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御所染 ごしょぞめ

淡而雅致的红色。源于寛永年间东福门院的女官。东福门院是后水尾天皇之妻,德川和子,她是德川家康的孙女。作为以京都为中心的“寛永文化”的重要人物之一,她在文艺方面颇有成就,被认为是后来的"寛文小袖"的风格奠基者。她制作的压花(押絵)在京都市民中颇受欢迎,拥有和子的压花被视为一种地位象征。此外,和子似乎还有着着道乐的习惯,资料显示她向专门的呉服商"雁金屋"每月订购多达45件衣服。她经常把自己的衣物赐给女官们,这些女官们将和子的风格传给了民间,"御所染"也得以传播开来。

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槿花色 むくげいろ

[R:211 G:131 B:167] 木槿花般明亮素雅的红色。最早记载于《群書類従》。平安时代读作"あさがお",故有说源氏物语中的朝顔为木槿。木槿是锦葵科落叶棺木,夏至开花,常植于庭院。武家有为新生儿种下木槿花的传统。木槿常被认为朝开夕落,诞生出了"槿花一日之荣"、"槿花一朝之梦"等谚语,实则花期有数日之久。传统的槿花染色法早已失传。江户时代则是在苏芳色之上、使用铁媒染出此色。

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紅葉色 もみじいろ

[R:226 G:066 B:031] 晚秋枫叶般鲜艳的红色。"もみじ"一词源于"揉色",指用植物给衣物染色。在古代,黄栌·榆树·黄檗等植物同样可称为红叶。枫染是揉色的代表,故多用枫叶指代红叶。红叶色源于平安时代秋季重裘"红叶"。《雁衣鈔》中,这种装束为"表赤·里浓赤"的搭配、表示红枫重重的景象。或"表黄色・里苏芳"的搭配,表示枫叶红黄相交的模样。与红叶有关的重裘、还有紅紅葉·青紅葉·黄紅葉·初紅葉·櫨紅葉·楓紅葉(蝦手紅葉)等多种搭配。

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萩色 はぎいろ

[R:226 G:079 B:147] 萩花是秋之七草,古称"芽子",花朵为明亮的紫红色。萩花在《枕草子》等平安文学中也多有登场,被认为是一种温柔、脆弱、梦幻的植物。作为袭色和织色,萩花的配色为表紫里白,穿着时期为6-7月。《栄花物語》中,有被称为"萩之唐衣"的女房装束。织造萩色需要使用青色的经线、苏芳色的纬线,因此也别名"表苏芳、里青"。诸如夏萩、萩経青、萩重等也是从袭色而来。

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海老色 えびいろ

[R:147 G:46 B:64] 伊势龙虾壳一般的紫红色。海老色是从平安时代流传下来的色名、原本是用山葡萄染出的"葡萄色"。在过去,葡萄蔓(えびかずら)被称为"えび"。近代受到同音字影响、调色逐渐趋近于虾壳。龙虾壳会因饵料不同而变色,介于"深紫红色"到"深棕红色"之间,差异很大。因此也有表现煮熟龙虾的『海老赤』,与海老色相近的『海老茶』等。后者是明治时期女学生常用的服装颜色(海老茶式部)。 

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中紅花 なかくれない

红花染出的薄红色,颜色位于浓染的"韩红"和淡染的"退红"之间、也被称为"中红"。最早记载于平安时代的《延喜式》。江户前期曾将"郁金"等黄红色称为中红,实际上二者完全不同。红在古代读作くれない,江户时代起才被读作べに。

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浅蘇芳 あさきすおう

明亮朴素的浅红色。 平安时期的《延喜式》将苏芳色归为"深蘇芳"、"中蘇芳"、"浅蘇芳"三种级别。浅素芳是染色较薄的类型。在古代,深色被认为是更加贵重的颜色、浅色则更加廉价。
【苏芳色(红系)】
略带青调的红色。“苏芳色”指的是用生长于印度南部和马来半岛等地的豆科树木——苏芳的心材染色,再通过木灰发色而得到的红色。此色通过中国传入日本,在奈良时代已有记录。奈良的正仓院中藏有使用苏芳染色的木箱——“黑柿苏芳染金银绘如意箱”。苏芳是一种从东南亚进口的昂贵而珍贵的染料。苏芳色因其美丽和稀有性,深受贵族阶层的喜爱。

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一重梅 ひとえうめ

如单瓣梅花的亮红色,"红梅"与"淡红梅"间的过渡色,名字来源于平安时代的和服。表衣为白色,内衬为红色,重叠起来就表现出了一重梅的配色。主要是11~2月的搭配。自古以来,梅花就和樱花就被当做春季的花,也经常被用于形容颜色,例如:红梅色、浅红梅、梅重、雪下红梅、梅鼠等。

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紅赤 べにあか

略带紫色的鲜红,介于红色(光的三原色)和品红(颜料的三原色)之间的颜色。江戸时代、红色是庶民憧憬的颜色。但真品的红花价比黄金(紅一匁金一匁)。因此、庶民会使用更为廉价的苏芳、茜草作为代替。在众多红染色中,红赤是通过去除红花中的黄色色素进行染色的。由于需要大量的红花,红赤成为最为珍贵的颜色之一。即使在今天,红赤色仍然备受欢迎,不仅在化妆品和墨水的色名中出现,甚至在地啤酒、烧酒以及品种名如薩摩芋等产品中也能见到这一名称。

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鴇色 ときいろ

像朱鹮的风切羽一样淡雅、温和、泛黄的桃绯色。也被称为"朱鹭色"或"鴇羽色"。江户时代也被写为同音字的"时色"。染料中是由红花和苏芳染成的颜色。相似的颜色有"洗朱"·"浅绯"·"珊瑚色"等。朱鹮,古称朱鹭、被日本皇室视为圣鸟。体羽呈白色,额至面颊部呈鲜红色,这个颜色也被称为"鳃色"。江户时代之前、动物相关的色名并不常见。江户时代朱鹮很常见,因此它是平民的颜色,广泛用于女性和服。

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杏色 あんずいろ/apricot

杏树是李属李亚属植物。日本自古以来就有种植杏的习惯,不过不是为了食用果肉,而是为了用杏核入药。平安时代的杏子也叫做唐桃,古今和歌集记载「清原深养父 唐桃影里才逢君 便恐花散人离分 相逢愁亦深」。在日本,果实很少被用于描述颜色,多数是以花的颜色作为色名。相反,西方的颜色很多都参考了果实的颜色。"杏"成为色名是在明治以后,apricot color广为流行。杏花是淡红色的,而杏色是一种柔和的橙色。与之相似的"枇杷色"也是近代形成的色名。

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浪花鼠 なにわねず

黯淡发白的淡红色。 "浪花"是对大阪近郊地区的称呼,这个名称可能于盐有关,古时大阪常见的天然海盐含有许多杂质,因而呈现出浅红的色调。浪花鼠也是被称为"四十八茶百鼠"的时代流行色之一,同样由关西地名衍生出来的颜色,例如京都地区的『都鼠』、嵯峨地区的『嵯峨鼠』,也有着类似的颜色。

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梅重 うめがさね

这种明亮的红赤色就像重叠在一起的红梅花。这个色名源自平安时代的重叠服装,其配色方式为“表・浓红,裏・红梅”,展现了红梅花的重叠效果,通常在十一月至二月之间穿着。梅花一般被认为是白色的,因此也有一种说法是用“表・白,裏・红梅”来表达白梅与红梅的重叠,这被称为“梅重”。不过,在平安后期的有职家源雅亮所著的《满佐须计装束抄》中,也可以看到红梅的重叠色,因此红赤系的色彩更为有力。淡淡的《薄红梅》和鲜艳的《梅重》腰带的同系色组合,形成了传统的配色,称之为“匂い”。值得一提的是,上面使用浓色而下面的颜色逐渐变浅的渐变也被称为“匂い”。

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朱華 はねず

泛黄的淡红色。也被称为『波泥孺』『唐棣花』『棠棣』『翼酢』等。《日本书记》记载,天武天皇年间、该色用于亲王与诸王、至少三年时间里、规定的服装是在『紫色』之上穿着朱华服饰。继承了这一色彩的持统天皇的颜色制度中,也被视为亲王的颜色。在平安时代,这种颜色是《禁色》之一。从文武天皇时期起,它被称为“黄丹”。然而,朱华和黄丹在色调上有相当大的差异,因此虽然它们都是用红花和支子染成的,但配方的比例可能发生了变化。关于朱华的色调,有一种说法认为它与郁李花瓣的淡红色“唐棣色”相同,另外还有一种说法认为它源自《万叶集》中“山吹的香气袭来,妹子的朱华色的赤裳在梦中映现”的诗句,将其视为黄色。关于色名“朱华”,也有人说它源自中国的莲花名称,或者是古代庭梅的名称,因此至今仍然对这种颜色包裹着谜团。另外,朱华的染色似乎容易褪色,《万叶集》中有几首诗提到“容易变化的心”。

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真紅 しんく

红花染出的赤红色,别称"深紅"。『紅(くれない)』这个词源自『呉藍(くれあい)』,含义是从吴国进口来的染料。这种颜色在奈良时代被称为『紅の八塩』、八塩的含义是染色八次,可见是多么浓艳的颜色。平安时代为了强调进口颜色的高贵性、将其称为"唐紅"、"韩红"。二者都表示红花的产地中国。当时,红花价比黄金,"真红"便是为了证明染色中没有掺杂茜草或苏芳、完完全全由红花染色的高贵性。因为昂贵的特性,真红也被视为『禁色』。

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臙脂 えんじ

带有黑色光泽的深红色。臙脂一词源自古代从中国传入的化妆用红色颜料,作为“臙脂色”这一名称普遍使用是在化学染料普及的明治中期左右。在古代中国,辰砂被用于制造颜料“朱”,然后加上山羊脂以制成化妆红,因此“脂”字指代化妆红。当时,燕国的红色颜料非常优越,因此燕产的化妆红品牌化,被称为“燕脂”。这后来演变为“臙脂”。还有一种说法认为它来源于中国红花的重要产地“燕支山”。在奈良时代的《正仓院文书》中提到“烟子”“烟紫”,而平安时代的辞书《和名类聚抄》中则记载了“焉支”“烟支”“燕支”等,均指代颜料的名称,而非色名。关于色料,臙脂分为两种:一种是以红花为染料的植物性“正臙脂”,另一种是来自臙脂虫(腊虫)和寄生于仙人掌的胭脂虫雌虫所提取的动物性“生臙脂”。两者都是类似“深红”的浓厚红色,但“生臙脂”则稍微带有紫色,更为浓郁。值得一提的是,尽管化学染料已广泛使用,从臙脂虫等提取的天然色素仍被广泛应用于友禅和红型染料中。提到胭脂虫时,它作为一种著名的天然着色剂用于食品染色,而用胭脂虫更深染出的颜色被称为“洋红色”。

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赭 そほ

带有黄色调的暗红色,通过烧制赤土而得到的颜料,是从绳文时代以来最古老的颜色之一。它也被称为“赭土”或“朱”。需要说明的是,“赭”一词就是指赤土(赭土)。此外,还有一种与“赭”名字相似的颜色叫做“真赭”,它是“真朱”的别名,表示“纯度高”“没有杂质”,因此用“真”这个字来形容。另外,还有一种称为“代赭”的红褐色颜料,它的名字源自中国山西省的代县,该地区以其优质的赤土而闻名。

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乙女色 おとめいろ

带有黄色调的淡红色,类似于乙女椿的颜色。它也被称为“鴇色”,在江户时代,薄红色通常被称为“鴇色”,因此乙女色可以被视为其中一种颜色。用现代的例子来说,“水色”和“深蓝色”也可以统称为“青色”,这有类似的含义。“乙女色”这个名称的来源是乙女椿的花。值得一提的是,乙女椿是一种在早春盛开重瓣花的椿,花语是“低调的美”和“低调的爱”。

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薔薇色 ばらいろ

如红蔷薇般鲜艳的红色。薔薇是一种带刺灌木。古时也称作“うまら”(umara)或“うばら”(ubara)。在《万叶集》中也可以看到这个名称。“ばら”(bara)这个名字源于和语,实际上是“いばら”(ibara)转化而来的。它是6月的生日花,季语是夏季。冬薔薇的花语是“爱”。在传统色中,它类似于“薄红”,但由于“薔薇色”是近代产生的颜色,颜色更为鲜艳。此外,还有一种基于古老的薔薇品种“庚申薔薇”所命名的颜色“长春色”,该颜色在大正时代流行。薔薇是从中国传入日本的,在平安时代的《枕草子》和《古今和歌集》中都有记载。然而,作为颜色名的使用则是在明治时代之后。不过,作为重叠的颜色,有“薔薇襲”,它用“表・红,裏・紫”的组合来表示。例如,纪贯之在《古今和歌集》中写道:“今朝见蔷薇,婀娜多姿艳且美,初见已心醉。”这句诗的意思是:“今早,第一次看到薔薇花,但花的颜色是易逝而脆弱的。”这表达了“女性的本性”与薔薇花的关系。
蔷薇色经常被用于比喻积极、幸福的人生/未来,其反义词"灰色"则被用来比喻悲观、绝望。

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薄桜 うすざくら

这种颜色是像淡淡樱花花瓣的颜色,略带红色的白色。它也被称为“薄花桜”。在被称为“桜色”的所有颜色中,这种颜色是最淡的红色染色。这个颜色名称进一步细分了淡红色,体现了日本人对“樱花”这一特别花卉的珍视和细腻的感性。值得一提的是,冠有“桜”字的传统色还有其他几种,包括温和且沉稳的淡红色“灰桜”,以及江户时代流行的鼠色系“桜鼠”等色彩。

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八塩 くれないのやしお

浓烈而鲜艳的深红色。八即重多,盐意指"浸入染液"。因此,红八入盐意味着将红花多次浸泡所形成的染色。平安时代,红花的浓染昂贵且奢华,因此被列为"禁色",成为了平安贵族的憧憬之色。后来,鲜艳的"红八盐"被强调为真正的红花染制,又被称为"深红"或"真红",平安时代后也被称为"韩红"。

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乾鮭色 からさけいろ

像干燥的鲑鱼肉一样带有橙色的桃色,英文名为“Salmon Pink”(鲑鱼粉色)。顾名思义,这种颜色来源于干燥鲑鱼肉的颜色。还有一种叫“鲑色”的颜色,它指的是生的鲑鱼肉色,颜色比“干鲑色”更淡。推测“Salmon Pink”这一颜色在明治时期从西方传入日本时,翻译成了这个和风名称,但如今“Salmon Pink”更为常用。 此外,像“干鲑色”这样橙色调的桃色系颜色还有“鴇色”和“珊瑚色”。鲑鱼是鲑目鲑科鲑属的鱼类。在日本,主要分布在北海道和东北地区的河流中,但也能在本州中部到西部的日本海沿岸和关东地区的河流中洄游产卵。 在日本,腌制和干制的鲑鱼常常作为朝廷和幕府的贡品,甚至用作税收的替代品。鲑鱼在历史上也受到许多名人的喜爱,比如镰仓幕府的源赖朝曾因鲑鱼的美味而感动,还有战国时期出羽地区的大名最上义光非常喜欢鲑鱼等传说。 在众多日本传统色彩中,像“鲑鱼”这样以鱼类命名的颜色极为少见。

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淡紅色 たんこうしょく

红色和白色混合而成的淡红色。最初指的红花染成的淡红色,后来逐渐泛指所有的淡红色。"退红"和"樱色”等都属于淡红色的范畴。在古代,红花染料的颜色越浓,价格就越高,因此浓烈的红色被视为“禁色”,只有高贵的人士才能穿着。因此,低阶层的人只能穿着像“淡红色”这样的淡红色染料,这类颜色被称为“听色”或“一斤染”,以此进行区分。同样读音的颜色“淡黄”则是指淡黄色。

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洋紅色 ようこうしょく

深く鮮やかな紅赤色。別に『ようべに』とも読まれるとおり、江戸後期に西洋から伝わった『紅色』のことで洋名は『カーマイン』。カーマインは、メキシコのサボテンに寄生するコチニール(カイガラムシの一種)の雌から得られる紅色の色素で、江戸後期にオランダ経由で輸入され、絵の具や化粧品、食品の着色料にと現代でも幅広く使われています。コチニールの別名を『臙脂虫』といいますが、その名のとおり『臙脂色』の元になっています。『臙脂色』はより暗く深みがある色ですが、古くからの伝統色『臙脂色』と明治の文化人に流行したハイカラな『洋紅色』にカーマインという共通項があるというのもじつに面白いものです。

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紅唐 べにとう

唐桟の織物の色のような黄みがかった渋い赤色。『弁柄色』と同じとする説もありますが弁柄色よりも鮮やかな色になります。紅唐とは、もともとは紅色の『唐桟織り』のことです。唐桟織りは緻密で光沢があり地合いのなめらかな綿縞織物めんしまおりもので、天保年間には身分男女を問わず冬着の生地として大人気でした。特に珍重されたのが赤い地色の『紅唐桟』です。親しみと憧れをこめて『紅唐』とよばれるようになり、それがいつしか色名として定着しました。『唐桟』は唐桟縞とうざんじまとよばれる織物の一種です。『桟留』または『桟留縞』ともよばれ、とくに舶来物の高価な桟留を『唐桟留め』と呼びました。そこから略して『唐桟』と呼ばれるようになり、やがて桟留縞織物の総称となりました。なお、桟留の由来はインドのサントメ地方から伝わったからだと言われています。ちなみに、紅唐の漢字を逆にした『唐紅(=韓紅)』という色名もありますが、こちらのほうが古くからある伝統色であり鮮やかな紅色です。
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銀朱 ぎんしゅ

黄みの強い赤色。天然の赤色顔料である『真朱』に比べ、やや黄みがかった鮮やかな赤色をしています。真朱が「朱丹」という天然の鉱物から作られるのに対し、『銀朱』は朱丹に水銀と硫黄を混ぜあわせた物を焼いて造った人造の赤色顔料です。ちなみに、朱丹の最上の物は『辰砂』と呼ばれますが、非常に貴重で大変高価なものでした。銀朱の色名は「続日本紀」に記載があり、弥生から古墳時代にかけては、死者の葬祭には墳墓の内壁に朱を塗る施朱や、死者の鎮魂と再生を願って遺骨に朱を塗ることが行われていました。血の色を表すことから生命の再生を祈ったものですが、水銀が含まれており防腐作用があるためでもあります。現在では『朱色』といえば、『銀朱』、洋名の『バーミリオン』を指し、『紅』や『緋』より更に黄みがかった赤のことをいいます。朱肉の色も多くはこの『銀朱』の色です。

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朱殷 しゅあん

時間がたった血のような暗い朱色のことです。血の色や血染めの色など、凄惨な様子を表現する色として使われてきました。例えば、“源頼朝”の墓所である法華堂跡の碑文にはこう記されています。
[宝治元年六月五日
三浦泰村此ニ篭リテ 北条ノ軍ヲ邀げきヘ 刀折レ矢尽キテ
一族郎等 五百余人ト偕ともニ自尽シ 満庭 朱殷ニ染メシ処トス]
この碑文では、北条軍に破れた“三浦泰村”が、一族郎党 五百人とともにこの地で自刃し、庭一面が血染めに染まった惨憺たる様子を『朱殷』に染まったと表現。 暗く染まった朱色『朱殷』は、明るく美しい元の色との差異により、見事に「悲惨さ」「凄惨さ」を表現した色と言えるでしょう。

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紅梅色 こうばいいろ

早春に咲く紅梅の花の色のようなやや紫みのある淡い紅色。平安時代からの色で、色名の由来は文字どおり紅梅の花の色から。『紅梅色』はキク科ベニバナを用いた紅花染の一種で、色の濃さにより『濃紅梅』『中紅梅』『淡紅梅』などのバリエーションがあります。ただし、平安文学においての「紅梅」といえば主に『中紅梅』を指しました。また重かさねの色でもあり、「表・紅色、裏・蘇芳」を配しかなり強い赤を表現しています。梅はバラ科サクラ属の落葉高木。中国が原産で奈良時代までは輸入されていましたが、遣唐使によって白梅が伝わり、さらに平安時代に紅梅も伝わることで一般化しました。清少納言も『枕草子』で「いとめでたきもの」として「木の花は、こきもうすきも紅梅」とあげています。ちなみに、江戸時代後期の『貞丈雑記』には、紅梅色はかつて『桃色』に近い色であったが、近年は黒っぽい『紫紅色』のこととなっていると記されており、江戸期には濃い紫紅色を紅梅色と呼んでいたことが分かります。初春に春の訪れを告げるように花を咲かせる紅梅。その花の色である『紅梅色』もまた淡い紅色が春をイメージし、今も昔も女性に人気の色名です。

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柘榴 ざくろ

柘榴の果実ような紅みを帯びた深い赤色のことです。または柘榴の花のような鮮やかな橙色を指すこともあります。表記は『石榴色』とも。現在では、柘榴色といえば柘榴石色(ガーネット)に近い紅赤のイメージが強いと思われますが、日本では古くから果実よりも花にひかれる傾向にあるため、鮮やかな橙色の花の色のほうが本来の柘榴色であったと思われます。柘榴はザクロ科ザクロ属の落葉小高木。日本には平安時代に渡来しており、『日用本草』などに記述が見られます。また、お釈迦様が子を食らう鬼子母神に与えた果物として有名で、果実に種子が多いことから子孫繁栄の『吉祥果』とも呼ばれました。縁起の良い果物であり、特に女性の幸運の象徴ということで着物や帯の柄としても人気です。ちなみに、ことわざ『紅一点』は、中国の詩人「王安石」が初夏に鮮やかな橙色の花を咲かせ緑の樹木の中で目立つ柘榴の花のさまを『万緑叢中紅一点』(咏石榴詩)と詩に由来。

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弁柄色 べんがらいろ

京都の町屋の壁などに見られる赤い色‥弁柄色は土の鉄分が酸化して自然にできる色。だが、人為的に弁柄色を作り出したのは江戸時代、岡山県吹矢が最初だった。時の権力者・田沼意次の後押しで開発された「吹矢の弁柄」はひときわ美しく、江戸時代から昭和三十年代まで日本の弁柄を代表してきた。今ではまったく生産されなくなった吹矢弁柄。その「赤」にこだわり続けるのが有田焼の今泉今右衛門だ。先代の時に吹矢の弁柄を大量に入手、いまでも独自の赤絵を焼いている。

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伽罗色 きゃらいろ

香木の伽羅で染めた色。伽羅は沈香の一種で、その中でも最高級品が伽羅です。昔から伽羅は沈香のなかでも特別扱いされ、上質なものについては武将らが競って求めたといいます。伽羅とは梵語で黒を意味するキヤラから漢訳された言葉です。その伽羅にちなんだ黄褐色がこの色です。やわらかい黄赤。伽羅は日本では中世以来、香として有名ですが、染色名として登場するのは比較的あたらしい部類に入ります。江戸時代中期には、伽羅色は伽羅茶とも呼ばれ、伽羅煤竹という色名も見受けられます。また、伽羅は香木に由来するところから、丁字による「香染」と混同されやすいが、それとは別の色です。伽羅色の色合を調べて見ると 全く異なる二つの色がある。一つは香木の伽羅そのものの色で濃い茶色。もう一つは 伽羅で染めた染め色でこちらは薄いものは肌色から濃いものは薄茶色まである。大まかには、染色など専門分野の人は染め色を指し、他の香木で染めたものと同じく「香色(こういろ)」と呼ぶが、一般的には伽羅そのものの色として使われている。 伽羅蕗、伽羅牛蒡などの料理の名はこの色にちなむもの。

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礪茶 とのちゃ

[R:159 G:111 B:085] 赤黒い茶色のことです。江戸時代の染め色の名で、刃物の研磨に用いる粗い目の砥石の色にちなんでいます。この染め色は江戸前期から広く普及しており、井原西鶴の『好色一代男』にもその名がみられます。
「染めしとの茶のきそはじめ、わがきがら茶はかはらねど」『松の落葉』大木扇徳。

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黄土色 おうどいろ

[R:206 G:155 B:014] 典型的な地面の色だ。石英や長石、さらに雲母などを含む砂塵が風に運ばれ堆積した、黄褐色の土の色をいう。黄土が意識的に使われたのは、茶の湯が最初かもしれない。安土桃山時代の茶人、千利休は簡素な茶室に「京壁」と呼ばれる黄土を用いた。その京壁の中でも最上とされるのが、かつて聚楽第の跡地から採れた「聚楽土」だ。しかし現在は、京都周辺の良質な土を混ぜ合わせて「聚楽土」の色合いを出している。その採取から精製まで、そして現代の茶室作りまでを追う。顔料の『黄土』の色のような赤みがかった黄色のことです。黄土はありふれた帯黄の土を精製してできた顔料。高塚古墳の壁画やアルタミラの洞窟画にも使われている色で、人類最古の顔料の一つです。また奈良時代の『正倉院文書』にも壁色として表記されています。黄土色は壁画の色のほか、絵画の下染料としても古くから愛用されてきました。 英名はイエローオーカー(yellow ocher)、仏名はオークルジョーヌ。一般的に『黄褐色』『駱駝色』も同様の色をさします。「馬の歩み抑へ留めよ住吉の岸の黄土(はにゆう)にほひていかむ」阿部豊継 『万葉集』巻六・一〇〇二

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燻銀 いぶしぎん

[C5 M3 Y0 K60] 波うつ黒い瓦の風景は日本人の原風景と伝えるもの。しかし、かつては素焼きの瓦が主流だったと云われる。その瓦を草木を焚いた煙で黒くしたのは、中世の頃とされ、それから日本独自の発展を遂げてきた。素焼きの土を黒変させる煙の力‥炎を使いこなし、一度に数百枚の瓦を焼く技術は熟練を要するため、現在では数人の瓦職人しか残っていない。群馬県藤岡に住む五十嵐さんは数少ない昔ながらの瓦職人。達磨窯という独特の窯を築いて、黒い瓦を作り続けている。「達磨窯で焼いた瓦は生きている。数十年数百年と時がたつと良い色になる」日本の瓦は約1400年の歴史があり、6世紀頃に仏教とともに大陸から伝来しました。瓦(鬼瓦)は粘土を成形し、乾燥させ、1100℃以上の高温で焼成して作られます。和瓦特有のこの色は、焼成の最終工程で燻化(くんか。英語ではスモーク。「燻」は訓読みで「いぶす」。)を行うことで、素地の表面に炭素被膜ができて発色します。「燻銀色」と呼ばれます。釉薬や塗装ではないため、若干水や手の脂分を吸収し、革製品のように徐々に黒ずむ経年変化によって風合いが増します。

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礪茶 とのちゃ

[R:159 G:111 B:085] 赤黒い茶色のことです。江戸時代の染め色の名で、刃物の研磨に用いる粗い目の砥石の色にちなんでいます。この染め色は江戸前期から広く普及しており、井原西鶴の『好色一代男』にもその名がみられます。
「染めしとの茶のきそはじめ、わがきがら茶はかはらねど」『松の落葉』大木扇徳。

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群青色 ぐんじょういろ

[R:159 G:111 B:085] 日本画で使う岩絵具の一種で、藍銅鉱(アズライト)という石を砕いて作られる深い青の顔料だ。日本ではほとんど採れない群青色は、昔から高貴な色とされ。わずかに仏画や障壁画などに使われていた。色にこだわる画材屋は美しい群青色を得るため、自ら原石を砕き、高名な日本画家も海や水の群青色に特別の思いを込めると云う。それほど美しく高価な群青を惜しげなく使った建物がある。日光東照宮だ。数十年に一度、改修を続ける東照宮の群青に込めた思いを探る。

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緑釉色 りょくゆういろ

[R:159 G:111 B:085] 自然を象徴する緑‥焼き物で緑色を出す「緑釉」は最も古い釉薬の一つで、紀元前の中国ですでに使われていた。そして奈良時代、日本へ伝わった緑の釉薬は戦国時代に一つの頂点を迎える。それが茶人であり武将であった古田織部が考案した、美濃の「織部」だった。織部焼きの陶祖と云われる加藤景延、その子孫が今も岐阜県土岐市にいる。陶芸家の加藤康景さんは父祖伝来の伝統を受け継ぎながら、土と格闘し、火を操って緑釉色の可能性を模索している。

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緑釉色 りょくゆういろ

[R:159 G:111 B:085] 自然を象徴する緑‥焼き物で緑色を出す「緑釉」は最も古い釉薬の一つで、紀元前の中国ですでに使われていた。そして奈良時代、日本へ伝わった緑の釉薬は戦国時代に一つの頂点を迎える。それが茶人であり武将であった古田織部が考案した、美濃の「織部」だった。織部焼きの陶祖と云われる加藤景延、その子孫が今も岐阜県土岐市にいる。陶芸家の加藤康景さんは父祖伝来の伝統を受け継ぎながら、土と格闘し、火を操って緑釉色の可能性を模索している。

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【金箔色(金系)】 透けるほど薄くのばした金の色
わずかな光に反射し、人の目に射し込むように入ってくる、金の色。その輝きは、古今東西を問わず、多くの権力者を虜にしてきた。中国から日本に伝わったのは5世紀頃。8世紀初頭には日本でも発見され、以降、高貴なものを飾るのに用いられた。日本では金を薄くのばした箔を使い、主に仏像や建築、絵画などを飾った。その厚さは1万分の1ミリ、向こうが透き通るほど薄い金箔であった。金箔をつくる技術はどこにでもあったが、透けて見えるほど薄くのばす技法は和紙を使う日本だけのもの。その頂点に君臨するのは、戦国時代の前田利家が愛し育てた「金沢箔」である。

【 琥珀色(茶系)】 半透明の黄みがかった茶褐色
「琥珀」は古代に松など植物の樹脂が埋もれ、長い年月を経て化石となった鉱物。中国では「竜血」と呼ばれ、生命の復活・再生の意味をもち、日本では大和朝廷の時代に、とても貴重なもの、権力の象徴とされた。宝石としての価値が高いため、顔料としては高価で使えず、瑪瑙(めのう)の顔料を代わりにして琥珀色を再現することが多いという。日本有数の琥珀産地は岩手県東北部にある久慈。8500万年前の琥珀が、今でも年間1トン採掘されているという。久慈の琥珀は古くから知られ、市内の遺跡からは琥珀の工房跡が発見され、大和朝廷などへ献上された記録が残っている。        

【黒茶色(黒系)】 鋳鉄の重厚な黒
繊細な鋳鉄の重厚な味わいが特長の「南部鉄器」は、みちのくの小京都・盛岡の歴史と自然が織りなしてできた伝統工芸品。盛岡近辺は古くから砂鉄や岩鉄などの良質な原料が産出され、鉄器の製造が行われてきた。南部藩の歴代藩主はいずれも産業・文化に関心が強く、鋳物師や京都の釜師を招き、大砲や釣鐘、茶の湯釜の製造にあたらせたという。その黒く、鈍い輝きは多くの茶人や大名たちに珍重されてきた。

【玉虫色(緑系)】 輝くような深い緑
日本や朝鮮半島、台湾などに分布する体長3センチほどの昆虫、ヤマトタマムシ。深い緑色の羽は、光線の具合によって金属的な「緑」から「紫」に輝いて見え、その多彩で複雑な色調を「玉虫色」、あるいは「虫襖(むしあお)」と呼ぶ。玉虫の羽根は古来、工芸品等にも用いられてきた。光の角度によって鋭い光を放ち、奈良・法隆寺に伝わる国宝『たまむしの玉虫ずし厨子』には、その柱や側面に玉虫の羽が張り詰められている。厨子(仏像などをおさめる箱型の容器)周囲の装飾金具の下に、玉虫の羽が貼ってあることからこの名称がある。

【青磁色(青系)】 灰みを帯びた青緑色
色名の「青磁色」は、磁器の青磁に由来。「青磁のような色」という意味で、青空のような緑みを含んだ明るい青色を指している。青磁は中国で宋の時代から焼かれてきた磁器で、日本に伝わったのは平安時代。その神秘的な美しさから「秘色(ひそく)」と呼んで珍重された。日本の青磁の始まりは、鍋島青磁。鍋島勝茂が関ケ原の役後、京都や江戸で高麗青磁を目にして佐賀でも作れないか研究するよう指示した。これが鍋島窯の始まりとなった。鍋島青磁は製法から色付けまで、すべて秘法とされ、品質保持のために藩が厳しく管理、保護したことで今に至る。なかでも「青磁唐花文水指」(18世紀前期作・今衛門美術館蔵)は鍋島の中では珍しい茶道具として作られ、鍋島青磁の中でも最高の青磁と称賛されている。
【梅干(うめぼし)色(赤みを帯びた梅干の色/赤系)】
 シソを使って赤みを出す梅干は日本独特のもの。健康保持の特効薬として、徳川家が梅の栽培を奨励したほどだった。特産地・和歌山を訪ね、鮮やかな梅干色を生み出す秘訣、シソの葉と梅の実の美しい関係を探る。

【 鳶(とび)色(豆味噌の濃い赤褐色/赤系) 】
  東海地方の食文化に深く根付いた調味料・豆味噌。それは味噌のルーツに最も近いと云われ、濃い赤褐色を得るには三年もの時間を必要とする。愛知県岡崎の味噌蔵では今も変わらぬ技法で豆味噌が作られているという。

【 抹茶(まっちゃ)色(ややくすんだ柔らかな黄緑色/緑系) 】
  日本独自の文化・茶道と結びついた抹茶。柔らかな抹茶の黄緑色は、葉緑素を残しながら製茶する、独特の技法で作られる。そんな製茶法を守り発展させてきた、京都宇治の茶師を訪ねる。

【 飴(あめ)色(水飴の透き通るような褐色/茶系) 】
  水飴が歴史に登場するのは『日本書紀』の時代とされているが、その色は黒ずんだ茶色だった。それを試行錯誤の末に透き通った褐色=飴色にしたのが越後の「高橋飴店」。十返舎一九の道中記にも登場する老舗飴店に伝わるその製法を探っていく。

【香(こう)色(胡麻豆腐にみられる白褐色/茶系) 】
  黄檗宗の開祖・隠元禅師が伝えたとされる普茶料理では、胡麻豆腐は欠かすことができない一品。京都の大本山萬福寺で今も作られている胡麻豆腐には、飲食平等という禅の心が込められている。
【銀色(古代から珍重されてきた金属、銀の色/銀系)】
江戸時代には世界有数の銀産国だった日本。当時、江戸に興った銀工芸は今も東京銀器としてその伝統を受け継いでいます。東京文京区に住む鍛金師・笠原さんを訪ね、銀の輝きをさぐります。

【憲法黒(江戸時代初めに吉岡憲法が染めたとされる黒/黒系)】
剣豪宮本武蔵と対決した吉岡兄弟の父憲法は高名な兵法家でしたが、江戸時代には兵法を捨てて染色に携わったといいます。そんな彼が染めたとされる憲法黒。その再現に染織家・吉岡幸雄さんが挑みます。

【油色(菜種から採った油のような黄色/黄系)】
菜種油が広く使われるようになったのは江戸時代初期のこと。それは灯火だけでなく日本の食文化さえ変えるほどでした。いまや貴重品とも云われる菜種油の製法と、油色にこだわった天ぷらを紹介します。

【白茶色(淡黄色がかった白砂糖の色/白系) 】
和菓子に使われる上等な砂糖、和三盆の歴史は色との戦いでした。黒い砂糖をどうやって白くするか。高松藩主松平頼恭は平賀源内などの学者を招き、ようやく白い砂糖・和三盆を生み出したといいます。
【白土色(土蔵や城壁などに塗られる漆喰の色/白系)‥‥国宝・姫路城】
別名「白鷺城」と呼ばれる姫路城。その白い壁や屋根に使われているのが日本古来の漆喰です。今年行われる修復作業を追いながら、漆喰ならではの特性や美しさをさぐっていきます。

【翠色(古九谷焼の鮮やかな緑色/緑系‥‥人間国宝・三代徳田八十吉】
絢爛で闊達な作風で知られた加賀の古九谷焼。その流れをくむ徳田八十吉は、独自の色の世界を築き上げた陶芸家です。そんな彼が魅了され、いまも傾注している翠色の輝きを映像化します。

【欅色(拭漆で磨かれた欅工芸の色/茶系)‥‥人間国宝・村山明】
京都に住む工芸作家の村山さんは何年も寝かせた欅をくり抜き、漆で丹念に磨き、ようやくひとつの作品を生みだします。この秋、数年後に取りかかる作品を頭に描きながら、欅の大樹を求めて山に入りました。

【青貝色(螺鈿細工に使われる夜光貝の色/青系)‥‥国宝・中尊寺金色堂】
平泉にある中尊寺金色堂の堂内に、豪華な螺鈿細工が施された4本の柱が立っています。その修復には創建当時と同じ夜光貝が使われました。修復に携わった職人を訪ね、螺鈿細工が放つ虹色の光輝をさぐります。

【藤黄色(植物性顔料、藤黄の赤みを帯びた黄色/黄系)‥‥国宝・二条城】
昨年のこと、修復中の京都二条城の「秋草図」(正式名なし)と言われる襖絵から新事実が発見されました。それまで灰色と思われていた色が、じつは藤黄の黄色だったのです。今も修復作業を続ける画家とともに、藤黄の繊細な美しさを再現します。

【鉛丹色(酸化鉛の呈する鮮やかな橙色/赤系)‥‥国宝・興福寺阿修羅像】
奈良興福寺の阿修羅像は古色を帯び、今でも多くの人を魅了しています。しかし造られた当時は鮮やかな赤。そこに使われたのが、顔料の丹だったのです。意外とも思われる国宝・興福寺阿修羅像の素顔に迫ります。

【鳥の子色(和紙の茶色味をおびた白色/白系)‥‥人間国宝・谷野剛惟】
兵庫の名塩に住む紙漉職人、谷野さんは古来の技法を守る唯一の人。貴重な雁皮(がんぴ)で漉いた鳥の子紙は繊維が長く、独特の光沢があるとか。熟練の手業から生まれる和紙の色と風合いを魅せていきます。
https://www.bs-tvtokyo.co.jp/iro/index.html
【山葵色(ワサビをすり下ろしたときの淡い緑/緑系)】
江戸時代後期に誕生し、いまでは寿司の代名詞ともなったにぎり寿司。その美味さ、彩りを引き立てているのが、淡い緑のおろしワサビです。 そんな山葵色の原点には徳川家康も関わっていました。

【煤竹色(竹を煙で煤けさせたような暗い茶褐色/茶系)】
俗に「大名釣り」と云われるタナゴ釣り。その華奢な釣り竿は和竿作りの技術をこらし、贅を尽くしたもの。煤けたような茶褐色(煤竹色)は、江戸っ子の「粋」で「通」な遊びを象徴する色なのです。

【江戸紫(江戸で染められた青みを帯びた紫/紫系) 】
十八世紀の中頃、爆発的に庶民の間へ広まった江戸紫。そのきっかけとなった歌舞伎十八番「助六」で使われた鉢巻を検証しながら、草木染めの継承者・山崎和樹さんが当時の色を再現します。

【蓬(よもぎ)色(キク科の植物、蓬の葉の淡い緑色/緑系)】
 古くは薬草として、また健康を願って節句などに用いられたヨモギ。その色は「菱餅」や「草餅」などに色を添えてきた。今でも地方へ行くと昔ながらの方法で餅を作り、古来の風習を受け継いでいるところがある。

【和菓子の色(梔子(くちなし)色、紅(べに)色))】
 日本に伝わる和菓子には、四季の移り変わりとともに、その色や形を変えていく伝統がある。金沢の老舗「森八」では、いまでも天然の色素であるクチナシや本紅を使い、季節に合った美しい和菓子を作っている。
【珊瑚色(赤系)】 黄みのある桃色
海中に生育するイシサンゴが形成する、骨軸を採集して磨いたものが古来、宝石として珍重された。一般に「珊瑚色」とは、そうした色。珊瑚は江戸時代になって女性の櫛や簪(かんざし)にあしら われ、男性が帯に挟む印籠や煙草入れの根付(ねつけ)にも使われた。また、珊瑚を砕いて粉末にしたものが絵具として、美人画など日本画の肌の色に用いられる。日本には、752年、聖武天皇が東大寺大仏開眼供養式の時に使ったとされる王冠の珊瑚玉と高さ約15センチの樹状の珊瑚が奈良の正倉院に保存されている。日本で最初に珊瑚が発見されたのは、1812年、高知県の室戸沖で漁師が珊瑚樹を釣り上げたのが始まりとされている。それ以来、土佐沖は珊瑚の宝庫として注目されるが、土佐藩は幕府の目を恐れ珊瑚の採取や販売を中止、正式に再開したのは廃藩置県になってからのことだという。
【鋼色(はがねいろ/青)】
優れた日本刀が放つ澄み切った青を銅色という。その神秘の輝きは、刀本来の武器という機能を超えて、芸術品の域にまで達している。
日本刀に使う鉄は「玉鋼(たまはがね)」という特殊なもの。それを炎で熱し、金槌で叩き、水で冷やして研磨する‥そうして、ようやく一振りの日本刀が生まれる。しかし刀の表面に「鋼色」が表れるのは、それから。研師の力が要るのだ。刀匠の宮入さんがその過程を見せてくれる。十四工程にのぼる極意の技のはてに現れる青い鋼の輝き‥そこには「土と水と炎の神秘」が刻み込まれている。【藍】
 明治初期、来日した外国人から「ジャパン・ブルー」と賞賛された藍色。奈良時代にはその染色技法は完成されており、正倉院宝物のなかにも多数の遺品を見ることが出来る。藍の産地は徳島。暴れ川の異名を取る吉野川の氾濫を逆に利用して栽培、瀬戸内海の水運の発達で各地に運ぶことが可能になり、徳島の藍栽培は盛んになった。紺屋での製作技術と、京都の街ののれんになるまでの過程を紹介する。
【臙脂(えんじ)】
京都・祇園祭りの山鉾(やまぼこ)巡行のなかほどに、ひときわ美しい「月鉾」がある。この月鉾の絢爛豪華な様子を演出しているのは、「みおくり」と呼ばれる臙脂色の胴掛けである。鮮やかな深い赤・臙脂は、東南アジアに多く見られるラックカイガラムシ、別名臙脂虫から取る。太閤・豊臣秀吉も臙脂に魅せられた一人だ。彼のもとに外国の宮廷から贈られた絹のタピスリーを、自らの陣羽織に仕立て直したという記録が残っている。京都・高台寺には、彼の陣羽織が残されている。秀吉がなぜ、臙脂のタペスリーを陣羽織にしたのか、高台寺の人に聞く。
【柿渋(かきしぶ)】
 京都府木津町では、丈夫で防水性に優れた染料「柿渋」が今も行われている。染物が盛んで、着物といえば友禅といわれる京都では、柿渋は多く消費されている。日本の染物を一気に変えた革命的な技法であった友禅は、紙と柿渋で作った型紙を使っている。防水性があり防虫効果の高い柿渋は、何十年、何百年という保存に耐えることができる。伝統的な文様を校正に伝えるには絶好の染料なのである。三重県鈴鹿市で行われている伊勢型紙作りを紹介する。
  
【緑青(ろくしょう)】
 7~8世紀にかけて描かれたといわれる奈良県・高松塚古墳の壁画には、孔雀石を砕いてつくった緑青が使われている。この緑青の緑(青)と朱または紅の赤い色は捕捉の関係にあり、日本画の世界でも非常に効果をあげてきた。奈良に在住する日本画家を訪れ、緑青の色の持つ意味を探る。
【朱】
 古来、日本にいる八百万の神々が宿る聖なる火。それが黄色がかった鮮やかな赤、すなわち朱の色である。千個もの燈篭と朱色の柱が目立つ奈良県・春日大社は、かつて20年ごとに建て替えていたが、今は必要なときだけ、部分的に修復をしている。現在、春日大社若宮で、柱の朱色の塗装を施している。なぜ、朱の塗料を使うのか?それには、国家と宗教が強く結びついた時代に、力の象徴として目立たせる必要があった、といわれている。朱という色を神々に見たてて、身近なものにした時代に思いをはせる。
【墨】
 日本の墨の一大産地は、奈良。中国で発明された墨は、仏教が日本にもたらされるとともに、写経という仏教のおびただしい教えを記すために欠くことのできないものになった。当初は輸入に頼っていた墨は、需要に追いつけず、日本で製造するようになったと考えられている。奈良墨の老舗「古梅園」で、10月後半から行われる墨づくりを紹介する。

【刈安(かりやす)】
 深山幽谷の世界が谷間に広がる東京都・奥多摩の御岳神社。ここには、鎌倉幕府の七代将軍が蒙古軍の撃退を祈願して奉納したと伝えられている「紫裾濃大鎧」がある。この裾濃には、刈安の黄色が置かれている。刈安は中国古来のススキに似たイネ科植物で、刈り取りがしやすかったので、この名がついたという。滋賀県に根付く「近江刈安」を紹介する。
【胡粉(ごふん)】
 10月8日と9日、鎌倉に大勢の人が集まる。お目当ては、鎌倉宮の境内で行われる薪能。古都・鎌倉の秋を彩どる風物詩である。裏では、観世、喜多、金春、各流派の能役者が舞台に備えている。彼らが使用する能面には、牡蠣の貝殻を焼き、それを細かく砕いた胡粉という白色の顔料が使われている。能面師に胡粉の魅力を聞く。

【瑠璃】
 鎌倉・材木座海岸。その沖合いの小さな島・和賀江島は、鎌倉時代に作られた人工の島である。島に今も残る玉石は、わざわざ伊豆の海岸や相模川の上流から運ばれてきたもの。現在も嵐のあとには、鎌倉時代に使われていた陶磁器の破片が見つかるという。そこには、透き通った神秘的な濃い青「瑠璃」色がある。13世紀、鎌倉時代に中国から禅宗が伝わり、幕府は建長寺や円覚寺など5つの禅寺を鎌倉に建立した。そして中国へと盛んに留学生を送り、文物を持ち帰った。持ち帰ったもののひとつに、いまでいう天目茶碗がある。天目はその後、茶道具として一世を風靡。そして、天目の中でも最も価値のある天目に至上の瑠璃色を見ることができる。大阪・藤田美術館にある「曜変天目茶碗」を紹介する。

【梔子(くちなし)】
 京都の老舗和菓子屋「末富」。ここの亭主は、お茶会の一週間前には必ず出掛ける。季節と色彩を熟慮した、お茶会に出す菓子の打ち合わせである。この道四十年の主人、山口さんは天然の素材にこだわる。作る菓子は山芋のきんとんだが、そのままでは白色なので、季節感をだすために梔子を使っている。四季の移ろいを大切にする茶道では、黄色い梔子はまさに秋を呼ぶ色なのである。お茶会にきた客にも反応を聞く。

【深紫(こきむらさき)】
 平安、鎌倉、室町と時代に関係なく常に朝廷で使用されてきた色「紫」。ところが江戸時代になり、紫の着用をめぐって大きな事件が起きた。1627年、徳川家康が紫衣の着用の際にはあらかじめ知らせるという法度を出した。しかし天皇は大徳寺・妙心寺などの僧に着用を許可、それに対し幕府は勅許状を無効としたのだ。「紫衣事件」と呼ばれるこの事件の背景の裏にあったのは、朝廷と幕府の権力争いであった。「紫」を支配するものは、すなわち最高権力者であったのだ。 京都にある「染司吉岡」。ここの五代目当主、吉岡幸雄さんに大変な手間がかかる深紫染めの製作過程を見せてもらう。

【紅】
 山形県河北町の旧家・鈴木家の座敷倉には、江戸時代の享保雛がある。なぜここに雛人形が伝わっているか、というと最上地方は紅花の産地で、昔京都まで陸路と海路で運ばれていた。行きの荷で紅花を運ぶと、帰りの荷では、京都でその紅花を使って染められた着物や、雛人形となって帰ってきた。“奥の細道”でこの地を何度も訪れている芭蕉も、「行末は誰が肌ふれむ紅の花」と詠んでいる。 紅花染めにいたる工程は多くの人手と手間を要するもので、今も大事に行われている。鮮やかな京都の舞妓が重ねる口紅に重ねる紅は、現代人の心をつかんで離さない。

【茜色(あかねいろ/赤)】
今でも語り継がれる万葉の恋の物語。その主人公は額田王と皇子だった。

  「茜草指(あかねさす)/紫野(むらさきの)行き/標野(しめの)行き/
                 野守(のもり)は見ずや/君が袖(そで)ふる」(万葉集)

朝焼けのわずかに黄色味が差した赤い空、それが茜色だ。
茜色は茜草の根から取るが、美しく染めるのは非常に難しく、室町時代にその方法は途絶えたと云われている。そんな「幻の色」を復元しようと試みたのが、徳川吉宗だった。しかし試行錯誤の末に失敗、ついに幻の色は出来なかった。そして今、鮮やかな「茜色」を出すことに成功した人がいる。奈良県に住む宮崎明子さん?彼女が復元させた幻の技法を紹介する。

【萌黄色(もえぎいろ/緑)】
萌え出る若葉の緑、冴えた黄緑は「萌黄色」と呼ばれ、新しさ、若さを表す。
『平家物語』に老武者が萌黄縅(もえぎおどし)の甲冑で負け戦へ立ち向かう場面があり、その若やいだ姿に敵方さえ涙を流したと云われる。
元来、緑という色は藍(青)と刈安(黄)を混ぜて作り出すもの。
だが唯一、最初から淡い緑色をしたものがある。山繭の糸だ。生糸のダイヤモンドと云われる山繭。その神秘的な生態を追い、山繭の糸を使って反物を織る匠の技にふれる。
さらに萌黄色には不思議な特性がある。近江商人の礎を築いたと云われる萌黄色の蚊帳。
偶然からその不思議な力に気付いた商人が、蚊帳を染めて売り出したところ、爆発的に売れたという。萌黄色には人の心を落ち着かせ、和ませる力があったのだ。

【露草色(つゆくさいろ/青)】
恋人の心変わりを「露草色」にたとえて詠んだ歌…

     「つき草の/移ろひやすく/思へかも/
                  わが思(も)う人の/言(こと)も告げ来ぬ」(万葉集)

露草は古くはツキクサと呼ばれた。その性質は弱く、水に濡れると溶けて消えてしまうので、染め物には使えなかった。ところがそんな特性を逆手にとった使い道があったのだ。その「露草色」を、手描き友禅では図柄の下書きに使用する。露草色の下絵は友禅流しのときには消えてしまい、後に残るのは図柄だけとなる。

【女郎花色(おみなえしいろ/黄)】
美しい響きをもつ「女郎花色」。それは女性を敬愛する色とされてきた。

     「名にめでて/折れる計(ばかり)ぞ/女郎花/
                         われおちにきと/人に語るな」(古今集)

女郎花は粟粒ほどの黄色の花をつける秋の七草のひとつ。語源は東北地方にあるとも云われ、万葉仮名では13もの文字が当てられている。
初秋の野山に黄色い粉を散らしたような女郎花の花、その色が「女郎花色」だ。緑の上に散った黄色は、混ぜて作れる色ではない。
そこで古の人たちは「襲(かさね)」という、日本独自の色表現を編み出した。代表的な襲には、色の異なる二枚の薄衣(うすぎぬ)を重ねる方法と、色の異なる糸で互い違いに織る方法とがある。
襲には春夏秋冬の決まりがあり、古人はその着こなし、美しさを競った。
京都に住む泰宏子さんは襲(織り)の技法を今に伝える人だ。彼女の手によって、古の人たちが愛した「女郎花の襲」が織り出される。

【橡色(つるばみいろ/黒)】
太古の昔から親しまれ、染料とされた色、それが橡(つるばみ)色だ。

     「紅(くれない)は/移ろふものそ/橡(つるばみ)の/
                馴れにしし衣(きぬ)に/なほ若(し)かめやも」(万葉集)

橡とはブナやクヌギ、ナラなどの古い呼び名。その実は食用や染料とされ、樹皮もまた簡便な染料として使われた。 それだけに「橡色」は誰でも出せる色、庶民の色とされてきた。
しかし平安時代になると仏教との関わりが深まり、法衣あるいは喪服に使われるようになる。
紫式部の「源氏物語」には、喪の場面があり、関係の深さによって橡色の濃淡を使い分けた様子が描かれている。
技術としては古い染色法。・泥染め(どろぞめ)が今も残っている。
特産である織物の長さが島の名前の由来になったという八丈島。この島ではスダジイという広葉樹の樹皮で染めた生糸を、鉄分を含んだ泥で「橡色」に定着させる。
そんな伝統の技を守り続けているのが、都の無形文化財技術保持者・山下八百子さん率いる「めゆ工房」だ。その仕事風景を紹介する

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