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阿兹特克文明

  "困难在于让发现变得有血有肉"——《与泰斯特先生夜叙》,保罗·瓦莱里

「アステカ人の日常生活」La vie quotidienne des Aztèques,1955

第一章 起源
 在1519年西班牙征服者入侵之前,阿兹特克人或墨西哥人的语言和宗教覆盖了南美的广大地区。从大西洋到太平洋沿岸,从北方的大草原到南方的危地马拉。他们的君主莫克特苏马国王的名字在这片广袤的土地上响起,令人敬仰和畏惧。 商人的车队中穿梭于全国各地,官员们则从各地征收税款。 在边境上,阿兹特克人的金银财宝让未被征服的居民感到害怕。 在首都特诺奇蒂特兰,建筑和雕塑令人难以置信地先进,而服装、食品、庭院和金银制品等方面的奢侈品也在流行。然而,阿兹特克历史的开端并不为人所知。直到十三世纪,他们才抵达墨西哥中部,并长期被当作半野蛮、贫穷、没有土地的陌生人。他们的统治只能追溯到伊茨科尔特国王时期(1428-40)。

I. 前古典时期
 早在公元前15000年或20000年,猎人的足迹就已经踏上墨西哥中部的土地,他们挥舞着石器,在泻湖和沼泽地里追踪猛犸象和其他野生动物。在公元前三千年,起源于东部和南部热带地区的农作物被引入高原。玉米、豆类、油籽、青葙、葫芦、西红柿和辣椒都是在那个时候开始种植的。 棉花无法适应中部平原的环境,但龙舌兰提供了纤维。 伴随着农业、陶器和纺织品的出现,村庄出现了,土著群体在耕地附近定居下来。 大约三百年间,过着与旧大陆上新石器时代的村庄类似的生活。墓葬出土的大量和多样的陶器,神明的泥塑和装饰品,证明了一个高度分化的社会结构存在。 在前古典时期的末期,奎库伊尔科(Cuicuilco)的原住民人口大大增加,变得更加有组织,建造了墨西哥第一批金字塔和坟墓,它们更像是由瓦片和石头组成的梯形土丘。

Ⅱ. 奥尔梅克文明 Olmec

  已知的最古老的美洲文明,奥尔梅克文明,约存在于公元前1200年~公元前400年。他们在中美洲圣洛伦索高地的热带丛林当中建立了名副其实的城市,随后迁移岛墨西哥湾的拉文塔。奥尔梅克文明最终在公元前400年左右消失,为爱比奥尔梅克文化所取代。其消失的具体原因尚不得知,但它影响了大量的中美洲文明。奥尔梅克文明的许多特征,如金字塔和宫殿建造,玉器雕琢,美洲虎和羽蛇神崇拜也是后来中美洲各文明的共同元素。大多数学者认为奥尔梅克文明是玛雅、萨波特克、提奥提华坎等文明的母体。奥尔梅克文明可以被看作是前古典时期(村庄时期)和古典时期(城市时期)之间的一个过渡时期。

Ⅲ. 古典文明时期
 公元一千年的时间里,相当于墨西哥的古典文明时期。 当时,四大文化中心都有非凡的光彩。 南面是玛雅国家,有帕伦克、亚奇兰、科潘、皮德拉斯-内格拉斯、乌斯马和拉布纳等大城市。 瓦哈卡地区的萨波特克人,蒙特阿尔班和米特拉市。 El Tajin,现在在韦拉克鲁斯州,和中央高地的特奥蒂瓦坎。

 

紀元一千年紀は、メキシコでは古典期文明の時期に相当する。当時、四大文化の中心が類いまれな光彩を放っていた。南には、パレンケ、ヤシュチラン、コパン、ピエドラス・ネグラス、ウシュマル、ラブナのような大都市を擁するマヤの国。オアハカ地方のサポテカ族は、モンテ・アルバン、ミトラの都市。現ベラクルス州にあるエル・タヒン、そして中央高原地帯のテオティワカンがそれである。
 巨大な太陽と月のピラミッド(高さ六十三メートルと四十三メートル)、長さ一、七〇〇メートルの死者の大通り、農事の神々や翼蛇の神殿、彫刻、フレスコ画、良質の石のマスク、すばらしい彩陶などをとりそろえたテオティワカン(開花期、紀元約四〇〇 ― 七〇〇年)は、神政的、平和な首都であり、その影響はグァテマラまで放射状にひろがっていたと思われる。聖職者たる貴族階級は、言語については不明だが、フレスコ画や彫刻類の細部によって、たぶん東部の海岸、オルメカやエル・タヒンの地域に発祥したことが証明されつつあり、一方、農民の集団は、オトミ族その他の未開部族で構成されていたらしい。宗教は水や雨の神(アステカ族はトラロックと呼んだ)、大地の豊穣のシンボルである、翼蛇の神(ケツァルコアトル)、水の女神(チャルチウトリクェ)、の祭祀を行なった。或る壁画は、テオティワカンの住民が、彼岸の生活は天国の中にあると信じ、幸福な人々が慈悲深いトラロックの守護のもと、熱帯の楽園でその歓びを歌う情景を描いている。遠大な距離と、厳しい自然の障害によって隔てられてはいたものの、古典期の四中心地は確実に相互に接触をもっていた。品物(土製あるいは雪花白膏製の壺類)、建築、装飾のテーマ、思想、祭式は、商人や巡礼者と一緒に渡り歩いた。記念建造物、浅浮彫、象形文字、暦は明確な様式の相異にもかかわらず、多くの共通する性格を示している。
 ことのほか輝かしかったこの時代のただ中で、アステカ族はいったいどこにいたのであろうか。伝承によると、当時彼らはメキシコの北西部、あるいは現在の合衆国の南部にあった国、アストラン(彼らの名称はこれに由来する)に住んでいた。彼らの言語、ナウアトル語は、北はユタ州から南はニカラグァにかけて、さまざまなその方言が分布する一語族に属している。土着の年代記では、彼らを、アステカ・チチメカ族、「アストランの蛮族」と呼んでいる。換言すると、彼らは当時、チチメカ族(「野蛮人」)という名で知られる、好戦的な、遊牧・狩猟民と同じような生活の仕方をしていた。すなわち、大草原や山岳地帯で狩猟や食料採集によって生計をたて、毛皮をまとい、洞窟や粗末な掘建小屋に身を寄せていた。われわれの有する唯一の正確な年代情報によると、メキシコ族がアストランに生活していた期間は、のちにわかるように、トゥーラ陥落の年、紀元一一六八年をさかのぼること四〇〇年×二+二〇年×一〇+一四年に落ち着く。したがって、おそらくもっと北方の地域からやって来て、二世紀の中頃(一五四年?)、アストランに定着したのだろう。
 ともあれ、彼らは一〇〇〇年間、中央高原地帯の諸文明の圏外にあって、互いにその存在に気付かない状態にあった。しかしながら、彼らの仮定上の発生地とメキシコ河谷とのあいだには、他にも多くのチチメカ系の蛮族 ―― その一部は少なくともナウアトル語の方言を語っていた ―― が、サン・ルイス・ポトシ、グァナファト、ケレタロなど、現諸州の広大な地域を占拠していた。したがって、アステカ族はメキシコの地域ならびにその文明と歴史の圏外にあったことになる。

Ⅳ. 特奥蒂瓦坎文明

特奥蒂瓦坎文明起始于前200年左右,是个在奥尔梅克文明灭亡之后才诞生,约与马雅文明同期的古印地安文明。然而,不似其它古印地安文明般在谱系上的脉络比较分明,关于特奥蒂瓦坎人的起源,迄今为止仍然是尚未厘清的谜题,也没有任何人能证实该文明曾拥有文字并且留下资料记载。今日我们之所以知悉这文明的存在,除了是因为他们遗留下了巨大的遗迹可供分析证明外,一些与他们同时期的其他周边文明在典籍或绘画中提到关于特奥蒂瓦坎人的事情,也是另一个参考的关键。特奥蒂瓦坎人并不用这个名字称呼他们自己,这名字是该文明灭亡后,接着存在于此地区的后继文明托尔特克人以他们所使用的纳瓦特语(Nahuatl,一种墨西哥中部的印地安原住民语言)用来称呼前人,意指“众神造人之地”。虽然在托尔特克人乃至于更后期的阿兹特克时代,该古文明早已消逝无影踪,但他们仍然视特奥蒂瓦坎人曾居住过的古代城市作为圣地,也因此会有这样的称呼。
特奥蒂瓦坎人在前200年时出现在墨西哥中部高原,并且在1年到150年间,建造了一个人口约为5万的城市,堪称是整个美洲地区最早存在的城市等级之聚落。在这段期间,他们建立了一个以南北向的“亡者之路”(特奥蒂瓦坎遗迹的中心轴线)为中心的初级规模城市,建筑物主要以金字塔和庙宇为主,之后城市逐渐成长各种平民使用的建筑物也建筑完成。整个城市与文明的发展在600年时达到高峰,当时特奥蒂瓦戛纳的人口可能在10万到20万人之间。拥有巨大的建筑、精致的壁画等文化成就,但却在650年至750年之间因为不知名的原因没落,最后消失无踪。

 


 今もって不可解な経済的・社会的諸現象に基づいて、古典期の大都市は、九世紀から十世紀にかけてじょじょに放棄されていった。テオティワカンの衰退は比較的早く始まったけれども(八世紀)、この都市の「植民地」は大きな湖のほとりのアスカポツァルコに存続した。
 ナウアトル語族がメキシコ史上にはじめて登場するのはこの頃で、以後ここに支配的な役割を果たすことになった。北方から来たトルテカ族は、現在のマメーニというオトミ部落の位置にあたるトゥーラに、伝承上の年代によると、紀元八五六年に彼らの都を定めた。おそらく、最初のトルテカ移住民はまだ未開で数も少なかったので、テオティワカンに発祥し、また古典期の神権政治の伝統に忠実な司祭階級の指導権を、約一世紀のあいだ、多少なりとも好んで受け入れたと思われる。神話伝承の物語では、王=神官であるケツァルコアトル、翼蛇 ―― ナウアトル語とは別の言語を話していたといわれるが ―― によって象徴されるものは、あらゆる人身御供を禁じ、雨の神の祭祀を厳粛にとり行ない、地上あまねく善と徳を顕示し給うことにあった。しかし、相ついで波のごとく打ち寄せる北方移民の到来によって、このもろい均衡はまさに破られようとしていた。北方の土着民は彼らと共に新しい思想、新しい慣習、天体宗教、明けの明星の祭祀、宗教戦争の概念、人身御供、軍事的社会組織、をもたらした。呪術神テスカトリポカは、大熊座の神、きらめく星空と夜風の神、戦士の守護神、これらすべての統一体を象徴している。トゥーラにかんする叙事詩群は一連の闘争、内戦、魔術について述べているが、それらのおかげで、テスカトリポカは(九九九年)ケツァルコアトルを追放するのに成功した。失脚した王は、「神の海」のかなた、東の水平線の背後にある謎の「黒と赤の国」、トリラン・トラパランへ亡命した。
 いわゆるトルテカ文明は十一世紀のはじめ頃開花した。天上の神々は、いにしえの大地と水の神々の上位にたった。翼ある蛇それ自身が、一種の形而上学的アイロニーによって、天体の神、金星の神となった。人身御供は一般化された。建造物には長い帯状装飾によって、鷲(太陽の象徴)と、人間の心臓をかざしたジャガー(テスカトリポカの象徴)の像が現われる。神殿はもはや、これまでのように、神官だけしか入れないような、こまかく仕切られた聖殿ではなく、軍人たちも集まることのできる、柱廊のある大広間を含むようになる。軍人貴族出身の「王」は、軍人と一緒に、かつて司祭階級のもとにあった諸権力を掌握した。トルテカ文明は、中央高原地帯から、西はミチョアカン、東はメキシコ湾岸、南東はオアハカならびにユカタン地方へと放射状に広がった。その子孫であるユカテカ族は、チチェン・イッツァにおけるトルテカ・マヤの合成から生まれ、二世紀のあいだ、疲弊したマヤ文明の真の復興にあずかって力あった。その芸術、宗教観、王朝組織の本質は、スペイン人の征服時までメキシコに存続した。一一六八年、あいつぐ内紛と新たな移民の侵寇に抗しきれず、トゥーラの都は荒廃し、放棄された。しかし、トルテカの重要な分身は他の諸都市、とくに湖岸のコルワカンと、翼蛇に敬意を捧げる巡礼地、チョルーラに建設されたままのこった。かくしてトルテカの伝承、トゥーラの言語、習慣は都が陥落しても保存されたのである。
 トルテカ王国の崩壊は、当時のメキシコ情勢に大きな動揺をひきおこした。その知らせは順次、部族から部族へと遠くアストランまで伝達されたはずである。いたる所、大草原や高原地帯を通って、蛮族たちは南下しはじめた。伝承ではショロトルと呼ばれる一首長が、彼らの先頭をきって、最初に旧トルテカ王国の領土に侵入し、なんなくそこに定着した。チチメカ族は中部メキシコの洞窟や森林地帯におもむいて、従来どおりの生活様式を続けていた。しかし、彼らは破壊を免れたトルテカの諸都市と交渉をもつようになった。彼らの初代の「王」の一人、ノパルツィンはコルワカンのトルテカの首長の娘と結婚し、最初の姻族関係を結んだが、のちにその数は増加した。アステカ族についてみると、彼らも同様に一一六八年に長い移動の旅を開始したが、約一世紀おくれて、メキシコ河谷にたどりついた。当初の宿営地の一つは、伝承によるとチコモストック、「七つの洞窟」とよばれ、その頃の彼らの生活様式をはっきりと暗示している。彼らは途中で、やはり南下中の他の部族に出会っている。彼らはミチョアカンを通過して、高原地帯のトゥーラの領域にはいった。もちろん、その移住を継続的移動と見なしてはならない。彼らは時には何年間も具合のよい土地に住み着いた。あるときは戦い、またあるときは文明化した住民と平和な接触を保ちながら、生来の、簡単にものを合成する才能のおかげで、彼らはすみやかに技術(とくにトウモロコシ農耕)、習俗、祭式などをとり入れていった。移動中の部族が、どのように組織されていたかという点についてはあまりわかっていない。土着の歴史写本によると、「神の荷役人」といわれる神官たちに部族は引率されていたことがわかる。神官たちは、部族神である、蜂鳥の形をした太陽神、ウィツィロポチトリの像を肩に担っていた。この神官たちは当時、部族の「政府」を構成していた。ウィツィロポチトリが彼ら神官に語りかけ、その命令を伝達するのが彼らだった。部族は氏族に分けられていた。たぶん、古代の会議は氏族の長、家長などが寄り集まって、重要な決定事項を討議したと考えられる。アステカの制度は当時、因習的な民主的部族生活に基礎を置いた、神権政治であったといえるだろう。

 

Ⅴ特奥蒂瓦坎文明

五 トルテカ後の情勢
 この不明確な部族が、かくしてゆっくりと中部メキシコへ接近しつつあった頃、この地域でははげしい文化的変動が行なわれていた。一足先に着いた蛮族共は、きわめて迅速に後期トルテカ諸都市の定住生活、農耕、言語、慣習、政治方式をとり入れた。十三世紀末から、チチメカ族は洞窟を捨て、みずからの手で、テスココのような輝かしい未来を招いた諸都市を創設した。十四世紀には、コルワカン(トルテカ)、テスココ(チチメカ)、アスカポツァルコ(おそらく本来は、オトミか「ナウアトル化した」マサワに属する国)、シャルトカン(オトミ)、その他二十八か国によって、中央高原地帯は分有された。これらの国々のあいだの同盟、連合、戦争、襲撃は日々、政治的均衡をくつがえした。それぞれの都市国家が覇権を握っていた。まさに暴力と陰謀の時代であり、しかも同時に、豊かな文化発展の時代でもあった。トルテカ文明は、粗暴な北方侵入者の中で生き返った。

Ⅵ テノチティトランの創設
 メキシコ人たちは集まり,彼らはウィツィロポチトリの家を建てた。湖にいる魚やアショロトル,蛙,ざりがにで,石や木を買おうではないか,と,洗練さと残忍さを合わせもった、このような世界へ最後に到着したアステカ族は、多くの苦しみを体験した。ある王は隣接諸国の模倣に専念しようとしたあまり、コルワカンと争うことになった。彼らの王、ウィツィリウィトル(長老の意)は戦に破れて捕虜となり、生贄にされた。最初はティサパンという不毛の土地へ追い払われたアステカ族は、流浪の末、大きな湖の西方にある、湿地帯の小島に逃げのびた。伝承によると、一三二五年、ここでウィツィロポチトリが大神官クァウコアトル(「鷲蛇」の意)に次のように告げたという。「喜々として蛇を貪り食う鷲」のいる、岩島上の「藺草の中、葦の茂み」にわが神殿と都市を建設せよと。クァウコアトルと他の神官たちは、早速、神託の証を捜しにでかけた。すると、サボテン(テノチトリ)の上にとまり、蛇を嘴にくわえた一羽の鷲を見つけた。そこでここに、ウィツィロポチトリの初の聖殿であり、のちの都、テノチティトランの基である、葦の粗末な小屋が建てられた。

  Ⅶ 王国の出現
 古代の絵文書は、この時代のアステカ人が丸木舟と網を使って、基本的には漁労と水鳥猟に生業をおいて、水陸両棲的な生活を送っていたことを実際に示している。しかしながら、その貧しい部落もやがて島々に広がっていった。土着民は藺草の筏の上に泥を積み上げて、チナンパスという浮遊菜園をつくり出した。それにしても、昔の王国の夢が忘れられなかった。つかの間のウィツィリウィトル王時代のときのような災難を、今度ばかりは避けたい一心から、アステカ族はコルワカンのトルテカの血統に主君をもとめようとした。そうすれば、彼らの王国も輝かしいトゥーラの黄金時代と関係をもつことになるだろう。この君主、アカマピチトリ(「一束の葦」)は一三七五年に即位した。彼の後継者である、第二代ウィツィリウィトル(「蜂鳥の羽毛」)は姻族同盟という政策をとった。かくして彼は、その熱帯地域から「必需品の綿」を輸入できるように、クァウナワック(クェルナバーカ)の首長の娘である、ミアワシウィトル(「トルコ玉色のトウモロコシの花」)王女を手に入れた。しかし、コルワカンの好運の星も色褪せ、一方、好戦国アスカポツァルコは、中央河谷地帯にその勢力をのばしてきた。第三代のアステカ王、チマルポポカ(「煙る楯たて」)、はアスカポツァルコの単なる封臣にすぎなかったため、十年前のテスココの王の場合と同じように、一四二八年に殺害されてしまった。

Ⅷ 三国同盟の締結
 彼の死後、アステカの都市の情勢は絶望と見えた。アスカポツァルコの老王、テソソモックは、大きな湖の東西にわたる広大な地域を、すでに自分の領土に合併していた。テスココの正統な王位継承者である、ネサワルコヨトル(「断食する狼」)王子は、テソソモックの兵士たちの追撃を受けて、山中をさまよっていた。テノチティトランにおいてすら、強力な「平和派」はいかなる抵抗もかなわぬと宣言し、降伏を唱えていた。
 しかし、この悲惨な状況の中で選ばれた、第四代のアステカ王、イツコアトル(「黒燿石の蛇」)は抵抗の口火を切った。ネサワルコヨトルと同盟を結んだ彼は、優勢な都市の攻撃を退け、ついでアスカポツァルコにさえ戦勝し、逆にその国を侵略し、滅亡させた。
 二人の征服王は、賢明にもアスカポツァルコ族系の一都市、トラコパンと盟約を結び、ここに、テノチティトラン(メキシコ)、テスココ、トラコパンの三国同盟が成立した。この同盟の内部で、アステカはいち早く重要な軍事的役割を担い、一方、テスココは詩人王である、ネサワルコヨトルの賢政のもとに、芸術、文学、法律の首都へと変容していった。三国同盟は事実上、アステカ王国となった。

 

 

第二章 一五一九年のアステカ王国
 イツコアトルの死去した一四四〇年に、三国同盟は中央河谷一帯を制圧し、またその勢力はすでに河谷を越えて広がっていた。事実、トラコパンの都市は同盟側にアスカポツァルコの遺産、すなわち、河谷の北西部にあたり、住民は本質的にはオトミ族(クァワカン)である山岳地帯をもたらした。他方、テスココも、北東部は海岸地方(トゥシュパン)までその威力をふるった。
 メキシコでは、イツコアトル王時代の末からスペイン人の侵略までに、五人の王が継続した。
1440~1469年 蒙特苏马一世("惹怒首长之人"·"天矢射手"·"长老")
1469年~1481年 阿萨亚卡特尔("水面具")
1481年~1486年 蒂索克("自施刺絡之人",暗示自我献祭)

1486年~1502年 阿维特索特尔 ("长刺水怪")

1503年~1520年 蒙特苏马二世("年轻的蒙特苏马")
 ティソック王 ―― 即位後五年にして毒殺されたらしい ―― を除くと、いずれの王も長期間、権力の座にあって、絶えず二つの事柄に苦心しながら政治にあたった。一つは三国同盟の支配権を新領土へ拡大すること、もう一つは、同盟の中枢部そのものの中で、他の二都市を犠牲にしても、テノチティトランの権力を強化すること、であった。ネサワルコヨトルの死(一四七二年)は、この制覇への段階で重大な障害をとり除いてくれた。この時からメキシコの国王(トラトアニ)、最高軍指令官(トラカテクゥトリ)は、テスココの中枢部に立ち入って、王位継承すら彼の思うとおりに左右し、またトラコパンの王をもはや、同盟主としてではなく、臣下として扱うほどの、唯一絶対の王者となった。征服についてみると、当初はメキシコとテスココによって、対等の立場で計画されていたが、その後、アステカ国王ならびにその側近たちの独断的な指揮のもと、三都市間の力関係によって計画されるようになると、北はパヌーコ南岸にある「前哨基地」を含む、シロテペック、ウィチャパン、ノパラ、ティミルパン、シマパン、といったようなオトミ族の小部落のある境界線まで、東は海岸地帯とメキシコ湾に沿って、トゥシュパンからトゥシュテペックまで、南東はテワンテペック地峡の方から高原(プエブラ)へ、ついでミシュテク山岳地帯(ヨアルテペック)を通ってサポテカ河谷(オアハカ)まで、南は豊かな熱帯地方のクァウナワック(クエルナバーカ)、オアシュテペック、タシュコから太平洋岸地帯(シワトラン、アカプルコ)まで、西は、トルーカの高原地帯を通って、ミチョアカンの国境地帯まで勢力を拡大していった。

モクテスマ一世は熱帯地方(クァウナワック)の征服を首尾よく成したとげた。アシャヤカトル王は隣島の都市、トラテロルコを併合して、湖上におけるテノチティトランの覇権を強固にした。彼は西方(トルーカとショコティトランの征服)に主力を注いだ。しかし、タシマロアにおいてどう猛なミチョアカン王国と対戦して惨敗を喫した。アウィツォトルは王国を北と南、すなわちシウコアックからオアハカ、さらにショコノチコ方面に発展させた。各時代の征服のリストには、しばしばいくつも同じ都市の象形文字があらわれており、このことから、いくつかの征服は、はっきりしていなかったものと思われる。反乱は絶えず暴発していた。たとえば、クェトラシュトランの場合のように、納税に不満な住民たちはアステカの徴税官を家の中に押しこめて火を放った例もある。

 

第五章 宗教

  阿兹特克人的宗教很简单,最初完全是出于对天体的崇拜,并在与中央高地文明和定居居民接触后变得更加复杂。 随着王国的扩张,它吞并了偏远部落的神明和仪式。 在十六世纪初,他们的宗教主宰了生活的方方面面,将起源不同的信仰和仪式汇集成一个不完整但统一的整体。从北方的野蛮人时代开始,当阿兹特克人还是猎人和战士的时候,他们就拥有了许多星神。太阳以托纳蒂乌的名义被崇拜。阿兹特克人的战神、墨西加人的部落神、特诺奇蒂特兰的主神"维齐洛波奇特利",原本只是一介凡人(也许是部落首领和巫师),随着墨西加人称霸之后,祂更被升格为太阳神,被视为特斯卡特利波卡的一个面相、正午太阳的化身。该神话的许多特征都来自于托尔特克文明。

 

正是在离图拉不远的科阿特佩克山上,大地女神科亚特利库埃(有蛇裙的女神)身上出现了。 他一出生,就立即用他独特的武器驱逐了Siukoatl(绿松石蛇)和他的兄弟 "南方四百"(南方星座),以及他的妹妹Koyorschauki,黑暗女神。

特奥蒂瓦坎文明

科亚特利库埃(Coatlicue):吞噬一切生命的残酷大地女神。当生命到了尽头,她就会以其韧颚咬碎,使其归还大地。

 

  その神話のさまざまな特徴は、トルテカ的概念から引き出されていた。この神が大地の女神、コアトリクェ(蛇のスカートをはいた女神)から奇跡的に生まれ出たのはトゥーラからさほど遠くない、コアテペック山上であった。そして、生まれ出ると、彼はただちに独特の武器で、シウコアトル(トルコ石の蛇)とその兄弟たちの、「南方の四〇〇人」(南の星座)、およびその妹である闇の女神、コヨルシャウキを追放した。ウィツィロポチトリはアステカの万神殿(パンテオン)を支配していたが、もう一つの星神、テスカトリポカの重要性もそれに匹敵し、少なくとも神官たちの神学的思弁の上では、しだいに大きな役割を果たすようになったと考えられる。大熊座と夜空の象徴、そして「夜風」であるテスカトリポカは、自らの姿はかくしながらも、全知であった。彼は若い戦士ばかりでなく奴隷をも守護し、国王任命の際には偉大な選挙者に霊感を与え、その過失を懲らしめたり、許したりした。神話の世界では、呪文によってトゥーラの都から聖なる翼蛇の追放に成功し、人身御供をメキシコに強要したのも彼であった。ウィツィロポチトリの小従神であるパイナル、「雲の蛇」、狩猟の神であるミシュコアトル、北方の星座である「四〇〇の雲蛇」も同一の範疇に属する星神たちであった。
 高原地帯の古代古典期文明の宗教は、二柱の最高神(大地と火)の祭祀、雨の神と水の女神、農穣と植物繁殖の象徴である翼蛇神の祭祀を基礎としていた。先住の未開人、特にオトミ族は、十六世紀にも大地と月の女神、火と太陽の男神の信仰を保っていた。トルテカ期からトルテカ後期にかけて、長いあいだ練りに練られたこの概念は、アステカ人によって彼らの神学に合体されたけれども、重大な修正を伴っていた。二柱の最高神の構成、食物の男神と女神ともよばれる二元的男女神は、第十三番目の天空界の頂上に鎮座ましました。しかし、他の神々によって、いわば蝕されて、人間をもはや「堕落」させる機能、すなわち運命を定めて人間をこの世に生まれさせる機能しかなくなってしまった。火の神は、いぜんとしてアステカの万神殿の最も重要な神々の一つであった。これは「トルコ石の主神」、「老神」(その像はしわくちゃな顔の老人の姿で表現されている)、または「オトミの主神」とよばれていた。食事のはじめに、人々は、わずかばかりのトルティーヤと数滴の酒を、この神に供えた。特に商人はことのほかこの神を尊敬していた。​

テオティワカンにおいて、紀元一〇〇〇年紀のあいだ礼拝されていた、太古の水と雨の神、トラロック、また河川の女神チヤルチウトリクェ(硬玉のスカートをはいた神)は、気候の乾燥した地方では、人間生活がこれらの神々のお慈悲にすがる度合が強ければ強いほど、熱烈に崇拝されていた。トラロックは恵みの雨を降らすことができたが、雹や雷を落とすこともできた。雨季には、山々に雲がかかった。だから人々はたくさんの神の「替玉たち」、すなわちトラロック族が山頂に住んでいて、それで山の祭祀は厳密に雨の神に関係するものだと考えていた。ウィツィロポチトリの大神官とトラロックの大神官は、同等の資格で、神官階級の二つの最高の地位を占めていたように、テノチティトランの大神殿の頂上にも二つの聖堂が安置されていた。ウィツィロポチトリの聖堂は白と赤、トラロックの聖堂は白と青であった。このように、好戦部族の天上の宗教と定住部族の大地の宗教が、アステカ式総合の中でいわば融和されてしまっていた。右のような、二つの基本概念にまつわる諸要素の類縁関係は、「神々の母神」「われらが祖母」「蛇のスカートをはいた女神」「蛇女」「われらが崇高なる母」とよばれる、大地の女神たちの中にも認められる。彫像、写本、宗教詩には、あるときは「蛇の血で彩られた鷲の羽根の冠をいただく」戦士の属性をともなって、またあるときは「聖なるトウモロコシ畑に」魔法の鈴を使って雨を降らせる植物の女神たちとして、それらの神々は示されている。畏怖されまた崇拝されて、女神たちは生贅の血と遺骸とを吸い込む大地をも象徴していた。この女神たちのうちの若干の神々は、アステカ族の北東部の隣国、ワステカ族から、とり入れられたものであった。すなわち愛の女神、トラソルテオトルとその四人の姉妹たちがそれであった。反対に、イツパパロトル(「黒燿石の蝶」)は北方の大空の星座、蛇座(雲の蛇)、ミミシュコアと関係のある、北方草原地帯の神としての性格を備えていた。老女として表現されているイヤマテクゥトリは恒星の女神であった。西方の空には、またの名を「王女たち」とよばれる聖女たちが住んでおり、また神秘の園、タモアンチャンのあるのも西方の国で、そこは太陽の沈む衰退の地であり、また母神たちの受胎によって分かち与えられた生命の源泉地でもあった。上古の古典期から知られている、すべての神々の性格の中でも、最も大きな変貌をとげたのは、ケツァルコアトルの性格である。翼蛇はもはや、地上界の権力も植物の繁殖も象徴していなかった。明けの明星と宵の明星である金星神は、その双生神のショロトル(犬神)と共に死と復活の概念に合致していた。「黎明の館の主神」、風の神、文化の神人そして文字、暦、芸術の発明者であるケツァルコアトルは、神話を通して、トゥーラの神官王と混同され、メキシコ人の宗教観の中で、いぜんとして、トルテカ黄金時代との関係を保っていた。食用植物の中で最も重要なトウモロコシの神々は、特に熱烈に崇拝されていた。最高位にはチコメコアトル(「七匹の蛇」または「七つの穂の女神」ともいわれる)がいた。古いトウモロコシは、タモアンチャンから出発して、雨の神々に導かれて、冥界の旅を経たのち、シローネンの(トウモロコシの若い穂、シロトルの)姿やシンテオトル(「トウモロコシの神」)の姿となって再び東方に現われた。これらの若いトウモロコシの神々は、青年、歌、音楽、遊戯の神々ショチピリ(「花の王子」)とマクィルショチトル(「五つの花」)と関係があった。アステカ思想の全般にわたる、暗く血なまぐさい調子とは対蹠的に全く、優雅なほほえましい神話がこれらの神々をとりまいている。生活様式を等しくしていた潟の部族と接触することによって、アステカ人は彼らの神々を採用した。たとえばオポチトリ、「左利きの人」はチュルブスコ、アトラワ、アミミトルの神である。同様に、ただしこの場合は農耕部族との接触によるのだが、アステカ人は「四〇〇の兎」とよばれる小さな豊穣の神々の祭祀をとり入れた。豊かな収穫を祝う宴会を司る、地域神、あるいは部落神もその中に含まれていた。月(これには特定の祭祀は行なわれなかった)はその円盤の中に兎の形をもつと見なされており、また植物の生長も月の作用によるものとされ、さらに一方では、祝宴は酒盛りで終わるのがつねなので、兎はオクトリと酔いの神となっていた。人々は兎を「無数の」(数字の四〇〇の意味するもの)という意味に用いたが、それは無数の酔態があったからである。たとえば「各人に各兎」すなわち、「人には誰しも自己流の酔い方がある」という有名な諺によっても、それは立証される。この一群の神のうち、オメトチトリ(「兎神」)、テポステカトル(熱帯地方の小部落、「テポストランの神」)の祭祀は、メキシコでは、オメトチトリの称号をもった司祭長のいる、四〇〇人の神官学校で行なわれていた。すでに挙げたいくつかの神々も、そしてまだ言及していない神々も、それぞれしかるべき範疇の住民や共同体と関係をもっていた。第一に、アステカ王国南西部のヨピの国からもたらされた金銀細工の神、シペ・トテックと商業の神、隊商の守護神であるイヤカテクゥトリを挙げることができる。コアトリクェは花屋を守護し、テテオインナン、「神々の聖母」は医者と産婆の女神、ツァポトラテナは薬用樹脂商の神、チャルチウトリクェは水の運搬人の神、漁師とか水鳥の猟師はオポチトリ、アトラワ、アミミトルを崇拝し、筵、柳の椅子の製造人は小さな水の神、ナパテクゥトリを崇拝した。ショチケツァルはそのご利益を織工、宮廷人に及ぼし、ウィシュトシワトルは塩商人、トラマツィンカトルとイスキテカトルは、オクトリの商人に、コヨトリナウアルは、羽毛モザイクの専門職人に、シンテオトルと他の三神は彫金師たちにそれぞれ利益を施した。祝宴の神、オメアカトルもあった。一家の主人があまり彼を崇敬していないと判断すると、彼は料理に毛髪をはえさせて、復讐した。もう一つの神、「少黒神」は子供の病気をなおす専門家であった。クァトとカショチの女神は頭の病気を加護し、一方テマスカルテシは蒸し風呂の効力に注意を向けていた。要するに、古代と近代の、天上界と地上界の、農耕と湖水の、トルテカ・アステカの、異国の、部族の、共同体の、といった八百万の神がひしめくこの万神殿の中では、軍隊の指揮から織物製作、医薬のことから愛情、神官から筵作り、金銀細工から漁労のことにいたるまで、あらゆる形の人間活動が超自然的な力に依存していたわけである。

二 宇宙と聖戦

東はトラロックの庇護のもとにある熱帯の豊かな天国。南は、「いばらの国」と乾燥の国。西はタモアンチャンの園と女神たちの国。そして最後に、中央には、ちょうど炉が家の中央を占めるように、火の神を置いた。年は、一番はじめの日の記号に従って、四つの方位基点(東西南北)に再区分されていた。すなわちアカトル(東)、テクパトル(北)、カリ(西)、トチトリ(南)、がそれである。

  古代墨西哥人认为世界是一个十字箭头, 四个方向各对应一种颜色、一或多位神明,以及包括"年的搬运者"在内的占星历的五个符号。 北方是冥界之神米克特兰特库特利统治的黑暗之国,东部是特拉洛克保护下的富饶热带天堂。 南边是荆棘和干旱之地。 西边是塔莫安昌的花园和女神的土地。 最后,在中心,就像火炉占据了房子的中心一样,被放置了火神。 根据第一天的符号,一年被重新划分为四个方向的基数(东西南北)。 根据第一天的星座,一年被重新划分为四个方位基点:Akator(东)、Tekpatol(北)、Kali(西)和Tochitli(南)。


 アステカ人はこの世界に先立って、四つの別の世界、四つの太陽が存在したというふうに確信していた。一番目の太陽、ナウィ・オセロトル(「ジャガーの四」)は最期に大虐殺を行なった。人間たちはジャガーのえじきとなった。今日でもなお、チアパス州のラカンドン族のような土民たちのあいだでは、この世界の最後もきっとそうなるだろうと想像されているのは興味深い。ジャガーは大地の諸力を象徴する。アステカ人にとって、それは闇(地獄)の神、猫科動物の毛のように、星形の斑点のある夜空の神、テスカトリポカと一致していた。

第二の世界はナウィ・エエカトル(「風の四」)と呼ばれた。翼蛇、風の神、そしてテスカトリポカの神話上の敵、ケツァルコアトルは魔法の嵐をこの世界にまき起こし、人間たちを猿の姿に変えてしまった。
 雨の恵みの神であり、同時に恐るべき雷神であるトラロックは第三の世界、ナウィ・キアウィトル(「雨の四」)を火の雨の洪水によって、潰滅させた。おそらく、紀元少し前、メキシコ河谷の一部(「ペドレガル地方」)を火山灰と熔岩でおおった、かの大噴火の記憶が、神話の中に生き続けていたものと思われる。
 最後の第四番目の太陽、ナウィ・アトル(「水の四」)の世界は、水の神、チャルチウトリクェの支配下に置かれ、五十二年間も続いた洪水のために壊滅した。その際二人の男女だけが糸杉の幹の中に逃れて、命を救われた。しかし彼らはテスカトリポカの命令に服さなかったので、犬の姿に変えられてしまった。現世の人類は、したがってこの第四番目の大洪水の生存者の子孫ではなく、その存在はケツァルコアトルの賜物である。事実、翼蛇は犬の顔をした、ショロトル神に変装して、地獄から干からびた死骸を盗み出し、おのれの血液を注いで、死者を甦らせるという芸当をやってのけた。
 現世は、ナウィ・オリン、「地震の四」という記号で表わされていた。この世は、いずれ大地震で崩壊する運命にあった。その時、宇宙の僻地の西方界に出没する骸骨のようにやせ細った怪物たち、ツィツィミメ族が冥界から現われて、人類を滅亡させてしまうだろう。この最終的な破局は、一瞬にして起こるだろうと、考えられていた。古代メキシコ人には、太陽の復活をも、また四季の変遷をも保障する何物もなかった。アステカ人の魂は、その世界を目前に控えて苦悩に沈んでいた。五十二年目ごとの周期の終わりに、人々は「厄年の呪縛」が無事に行なわれるかどうかを恐れた。もし新火がともらなかったら、すべては渾沌の中に陥没してしまうだろう。一般に人間の使命、とりわけ、太陽の民族であるアステカ人の使命は、虚無の襲撃を断固としてはねかえすことであった。このためには、太陽と大地とそしてすべての神々に、もしそれがなかったら、現世の機構は麻痺状態におちいるであろうと想像される「貴重な水」、すなわち人間の生血を捧げることであった。このような基本概念から、聖戦と人身御供の儀式が展開される。その両方とも、神話によると、現世の当初からはじまっていた。太陽はぜひとも血をのぞんでいた。神々自身がその血液を捧げ、ついで人間たちが太陽の命令によって、北方の雲の蛇たちを一掃した。すでに述べたように、ウィツィルポチトリはその戦闘中に生まれたのだった。唯一の例外は、いにしえの古典期の平和な神権政治の象徴、ケツァルコアトルだけで、彼は蝶、鳥、蛇、以外には生贅をのぞまなかった。しかし、テスカトリポカがケツァルコアトルを打ち負かすと、神々はおのれの「食物」を要求した。アステカ人が考えていたように、戦争は、たしかに、一面では彼らの王国にとっては、領土征服とか租税の徴収、商人たちに対する自由通行権、といった実利的な目的をもっていた。しかし、戦争は同時に、またとりわけ、捕虜を生贅にすることを可能ならしめた。したがって、戦闘は敵を殺すことよりも、できるだけたくさん生け捕りにする方向にむけられていた。征服の拡大そのものによって、メキシコの大部分に平和が訪れると、国王たちは神に生贄を捧げることを目的としたトーナメント試合、「花戦争」を思いついた。一四五〇年の大饑饉は数年来、生贄があまり行なわれなくなったために起こったと考えられた。闘技は、怒れる神々の心を鎮めたにちがいない。国王たちが自国の領土の真中にある、トラシュカラという敵の領地を寛大に扱っていたのは、おそらく戦争を決して終わらせないようにという意図があったからであろう。

逆説的に見えるかもしれないが、人身御供の儀式は、トルテカ時代の当初から、習俗、生活様式がしだいに洗練されていくにしたがって、メキシコでは簡素化されていったことは事実である。この血なまぐさい儀式は、なにもアステカ人だけの特性ではなかった。十六世紀には、単にアステカ王国ばかりでなく、ユカタンのマヤ族、ミチョアカンのタラスカ族のあいだにも、見出される。かのテスココの賢王、ネサワルコヨトルのような、すぐれた気質の王でさえも、隣国諸王とひとしく、全くそれに打ち込んでいた。トラシュカラやヨピツィンコのように独立した部族も、またトルーカのマトラルツィンカのように、アステカ王国に合併された部族も、すべて土着部族は、それぞれのやり方で、人身御供を行なっていた。犠牲者は大部分が戦争の捕虜であった。捕虜とそれを捕えた人間とのあいだには、奇妙な父子関係が成立した。土着民の記録には、命は救ってやろうという申し出に対して、捕虜は永遠の幸福を保障されるためなら、犠牲の石の上で死にたいと望んだ例が、再三挙げられている。別の生贄たちは奴隷階級の中から引き出された。特に、戦争に参加しない商人、芸術家たちが、神に捧げるために金で買った奴隷たちであった。このほかに、その方法はよくわからないが、神官たちに指名され、栄冠をさずかる儀式や死に対して、わが身を喜んで犠牲に捧げる者があった。たとえば、毎年テスカトリポカに捧げられる完全無欠な青年とか、大地の女神の化身であり、神官に命を奪われるときを待ちながら、とり乱すことなく歌いかつ踊る女性たちの場合がそれである。生贄の方法は多くの場合、犠牲者を石の上に伸ばしてたおす。燧石の小刀の激しい一突きで胸を切りさき、心臓をとり出してそれを太陽に捧げた。ついで犠牲者の首を斬り落とし、ツォンパントリという特別の架台に山とつまれた頭蓋にそれを加えた。シペ・トテックと繁殖の女神たちの生贄にされた犠牲者たちは、その死後、生皮を剥がれ、神官たちはその皮を身にまとった。またあるものは、繩で重い石盤を結ばれ、まがいの武器で、四人の完全武装した闘士の攻撃を防がねばならなかった。これは、スペイン人たちに「剣闘士の犠牲」とよばれたところのものである。ある犠牲者は神への捧げ物であったが、ある者は神そのものであった。神のように飾り立てられ、衣装をこらし、丁重に扱われ、礼拝され、お香をたかれ、彼らは神の「生き写し」となった。犠牲の儀式は、かく表わされた神の死を意味していた。そして、こうした身の毛のよだつ儀式に引き続いて行なわれる祭礼の人肉食風習習カニバリスムは一種の聖体拝領の意味を帯びていた。ある種の祭礼においてみられるように、鶏頭の揑物で、ツォアリをこねあげて偶像を造り、それを食べる前に、儀礼的に「殺害する」といった場合も同様の意味をもっていた。

三 祭式
 複雑にして、かつ人々に深くしみこんだ祭式生活は、共同体の巨大なエネルギーと資源を吸収していた。ここに、多種多様な儀式に共通するいくつかの特色を指摘することができる。
 第一に祭式の各細部、身ぶり、言葉を監督する綿密な配慮があげられる。犠牲者や司祭の装飾を含むすべての事柄が厳格に規定されていた。ちょっとした誤ちを犯しても、厳しい罰(罰金、体刑)が司祭に下された。多くの祭儀は芝居として上演された。登場人物は、しばしば、未来の犠牲者であったが、関連する神のように衣装をまとい、その神話上の特色ある行為やエピソードを実演してみせた。人々の歌う宗教歌は同時に聖なるパントマイムを説明していた。語りかけるのはときには神自身でありまたあるときには、祭式司宰者が、「芝居」に関係した。踊りは、きわめて重要であった。荘厳な型どおりの舞踊で、しばしば、踊り手たちは互いに手をつなぎ、一種のファランドールのような形式をとっていた。舞踊の中には、テポナストリのリズムに調子を合わせて、両手をあげたり下げたりするだけのものもあった。行列は、街中を練り歩き、ときには、湖の周囲の郊外までのし歩くこともあった。人身犠牲のほかに、織物、衣服、鳥、トルティーヤ、トウモロコシの穂、花、葉飾りなどあらゆる種類の供物が祭壇に山と積まれた。ピラミッドの頂上に燃える火は決して絶やしてはならなかった。信者たちはたえず薪を運んだ。その上、太陽に血を提供するために、貴族や神官たちは、脚や耳朶、舌を犠牲に捧げた。
 主要な祭事には断食、禁欲、食物のタブーなど、多くの戒律をともなった。ある場合には、これこれしかじかと特定の食物が義務づけられていた。たとえば、第六番目の月中は、エツァリ(いんげん豆入りトウモロコシ粥)を、また八年ごとに祝う金星祭のあいだは塩抜きのタマリの雑炊を、といった具合である。他部族からとり入れた祭式は儀式と関連していた。金星祭のあいだ、オアハカのマサテカ人は(あるいは彼らの方法をとり入れたアステカ人も)生きた蛙や蛇を貪り食べたり、食べるふりをした。太陽年の十八か月は祭式生活にリズムを与えた。十六世紀のはじめには、一年はユリウス暦の二月二日、アステカ人がアトル・カワロ(水の停止)とよび、ナウアトル語系の他のメキシコ人はクァウィトル・エワ(木が立つ)とよんでいた月の最初の日からはじまった。この月はトラロックならびに雨の神々に捧げられていた。
 これ以外の月と、各月に犠牲を供えた神々のリストは左のとおりである。
 Tlacaxipehualiztli(剥人
皮)。シペ・トテック、金銀細工、春、植物成長の神。
 トソストントリ(小徹夜会)。コアトリクェ、大地の女神。
 ウェイ・トソストリ(大徹夜会)。チコメコアトルほかトウモロコシの神々。
 トシュカトル(早魃?)。テスカトリポカ。
 エツァルクァリストリ(エツァリの食事)。トラロック。
 テクィルウィトントリ(貴族の小祭)。ウィシュトシワトル、塩水と塩商人の女神。

   ウェイ・テクィルウィトル(貴族の大祭)。シローネン、若いトウモロコシの女神。
 トラショチマコ(花の奉納)。ウィツィロポチトリ。
 ショコトル・ウェツィ(果物の落下)。シウテクゥトリ、火の神。
 オチパニストリ(清掃)。大地の女神たち。神々の道を(掃き清める)。
 テオトレコ(神の再来)。全神々、特にテスカトリポカと火の神。
 テペイルウィトル(山祭り)。山頂に住む雨の神。
 ケチョリ(鳥の名称)。ミシュコアトル、狩猟神。
 パンケツァリストリ(ケツァルの羽毛の旗の掲揚)。ウィツロポチトリ。
 アテモストリ(水の降下)。雨の神。
 ティティトル(?)。イヤマテクゥトリ、恒星の老女神。
 イスカリ(成長)。火の神。
 ここに、以上の二十におよぶ祭事にあって、くりひろげられた儀式をこと細かに述べることはできない。パンケツァリストリの月を特徴づける集団的人身犠牲のような血なまぐさい祭式は別にしても、花々(トソストントリとトラショチマコ)の捧納、それぞれ七つのトウモロコシの穂を持って練り歩く、乙女の行列(ウェイ・トソストリ、オチパニストリ)、潟の水鳥の仕草や鳴き声をまねる、神官たちの魔法の水浴(エツァルクァリストリ)、人々に施す食糧の配給(ウェイ・テクィルウィトル)、立派な武器や国王から授った紋章を身につけて行なう軍隊の大パレード(オチパニストリ)、祭式用弓矢の製作とサカテペック山の狩猟(ケチョリ)、女医と産婆のあいだで行なわれる余興の戦(オチパニストリ)、宝棒登り(ショコトル・ウェツィ)、戦士と乙女(ウェイ・テクィルウィトル)、あるいは戦士と宮廷女官(トラショチマコ)の参加する舞踊などがあった。ある場合は、特定の階層とか同業組合が、またある場合には部族全体が儀式に参加した。各家には土偶と式辞が備えてあった。(ショチケツァルは、特に家庭の神棚に祭られていたと思われる。)家人はそこに食物と花とを供えていた。暦に加えられた閏の五日間、ネモンテミには ―― これはイスカリ月の最後の日とアトルカワロ月の最初の日とのあいだにはさまれていたが ―― いっさいの宗教生活は中止され、同時に、世俗的な活動の大部分も休みとなった。この本質的に不吉な五日間は、だれも旅行をしたり、結婚をしたり、またたとえそれがいかなることであろうとも、企てたりはしなかった。そしてこの期間に生まれた子供たちは、不幸な運命を背負わされた者と考えられていた。

四 神学的思弁
 識者たちが、アステカ宗教の煩雑な八百万の神でふくれ上がった万神殿に、秩序と組織を導入する必要があると感じたとしても不思議はない。神官たちは熟考の末、ある種の神を上位に据え、その神神にもろもろの属性を付与して、神々の個性の数を要約しようとはかった。たまたま、メキシコのカルメカック、あるいはテオティトランのような遠隔都市の寺院や修道院の中から、一つの神学思想が生まれ出て、『ボルジア』のような写本を通じて、その見解は発表された。その総合化への努力は空間の四方角、すなわち東西南北を枠と見なして行なわれた。主神の地位に祭り上げられたテスカトリポカは、四つの姿態をとって現われた。すなわち北(黒)ではそのままテスカトリポカの名称を保ち、南(青)ではウィツィロポチトリとよばれ、東(白)ではケツァルコアトルに合致し、西(赤)ではシペ・トテック、またはミシュコアトルの名称をとっていた。この方法で、ナウアトルの新部族神(テスカトリポカ、ミシュコアトル)とトルテカの部族神(ケツァルコアトル)、アステカの大部族神、それにヨピ国の神、シペ・トテックなどを独特の枠の中に合併させてしまった。
 かのテスココの王、ネサワルコヨトルだけは、「われらに生を与え給う御方」と呼ばれ、見ることも触れることもかなわぬ神のために、神殿を建立せしめた。ピラミッドの頂上にある、黄金と宝石に飾られたこの最高神の聖堂には、偶像のようなものは安置されていなかった。

第六章 芸術と文学
一 起源
 メキシコにおける造形芸術の特徴は、本質的には紀元一〇〇〇年紀の偉大な古典期に、すでに確立されていた。建築においては、水平な建造物(宮殿)と組み合わされた階段状のピラミッド。彫刻においては、浅浮彫を施したパネルと楯たて、独立した祭壇。お面の彫工術、硬玉製の奉献斧その他。絵画においてはフレスコ壁画、彩色写本(この最後のものは、少なくともマヤに関するかぎり)。このような特色の大部分は、象形文字と年代記号の慣用とあいまって、オルメカ時代からすでに出現していた。この悠久なる過去の後継者であるアステカ人は、移動の果てに、たまたま出会った高原地帯の住民を介してその遺産を受けついだ。基本的には、トゥーラ陥落後も存続し、北方からの侵入者が建設した新しい諸都市の内部でなお生き続けていたトルテカ文明に関係があった。トルテカの建築様式はさまざまな面で、テオティワカンのような古典期諸都市の建築を刷新した。たとえば彫刻の施された非常にたくさんの列柱に支えられた天井のある大広間、蛇の頭部を飾った、銃眼のある城壁(コアテパントリ)、翼蛇の形をした柱で構成された門構え、ピラミッド状階段の頂部に置かれた旗手の小石像。このような要素の大部分はアステカの建造物にも認められる。一方、トルテカ人の一部は十世紀の末か(テスカトリポカとケツァルコアトルとの抗争によって象徴される内戦)あるいはトゥーラ陥落時の、十二世紀末に他へ移動した形跡がある。この移民たちはケツァルコアトルの祭祀が根強く残っていた宗教都市、チョルーラとか、あるいは現在のプエブラ州からオアハカ州の山地へかけた高原地帯に定着した。この地で、こまかな細工術にかけては定評のあったトルテカ人が、これまた一流の金銀細工師である、ミステカ人と交流することになった。その結果、この「ミステカ・プエブラ」地方に金銀細工、壁画、陶器の模様、写本の彩色といった分野で、新しい様式が誕生した。十四世紀に、テスココの第四代目の王、キナツィンは、トルテカ出身の職人全部をこの地方から招聘した。彼らはこのミステカ・ナウア式芸術を中央河谷に移植し、その様式は、十五世紀初頭のアステカ芸術に非常に強い影響を及ぼすことになった。このように、さまざまな芸術の伝統が一つに集約され、古典古代の時期からスペイン征服前の最後の世紀にいたるまで、アステカ式るつぼの中で、互いに融合した。さらに、メキシコ人は、彼らの宗教に異国の神々や祭祀を合併したように、隣接諸部族の作り出した作品からも同じように啓発された。たとえばメキシコに建立された円形記念物 ―― ピラミッドと方形の建物を主調とする建築様式にあっては、例外的な存在であるが ―― はワステカやトトナカの様式、あるいはミチョアカンのヤカタス様式を思わせるものがある。しかし、アステカ芸術を一般にメキシコ芸術の単なる模倣、「亜流的一様相」と見なすのは不当であり正しくないだろう。テノチティトランの建築家、彫刻家、金銀細工師、絵師たちは、ひと目でそれとわかるアステカ様式をつくり出す才能をもっていた。そこでは、豊かな、洗練された伝統と、最近、高文明に到達したばかりの一部族の活力とが、一体となっている。トルテカ芸術ほど紋切型でもなく、かえって柔軟な、またマヤ芸術ほどの華麗さはなくとも、深い象徴主義を、極度にエネルギッシュな、写実的表現に結びつけることに成功したこの芸術は、あらゆる分野でその独創性を発揮している。オルメカ以来、すべてのメキシコ古代民と同じように、アステカ芸術にも深く宗教色が浸透してはいたものの、反面、歴史的、世俗的主題も取り上げ、また宝石細工師、彫金師たちの妙技によって、人生の外観を美化するゆとりもそなえていた。

二 建築
 メキシコのあらゆる建造物は、一五二一年のかの都市攻略の際に破壊されてしまった。われわれはそれらをただ、当時の文献記録や絵を通じて知るのみである。被害を受けた都市のほかにアステカ人によって建てられたいくつかの建物、たとえば現在のモレーロス州にあるテオパンソルコの神殿やワトゥスコとテアヨ(ヴェラクルス州)の神殿などは残存した。メキシコ近郊にあるテナユカのピラミッドは、本来、多少トルテカ化された「チチメカ人」によって建てられたものであるが、アステカ人によって完成されたものである。

  宗教建築物は、多くの場合、頂部に聖堂を載くピラミッドの形式をとっていた。羽毛のある蛇の像に縁取られた急傾斜な階段と、旗手の石像を伴うこの種のピラミッドは、トルテカの建造物と大変似通っている。テノチティトランでは、大神殿の城壁はトゥーラの場合のように、コアテパントリ(銃眼のある城壁)であった。しかし、アステカ固有の要素である、テオカリのピラミッドには最上段の基壇の上に、一対の神殿が建てられていた。大梁をセメントで固めて作られた屋根組には、古代のマヤ神殿のように、一種の棟飾りが上部に延びている。われわれは、征服者たちの記録によって、ケツァルコアトルの神殿は円形であったことがわかる。したがって、この神殿は、風の神、エエカトルと同等のケツァルコアトルを祭るために建てられたものである。なぜならそれは、風に向かって、ピラミッドの鋭い稜を対立させるのをさける意図があったと思われるからである。この建物は、もはや跡かたなく破壊されてしまったが、はなはだ幸運なことに、トルーカの高原にある、カリシュトラワカの神殿はほとんど無きずのままに残された。その後の調査によって、ここから風の神の大変見事な彫像が発見された。マリナルコの神殿は、トルーカの高原をとり囲む山中の、きり立った岩壁を完全に切り刻んで作られた神殿で、メキシコでは、この種の建物としては現存する唯一のものである。おそらく、鷲の勇士とかジャガーの勇士をたたえる祭祀のために作られたものであろう。なぜなら、蛇の口の形をした入口を通ってはいる地下室は、岩に直接彫刻された鷲と蛇の像で装飾されているからである。
 もちろん、軍事上の建築物は、アステカ人の建築芸術の中でも、大きな位置を占めていた。いくつも塔を備えた城塞や方形堡は交通の要路、たとえば湖を横断できる堤道の入口のような個所を守った。アステカ王国と、アステカの憎むべき王国、ミチョアカンとの国境地帯であるオストマン地区には、今でも砦や稜堡の一部が残っており、それによってアステカの建築家が、本格的な円天井のつくり方を知っていたことがわかる。王侯貴族の宮殿については、全く遺構が残っていない。当時の証言によって判断するに、基本的には、マヤ、サポテカ、トルテカ建築のプランと一致していたようである。すなわち、列柱のある大広間、内庭、テラス、庭園といった諸要素がそれである。造園術は、アステカならびにその一族においては、特に尊敬されていた。ネサワルコヨトル王の命によって設置されたテツコツィンコの公園の水道とか灌漑水路の遺構は年代記作者の記述と一致している。

三 彫刻
 浅浮彫、彫像を含む、数えきれないほどの彫刻類は、アステカ対スペインの戦争のときに、あるいは植民地の統治時代、「偶像崇拝」の反対闘争のときに、破壊されてしまった。しかしながら、メキシコばかりでなく全世界の博物館に残る彫刻は、その数量と多様さと完璧さによって人々を驚嘆させている。
 神殿に神像を奉納するように委任された彫刻家たちは、厳格な象徴法に従わなければならなかった。たとえば水の女神たちの彫像は、トラロックの神像のように、故意にアルカイックな容姿となっている。つまり、そこでは古代の神々が問題となっているからで、古典的規範が尊ばれたからであった。大地の女神、コアトリクェを表わす巨大なモノリットは、おもわず戦慄せんりつをおぼえるほどの、深い象徴主義をうちに秘め、宗教芸術における、最高傑作の一つと見なされている。シペ・トテックの偶像は、生贄いけにえの生皮をまとった神の姿が、強烈な写実的手法で表現されている。反対に、青年、音楽、遊戯の神、ショチピリの像は、全身花で飾られ、優雅この上ない。 ケツァルコアトルの石彫も多い。ある場合は頭部に自分の象形文字、セ・アカトルをつけ、とぐろを巻いた翼蛇として、また、ときには、パリの人類博物館に収蔵されている、見事な斑岩製の彫像のように、人間の顔と手足が蛇の胴と組み合わされている場合もある。多数の彫像類はメキシコ陥落後、神殿や宮殿の残骸の下に埋もれてしまった。若干のものはその後堀り出されたが、中でも「アステカの暦石」はおそらくその最も有名なものであろう。その円盤上には、古代メキシコ人たちの宇宙観、年代観のすべてが要約されている。中央には血に飢えた太陽の顔が、現世界のシンボルである、ナウィ・オリンの記号の真中に浮き出ている。オリンの記号と一致する聖アンドレの十字架の四つの仕切りの中には、太古の四太陽界のシンボルがある。これらの象形文字のまわりには、サイコロの目をした五つの点から成るシウィトルの絵文字で、日や年が、同心円状に示されており、最後に、二つの「トルコ石の蛇」(シウコアトル)、すなわち五十二年の二周期をあらわす記号が示されている。これは、先に述べたように、金星暦の六十五年周期と合致し、セ・ウェウェティリストリ、「老年」と呼ばれる一〇四年の周期を構成していた。同様に太陽神に献上された、すばらしい象形文字の模様をもつ「聖戦のテオカリ」を挙げることができる。「太陽の石」も同じ範疇に属する。これは各面に現世界の誕生する以前の、崩壊した世界の象形文字の年代が刻まれている。小型ではあるけれども、彫刻と彫金の境目にある、硬質の石製品もこの種の宗教芸術と関連づけられるであろう。たとえば、パリの人類博物館ならびに大英博物館にある水晶製の二個の頭蓋骨、軟玉の小テスカトリポカ像(人類博物館)、シュツットガルトの博物館にあって、格別見事な出来ばえのショロトルの小像がそれである。
 宗教彫刻の重要性はきわめて大きかったけれども、世俗芸術もそれにおとらず、かなりの発達を遂げていた。国王や貴族たちは当時の芸術家に作品を注文していたことがわかる。モクテスマ二世は、彫刻家にチャプルテペックの岩に浅浮彫の肖像を刻ませた。アシャヤカトルの王女も、思い切り報酬をはずんで、好意をよせている貴族の青年の彫像をつくらせたといわれる。ティソック王は、自分の名前を付し、ウィツィロポチトリのように着飾り、象形文字で表示された異部族の降伏を受け入れている情景によって、石碑の上に表現されている。この王とその後継者のアウィツォトルは、一四八七年(「葦の八」)に、テノチティトランの大神殿の完成を祝賀するためにつくられた石碑の頂部に、浅浮彫で現わされている。この年代は二人の王をかたどったパネルの下に、すばらしい装飾効果をもった象形文字で記録されている。メキシコの国立人類博物館は、傑作中の傑作とうたわれる、鷲の勇者のすばらしい石頭像を収蔵している。猛禽類の口ばしにふちどられた、戦士の顔は、この種の軍人の活力と献身ぶりを如実に反映している。しかし、アステカの彫刻家はきわめて広範囲にその才能を発揮している。すなわち、下帯一つのマセワルティン(平民男子)の像、国王や貴族がその宮殿で面倒をみるのを好んだ小人、せむし、片輪者、それに狼、ジャガー、蛇、蛙、バッタ類といったありとあらゆる種類の動物からヒョウタン類のような植物にいたるまで、その対象となった。
 アステカ人は、しばしば、トルコ石、黒燿石、螺鈿、ガーネット、などを象嵌した、石製マスクの芸術を復活させた。これは古典期のテオティワカンにおいて、かつて高度の完成の域に達したものである。この種のマスクは、多くの場合、副葬品として使用されたり、またあるときは、神々をかたどり、宗教儀式の際にかぶるものであった。木彫類は戦争、火災、時間の力に抗しきれなかった。現存するものとしては、縦長の太鼓(ウェウェトル)とか二音のドラ、テポナストリの類だけである。特にメキシコの博物館収蔵の、鷲とジャガーの文様のある太鼓は有名である。その装飾は、実に精巧に彫刻されている。

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