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大正时期社会

■ 大正时代的文化事象

 映像文化の面では、大正元年に民間の4映画会社が合併して『日活』(日本活動社)が創業。東京では新劇(現代劇)、京都では旧劇(時代劇)を制作した。第一次世界大戦後、欧映画の進出に対抗するかのように『活』(際活映)『大活』(大正活映)などの会社が生まれ、大正10年には現在松竹の前身となる『松竹キネマ』が設立された。大正13年には「日活撮影所」が建設された。日本最初のカラー映画)とアニメ映画とされる作品を制作した『活』(天然色活動写真)が存在したのもこの時代(大正3年~8年)である。また大正7年ごろから、既存演劇や欧作品の模倣でない日本映画をめざす「純映画運動」が展開された。

 明治末年に起きた「大逆事件」や、ソ連の登場による社会主義共産主義運動の活発化の影で、国家当局による出版・言論・文化活動への監視のそれなりにあったものの、この時代には実に様々な雑誌が創刊された。なかには現在も発刊され続けているものもある。代表的なものとして娯楽雑誌『キング』(大正14年~昭和32年)、児童文学雑誌の『』(大正7年~昭和11年)があり、『婦人論』(大正5年)、『主婦の友』(大正6年)、『キネマ旬報』(大正8年)、『小学五年生』『小学六年生』(大正11年)、『小学四年生』(大正13年)、『セウガク(小学)一年生』『セウガク二年生』『セウガク三年生』(大正14年)、『週刊朝日』と『サンデー毎日』(大正11年)、そして『文藝春秋』(大正12年)などがあげられる。また、改造社が「1冊1円」の通称『円本』の発売を始めたのは大正15年11月である。

 歌謡の面では、術座の新劇女優松井須磨子が唄う「カチューシャかわいや わかれのつらさ」の歌詞で知られる、『カチューシャの唄』(大正2年)が大流行した。大正5年には『ゴンドラの唄』、大正11年には『船頭小唄』がヒット第一次世界大戦後から関東大震災までの間、東京では「浅草オペラ」がブームとなった。

 報道メディアに関しては、明治時代のような新聞の発行と弾圧の繰り返しがほぼ終息を迎え、『東京日日新聞』(→毎日新聞)『東京朝日新聞』『報知新聞』『時事新報』『民新聞』が、東京五大新聞として並立するといったような状態となった。正太郎が弱小読売新聞』を買収し、のちの大新聞へ成長させていくことになるのは大正13年である。
 ラジオ放送の最初は大正14年3月22日。当時の社団法人東京放送局(JOAK)によるものである。初音は「J O A K 、 J O A K 、こちらは東京放送であります。こんにち今より放送を開始致します」。
 なお、日本におけるテレビジョンの最初の映像として有名な「イ」の文字が映し出されたのは、奇しくも大正15年にして昭和元年の12月26日大正天皇崩御と昭和天皇即位その日であった。

 このほか、食文化の面では森永ミルクキャラメル大正3年)やカルピス大正8年)、江崎グリコキャラメル大正11年)の販売が始まった。現在の「日展」(日本美術展覧会)にあたる「展」(帝国美術展覧会)が始まったのは大正8年(帝国美術院→現:日本術院の設立)。有名な「帝国ホテル旧館」と「丸ビル」が完成したのは大正12年。「通天閣」の完成明治45年/大正元年である。
 大正4年、のちの全国高等学校野球選手権大会にあたる「全中等学校優勝野球大会」が開催された。阪神甲子園球場完成大正13年である(明治神宮球場大正15年、後楽園球場昭和12年完成)。大正14年には「東京六大学野球連盟」と「大日本相撲協会」が設立。第1回の「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)が大正9年に開催された。日本オリンピックに初参加したのは明治45年/大正元年のストックホルム五輪であり、日本スポーツ界の芽となった時代でもある。
 大正3年、丸の内に「東京駅」が完成。既に明治45年/大正元年にはJTB(任意団体「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」)が設立され、東海道山陽線には展望車両が登場。有楽町には初めてタクシーが現れ、日本の鉄道自動車による運輸・観光業が大きく進歩していった。

 しかしながら、これらのやかな文化事業に大打撃を与えたのは、やはり「関東大震災」であった。純映画運動浅草オペラなど、この震災によって消してしまったものも少なくない。また、第一次世界大戦中の戦争気が過ぎ去って戦後恐慌となり、それに昭和融恐慌が追い打ちをかける格好になると、『女工哀史』(大正14年)に描かれるように、それまでも文化的・経済的恩恵にあずかれなかった地方・農村の立ち遅れと困窮は深刻なものとなっていった。

■ 大正创业的企业

イトーヨーカ堂 (「堂洋品店」 大正9年)  

1920年に東京都浅草で創業した「堂洋品店」という洋店がルーツ
堂」という名前は、当時銀座で繁盛していた「日堂」という店から取られた。これを、創業者である吉川敏雄の生まれ年の干支である「未(ひつじ)」にちなんで「堂」とした。この店が繁盛し、浅草のほかにも千住や荻にも支店を出店。その際に創業者の甥である伊藤譲に浅草店が委ねられ、譲のである伊藤俊も第二次世界大戦後に手伝うようになる。1948年に「合資会社堂」として法人化。1956年伊藤譲が持病の喘息のため逝去し、以降は伊藤俊が堂を取り仕切るようになる。 
1961年俊が欧の流通業を視察し、そこで見たチェーンストアに感銘を受け、堂をチェーンストアに転換する決意を固める。 
1946年に洋品店として開業していた千住店(北千住駅前に所在2009年に「ザ・プライス」へ転換)の装を皮切りに、多店舗展開を開始。店名も「堂」から「ヨーカ堂」、「イトーヨーカ堂」を経て「イトーヨーカドー」と名前を変え、スーパーマーケットへと脱皮していった。ちなみに、「ヨーカ堂」からわざわざ経営者の苗字を店名に追加した「イトーヨーカドー」に店名を変更したかというと、当時同じ屋号の「ヨーカドー」という店名の店が急増し、客が誤って関係の「ヨーカ堂」で買い物をしてしまうというケースが増えたためである。 1971年現在の「イトーヨーカ堂」という社名になる。(社名は未だに「イトーヨーカドー」ではなく「イトーヨーカ堂」のままである)

 

オタフクソース (醤油卸業「佐々木商店」 大正11年)

オリンパス (「高千穂製作所」 大正8年)  黄桜 (「松本造」の分として 大正14年)

キッコーマン (「野田醤油」 大正6年)   (「東洋新社」 大正12年)

神戸屋 (大正7年)  敷島製パン (大正9年)  シヤチハタ (「舟商会」 大正14年)

象印マホービン (「市川兄弟商会」 大正7年)  タイガー魔法瓶 (「菊池製作所」 大正12年)

大正 (「大正所」 大正元年)  ダイソー (「大阪曹達」 大正4年)  チョーヤ梅酒大正3年)

タカラトミー (「富山玩具製作所」 大正13年)  TOTO (「東洋陶器」 大正6年)

人 (「帝国人造」 大正7年)  東レ (「東洋レーヨン」 大正15年)  江崎グリコ大正11年)

トンボ鉛筆 (「小川之助商店」 大正2年)  日本子 (大正8年)  ハウス食品 (「上商店」 大正2年)

ニコン (「日本学工業」 大正6年)  パナソニック (「松下電気器具製作所」 大正7年)

富士急行 (「富士山電気鉄道」 大正15年)  フジ矢 (大正12年)

三井造船 (「三井物産造船部」 大正6年) スズキ (「鈴木式織機」 大正9年)

マツダ (「東洋コルク工業」 大正9年)  日立製作所 (大正9年) 三菱電機 (大正10年)

明治製菓 (「東京菓子」及び「大正製菓」 大正5年)  明治乳業 (「極東練乳」 大正6年)

桃屋 (「桃屋商店」 大正9年)  森永乳業 (「日本練乳」 大正6年)  養命酒製造 (大正12年)

リンナイ (「内商会」 大正9年)  産経新聞 (「夕刊大阪新聞」 大正12年)

岩波書店 (大正2年)  小学館 (大正11年)  集英社 (大正14年)


■ 大正时代的建筑

明治时代是日本建筑大转换的时代。随着生活方式的巨大变化,西洋建筑被大量采用,从木造媚式到石造砖造拱式,日本建筑式样起了根本的变化。明治初年因技术人员和材料的缺乏,往往建造一种“拟洋式”的木造洋馆(如清水喜助设计的筑地旅馆)。政府为了建造真正的西洋建筑,从欧美请来许多技术人员。其中最杰出的是英.国人握特尔斯(T·J·Woters)。他于1868年来日,建造了大坂造币寮(明治4年)、英国公使馆(明治5年),还设计了银座的砖造街(明治6年)。外籍建筑家中,法国人鲍安韦尔(C·de Boindnvill)也很有名,工部大学校讲堂是他的代表作(明治10)。给日本西洋建筑立下大功的是英国人康德尔(J.Conder,1852—1920),他于1877年(明治10年)应聘来日,担任工部大学校教授,培养出一批日本建筑家,如曾弥达藏、辰野金吾等。[注21]他还在内匠寮工作数十年,设计了东京帝室博物馆(明治15年)、鹿鸣馆(明治16年)等,将文艺复兴式、歌德式、都锋式[注22]、阿拉伯式等各种式样传到日本。
   明治中期普遍采用西洋建筑,除皇宫及寺院神社是日本式外,官府、学校、银行、剧场等公共建筑几乎都是西洋建筑。日本式建筑方面有木子清敬设计的皇宫正殿(明治21),木子与伊东忠太设计的京都平安神宫(明治28),伊藤平左卫门设计的京都本愿寺大师堂等。从明治中期开始,西洋建筑的设计和教育转入日本人自己之手,设计了奈良博物馆(片山东熊作,明治27年)、日本银行本行(辰野金吾作,明治29年)、帝国饭店(渡边让作,明治23年)等。辰野金吾是工部大学校最早的日本人教授,他还领导了1886年(明治19年)成
立的日本建筑学会。
   明治后期至大正,钢铁和混凝土开始应用于建筑。这些建筑材料首先使用于桥梁,如东京的新桥(明治41年)。其次使用于房屋,如秀英社工场(明治28年)。由于这个时代流行钢骨构造和钢筋混凝土构造,出现了新的式样即日本式和西洋式混合的折衷式样(如明治32年妻木赖黄设计的东京日比谷的日本劝业银行)。明治大立时代的建筑主流是西洋式,但随着日本国际地位的提高和国粹主义的泛滥,开始研究日本建筑和东洋建筑了。伊东忠太是日本建筑研究的先驱。他排斥欧化主义和折衷主义而主张进化主义,即从木造建筑向石造的公共建筑逐渐进化,换言之,以日本的传统式样为主体,逐步走向西洋化。他的这种建筑思想由巴黎国际博览会(明治33),圣路易斯国际博览会(明治37)和日英博览会(明治43)的日本馆作出了实践。

■ 大正时代的雕刻
   日本的雕刻和其他艺术一样,也随着日本社会的大变革而产生巨大变化。明治维新以前日本雕刻以佛像为主,它随着佛教的衰落而丧失光彩。明治8年发布《神佛合并布教禁令》,宗教雕刻衰微到达极点,相反非宗教雕刻(如装饰品、木偶玩具、坠子等)逐渐发达起来。这表明日本雕刻从宗教解放出来;面向现实的人类生活。
   明治初期主要是移植西洋雕刻。1876朋年(明治9年)工部美术学校创立时,聘请意大利雕刻家拉古萨(V·Ragusa,1841—一1927)来日担任雕刻科教师,培养出大熊氏广、藤田文藏等最早的西洋雕刻家。另一方面传统的雕刻家开始觉醒,出现了象高村光云那样用西欧写实主义手法进行创作的人。高村是从旧时代“佛师”(佛像雕刻家)转变为新时代雕刻家的典型人物。明治初期象牙雕刻很盛,成为对外贸易品中的佼佼者。1881年(明治14)成立雕刻比赛会,1887年(明治20)成立东京雕工会。后来牙雕向大型发展,但由于材料限制,逐渐被木雕代替。
   明治中期国粹主义思潮使人们对木雕重新评价,从而木雕迅速发达。这个时期除木雕外还出现了青铜铸像,长沼守敬的毛利侯一家铜像(在长州山口)和大熊氏广的大村益次郎铜像(在东京九段坂上)为纪念像之先驱。1898年(明治31)东京美术学校设立雕塑科,长沼守敬任教授。他的《老夫像》在1900年巴黎国际博览会上获得了金牌。文展的开设对西洋雕刻刺激很大,一大批新秀脱颖而出。其中获原守卫和朝仓文夫最为著名。前者的代表作为《矿夫》,后者的代表作为《守墓》。获原最先将法国著名雕刻家罗丹的艺术介绍到日本,大力宣传罗丹的思想——“虽然外形单纯粗野,但其内部存在着生命和力,这种东西就是真正的雕塑美。”[注23]荻原天折后,户张孤雁和高村光太郎继续宣扬罗丹的艺术,其影响直至大正时代,而且不仅雕刻界,还囊括整个艺苑。

■ 大正时代的工艺

  明治维新使一切旧工艺(如制造佛具、大名的摆饰、武士的佩戴等)停止下来,代之新时代的工艺活动。明治初年对外贸易给工艺界开阔了活动天地,同时工艺品的出口给国家带来利益,解决了财政困难。所以政府对工艺品生产特别关心,热心进行实用工艺品的技术改革。相反,对装饰工艺品关心较少,从而整个明治维新时期传统工艺品不振,但合乎新时代要求的工艺品发达。这是明治工艺的大势。
   明治大正工艺品发达与海外博览会是分不开的。海外博览会上日本工艺品受到好评,促进政府对工艺品的生产机械化(引进纺治机,用用石膏模子成形陶瓷器)、材料(化学染料、釉)、造形图案等各方面进行研究,提高产品质量。皇室对工艺关心也是工艺发达的原因之一。政府举办各种展览会、劝业会时,皇室总是亲临,给以高度的赞扬和支持。同时皇室又是个大顾客,皇宫的兴建及其室内装饰都需要工艺品。随着日本资本主义的发展和资产阶级的形成,社会对工艺品的需要量大为增加,助长了工艺的发达。
   明治大正时代的工艺大致可以分为以下几类:一金属工艺(包括雕金、锻金、铸金),二漆工艺(包括产业漆工和美术漆工),三景泰篮和玻璃工艺,四陶瓷工艺,五染织工艺,六牙雕和镶嵌工艺。限于篇幅,这里不能一一详述。要之,明治初期的工艺领导是政府机关,最初目的在于出口,振兴产业。接着是遵循这一条路线,在国粹主义与欧化主义,功能主义与装饰主义,产业工艺与贵族的美术工艺之间相互对立抗争中树立日本工艺的格调。另一方面由于技术和材料的改良,近代工艺相当发达,特别如染织和陶瓷那样与日常生活有密切关系的领域更为显著。但这些工艺从造形图案方面来看,还有许多不足之处。

 

■ 大正时代的哲学

   明治政府成立以后,朝野一致积极展开启蒙运动,掀起了一个模仿西方文明的高潮。在这种情况下,人们必须学到百科全书式的知识,不管其学统、时代如何,一律照样仿效。在长期封建专制的抑压下,人们感到欧美世界自由平等,是人类完全独立自主的理想世界,而学问则是达到这个理想世界的不可缺少的一种手段。福泽渝吉就主张:“欲知事物之理,必须学字,此即急务学问之理。”受西方自由主义理论影响很大的加藤弘之(1836—1916)在其《真政大意3》(明治3年)中说,对人民的自由,政府的职责是保护和劝导,除此之外,不可妄加干涉,这是政府存在的“天理”。当时从封建束缚下摆脱出来并由西方知识促使个性觉醒的人们,发现自然科学和社会科学都有一条必然的规律,从而欧美启蒙思想家们的合理观成为最容易接受的东西了。福泽渝吉的《劝学篇》(明治5—9)和《文明论概略》(明治8年),加藤弘之的《真政大意》和《国体新论》(明治8),西周的《百一新论》(明治7年)和《致知启蒙》(明治7年)成为大家喜爱的启蒙读物。这些著作主要是批判和清算封建的意识形态。
   当时以欧美各国为理想而提倡独立自主的启蒙思想家除上述外,还有森有礼 (1847—1889)。1973年(明治6)他组织一个宣传启蒙思想的学术团体“明六社”。该社出版《明六杂志》,召开演讲会,“觉愚蒙之眼”,为开展启蒙运动而尽力。明治初期的哲学主要是移植法国的实证主义和英国的功利主义。在实证主义哲学的影响下产生了日本最早的统计学及其先驱杉亨二(1828—1917),以及田口苗吉的《日本开化小史》。
   明治10年代,日本哲学界仍没有力量评论西方学说,只能追随与模仿。当时英国哲学家斯宾塞(H.spencer,1820—1903)被认为是一大权威,他的进化论哲学对日本哲学界影响很大。他的《社会学原理》(严修译为《群学肄言》)由乘竹孝太郎译出,受到大家的欢迎。斯宾塞的学说受到日本欢迎是由于它和明治时代的文明开化思想相适应。法国卢梭(Rousseau,1710一1778)的天赋人权论也被介绍到日本。他的名著《民约论》有多种译本,其中中江兆民的译本《民约译解》影响最大。中江兆民还著有《理学钧玄》(明治19年)和《三醉人经纶问答》(明治20),前书介绍西方哲学,后书鼓吹自由民权,仰慕法国革命。这个时期自由民权运动高涨,出现了许多鼓吹自由民权的著作,如福泽渝吉的《通俗国权论》(明治11)、植木枝盛的《开明新论》(明治11)和《言论自由论》(明治13)等。
   至明治中期,由于甲午战争的胜利,国民意识高扬,国家主义兴起。在哲学上对以前引进的自由主义哲学发生怀疑,终于抛弃英、美、法的实证主义哲学,引进德国的理念主义哲学。日本最早移植德国唯心主义哲学的是西周,他在《人生三宝说》中介绍了康德的《纯理性批判》。但有系统介绍德国哲学的是竹越与三郎(1865-1950),他在《德国哲学英华》中介绍了黑格尔的辩证法。明治20至30年代大力移植德国哲学的时代,唯心主义哲学统治整个日本哲学界。与唯心主义哲学流行的同时,国粹主义也泛滥起来。三宅学岭组织政教社,出版杂志《日本人》,领导国粹主义运动。三宅学还写了《真善美日本人》和《伪恶丑日本人》,在他的《哲学涓滴》中,把他的国粹主义和德国唯心主义哲学有意识地结合起来。除三宅外,移植德国哲学的还有清野勉(1853—1904)、大西祝(1864年—1900)等。
   唯心主义哲学的流行助长了儒教和佛教的复活。1890年《教育效语》的公布,标志着封建的儒学思想卷土重来。佛教学者井上圆了(1858—1919)和清泽满之(1863—1903)妄图抓住西方科学的片段来掩饰佛教的非科学性。前者著有《佛教活论》,后者著有《宗教哲学骸骨》。
   至明治后期,开始介绍西方哲学原著,如木村鹰太郎的《柏拉图全集》五卷等。还出现了专著,如波多野精一的《斯宾塞研究》等,同时由于哲学逐渐成为知识分子的一种教养,出成了许多哲学概论书,如桑木严翼的《哲学概论》(明治35)。有一部分人不满足于西方哲学,潜心研究印度哲学和宗教学,于是出现了村上专精的《日本佛教史纲》(明治31年,有商务印书馆的中译本,)、境野黄样的《印度宗教史》(明治38)、高额武次郎的《老庄哲学》(明治42)、姊崎正治的《宗教学概论》(明治33)、加藤玄智的《东西比较宗教教史〉(明治36)等。此时儒教思想特别受到尊重,恢复了德川时代的释奠(祭孔),设立了孔子祭典会。这个时期心理学和美学从哲学中独立出来,出现了日本最早的心理学家元良勇次郎(1858—1912)和美学家森林太郎(鸥外)、高山林次郎(梧牛)。

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