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❁大正军政界名人

明治天皇

政治

皇族

在位:嘉永5年~明治45年 1852-1912
  孝明天皇的第二皇子,生于京都。讳为睦仁,幼名为佑宫。万延元年立为太子,庆应二年孝明天皇驾崩,次年登基。同年颁布了《五条誓文》,改元明治,实行一世一元制。经历江户幕府戊辰战争,推翻德川幕府的统治并实行“王政复古”,建立君主立宪制的国家,实行明治维新。明治22年颁布《大日本帝国宪法》,明治21年颁布《教育敕语》,推行封建的军国主义的教育方针。制造了甲午战争、日俄战争等、为日后的侵华行为打下了基础。明治45年7月30日凌晨零时四十三分因尿毒症去世,享年60岁。陵墓为京都的桃山伏见陵。大正三年,日本政府建立明治神宫将其神化。同时也作为和歌诗人广为人知,留下了9万3032首和歌。

大正天皇

政治

皇族

在位:明治12(1879)年~大正15(1926)年

  明治天皇的第三皇子,号为明宫,讳为嘉仁。在父亲天皇的外祖父中山忠能邸被养育,接受了土方久元、佐佐木高行等人的教育。明治22年立太子后,同年33年与九条节子(贞明皇后)结婚,同年40年作为皇室首个皇太子出访韩国。同45年明治天皇驾崩继承皇位,改为大正。另由于体弱多病,大正10年由皇太子裕仁(昭和天皇)摄政。

昭和天皇

政治

皇族

在位:明治34(1901)年~昭和64(1989)年

  大正天皇的第一皇子,幼名迪宫,大正5年被立为太子。大正10年出访欧洲,同年摄政。15年的大正天皇驾崩后,继承皇位,改为昭和。昭和3年炸死张作霖时,命田中内阁辞职,同年的2・26事件中,命令陆军少壮将校镇压。昭和13年左右遵从近卫文麻吕首相的建议,拒绝与蒋介石政权谈话,支持继续战争,同16年向英美两国广播了战线的诏书,同20年广播了接受波茨坦宣言的诏书。战后,根据新宪法被认为是“国民统一的象征”,虽然脱离了政治,但仍然进行着全国旅行。另外,生物学造诣很深,著有《那须的植物》、《相模湾产后鳃类图谱》等。

吉野 作造

政治

学者

生平:明治11(1878)年~昭和8(1933)年
  宫城县人,号"古川学人"。其弟为商工官僚、政治家吉野信次。帝大毕业后曾应袁世凯聘请任教于北洋政法学堂,明治42年归国后任帝大副教授,次年渡欧留学、归来后任帝大教授。主张民本主义,提倡建立在言论自由和普选上的政党政治。对外批评帝国主义侵略政策,主张改革枢密院、贵族院、军部等特权机构。他的论文《论宪政本意及其贯彻之途径》(大正五年,《中央公论》),为大正民主运动提供了理论的依据。1924年进《朝日新闻》社,后因笔祸而退社。创立明治文化研究院,编辑出版《明治文化全集》。致力于成立东京大学新人会,社会民社党。 

花井 卓蔵

政治

律师

生平:慶応4年6月12日~昭和6年12月3日

  ​備後国御調郡三原町士族・立原四郎右衛門之子,就读于广岛市修道学校、長谷川桜南的弟子,与高楠順次郎一同于桜南舎求学,参加过自由民权运动而被免职。明治21年毕业于英吉利法律学校。23岁通过了「代言人試験」成为了法曹界(法官、检察官、律师)最年少者。曾经为足尾鉱毒事件中的农民、大逆事件中的幸徳秋水做过辩护。明治34年为星亨暗殺事件重的伊庭想太郎做过辩护,被当时的新闻评价「花井の弁論は奇警にして論理明快」。之后也曾为国民大会事件(日比谷焼打事件)、シーメンス事件、米騒動、満鉄疑獄等重大事件做过辩护,是为平民积极辩护的人权派律师。与原嘉道一同被称为在野法曹之雄。大正15年为松島遊郭疑獄的被告辩护之后从第一线隐退。昭和6年于东京神田的自宅兼事務所寝室因煤气中毒死去。补报在《天声人語》中有所记载:他生锈的声音、华丽的口才、辛辣的立论、为刑事辩论确定了社会地位。每一次议会都显出如政府鬼门般的存在,掀起波澜却不激怒敌人,狙中论点同时也能安抚人心、其处世之妙足以作为范本。主张着法律上也有眼泪,常常在法庭上引发不合时宜的泪雨——昭和6年12月5日付东京朝日新闻朝刊。此外,花井与地下世界的人士之间也有密切的交流。从大正中期开始,社会底层的人们如果不背负国家主义的招牌、活动就会变得困难,在花井苦学时代所交往的人物中,山田喜久次郎成为了聚集娱乐界名人·帝都名士的「常陸山会」的干部、对浅草和吉原的表里都了如指掌,日后曾为花井助力(摘自《枪喜久一代》)。据森川哲郎的《总会屋》记载,花井一直照顾着被称为「ワン株屋」的人们,并向当时身为记者的久保佑三郎推荐研究株主总会,久保佑三郎日后成了总会屋的高层。作为雄辩家,花井因在法庭和议会上的活动而广为人知,其雄辩术被称为"花井式辩论"。明治34年,在母校中央大学成立讲坛的同时,还组织了学生辩论部的「名門辞達学会」,负责后进生的指导。

❁大正美术界

■ 日本画 

明治维新时,日本画各派面临衰亡,只剩下文人画(即南宗画)一派。传统美术复兴的思潮兴起时,文人画家才逐渐活跃起来,以东京·京都两地展开活动。明治12年成立了研究新旧美术得失的“龙池会”,次年举办“观古美术会”展览传统美术。1883~84年在巴黎举办“日本美术纵览会”向海外介绍新旧美术。政府还集合全国各派日本画家召开“国内绘画共进会”。明治中期,国粹主义抬头,日本画也随之发展。明治20年,龙池会改称日本美术协会。同年设立东京美术学校培养日本传统美术人才、以领导人美国人费诺罗萨(Fenollosa)及其学生冈仓天心·狩野芳崖·桥本雅邦为中心,展开了日本画革新运动。此外日本美术协会的青年画家也扬弃保守作风,创立新日本画,并于1891年组成日本绘画协会。明治31年,天心从东京美术学校辞职,创立日本美术院。其主将横山大观等将亩欧印象派的空间表现法引进日本画中。与激进的日本美术院相对,保守的日本美术协会也展开活动,使即将衰落的南画复兴起来。至1907年前后,日本美术院渐衰,出现了日本画会、无声会等新团体。明治40年,政府为统一新旧两派而举办了“文展”,但仍没有改变两派的对立状态。大正3年,横山大观等的新派画师脱离文展,再兴日本美术院,使文展的综合性遭到破坏。其后日本画分成在朝的文展和在野的日本美术院。   

伊東 深水

画家

生平:明治31(1898)年2月4日 - 昭和47(1972)年5月8日

东京出身。13岁时师从镝木清方学画,历任文展审查员·日本艺术院会员。擅长“美人绘”,笔姿秀丽,色彩鲜明,歌川派浮世绘的正统继承者。代表作有《银河登》《闻香》《雪暮》等。

上村 松園

画家

生平:1875年4月23日-1949年8月27日

本名上村津禰(つね)、也自称为常子(つねこ)。京都的下京区四条通御幸町的茶叶铺“大杆秤铺”作为次女出生。打破了明治时期女性不能立志当画家的观点。入学京都府画学校后,从师于四条派的铃木松年。明治26年从师于幸野楳岭。后因火灾迁居至高仓蛸薬师、向市村水香学习汉学。楳岭逝世后,从师于竹内栖凤。15岁时以作品《四季美人图》参展第三次内国劝业博览会,获得一等褒奖,被传为京都天才少女。于1948年成为第一位被授予文化勋章的女性。其子上村松篁和孙上村淳之三代均为画家。

小林 清親

画家

生平:1847年9月10日〈弘化4年8月1日〉- 1915年〈大正4年〉11月28日

  明治时代初期的浮世绘师、讽刺画家,被称为“明治的歌川广重”、“最后的浮世绘大师”,与月冈芳年、丰原国周合称明治时代浮世绘三杰,以风景画为多。把油画的光影艺术带到了浮世绘之中,形成了特有的光线画。

月岡 芳年

画家

生平:1839年4月30日(天保10年3月17日) - 1892年(明治25年)6月9日

  本名米次郎,画号有一魁斎芳年、魁斎、玉桜楼、咀華亭、子英、大蘇芳年等。生于江户新桥南大阪町,12岁入歌川国芳门下学习浮世绘,成为由国芳确立的“武者绘”继承者。多数作品中以带有强烈冲击性的“无惨绘”著称,又被称为血染芳年。其作品曾受芥川龙之介·谷崎润一郎·三岛由纪夫·江户川乱步的激烈推崇。明治24因年狂疾复发被送进医院,于次年六月九日去世,病历诊断死因是“忧郁狂”。辞世之句为「夜をつめて 照まさりしか 夏の月」。常被称作“最后的浮世绘师”。

川濑 巴水

画家

生平:1875年4月23日-1949年8月27日

  也被称为昭和之歌川广重、旅情诗人。 “新版画运动”的旗手,笔下多是秀丽静谧的风景中包涵着的平凡日常剪影。不管是暮色雪景的江户川,月夜的宫岛鸟居,夜樱下的三两人影,还是秋色连波的湖景,他运用的鲜艳色彩和朴实主题的对比反而让人感觉到一丝静谧、平静和幽然。大正时期的版画在关东大地震中多数被毁,存世较少。

笠松 紫浪

画家

生平:明治31年(1898年)1月11日 - 平成3年(1991年)6月14日

  鏑木清方的门人。本名笠松四郎。“新版画运动”旗手。

歌川 广重

画家

生平:1797年-1858年10月12日

  出身于江户(现东京)的一个消防员家庭,师从歌川丰广。以55幅风景画《东海道五十三次》确立了浮世绘画家的地位。在日本当时是民间家喻户晓的知名画家。他的作品主要皆为风景绘,可归类到日本浮世绘中的名所绘类别,他把江户所有熟悉的一草一木都划进画布当中,像是神田染屋。在1830年代,他开始画更多各式各样的自然风景,在当时的江户兴起一股游赏风气,可能跟当时政治背景相关,因为文人在仕途上的不得意,所以文人们开始会到寺庙茶舍进行参拜。

尾形乾山

画家

生平:1797年-1858年10月12日

  江户中期陶瓷艺术家,画家。

鏑木 清方

画家

浮世絵師

生平:明治11(1878)年8月31日 - 昭和47(1972)年3月2日

  东京神田的书香门第出生,对东京的古典风貌耳熟能详,少年时从浮世绘入门,师从水野年方,其后因结识作家泉镜花,开始创作插画,成人后转画胶彩画。少年时爱读樋口一叶的作品,以之为题材画了好几张与她有关的作品。其1930年作品《三游亭园朝像》现已经被列入了国家重要文化财产。

■ 洋画 

洋画在幕末时期已有一定基础。明治9年,政府从意大利招聘著名风景画家封泰纳媒(A.FontanB5)来日创办工部美术学校。又派遣画家留学西欧,如黑田清辉留法,川村清雄留意,鹿地为也留德。明治10年举行了第一次国内劝业博览会,首次由国家展出洋画家的作品。 但后来高涨国粹保存论妨碍了洋画发展,如不许展出洋画,关闭工部美术学校等。明治22年,海外留学回国的洋画家团结一致创立明治美术会,开展洋画运动。1889~1901年每年都举办洋画展览会。明治26年,留法的黑田清辉和久米桂一郎回国,带来了法国外光派的技法,给日本洋画界影响很大。明治29年,黑田成立“白马会”,每年秋季在上野公园举行洋画展览会。同年东京美术学校设立洋画科,普通教育也进行了图画课改革,编纂了《新定图画教科书》。文展对洋画的发展起了很大作用。明治末年至大正初年,文展展出了山下新太郎的《读书之后》等法国印象派风作品,许多青年也由此开始摸索制作反自然主义的作品。

高畠 華宵

画家

生平:1888年4月6日 - 1966年7月31日

  出生于爱媛县和岛市,本名高畠幸吉。13岁时到大阪学习日本画·洋画。明治末期前往东京深造。学习日本画的同时开始接手图案广告设计的工作。因为“中将汤”所创作的广告画中所描画的大正浪漫风的妇人儿引人注目。27岁(大正4年)开始执笔杂志《少年俱乐部》。此后20余年在少年少女、大众妇人中都有很高人气。高畠笔下少女美艳与清秀并存,少年勇猛刚强却又有几分男子姿色。从明治到昭和初期的和服洋装、各式发型饰品都被运用到画作当中。

❁大正神秘学界名人

神道学家

芳村 正秉

よしむら   まさもち

▣ 生平:天保10年9月19日 - 大正4年1月21日​

医師芳村泰治之子、美作国上福田出身的勤王志士及神道家。幼名謙輔,号陽洲,字均卿。神習教初代管長。6岁时与祖母和记子参拜了镇守的御灵神社,得到了"芳村氏乃大中臣之后裔,他日将继承千载不传之神道,将其昭示于天下"的神谕。此后几年,芳村学习了国学汉学、枪术剑术、诗文经史等。安政4年(1857年)上京,与梁川星严交往甚笃,在堀川的伊藤家就职,学习仁斋的古学。安政大狱开始前,察觉到政治形式不妙的芳村逃出鞍马山,在由岐神社的前殿里隐藏下来。维新之后,芳村请辞要回故乡建校,但西乡隆盛劝其做官。明治2年(1869年)开始在神祇官工作。四年后,神祇官变为神祇省,因神佛习合而设立大教院。芳村强烈反对,离开了神祇省在神宫执勤。明治8年,大教院解散。芳村与诸教正商量,为在日比谷的神宫司厅东京出差所内设置神道事务局而竭尽全力。设立神宫教会、说教所(神风讲社)。之后,他历任出纳课长、常务课长,摊销了当时数十万日元和庞大神宫的债务。这次财务改革中,有人反对,也有人企图暗杀正秉。明治9年,神宫司厅设立了东京办事处,成为所长后在东京工作。明治13年从神宫转出。预知神官和教导员的分离令的发布,没有在东京留任,而是设立神道神習派(后来的神習教)。

伊波 普猷

いは           ふゆう

民俗学家

冲绳民俗

▣ 生平:明治9年3月15日-昭和22年8月13日

琉球藩那覇西村出生,其弟伊波月城为冲绳每日新闻记者。东帝大语言学毕业,与橋本進吉·小倉進平·金田一京助等人为学友、听过新村出的讲义。毕业后任冲绳县立图书馆馆长。和历史学者比嘉春潮一同学习过世界语、进入教会听圣经讲道。他的研究涉及语言学·民俗学·文化人类学·历史学·宗教学等多方面,也被称为"冲绳学之父",特别是对《思草纸》的研究贡献很大。伊波主张"日琉同祖论",试图探求琉球人的起源。但也有评论认为,他为了弱化近代日本对于冲绳的歧视、反而冲绳灌输天皇制国家的观点。鸟越宪三郎在《琉球宗教史的研究》中评价伊波"作为琉球研究开拓者的功绩值得称赞",同时也认为他偏重于文献,急于得出结论,有很多理论上的飞跃和错误。伊波与民俗学者柳田国男、折口信夫、人类学者鸟居龙藏、思想家·经济学家河上肇等人有过亲密的交往。

長南 年恵

おさなみ    としえ

民俗学家

冲绳民俗

▣ 生平:文久3年10月26日 - 明治40年10月29日

、明治時代の霊能者、超能力者。現在の山形県鶴岡市出身。本名、登志恵。 「20歳のころからほとんど食事をとらず、口にするものは生水程度であった」「空気中から神水などの様々な物を取り出すなど、多くの不思議な現象を起こしていた」などと言われている。1863年12月6日(文久3年10月26日)羽前国庄内高畑(現在の山形県鶴岡市日吉町[2])に、庄内藩士の長女として生まれる。20歳のころまでの経歴は不詳だが、1874年(明治7年)に鶴岡に小学校が開校した際には入学出来ず、子守奉公をしていたところ、次第に予言めいた言葉を口走る様になり、噂を聞きつけた住民の相談に乗るうち、奉公先から巫女として開業することを薦められたという説がある[2]。弟の長南雄吉は、大阪浦江にあった大日本蓄電池株式会社の専務取締役で、雄吉が見た年恵の20歳以後の超常現象などの記録を、後年、心霊研究家の浅野和三郎がまとめて発表している。1907年(明治40年)10月29日)死亡。享年45(かぞえ年齢)。しかし満年齢では従来44歳と思われてきたが、生年を旧暦で没年を太陽暦で計算するという矛盾から錯誤した年齢であって、太陽暦で正確に計算すると満43歳10カ月であった。2006年11月3日には年恵の没後百年をしのび「長南年恵100年祭」が、年恵の墓のある鶴岡市の般若寺にて行われた。成人してからも肉体的、精神的に少女のようであったという。また身辺には頻繁に神仏が現れ、会話をしたり、舞を舞っていた。元々小食であったが、20歳のころからほとんど食事を摂らず、生水の他は生のサツマイモを少量のみ。排泄物は殆ど無かったという。また汗や垢といったものも殆ど出ず、風呂に入らなくても髪や体はいつも清潔であった。空気中からとりだす神水は、密封した空の一升瓶の中に人々の目の前で満たしたという。この神水は万病に効いた。別に病人などではなく冷やかし等の目的の者と不治の病人には、神水は授からず、空瓶のままだった。神水(霊水)の色について:赤、青、黄など様々な色があったそうだ。無罪となった裁判所での公判では、茶褐色。1900年(明治33年)7月9日に全国紙新聞記者(大阪朝日新聞)が懐疑の目を向け、目の前で霊水引寄せをしろと要求した。その結果、ひとりでに水が入ったのを認めざるを得ないという結論に至ったという[4]。1895年(明治28年)、長南年恵は詐欺行為(神水を用いて、医師の資格なしに病気治療と称するを行ったとして)を行ったとして、逮捕された。山形県監獄鶴岡支署に7月から60日間勾留されたが、証拠不十分で釈放されている。この勾留期間中、様々な現象が起きたと言われている。勾留期間、一切の排泄物が無かった。入浴が許されていなかったが、常に髪は清潔であり、体臭も無く、良い香りがしたという。勾留期間、一切食事を取らなかった。完全に外部と遮断された監房内で、「神水」「お守り」「経文」「散薬」などを空気中から取り出したという。長期の拘留生活で足腰が弱って当然なのに、一升瓶15本分もある水の入った大樽を軽々と運んだ。収監者の中で、ただ一人蚊に刺されなかった。複数の係官が不思議な笛の音を聞いたという。ただし以上の現象は監獄側の資料や公式の文書などに記されているわけではなく、年恵側が山形県監獄鶴岡支署長宛に送りつけた「事実証明願」の中でそのような現象があったと主張したものである。監獄側はこの証明願を却下している。1896年(明治29年)、2度目の逮捕、山形県監獄鶴岡支署に10月10日より一週間拘置される。1900年(明治33年)、3度目の逮捕、大阪空堀町にある弟の長南雄吉の所に身を寄せている時8月ごろ、新聞記事から騒ぎが大きくなり、10日間拘置される。1900年(明治33年)12月12日、この拘置に対して、神戸地方裁判所で再審が行われた。判決は証拠不十分を理由とした無罪判決となったが、その後好奇心を持った弁護士たちが長南年恵に個人的な試験を申し込み、それに応じて霊水出現の試験が行われる運びとなった。封をした空きビンを渡し、空きビンに神水を満たせるかと質問したところ、長南年恵はできるといったという。この実験の前に長南年恵は全裸にされ、身体を厳重に調べられ、密閉空間の別室に閉じ込められた。この別室で精神を集中した長南年恵は、5分ほど(長南年恵の弟である雄吉は2分ほどと語っているが、大阪毎日新聞の記事によれば5分ほど)の後に空きビンに濃い黄色をした神水を満たし、裁判長に渡したとされる。裁判長はその水を持ち帰ったという。裁判の様子を報じた大阪毎日新聞は「神水を天よりたまわるなり、とにかく不思議なり」と伝えた。

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