を運行したブルートレインは寝台特急あけぼのの廃止をもって終止符が打たれました。
この改正以後に残された寝台列車は国鉄とは離れ、車両は国鉄形式および国鉄時代に試行されたものはあるもののJR化以後に新たに設定もしくは延伸されたもののみとなります。平成26(2014)年3月15日ダイヤ改正にて残された定期夜行列車は「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」「北斗星」「はまなす」の4名称(4往復)となり、所定曜日に運転のある「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」を入れても6名称となります。
ブルートレインの終焉
平成27(2015)年3月14日ダイヤ改正にて青函トンネル開業時に設定された東京の上野と北海道の札幌を結ぶ寝台特急北斗星の定期運行が終了しました。青い客車で運行される寝台特急こと、「ブルートレイン」の定期運行が無くなります。青函トンネルにおける北海道新幹線の開業準備と車両の老朽化により最後のブルートレインである寝台特急北斗星は定期運行を終了し定期列車からブルートレインが消滅することとなりました。青函トンネル開業に伴い設定された北斗星はロイヤル個室や食堂車の営業など斬新な姿で登場しましたが、既存のブルートレイン車両や特急型車両からの改造で豪華さの演出をしました。そのため、老体に鞭を打って運行を続けていましたが、車両の老朽化にはかなわなくなりました。青函トンネルが在来線と新幹線の共用区間になる影響もあり、北海道新幹線の開業に向けた試験時間拡大などの目的もあり今回の改正で廃止されます。寝台特急北斗星は臨時列車として2015年8月まで運行され、その後は臨時運行も廃止されます。
あさかぜに20系客車が導入され、走るホテルとも言われた列車は青い車両に白いラインの入った客車で運行される寝台特急のことをブルートレインと呼ぶようになりました。その塗装は20系から後継の寝台客車14系(15形)や24系(25形)にも引き継がれ、白いラインはステンレス帯に変わったりゴールドのラインに変更されたりしてきましたが青い塗装の車体は引き継がれていました。ただ、その後に登場する寝台車両は1998年登場のサンライズエクスプレスは朝をイメージしたものに、1999年登場のカシオペアでは新しいスタイルとなっています。既に24系寝台客車で運行の北斗星以外にブルーの車体の寝台特急はなく、北斗星の廃止により、定期運行のブルートレインは終焉を迎えることになりました。同じくカラーリングを深緑色に変更した24系寝台客車で運行の「トワイライトエクスプレス」も、このダイヤ改正を前に設定がなくなることから、寝台特急としてのブルートレインは過去の物となりました。
平成27(2015)年3月14日ダイヤ改正にて残された定期夜行列車は「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」「はまなす」の3名称(3往復)となり、所定曜日に運転のある「カシオペア」を入れても4名称となります。
定期夜行客車列車の終焉
平成28(2016)年3月26日ダイヤ改正にて新青森-新函館北斗間の北海道新幹線開業に伴い青函トンネルを通過する定期夜行列車は消滅することになりました。青森と札幌を結ぶ14系で運行の急行はまなす、上野と札幌を結ぶE26系で運行の寝台特急カシオペアが廃止となります。なお、地上設備切替のため最終運転日ははまなすが青森発3月21日、カシオペアが札幌発3月20日となります。はまなす、カシオペアともに客車列車での運行で、定期夜行客車列車の運行に終止符を打たれます。
急行はまなすの廃止により、定期の急行列車は全廃となります。また、B寝台を連結した寝台列車はなくなります。
平成28(2016)年3月26日ダイヤ改正にて残された定期夜行列車は「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」の2名称(2往復)となります。
明治33年(1900)4月8日、私鉄の山陽鉄道(現在の山陽本線)神戸〜三田尻(現在の防府)間の急行列車に一等寝台車が連結されました。これが日本初の寝台車で、車両の長手方向に二段式寝台が並ぶ開放式(通路の両側に二段式8組16名分のベッドを配置)のものでした。同年10月1日には官設鉄道の新橋〜神戸間の急行117・118列車に一等寝台車が連結され、現在の東海道本線および山陽本線で寝台車が活躍。この車両はイギリスとアメリカから各2両の計4両を輸入したもので、各車両には4人部屋が5室設置されていました。当時の一等寝台車の利用料金(新橋〜神戸間は寝台料金4円)は高額なため、一般の庶民にとっては高嶺の花でした。明治36年5月1日には山陽鉄道に二等寝台車が登場。上野〜青森間を結んでいた日本鉄道も一等寝台車を連結するなど、路線の延長に伴う長距離列車の運行にあわせて寝台車が連結されるようになりました。大正時代には主な幹線の優等列車に寝台車が連結されましたが、すべて一等・二等旅客向けの高額なサービス設備でした。三等旅客向けの寝台車が登場したのは昭和6年2月1日のことで、東海道本線東京〜神戸間の列車に連結されました。これは昭和4年10月のニューヨークを発端に起こった世界恐慌の波が日本へも押し寄せて鉄道旅客が大幅に減少したため、一般旅客を誘致するための施策のひとつとして開発されました。昭和初期の寝台車は、一等寝台車が洗面台を備えた4人用区分室(一部の列車には2人用区分室もあった)、二等寝台車が中央の通路を挟んで両側に長手方向の二段寝台がある開放式、三等寝台車は片側通路・枕木方向に三段式ベッドが並ぶスタイル。一般庶民にとって高額ながら手の届く料金の三等寝台車が登場したことにより、長距離列車の旅が快適に楽しめるようになりました。なお、海外では1838年にアメリカのペンシルベニア州において世界初の寝台車が運行を開始しました。ヨーロッパでは1870年から寝台車の運行を開始し、1883年には有名なオリエント急行が誕生しています。
長距離列車に連結されていた一・二・三等寝台車は、太平洋戦争の戦況悪化に伴って昭和16年7月に三等寝台車、昭和19年4月には一・二等寝台車の連結を中止しました。戦後は昭和23年12月15日に「特別寝台車」として復活し、昭和24年5月1日には「一等寝台車」の名称に変更。その後は一等寝台車や二等寝台車が続々と復活し、主要幹線の長距離急行列車に連結されるようになりました。しかし、利用料金が高額な一等寝台車は利用率が低迷していたため、昭和30年7月1日に一等寝台車は廃止となり、その車両はすべて二等寝台車に格下げされました。これにより、2人・4人用区分室の旧一等寝台は二等A寝台、開放式冷房搭載の旧一等寝台は二等B寝台、従来からの二等寝台車は二等C寝台となり、同じ二等寝台でも寝台設備の異なる3タイプが使用されることになりました。当時の一等車は「イ」、二等車は「ロ」、三等車は「ハ」の記号が使用されていましたが、一等寝台車の廃止に伴って「マイネ」といった一等の形式(マ=車両重量・イ=一等・ネ=寝台車)は「マロネ」となりました。
昭和33年10月1日、東京〜博多間の寝台特急「あさかぜ」にオール冷房完備の20系ブルートレインが登場。二等寝台車初となる1人用個室「ルーメット」が誕生し、シティホテル並みの快適さがサービスされるようになりました。好評を博したブルートレインは毎年増備が行なわれるようになり、東京〜西鹿児島間の「はやぶさ」や東京〜長崎間の「さくら」、東京〜熊本間の「みずほ」など、東京〜九州間の特急列車が次々とブルートレインで運転されるようになりました。主要幹線の長距離急行列車においても寝台車の連結が必要不可欠となり、二等寝台車オロネ10形や三等寝台車ナハネ17形などが増備されました。特にビジネス需要が多かった昭和30年代後半の東海道本線東京〜大阪間では、オール寝台車という寝台急行列車が設定されるなど、夜行列車の主役として寝台車が活躍するようになりました。昭和40年代もビジネスから観光まで幅広く寝台車が利用されるようになり、昭和42年10月には世界初の電車寝台581系が誕生。この車両は昼間が座席車の昼行特急列車、夜間は寝台車の寝台特急列車になるという昼夜兼行スタイルで、年々増加する旅客需要に応えるエースとして活躍するようになりました。また、ブルートレインも寝台幅の改善や三段式寝台の二段化などが実施され、14系や14系15形、24系、24系25形などの新系列が誕生。夜行列車の旅を快適に演出する寝台車が黄金期を迎えることになりました。
昭和60年代に入ると空路の整備や高速道路の延伸に伴う夜行高速バスなどの台頭で、寝台特急列車は徐々に少なくなっていきました。時代のニーズにあわせてA・B寝台車の個室化が推進されるようになり、さらにシャワールームの設置など車内サービスの充実が図られるようになりました。昭和63年3月13日の青函トンネル開業にあわせて登場した上野〜札幌間の寝台特急「北斗星」には、個室内のトイレ・シャワールームを設置したA寝台1人用個室「ロイヤル」をはじめ、A寝台2人用個室「ツインデラックス」、B寝台2人用個室「デュエット」、B寝台1人用個室「ソロ」が連結され、予約制のコース料理が味わえる食堂車とあわせて豪華寝台特急列車として脚光を浴びることになりました。本州〜北海道間は観光需要が多いため豪華寝台特急列車の登場は効果的でしたが、このほかのエリアでは夜行列車の運行が減り、ダイヤ改正ごとに廃止がニュースとなってきました。近年では寝台特急「富士・はやぶさ」や寝台特急「なは・あかつき」、そして平成22年3月には寝台特急「北陸」が廃止となり、寝台特急列車は上野〜札幌間の「カシオペア」「北斗星」、上野〜青森間の「あけぼの」、大阪〜札幌間の「トワイライトエクスプレス」、大阪〜青森間の「日本海」、東京〜出雲市・高松間の「サンライズ出雲・瀬戸」の7列車のみとなっています。なお、青森〜札幌間の客車急行「はまなす」と大阪〜新潟間の583系電車急行「きたぐに」にも寝台車が連結されています。
牡蛎船
川辺に係留した和船でカキ料理を食べさせる飲食店。1660年代に、安芸国草津から大阪までの、小西屋五郎八のカキ売りの船が起源とされている。当時は、草津・仁保・矢野の港を晩秋に出港。大阪の各港で生がきを販売。翌年の1月から2月頃(旧暦)に広島に帰っていた。 1707年(宝永4年)の大阪での火事の際に、高麗橋下の幕府の高札を守ったことで]、草津の業者は大坂町奉行より事業の特権が与えられ、株仲間制度の下、草津・仁保出身者が事業を独占することになった。 船内でのかき料理の提供は1810年代より始まった。1832年(天保3年)のメニューとして、カキ飯・カキの土手鍋・酢ガキ・カキの吸い物・からまぶし(カキとおからの和え物)などが記録に残されている。 明治以降、草津の業者に加え、矢野や海田の業者もかき船に参入。1882年(明治15年)時点で77隻、昭和初期で150隻以上、かき船の数を数えた。標準的なカキ船で、板前・仲居・出前持ちなど10人前後の従業員で営業していたとされている。また、明治以降はカキフライなども出されるようになった。また付け合わせとして広島菜漬も出された。 広島市内でも、第二次世界大戦のまえから元安川や、本川で営業していた。 明治以降、東京でもかき船が登場。大阪の物とは異なり、食材のみを広島から仕入れる形態になった。カキの輸送手段も大正時代には汽船を、昭和時代にはむぎ身を汽車で運ぶように変化していった。 第二次世界大戦後、陸上に店を構える店舗に転換するなどして数を急激に減らしている。
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