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「吾心如珠串, 思君念不断 。」——女郎花物語

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黄袋 きぶくろ

用来包裹画框和古董的黄布袋。防止放入放出畳箱或桐箱时,不小心磕损了古董。具有一定透气性,可以保护画作不受潮、发霉。由于染料使用了姜黄,也可以防虫。黄袋容易被日光晒到褪色,但也成了衡量保存状态的标准。

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畳箱 たとうばこ

用于收纳画框和图纸的箱子,经常和黄袋一起使用。将信封做成箱型的结构,用折弯绳固定顶部的盖子,有时也被称为塔特式(タトウ式)。箱子主体由纸和胶合板等构成,表面有贴着棉布、天鹅绒、或柿涩纸。

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矢立 やたて

结合了毛笔和墨瓶的便携式书写工具。镰仓时代,为了在战场上书写,人们会将砚台和毛笔装入箭筒(矢立)中,称之为称为"矢立砚台"。形状大致可分为三种:桧扇型,其木身为方形,有一个放置砚台和毛笔的隔间,盖子可滑动开合;柄杓型,有一个砚台和一个放置毛笔的管子;以

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及印笼型,砚台和管子用绳子连接。 其中,柄杓型形似烟管,不仅方便抓握,不会引起怀疑,还可以藏入针和刀片。松尾芭蕉在《奥之细道》中,雅集的第一首俳句写到「匆匆春将归,鸟啼声声正伤悲,鱼目亦珠泪 (行く春や鳥啼魚の目は泪)」これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず人々は途中に立ち並びて、後影のみゆるまではと、見送るなるべしと記されている。

用来包裹结发工具和衣服的纸张。包裹和服的畳纸,会在厚厚的纸上涂抹渋或漆,折成三折,再将边缘折叠,以防止物品掉出来。这种包装手法后来也被用于临时保管昆虫标本。在神道界,这种纸最初是一种怀纸,被用于写诗、以及擦拭眼泪,是一种维持风度的装饰品。男性神职人员使用白檀紙,女性使用红鸟纸。 在神社里,它也被称为帖紙。

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畳紙 たとうがみ

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桐箱 きりばこ

主要用于存放挂轴、古董、風鎮珠等。 因为盖子没有盒子的摩擦来固定,并且通常用绳子盖住或用糠布包住。 大多数用于悬挂卷轴的桐箱内都有一个轴承,古董有时在放入泡桐木箱之前会用福草或福禄寿包裹。 它们也很轻,不受潮湿影响,因此适合储存对干燥和潮湿敏感的物品。 在茶道用具的世界里,桐箱的价值有时会通过在盒子上写字来提高。桐树具有独特的防止墨水渗出的能力,桐箱经常被用于学校校长的书法和艺术家的盒子铭文。 京都是特别著名的豪华盒子的主要生产中心。

主に掛軸骨董品風鎮数珠などを保管するのに使用される。通常は箱と蓋とに分かれており、蓋はかぶせた時の箱との摩擦によってある程度固定され、更にその上から紐を掛けたり風呂敷で包んだりすることが多い。掛軸用の桐箱は中に軸受けを設けているものが大半で、骨董品の場合は桐箱に入れる前に袱紗黄袋などで包むこともある。また、軽くて湿気を通さないため、乾燥や湿気に弱い物品を保存するのに向いている。茶道具の世界では桐箱に箱書きをすることによってそのものの価値が高まる場合がある。墨がにじまないという桐の特徴から、家元の書付、作家の箱書きにも多く用いられる。特に有名な高級箱については京都が主産地である。

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✿​水引 みずひき
将和纸涂上胶水硬化做成的纸捻。名字来源于制作工艺、将纸捻浸泡在水中、以便拉长塑形、染色的过程。起源众说纷纭,一说是遣唐使小野妹子归国之际,回赠品系着红白二色的亚麻绳结,从此皇室的贡品都会系上红白麻绳,而后演变成用纸捻做成的水引带纽;二说是源自室町时代的中日贸易,明朝为了不搞混出口物资才早期所有货箱绑上了红绳和白绳,而日方会错了意,以为礼物就是要绑上红白的绳结才合乎礼仪;三说是源自航海时代的护身符,当时祈愿航海顺利、远离海盗、驱邪用的绳子上会涂抹黑色毒药,这种药在解开后会变成红色。因此直至今日,水引也包含着"未开封"、“除魔"的寓意。室町时代以来,染成红白色或金银色的纸捻代替了麻绳。作为封印·驱魔·人与人之间的连结的象征,被用在各种各样的地方。在喜事丧事时附加在礼物和信封上的装饰带纽,也可以当作鹤或船之类的装饰品,或者发饰来使用。根据包裹物品的和纸的折法、水印的系法、以及写信封的写法,用途也有所区分。平安时代起,长野县饭田市就开始盛行种植葡蟠和黄瑞香,以及使用它们作为原料制作和纸。据说在江户时代,藩主就将制造方法定为武士的内部工作让他们来学习,也已经开始使用耐用且耐水的饭田总帐纸来生产元结(一种绑扎武士头发的绳子)。明治维新断发令颁布后,元结的消费量减少了,但是却对元结进行了改进,创造出了有光泽的结实的水引。元结也作为水引的重要素材之一,现在被使用在相扑的发髻上。大正5年,金泽市的津田水引折法的制造者,津田左右吉,开始从之前平面的水引结制造出了立体的鹤龟松竹梅和铠甲之类的水引工艺品。这种津田流水引的独特风格,被确立为加贺水引,并且作为金泽市稀少的传统工艺而被社会所认可。水引工艺品渐渐作为聘礼和红包的装饰被普遍认知。到了昭和时代,水引也被开发出各式各样的打结方法,红包、聘礼和水引工艺品的生产也在增加。如今,也有人将它作为信封上附带的装饰绳结、小零件或者作为兴趣而制作。因为水引是由一根根纤细的绳捻组成的一束,这里使用的绳捻根数也有重要的寓意。这个根数是源自中国古代的阴阳说,红事是奇数,白事是偶数。而且,因为五行说里“五气是万物之本”这个说法,“5”变成了基础数字,一般根据贺礼金额的多少来调整纸捻的根数。

赤白:用于所有庆祝活动。所谓红白是如下所示特殊的水引,一般被称作红白的水引大部分都是赤白水引的误称。
红白:只用于皇室的庆祝活动。由于用途的特性,销售渠道有限,因此通常很少见。暗红色的水引用红色的染料浸染,染好的水引呈现出被称之为玉虫色的深绿色,很容易被认成黑色。
黑白:主要用于佛教事务如香和供品。自明治维新以来,黑色丧事的概念传入日本。虽然在京文化影响的地区,由于黑白容易与皇室使用的红白水引认错而不曾将黑白用于丧事。但现如今也在逐渐普及。黑银和黑白相同。

青白:以前用于佛事,近年来几乎不再使用。

黄白:用于奠仪和供品等。仅次于黑色的第二贵重颜色是黄色。主要用于由于上述理由忌讳避开黑色的关西、北陆地区的法事。

金银:用于结婚祝福、聘礼等。除结婚祝福之外,祝寿或者庆祝绶章之类的一生一次的庆祝活动也可以使用。根据地域不同,有时也可以和赤白一样用于一般的庆祝活动。

金赤:只用于神札或门松等特殊用途。

双银:用于奠仪等。主要用于佛教仪式。也用于当女人供奉奠仪时或者基督教方式的场合。全部银色都被误用。

双白:用于奠仪等。主要用于祭神仪式。

①蝴蝶结(花结)
蝴蝶结由于可以轻易地解开调整绳结,常用于可以重复发生很多次的庆祝上。如出生·升学·年中年末赠礼·压岁钱等。虽然被称为祝福的水引,但是不可以使用在结婚庆祝和病愈庆祝上。因为它会产生反复结婚、病情再次加重的意思,会使对方产生不快。
②结切(真结)
“结切”原本是在给长辈或者郑重地给某人送礼物时使用的。形状如同倒过来的的丝带,将水引系成一个而且绝对解不开的结。和蝴蝶结不同,它包含着“希望它不要重复第二次”的寓意,因此可以在结婚庆祝、探病以及奠仪上使用。

③ 淡路结
淡路结是结切的进化版,同样有着不要梅开二度的寓意。因为绳结错综复杂地交织在一起,因此又有长生长寿的寓意。淡路结遇鲍鱼的形状相似,因此又别名“鲍结”。由于比结切更加华丽,是结婚典礼上使用最多的水引。但如果用在生产·入学·开店庆祝·年中年末庆祝等会发生很多次的庆祝上,反而会失礼。
④ 梅花结
梅花结是用五枚花瓣组成的梅花的图案,和淡路结一样多用于婚庆。松竹梅在日本是非常吉利的植物,赠礼也是如此。由于紧系的梅花结无法解开,它也包含了希望不要梅开二度的寓意。

✿蜻蛉玉 ガラスビーズ
江戸時代には青地に白の花模様のガラス玉を「蜻蛉玉」と呼び、それ以外のものは模様に応じて「スジ玉」「雁木玉」などと呼び分けていたが、現在では模様に関係なく「とんぼ玉」と呼ばれている。とんぼ玉がいつ頃から作られていたのかははっきりしない。エジプトなどでガラスの発明から間もない時代に発見されており、古くから製法が知られていたことが分かっている。中国でも隋や唐の時代には、火齊珠・玻璃と呼ばれた。日本では、吉野ヶ里遺跡から、勾玉とともに小型のとんぼ玉が出土しているが、これらはエジプトからの輸入品と考えられており、アジアを横断する交易ルートの存在を示唆する資料と見なされている。正倉院には多数のとんぼ玉とともに製法を記した書物や原料も収蔵されており、奈良時代には製法が伝えられ、国内で生産されていたと考えられている。奈良時代から平安時代初期には、とんぼ玉は厨子の装飾に使用されるなど、仏教美術と深く結びついていた。その技法は秘伝とされ、とんぼ玉に接することが出来る人間も限られていたと言われている。江戸時代に、南蛮貿易を通じて中国のガラス技術とヨーロッパのガラス技術が伝えられ、長崎などで安価なとんぼ玉が多数作られるようになった。その結果、長崎の技法が江戸で発展したもの(江戸とんぼ玉)、アイヌ民族との交易用に作られたもの(アイヌ玉)、奈良時代からの製法で作られたもの(泉州玉)が庶民の手に渡るようになり、根付けやかんざしなどの装飾品に使用された。しかし、とんぼ玉の製法は奢侈禁止令により明治時代には絶えたと言われている。戦後に入り、江戸とんぼ玉や外国産のとんぼ玉を参考に復元が行われ、多数の現代作家のもとで作られている。
大玉/法隆寺玉/糸屑玉/江戸とんぼ玉/シトキ/タマサイ

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✿​紙縒 こより

紙を細く裂いた物を寄り合わせて紐とした物である。なお紙撚とも表記する。特に丈夫な紙を原料にしたものは元結と称し、主に冊子の綴じ紐や髪を束ねるために使用される。江戸時代の風俗・事物を説明した「守貞謾稿)に文明年間観世阿弥が式三番に用いる烏帽子を結ぶのに紙縒を何本か縒り合わせたものを使ったことに由来すると書かれているまた、紙縒りに糊を引き、染色あるいは箔加工したものが水引となる。紙縒の原料となる丈長紙は、越前・美濃・阿波・丹後・伊予・土佐・日向で製紙される。丈夫な紙を原料にしたものが元結で髷を束ねるのに使われた武家の内職としてあげられている。連歌師は和歌をしたためた懐紙を綴るのに紙縒を美しく着色して用いた紙縒に糊を引いて着色し箔加工するなど,彩をつけた紙縒が水引。観世縒は紙をよって細いひものようにした物。こより。かんぜより。かんじんより。

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扇の一種。末広(すえひろ)ともいう。中啓は親骨が要よりも外側に反ったかたちをしており、折りたたんだ時、銀杏の葉のように扇の上端がひろがる。「啓」とは「開く」という意味で、折り畳んでいながら上端が「中ば(半ば)啓く」という状態から中啓と名付けられた。 日本で発明された扇はもともと骨の片面に紙を貼ったもので、これは開くと扇の裏面に骨が露出するという形式であった。日本の扇が中国に輸出されると、中国では両面に紙を貼る形態に改造された。これが日本に逆輸入され、日本でも室町時代には両面に紙を貼ったものが作られるようになったが、そうすると畳んだ時の厚みが倍となるので、おのずと扇の上端が広がる格好となる。これが中啓の起りである。そののち扇の製法が進み、両面貼りでも現在見られる末が広がらない扇(沈折という)が造られるようになるが、中啓は末の開いたままの状態を維持し、公家や武家において笏のように儀礼の具とした。公家では檜扇を扇の中でもっとも正式なものとしたが、中啓はその檜扇に次ぐものとされ、徳川家をはじめとする大名家では直垂・布衣・大紋着用の際の持ち物とされた。また能や狂言、さらに歌舞伎の舞台でも使われ現在に及んでいる。なお朝廷や公家においては中啓は末広と呼ばれたが、武家や能狂言等で使うものとは微妙に形式が異なりそれらとは区別されたという。 神社でも神職が、神事で中啓を使用する。帖紙に中啓を添えて懐中したり、神葬祭の遷霊儀式で打ち鳴らしたりする。また、白竹、鈍色、黒色、朱色などのタイプがあり、ぼんぼり、ぼんぼり扇とも呼ぶ。また出雲大社では神職が笏の代用とする風習もある。

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中啓 ちゅうけい

悬挂在挂轴底部两端的装饰物,可以防止卷轴随风摇摆、发生磕碰。一般由陶瓷或石头等重物制成,顶部有一条被称为"掛紐"的细绳,用来悬挂在挂轴上。

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風鎮 ふうちん

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薬研 やげん

药碾,碾磨中药的工具,由铁制的碾槽和车轮般的碾盘组成。古人称它"惠夷槽",据传与华佗有关。药碾在汉唐时不如杵臼、乳钵使用普遍。宋明清后逐渐普及。因为碾槽呈深V形,与之形似的石碑雕刻法也被叫做"药研雕(薬研彫り)"。 挖掘遗址的深沟的横截面也是V形,有时会被称为"薬研堀"。

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通过拉起手柄,从水盆或水槽中抽水、类似于消防泵的道具。受到人力限制,尚不足以将大量的水送到高处,主要用于防止火灾蔓延。17世纪中期开始,江户就出现了"大名火消"、"定火消"等组织,但它们是为了保护武士的家庭财产,而不是为了平民而存在。江户时代后期,才出现了平民自发组成的"町火消",或称"四十八组"。组织者为南町奉行的"大岡忠相"。时代剧中常见的「め組」也是四十八组之一。
また辰五郎という名前を聞くと大物演歌歌手を頭に描く方も多いかもしれませんが、新門辰五郎はめ組の頭ではなく、「を組」の頭として活躍した実在の人物です。 さて、今回紹介する資料は、江戸時代に町火消が使用した「水鉄砲」です。これは一人で持ち運びが可能な筒型の消火器具で、水は細く延びたノズルから噴射させました。まず桶やたらいに水を張り、その中に本体を立てます。T字の柄を引き上げることで水を吸い上げ、押し下げることで水に圧力をかけ飛距離をつけようとしたのです。当館には、木製のものとブリキ製のものが収蔵されています。木製のものには正面に「御免」「木綿屋」、側面に「江戸 神田三河二丁目 龍吐水師 天野半七」と焼印が押されていますが、製造年代はよくわかりません。しかし、手がかりは、他の博物館が所蔵する同じ形式の水鉄砲にありました。明治時代に購入したことを示す墨書が残されているこの資料には、「御免」の代わりに「官許」という焼印が用いられています。「御免」と「官許」の表現の違いは、江戸時代と明治時代の違いではないでしょうか。幕府が町火消の各組に水鉄砲を常備するように指示したのは文政13年のことですから、恐らく、その後幕末までの38年の間に作られたと考えられます。一方、ブリキ製のものは、筒型で精巧に作られています。三重県松阪市の旧家から寄贈されたもので、昭和初期の製造と伝えられています。 ところで、この水鉄砲は、実際に消火活動に使えたのでしょうか。江戸時代には、水鉄砲よりも威力のある龍吐水(水鉄砲と水槽を一体化させ、二人がかりで水を噴射させたもの)という消火器具がありました。しかし、射程距離は16~20メートル程度といわれていますから、その効果には疑問が残ります。実は、当時の消火活動は、火を消すというよりも、むしろ延焼をくい止めるというものでした。つまり火災が起こった周辺の家屋を破壊して空間地を作る「破壊消防」が中心で、町火消が屋根に上り纏を空高く掲げるのは、そこが最初に消火(破壊)にとりかかる場所(消し口)であることを示すものでした。現在のようにポンプやホースを用い、火元に直接水をかける方法がとられるようになるのは、町火消が「消防組」と呼ばれるようになった明治時代からです。 町火消が行う消火活動において、龍吐水は、火を消すために用いるのではなく、むしろ最前線で破壊消防に従事する火消したちに水をかけることが、主な目的だったともいわれています。国の許可により龍吐水師が、消防用のポンプを作っていたことがわかります。龍吐水とは、明治初期に水鉄砲とともに使われていた、むかしの消防用ポンプのことです。また、水鉄砲はコンパクトな消火器具として、龍吐水が入れないような狭い場所で使用されたり、個人用としても常備されていました。大店や裕福な人々の間では、すでに江戸時代から個人的に所持されていたようです。ブリキ製の水鉄砲には屋号と苗字が書かれています。地方においても地域の有力者の家には、現在の家庭用消火器のように設置され、もしもに備えられていたのでしょう。

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水鉄砲 やげん

玻璃工艺史
早在绳纹时代后期的遗迹中,就有玻璃制品的出现。但可以被证明为日本所产的,则只能追溯到7世纪后半。在奈良县飞鸟池的遗址中,发现了彩色的玻璃球,以及作为原料的铅和石英、熔化玻璃的坩埚等道具。平安时代,春日大社的琉璃灯笼也是玻璃制品。但到了镰仓时代,玻璃的制造方法断绝,直到战国时代后期才陆续出现新的玻璃制品。16世纪,以葡萄牙、西班牙等南蛮船的渡来为契机,传教士萨维尔将玻璃器皿和眼镜等珍品献给了大内义隆、传教士弗洛伊斯将装有金平糖的玻璃瓶献给了织田信长,日本与欧洲的玻璃贸易从此开启。洋玻璃制作了很多像威尼斯酒杯和波希米亚酒杯一样的玻璃杯。和玻璃最初是在长崎制作的,不久就扩展到了大阪、江户。而后,玻璃批发商加贺屋久兵卫、玻璃工匠上总屋留三郎两人进一步推动了玻璃制造的日产化。久兵卫是日本首位制作硝子的人,也是江户硝子的创始人。加贺屋制作了玻璃盘、玻璃杯、眼镜等。上总屋则销售玻璃簪子、风铃、金鱼盆等。当时的玻璃对江户人来说虽然略贵,但算不上天价。因为时尚漂亮、有季节感,而被江户人所喜爱。战国时代的玻璃被称为「びーどろ」。江户时代,玻璃开始普及后,根据制造年代和手法的不同,被分为了「びーどろ」和「ぎやまん」两种。

和硝子 びーどろ
战国时期,日本人用葡萄牙语「びーどろvidro」称呼舶来的玻璃制品。根据传统,取用了中文的「硝子」作为别名。
到了江户时代、和硝子用于指代以铅玻璃为主的玻璃制品。吹玻璃便是其中代表。将玻璃在1400度下融化,变成像糖稀一样的状态,粘在空芯竿的一段,另一端吹入空气来塑形。由于铅玻璃的透明度高、坚硬,在日本各地都能制作。

洋玻璃 ぎやまん
ヨーロッパ製のカットガラス。「ぎやまん」もダイヤモンドを意味するポルトガル語「diamant(ジアマンテ)」から来ているといわれています。ポルトガルやスペイン、オランダなどから届いたガラスの多くは、ヴェネチアングラスやボヘミアングラスなどのカットガラスでした。このカットガラスを作るのに欠かせなかったのがダイヤモンド。硬いガラスにカットを施すのに、さらに硬いダイヤモンドが使われていました。そのため、こういったカットグラスの舶来品はすべて「ぎやまん」と呼ばれるようになったのです。さらに江戸時代中期、はじめて江戸切子を作ったとされるガラス問屋・加賀屋久兵衛も、切子を作るのに金剛砂(ダイヤモンド)を使用。このことから、やがて海外のカットガラスを含め、「江戸切子」「薩摩切子」など、カットガラスすべての総称として「ぎやまん」と呼ぶようになっていきました。

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肥前びーどろ

鍋島藩(佐賀県)藩主・鍋島直正が、江戸末期に精煉方を作ったことが始まりといわれています。明治になると食器などの生活必需品を作るようになり、やがて民間の会社になりました。これが現在の肥前びーどろの工房です。肥前びーどろは、2本の棹を操る「ジャッパン吹き」という独特な技法で作られており、透明度の高く艶やかな味わいが特徴です。肥前びーどろとは、佐賀県の重要無形文化財に指定されている「肥前びーどろ」は、江戸時代末期頃に作られ始めた。佐賀ガラスと呼ばれたが、昭和期に肥前びーどろの名で販売したものが定着したといわれている。型を使わず、人の息を吹き込んで作られる宙吹きガラスは、なめらかな艶と柔らかい曲線が特徴だ。肥前びーどろの歴史・技術「明治維新は佐賀から始まったー」。司馬遼太郎がそう評した佐賀県は、古くから高いものづくりの技術を誇る土地だ。その基礎になったのは、佐賀(鍋島)藩10代の鍋島直正が寛永5(1852)年に、製鉄や蒸気機関などの実験を行うために設置した「精錬方」である。精錬方とは、今でいう理化学研究所。大砲鋳造など、藩を守り、強くするための、技術開発、向上を目的とした施設だ。大砲などの西洋の技術に触れたとき「これからは西洋の学問を学ばなければならぬ」と精錬方の設置を決めたという。佐賀の精錬方には各地から多くの技術者が集められた。国内でもいち早く、文明が開化した佐賀。その事実を、多くの人に知らしめたいと、司馬遼太郎は「明治維新は佐賀から」と記したのである。精錬方には、薬剤や火薬の試験をするために必要だったガラスを製造する場所もあった。ビーカーやフラスコなどを作る技術は、その後、ランプや食器の製造にも活用されるようになった。明治に入り、精錬方は藩から民間会社へ移行。当時必要不可欠だったランプ用のガラス製造を中心に、人々の暮らしに役立つガラス製品づくりに携わっていった。肥前びーどろの特徴は宙吹きガラスゆえのなめらかなフォルム。中でも、長い注ぎ口が美しい「肥前かんびん」を作る際の「ジャッパン吹き」は、肥前びーどろだけの技術だ。鉄の竿ではなく、ガラスの友竿を使って形づくる技法で、空気以外のものに触れずに作られたものならではの、なめらかな風合いは、多くの人に愛されている。

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津軽びいどろ

青森の北洋硝子という会社では主にガラスの浮き玉を作っていましたが、やがて世の中はプラスチックの浮き玉が主流に。新しいガラス製品を模索する中、ある職人が七里長浜の砂を使ってガラスを作れないかと思いたち、砂をガラス種に入れてみたところ、ガラスは透き通った深緑色に変化。これが津軽びいどろ誕生の瞬間でした。津軽びいどろの特徴は、なんといっても100色以上出せるという色鮮やかな色ガラス。宙吹きの技法によってつくられる滑らかなガラスは、県の伝統的工芸品にも指定されています。津軽びいどろとは、「びいどろ」とは、江戸時代から明治時代前期にルーツを持つ、和ガラスの総称である。ガラスを意味するポルトガル語「Vidro」を語源とし、主に吹きガラスを指していたとされる。全国にある吹きガラスの中で、青森県が誇るのが「津軽びいどろ」だ。漁業で使われていたガラスの浮玉を造る技術を活かした、手づくりのあたたかみのあるガラス製品である。日本の四季を感じさせる柔らかな色彩をまとったグラスや器は、海外でも人気の工芸品に成長している。津軽びいどろの歴史・技術津軽びいどろは漁業用の浮玉から生まれた。明治、大正時代まで木製だった浮玉は1840年にガラス製のものがノルウェーで作られ、ガラスの浮玉が世界に広まっていった。1910年頃からは、日本でも、ガラス生産が盛んな小樽などで作られるようになっている。青森で1949年にガラスの浮玉製造を始めたのが北洋硝子だ。津軽半島の西に広がる七里長浜の砂を使い、ローマ時代から受け継がれる宙吹きの技法で、丸い浮玉を作っていた。渋い緑褐色の浮玉は、他の工場が造るものより丈夫だと評判になり、1973年には日本一のシェアを誇る、ガラス浮玉のトップメーカーとなった。浮玉製造で重要なのは、丸い形に整えること。吹き竿に溶けたガラスをつけ息を吹き込みながら、竿を振って形を整えるには高い技術が必要だった。この高い技術を何かに活用できないか。そう考えた職人たちは、色ガラスの調合などの技術を独学で習得。日本を代表するガラス製品「津軽びいどろ」を作り上げていったのである。特徴的な色ガラスは、日本の四季を伝える色を表現するため自社で調合するのが基本。紅葉や桜、りんごなど、青森の自然が見せる色をガラスに再現している。津軽びいどろの製法は、かつての浮玉づくりの製法と大きくは変わっていない。高温に熱して溶けたガラスを吹き竿の先端に巻き取り、もう一方の端から息を吹き込んで膨らませていく。この宙吹きの製法で作られていることが、津軽びいどろの個性的で自由な形につながっているといえるだろう。しかし、手仕事で作れられるにもかかわらず、完成した製品のサイズに誤差はほとんどない。

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江戸切子
加賀屋久兵衛が作った江戸切子は、無色透明のガラスを重ね、カットの文様を施したものが主流でした。色ガラスを重ねる難しさもありますが、透明度の高い澄んだガラスが江戸っ子たちに好まれたということもあります。現在では色ガラスも用いられるようになりましたが、江戸時代そのままに浅くシャープで、文様のキレがよい江戸切子は、粋でお洒落な江戸っ子の性格を表しているといえるでしょう。江戸時代から受け継がれる、ガラスの表面に文様を施した工芸品。明治時代、ヨーロッパのカットグラス(切子)の技法を取り入れることで独自の工芸技法が確立した。江戸切子独自の文様は20種類ほどあり、日本古来から身近にある花や植物などの自然がモチーフとされる。2002(平成14)年に国の伝統的工芸品に指定。日本を代表する工芸品のひとつとして、東京都江東区・隅田区を中心に、現代の職人たちがその技術を継承している。江戸切子の始まりは1834(天保5)年、江戸伝馬町のびーどろ屋・加賀屋久兵衛が、英国製のカットグラスを真似て、透明なガラスの表面に細工を施したのが始まりとされている。1853(嘉永6)年の黒船来航の時、ペリーへの献上品の中に加賀屋の切子瓶が献上されており、その見事さにペリーが驚いた、という話も残っている。当時は透明だった江戸切子。今のような色被せガラスが使われるようになったのは、日本のもう一つの切子「薩摩切子」の影響だった。薩摩藩により推進され、ガラスの着色方法を独自に開発してきた薩摩切子だったが、その技術は西南戦争前後に途絶えてしまう。しかし、薩摩切子の職人たちは、江戸へ向かい、江戸切子の職人としてその技術を惜しみなく与えていった。現在に至る、青や赤の被せガラスの技術は、こうして江戸切子に浸透していった。江戸切子の魅力は、その輝きと細かい文様にある。籠目紋や魚子(ななこ)紋、七宝紋、麻の葉紋など、生活に身近なものを図案化したものが多い。これらを組み合わせて作り出された繊細な文様は、江戸の粋を今に伝える。 江戸切子では、基準となる線や点を割り付けて、その印に沿ってカットを進めていく。職人の目と高い技術力が宿った手のみが、細かな紋様を削り出していくのである。線の太さ、深さ、バランスは職人の経験だけが頼り。しかし、江戸末期に製造が始まって400年、一度も途絶えることなく受け継がれた技術は、迷うことなく、伝統の図案を削り出していく。 凛とした輝きで、日本の食卓を彩り続ける江戸切子。世界に誇る日本のガラス工芸として、世界を魅了し続けていくことだろう。

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薩摩切子
江戸切子のすぐれた職人を薩摩藩に招き、薩摩ならではの切子を作ろうと試みたのが、幕末の名君として知られる藩主・島津斉彬でした。斉彬の命令のもと、分厚く重ねた色ガラスを使った薩摩切子が誕生。江戸切子と違い、分厚い色ガラスにカットを入れているため、色ガラスから透明なガラスへと変わっていくグラデーションが特徴です。これは、ぼかしともいわれ、薩摩切子ならではの重厚感を生んでいます。1mm以下の薄い色ガラスを被せ、鋭角にカットを施す江戸切子に比べ、薩摩切子は2~3mmの厚い色ガラスを被せ、緩やかな角度でカットするのが特徴。
そのため透明なガラスと色ガラスの境目には、美しいグラデーション(ぼかし)が表れる。その芸術性の高さ故に、海外への輸出品や大名への贈答品として使われた薩摩切子。江戸幕府第13代将軍徳川家定に嫁いだ、天璋院篤姫も嫁入り道具の1つとして携えていたといわれている。
薩摩切子が生まれたのは江戸時代末期。島津家第27代島津斉興により、薬品に耐えるガラス器づくりがはじまり、28代斉彬のころ、色ガラスとカットの技術が高められた。
薩摩藩のガラス産業振興は、海外に負けない国造りとしての「近代事業」の1つとして行われた。噴火を繰り返す桜島火山の影響で穀類の栽培に不向きな薩摩藩は、収入を得るために西洋型の産業国家づくりを目指す必要があった。そこで「集成館事業」と呼ばれる官営工業地帯経営が行われ、その中にガラス工場が作られたのである。
特に色ガラスにおいては、当時薩摩藩しか発色できなかった「紅」の発色に日本で初めて成功。美しい赤地に繊細なカットを施したガラス作品は「薩摩の紅ガラス」とよばれ、藩内外で愛好された。莫大な資金を投じて官営の事業として推進されたが故に、短期間で海外からも注目されるガラス作品を作ることができたのである。
しかし、薩摩ガラスの歴史は、突然絶たれてしまう。1858年、島津斉彬が急死。多くのガラス工場がほとんど閉鎖されることになった。さらに、1863年の薩英戦争で工場が消失し、西南戦争前後には薩摩切子の技術は20数年で完全に途絶えることとなった。職を失った薩摩切子の職人たちは江戸へのぼり、江戸切子に色ガラスの技術を伝えたという。
短期間で技術が途絶えた故に、薩摩切子の製法にはまだまだ謎が多い。これらの謎が浮き彫りになったのは、1975年頃に、大阪で始まった薩摩切子の復刻プロジェクトにおいてだった。例えば薩摩切子の特徴の1つである「薩摩ぼかし」と呼ばれるグラデーションは、色ガラスを最大5段階の彫りにわけて削ることで生まれる。もっとも浅く削ったものは、細い線で細かい紋様を入れるだけで色を抜かない。さらに、色が抜ける寸前まで彫る場合は、少しだけ色が抜けるまで削るなど、細かい違いがある。薩摩切子に使う色ガラスは光を通さない。そのため、現在より暗い光源の下、厚みのある色ガラスに繊細な彫りを施すにはかなり高度な技術を要したはずだ。それをいかにして薩摩切子の職人たちが短期間で習得していったのか。薩摩切子の謎として、現在も研究が続いている。1989年には、鹿児島県でも薩摩切子復刻の動きが始まる。色ガラスをかぶせる技術は独自に開発し、カット技術を江戸切子に学んだ新しい薩摩切子は、伝統の紋様を再現したものと、新しいデザインを施したものが作られている。現代に蘇った幻の薩摩切子。かつて大名たちの心を捉えて離さなかった、鮮やかな発色とやわらかなグラデーションに反射する輝きは、今も私たちを魅了している。

✿箱膳 はこぜん

箱膳は、日頃は食器を入れている箱であるが、食事の際に箱の上蓋を反対にして食器を並べとして用いた箱。飯台、切り溜めともいう。日本では江戸時代以来、家庭において使われていたが、卓袱台の登場によって衰退し、テーブルの登場によって激減した。大正から昭和10年あたりまでは、日本の家庭では広く見られた。引き出し付きの箱膳もあった。食器を箱膳内に仕舞う時に、一回一回洗わなかった。江戸時代は,一人ずつ箱に食事道具が入れてあって,一人ひとりが自分専用のお膳で食事をした。箱膳の中には,飯碗,汁碗,皿,湯飲茶碗,箸などが収納され,次の食事の時もそのまま箱膳を出してきて食べたもので、食事が終わるときにタクアン(オコウコ)で茶碗,または塗り物のお椀の中を拭き取って食事を終え,最後に茶碗にお茶を注いで飲む。お茶を飲んで,それから布巾ふきんで茶碗や箸などを拭き,茶碗やお椀は裏返し,ふたをしめ,棚にしまうというものである。自分の使うものであるから,きれいな布巾を使って臭いの残らないようにきちんと拭いて食器を大切にした。箱膳はふだんに使うものとして,農家や商家でも広く使われていた。 家や地方によっては,丸い 形のお膳や足のない四角の平膳ひらぜんなどを用いていた所もありさまざまなようである。 箱膳は、江戸時代に商家の使用人などが用いたのが始まりと思われます。江戸から明治にかけて普通に用いられていた食卓は箱膳でありました。銘々膳ともいわれ、箱膳は、箸茶碗と同様に、一人一人が持っていました。上蓋を裏返して箱の上に置き、中から取り出した椀・皿をその上に載せて食べ物を盛ります。食事のたびに椀・皿を洗う習慣はなく、月に数回洗うのみでした。日本に軍隊が生まれ、兵役を終えた人たちが家に帰って、毎回洗うので、この習慣が広まったと思えます。子どもの箸揃はしぞろえ(食初め)の時に,箱膳を買ってそろえたといい,お嫁よめに行く時は,必ず持って行くものであったという。 箱膳は囲炉裏いろりをかこんで食事をしてきた古い時代から,長い時代を通して続いてきた習慣である。 おおむね昭和の10年代から戦後まで使われていたが,やがて丸い卓袱台ちゃぶだいに集まって食べる家族団らんの食事スタイルになっていく。 一つの鍋を囲んで食事をする鍋物が食卓に登場するようになったのがその理由かもしれない。 戦後になって,家父長制が薄れ,家族の間に民主主義が受け入れられる様になったことが,父親を前座にして四角く集まり正座して食事をするスタイルから,円卓に食事を囲むよう変わっていったとも言える。 家族秩序の民主化が見えないところでの変化していくのがおもしろい。

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2本足箱膳,法事や祝い事などの来客に用いられた。

引き出しのない箱と蓋だけの箱膳も多く使われた。

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弁当箱

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岡持ち(出前箱)

✿花見樽 はなみだる
指樽・袖樽などと呼ばれる室町時代以前から使われていたお酒を運ぶため道具です。上の栓を外し、そこからお酒を一升入れることができます。指樽は、主に祝いの場で使われる酒器で祝樽とも呼ばれており、二個一対で作った指樽を嫁入り道具として持たせる地域もあります。なかには、家紋を入れたり、蒔絵を施すなど意匠を凝らしたものも数多く存在します。上の栓を外すと一升の酒を入れることができます。指樽の「指し」とは、釘などの接合具を一切使わず、材同士を組み合わせて工芸品を作る「指物」の技術が用いられていることに由来します。また、祝樽は重箱とともに花見などの行楽時に弁当や飲み物を運ぶ道具としても用いられました。寄贈いただいた方も花見の時に使われた記憶から、この道具のことを「花見樽」と呼称されていました。

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黄鮒 きぶな

栃木県宇都宮市の郷土玩具。昔天然痘が流行った時に、黄色いフナが市中心部の田川で釣れ、病人がその身を食べたところ治癒したという伝説がある。きぶなを食べた人は病気にならなかったが、きぶなを釣るのは難しかったため、フナを模した縁起物の張り子を作って正月に軒下に吊るしたり、神棚に供えたりする習慣が生まれた。長さ約30センチメートルの細い竹竿に吊り下げられた張り子で、頭部は赤色、ひれは黒色、胴体が黄色、尻尾が緑色]と色鮮やかである。昔は宇都宮市南新町の農家の副業として多くの人が制作していた。きぶなの木型に和紙を張りつけて1日半ほど乾燥させる。きぶなの腹部を切って木型を取り出して切り口に紙を張る。ニカワできぶなのひれを付け半日ほど乾燥させてからひれを整型する。胡粉をぬり半日ほど乾燥させる。赤・黄色などの絵の具で着色する。毎年1月11日の初市に上河原の初市会場と宇都宮二荒山神社の参道で販売されてきた。宇都宮市内の物産店でも販売するようになった。通常は張り子や土鈴であるが、ストラップ、キーホルダー、ハンチング帽、こいのぼりなどの派生品もある。黄鮒を模した最中やご当地キティや日本酒の銘柄としても使用される。

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