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琉球神话

1 琉球神道

琉球神道,是以冲绳本岛为中心信仰的多神教宗教。琉球王国时代的祭政一体制、祖灵崇拜、以及母系社会的古代信仰残留在民间的留存。王国为了贯彻宗教统治,屡次镇压了其他的地域信仰,例如仪来信仰、御岳信仰等。世袭型的巫女(ノロ),召命型的萨满(ユタ)。被认为是祖灵崇拜、以及母系社会的古代信仰残留。仲原善忠在《各种新释》中说,セジ意味着灵力,附在剑上即为灵剑,附在石上即为灵石,也会依附在门、港、舟、社、城、人的身上。仲松弥秀在《神与村》的考察中认为,セジ指"超越人类的能力",因此"神"在琉球有八百万之多。

​​琉球的神主要分为"来访神"与"守护神"两种。

守護神や来訪神のいる異界・他界に豊穣を祈り、特に太 陽神を最高神として崇める多神信仰である。来訪神は異界の神であり、平時には人々の集落に存在しないか、御 嶽にのみいると考えられる。しかし祭りの時になると異界から集落や集落の御嶽に訪れると考えられており、来 訪神と人間の関係は極めて近しい。特に著名な神は、琉球の創造神であるアマミキヨ(アマミク)とシネリキヨ や、ニライカナイの最高神である東方大主、国王就任の際に現れるという君手摩などであるが、この他にも多数の神がいると考えられている。来訪する神は世界的に島嶼民族に共通し て見られ、一般に海を神聖視するが、これは琉球においても同様である。一方、守護神はもともと地域集落の死 者の魂=祖霊であり、ニライカナイで神となって集落に戻ってくるとされ、この神は平時に拝所や御嶽にいると 考えられている。また、過去の偉大な功績を残したノロが神とされ、墓地が御嶽となる例が確認される。

  御嶽 沖縄本島の村落には必ず御嶽と呼ばれる聖林があり、そこには村人の保護者であり支配者である神 が住み給っている。御嶽に祀られる神は、その村落の構成員と血縁関係を持つ氏祖で、村落構成員に対し絶対的 守護の義務を負っている。 御嶽は日本本土に見られる神社の原初的形態である神籬の形式を伝えるものである。鳥越憲三郎は、琉球の村 落成立の重要な因子として、生活資料が確保できるかの経済的条件、気候や住環境の良し悪しの自然的条件、御 嶽を創立する場所が選定できるか否かの宗教的条件の 3 つをあげ、村落成立にはこの 3 つが満たされる必要があ ったと述べている。 ヲナリ神 沖縄本島の女性一般は全て巫女的ないし神的素質を生得的・本有的に持つものと信じられているが、その好例 がヲナリ神信仰である。「ヲナリ」とは沖縄方言で姉妹(ウナイ)を意味し、同胞の姉妹は、その兄弟(ヰキガ) の守護神であると信じられている。従って沖縄本島の全女性は兄弟を持つ限りにおいてヲナリ神となるわけであ る。ヲナリ神の信仰は琉球宗教の基本概念の 1 つとなっており、『おもろさうし』の中にもヲナリ神を詠ったお もろが数多く見られる。沖縄本島においては、政治的実権者とその姉妹から選ばれた巫女による祭政一致の政教 2 二重主権が見られるが、これはヲナリ神の信仰に基礎付けられたものである。鳥越憲三郎は、ヲナリ神信仰は他 の民族では既に見られなくなったが、古くは何れの民族もかかる信仰を持っていたのではなかろうか、と述べて いる。 巫女 沖縄本島の民間社会において、民衆の宗教的機能を担う職能者は、女性司祭者のノロ等の神人(カミンチュ) と、シャーマンとしてのユタ等の類に別れる。前者が主として御嶽やグスク等の聖地・御願所・拝所(ウガンジ ュ)において村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をするのに対し、後者は村落の個々の家や家族に関する 私的な呪術信仰的領域に関与している。桜井徳太郎は、この両者とも沖縄民間信仰の底辺を貫流するシャマニズ ムの根の上に立ち、沖縄の民間信仰を支える車の両輪と言えると述べている。 ノロ 前述のとおり、沖縄本島には御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をおこなう祝 女(ノロ)と呼ばれる女神官が存在する。 御嶽の節で述べたように、村落は守護神となる氏祖が祀られた御嶽を中心に形成されたが、その最も近き血縁 者にして神の代弁者である家が根所(ニードゥクル)と呼ばれ、村を支配指導する実権を掌握した。根所は御嶽 の神の代弁者として実権を代行する機関となったため、神託を受ける者と、その神託によって村を治める者が必 要になった。この時、神託を受けたのは根所の女子から選ばれた根神(ニーガン)で、神託をもとに政治的実権 を行使したのは根神の兄弟であり根所の戸主である根人(ニーチュ)であった。ここに妹(或は姉)の神託をも とに兄(或は弟)が治める政教二重主権が生まれた。この政教二重主権はヲナリ神信仰を基定として成立したと 考えられる。 やがて村々を併合した按司と呼ばれる地方的実権者が現れるようになるが、按司もまた彼の姉妹から宗教的実 権者たる巫女を選出した。これが祝女(ノロ)である。あるいは尊称を付してノロクモイと呼ばれた。しかし、 さらに時代が進むと地方実権者の 1 つである中山国により琉球統一がおこなわれ、その中央集権化政策によって ノロは聞得大君を頂点とした官僚的神官組織に組み込まれることとなる。この聞得大君も王の姉妹から選ばれ、 統一王国においても兄妹による政教二重主権がおこなわれた。 ノロや根神など神人は、神が降臨する聖地の御嶽で神懸りしながら神意を霊感し、それを地域社会の住民に伝 達した。鳥越憲三郎は、琉球において巫女は神の顕現として、具象的な神の姿において民衆の前に現れ、しかも その時は自他ともに神そのものと認める存在として託宣を聞いたと述べている。すなわち神が憑依した者として の巫女に先行して、神そのものとしての巫女が存在しており、琉球の多くの文献に見られる神々の出現は、神そ のものとしての巫女を指してるのだとしている。 ユタ もっぱら死霊の憑依を受けてトランスに入り、第一人称でその託宣を述べるものを一般に口寄せ巫女と称する が、南西諸島において口寄せ巫女としての巫儀を展開している呪術宗教職能者がユタ等と呼ばれ、前述のとおり 部落や村落の個々の家や家族に関する私的な呪術信仰的領域に関与している。ユタになったものは必ず原因不明 の病気が随伴するカミダーリィと呼ばれる状態を通過体験しなければならない。このカミダーリィは、巫病の性 格・内容を典型的に備えたものである。カミダーリィとなった者は悩み悩んだ末、ついにユタに運命判断(ハン ジ)を求め、ユタになる道順の手ほどきを受けるうち成巫する。ユタという職能者の成立については、伊波普猷、 桜井徳太郎、佐々木宏幹などが説を唱えているが、ノロなど神人(カミンチュ)から分化したという考えが多い ようである。



3 沖縄本島の祖霊信仰

亀甲墓(カーミナクーバカ) 沖縄本島は祖先崇拝の盛んな土地として知られている。また、御嶽の節にあるとおり、氏祖は村落の守護神と される。 桜井徳太郎は沖縄本島独特の他界観念として後生(グソー)観をあげ、その一例として久高島の後生観を取り 上げている。それによれば、久高島では墓地の入口を新後生(ミーグソー)と称して、そこを生界と死界との境 界だとし、7 年後の洗骨が終わると死者は真の後生へ赴いて神へ昇化すると久しく観念していた。新後生におい ては、死者は生前と同じ生活様式をとると考えられているため、新後生の墓廓は現世の家屋と同じ形態を備えて いる[27]。鳥越憲三郎は沖縄人の墓造りに関し、死後の生活に対する明るい観念が墓造りに対する悦びの感情を 抱かせていると推察し、死後も出来るだけ居心地の良い住家でありたいという念願から私財のほとんどを惜しげ なく投じて墓を造るのだと述べている。墓造りに多額の費用を投じることに関しては、桜井徳太郎も 1970 年頃 の沖縄本島北東部の調査の際、部落の人々が豪壮で大規模な墓造りを競っている傾向を報告している。 現在、沖縄本島における葬制は火葬となっているが、太平洋戦争前には伝染病患者の死などの特別な場合を除 き土葬がおこなわれていた。また、伊波普猷の報告にあるとおり、明治時代までは風葬がおこなわれていた。風 葬は明治時代に行政から禁止されたが、久高島では 1960 年代まで行われていたことが確認されている。また風 葬に近い葬法では、1970 年代まで宮古島で洞穴葬がおこなわれていた。 風葬において遺体はまず崖(パンタ)や洞窟(ガマ)に置かれて自然の腐敗を待ち、3 年後・5 年後・7 年後 など適当な時期を見て洗骨して納骨する。崖や洞窟は古来、現世と後生の境界の世界とされ、聖域であると同時 に忌むものとされてきた。祖霊を崇める一方で、「死」はあくまで「穢れ」と捉えられているのである。 また折口信夫「琉球の宗教」によれば、琉球では自分の祖先でも死後七代目には必ず神になると信じられてい たと述べ、『中山世鑑』ではこれを「七世生神(しちせいしょうしん)」と書いたと紹介している。さらに「琉球 の宗教」によれば、琉球では人が死ぬと屍体を洞窟の中に投げ込んで、その口を石で固めてその隙間を塗りこむ 風習があったが、七代経つと屍体を入れるのをやめて別の場所に新墓所を設け、それまで屍体を入れていた洞窟 を「神墓(くりばか)」と称する。「神墓」は「拝所(をがん)」となり、時代を経るに従って他の人々も拝する ようになる、と琉球では祖霊が神になることを紹介している。 死生観として、魂は神のいる異界ニライカナイ(後述)より来て、死んでまたそこへ帰り、守護神となって集 落へ還ってくると考える。このため祖霊を非常に敬い、死後の世界を後生(グソー)と称して、これも非常に現 世や生者と近しいものとしてとらえている。また、後述するように仏教の影響から旧暦 8 月には祖霊が集落、家 族のもとへ帰ってくるという、お盆の祭事を行う。なお、祭事の日取りは旧暦を用いる。 他界概念 琉球神道では、神がいる他界概念としてニライカナイとオボツカグラを想定する。ニライカナイは海の彼方、 あるいは地底にあると考えられ、そこは豊穣と命の根源となる異界である。ニライカナイ信仰は東方信仰と混交 して、東方にあると考えられるようになった。一方、オボツカグラは天空にあると考えられる異界である。もと もとは国頭地方の信仰と考えられ、琉球王国時代に喧伝されて、宗教支配の為の王権神授論的な権威付けに用い られた。まとめると、ニライカナイは水平線上の庶民的な、オボツカグラは垂直にある権威的な他界といえる。 ちなみに西方は魔界があるとされている。 教義と経典 指針はノロを介して神より与えられる。人々はただ、定められた時期に必要な祭りを行い、訪れる神と交流す るのである。 琉球王国における体系化と東方信仰 4 斎場御嶽、三庫理(さんぐぅい) 琉球王国は祭政一致の政策を敷き、各地の類似信仰を吸収、弾圧、廃止などを行い整理統制化した。各地に様々 な呼び方をされていた聖域を「御嶽」という呼称に変え、ノロは階級化され、集落のノロが各集落の御嶽を管理 し、地方の豪族領主である按司の血縁の女性をその地域全体のノロを統括する大阿母(神職名)とし、さらに国 王の血縁の女性をノロ々々の頂点である聞得大君とした。 また、琉球王国は太陽神(てぃだ)を最高神とする東方信仰を根幹においた。そして琉球国王は太陽に重ねて 称えられ、ニライカナイの君手摩神の祝福を受け、オボツカグラのの認証を持つとされて、王権神授論を構成し た。ちなみに、琉球王国の進貢船に掲げられた旗は白地の中央に赤い日の丸の日章旗で有った(進貢船の派遣自体 は 14 世紀まで遡るが、当初から日章旗が用いられていたかは不明。本土では勘合貿易の船旗として日章旗が用 いられていたことが知られる) 東方には太陽が昇る穴(太陽が穴:てぃだがあな)があると考えられ、その先は神域と考えられた。[要出典] すなわち東方は太陽のある聖域であり、反対に西方は死の領域と考えられ、忌避された。王国時代の風葬は西方 の崖や洞窟で行われた。首里からみて、太陽が登ってくる地平線の真下にある玉城村など四間切は聖地と考えら れ、多くの御嶽が集中している。またさらに東方の海に浮かぶ久高島は琉球王国最高の聖地と考えられ、久高島 の中央にあるクボー御嶽は太陽が穴そのものとされていた。以来、久高島は現在に至るまで沖縄最高の聖地とし て知られている。 また、琉球王国時代には、琉球開闢神話が史書として残された。『中山世鑑』や『琉球神道記』などに、日本 (大和)の開闢神話と酷似した神話が記録されている。開闢神話において、琉球は天帝(日の大神、太陽神)に よってアマミキヨ、シネリキヨの二柱の神によって土地を造成され、島となり、それから琉球開闢七御嶽をつく り、島に人間を放ったとされている。 また、琉球王国は先島を勢力下に収めるたびに、この信仰をその地に広め、現地にノロや司(つかさ:八重山 のノロ職名)を置いている。しかし基本的に間接統治であったため、現地の信仰の多くもそのままに残され、御 嶽のような形式がその地域の信仰に取り込まれていくこととなった。ただし、王国と敵対したオヤケアカハチが 信仰していた八重山地方のイリキヤアマリ神信仰のように、滅ぼされた信仰も存在する。 琉球王国では、その王統が伊平屋・伊是名島に由来することから、伊平屋・伊是名の神を王国の守護神として 王府首里に勧請した形跡が伺える。[要出典]一例として、国王巡礼の守護神となっていた有名な園比屋武御嶽の 神が、元々は伊平屋の神であったことがあげられる。また、聞得大君の神名である「しませんこ あけしの」は、 もともと国頭地方勢理客の御嶽の神名であることがわかっている。 5 沖縄本島以外の独自信仰 各島嶼でそれぞれ独自の宗教も存在した。琉球王国に併合支配された後、程度の大小あれ変容したり排斥され ている。 先島諸島 先島諸島における主なものとしては、宮古島大神島の大神御嶽を中心に行われる「祖神祭(ウヤガン)」、同じ く島尻で行われる「パーントゥ・プナハ」、八重山全域でみられる「アカマタ・クロマタ」、石垣島群星御嶽で行 われる「マユンガナシ」などがあげられる。いずれも秘祭として部外者禁制を敷いているものが多い。 奄美群島 琉球王府の統治時代からノロ制度が導入された奄美群島では、現在でもノロが祭祀を取り仕切る地域がいくつ かみられるが、全体的にノロとその祭祀は消滅しつつある。地域自体の祭祀は地域有志によって行われる。



沖縄県における仏教

沖縄の仏壇(ブチダン) 『琉球国由来記巻十』の「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間(1265 年〜1274 年)に国籍不明の禅鑑な る禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落渡海僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の 英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球にお ける仏教のはじめとしている。禅鑑の国籍について、鳥越憲三郎は『琉球国由来記』の記述に従い国籍不詳とし ており[36]、また多田孝正は南宋の僧侶である禅鑑体淳に琉球への仏教伝来を仮託した可能性を指摘している。 また鳥越憲三郎は、日本本土と同様に、琉球においても仏教は国家安泰の保障、ないし実権者の実権擁護を願 って入れられたものであったとしてる。しかし日本本土では時代の経過と文化の発展とによって政治的企図が破 砕され、次第に本来の使命である民間信仰的なものへ還ったが、琉球では王国の崩壊まで寺院は国王およびその 一族と共にあり、ついに民衆の信仰の対象となる時期を持たずして終わったと述べている。その一方で、御嶽に 線香が供えられ香炉が設置されることが仏教の影響であることや、仏教信者でも定まった寺院の檀徒でもないの に位牌を安置する仏壇を備えるのは、王族の私寺における貴族風に倣ったためであると指摘している。 宮里朝光「琉球人の思想と宗教」によれば、琉球人は寛容で進取の気性に富んだので諸国と交易し、それらの 国から多くの文化を取り入れたが、取り入れた外国文化は自国文化と融合させて独特の文化をつくったと述べ、 仏教もその内容を琉球固有のものに変えたとしている。具体的には、琉球人は経文を知らず数珠も持たず、礼拝 も祈る言葉も供物も琉球的で禅門で禁じた酒を供える。また、寺に祀る仏を神、寺を宮と言い、琉球の神と区別 せず霊験あらたかな神として、御嶽を拝むのと差異なく拝むのだという。また、尚寧王の時代より中元節の行事 に盆行事が加わり、慶長の役後に盆祭が盛大におこなわれたことが冊封使の記録からわかり、起源は不明だが仏 教の影響により盆行事がおこなわれるようになったと述べている[41]。さらに宮里朝光は、琉球は人間平等で現 世主義であったため、仏教をただ国家鎮護として受け入れ、一般民衆のものにならなかったのも当然のことであ ると述べている。



6 与日本神道的相似性

伊波普猷在明治37年发表的《琉球神话》中记载:『中山世鑑』的起源神话与『古事記』的淤能碁呂島神話、以及『宮古島旧記』的神婚神话与三轮山神話时分类似。 琉球群島にはこれら以外にも色々な神話伝説があり神話の宝庫であることから、広義の琉球群島には未だ世に知 られていない無数の神話伝説があり、これらの神話伝説を悉く集めて日本本土の神話伝説と比較研究を始め、更 に進んで朝鮮、満州、蒙古と比較研究をすることは、ただ神話学者にとって必要なだけでなく、人種学者にとっ ても必要なことであると説き、ポリネシア群島の人種移動の問題はこのような研究によって解決されたのだと指 摘した。 昭和 6 年,松本信廣は『日本神話の研究』の中で、ローランド・ディクソン(Roland B. Dixon)が ポリネシアを分類するために設定した 2 つの型「進化型」と「創造型」を用い、日本開闢神話 をポリネシア創世神話の「進化型」と「創造型」の複合形であり、イザナギ・イザナミ神話から以降は「創造型」 の形式を受け継いでいるものではないかとの説を発表した。このとき松本信廣はポリネシアと日本神話を直接比 較するのではなく、中間に琉球の古伝説を置くとこの関係がいっそう明白になると述べ、琉球民族が古く日本民 族と袖を分かったものである以上、琉球の古神話がイザナギ・イザナミ神話の一異体であり、日本神話が琉球の それを中間において、遠く南方の創造型神話と一脈の関連を持っていることを否み得ないとの考えを示した。 伊藤幹治は、伊波普猷が「琉球の神話」でその必要性を説いて後、『日本神話の研究』で松本信廣が日本神話 と汎太平洋神話を比較するまで日琉神話の比較は途絶えていたが、『日本神話の研究』で提示された仮説は、そ の後多くの人に受け入れられ、こんにち日本の比較民族学上の定説になっていると述べている。さらに、岡正雄 がおこなった日本の宇宙開闢神話に対する分類は、日琉神話の問題を直接取り上げた訳ではなかったが日本神話 の出自=系譜に関する歴史民族学的な研究を活発化し、日琉双方の神話比較やその文化史的位置づけ作業も徐々 に行われるようになったと、その影響を紹介している。 岡正雄が提起した日本の宇宙開闢神話についての仮説は、その後、大林太良によって具体的展開を見ることに なるが、伊藤幹治によれば日琉神話の比較が積極的におこなわれるようになったのは、この大林太良の研究によ ってである。 昭和 41 年発表された「記紀の神話と南西諸島の伝承」において、大林太良は日本の古典神話と奄 美や沖縄の島々に伝承されている民間説話について、流れ島、天降る始祖、死体化生、海幸彦に関する伝承神話 を比較検討し、次のことを結論として述べている。 記紀に記された古典神話に親縁の諸モチーフは、わが国における現存あるいは比較的近い過去の伝承としては、 ことに南西諸島に残存している。 これら南西諸島の伝承は、その基本的なモチーフ、構造においては記紀の神話と大幅な一致を見せるが、神名 その他の細部においては一致していない。このことは古典神話、現存の記紀の形にまとめられてから南西諸島に 二次的に伝播した可能性よりもむしろ、記紀にまとめられる前の共通の母胎から分れて、南西諸島において保存 された可能性が大きいことを示唆している。 もしもこの想定が正しければ、記紀の所伝と南西諸島の伝承の比較によって、記紀以前の日本神話の古い形を 再構成する可能性がある。 その際注目すべきことは、南西諸島の伝承は、国土創成、人類創造、農耕の起源の 3 つの主要問題を、一つづ きのものとして取りあつかっていることで、構成的にも、記紀の神話よりも一貫しているのみならず、日本神話 と深い親縁関係をもつと信ぜられるポリネシアなどの神話との比較から考えても、南西諸島の伝承がより古い形 を保存している可能性を考慮すべきである。 この一連の開闢神話に含まれない若干のエピソード、たとえばオオゲツヒメ・モチーフや海幸彦・山幸彦モチ 7 ーフも南西諸島に現存している。 古典神話と後代あるいは現存の伝承との組織的比較はまだ極めて不十分な段階にある。上記およびその他の諸 問題をより明確に答えるためにも、一層組織的な材料の収集と比較が必要である。 伊藤幹治は、大林太良の試みを、伊波普猷以降ながい間とだえていた日琉神話の比較という作業の再出発と評 価し、その後、山下欣一などの努力によって、琉球神話の資料の収集と整理が着々と進められ、日琉神話の比較 研究の基礎がようやく固まってきたと述べている。 また、伊藤幹治自身も「日本神話と琉球神話」の中で日琉の世界と人間の起源神話および穀物起源神話を取り 上げ、そのモチーフを比較検討した結果、漂える国(島)や天界出自の原祖、ヒルコ、穂落としなどのモチーフ は双方の神話中に共通して認められ、日琉神話の親縁関係を示唆していると指摘する一方で、風による妊娠、原 祖の地中からの出現、原祖の漂着、犬祖などは琉球神話にしか見られず、また穀物神話の死体化生モチーフは日 本神話にしか見られないことなどは、双方の神話の出自=系統が必ずしも一様でないことを物語っていると述べ ている。さらに続けて、こうした一致や不一致が、どうして生じているのかと言うことは、日琉神話研究の将来 の課題になるだろうと指摘している。 他にも日本神道との類似性については、以下の様なものが唱えられている。 柳田國男は昭和 30 年(1955 年)に発表した「根の国の話」において、『万葉集』に詠われた亡くなった人に 逢える場所「ミミラク」の地名の考証をおこない、その中で①ニルヤ・カナヤが『日本書紀』の「神代巻」に出 てくる根の国と根本が一つの言葉であり信仰である、②それが海上の故郷であるが故に、単に現世において健闘 した人々のために安らかな休息の地を約束するばかりでなく、なお種々の厚意と声援とを送り届けようとする精 霊が止住し往来する拠点であると昔の人たちは信じていたらしい、③その恩恵の永続を確かめんがために、毎年 心を籠め身を浄くして、稲という作物の栽培を繰り返し、その成果をもって人生の目盛りとする古来の習わしが あった、という 3 つの仮定を説いた。 遠藤庄治は、「琉球の宗教儀礼と日本神話」の中で宮古列島の来間島豊年祭の由来譚が日光感精による処女懐 胎であることを説明し、『日本書紀』神代巻冒頭の天地が分かれる以前は鶏子のごとくであったとする条と天日 槍伝承に見られる卵生を思わせるモチーフが、来間島では豊年祭の由来として現在も語り継がれ、さらに祭りの 催行も由来譚に登場する兄弟の家筋のものが司っていることを紹介して、沖縄においては記紀神話に語られる 様々なことがらが現在も宗教儀礼の中で実修され、さらに宗教儀礼に関する神歌や口誦伝承もいまだに伝承され ていると述べている。

ヒヌカン
、沖縄県や鹿児島県奄美群島で信仰される火の神(かまど神)。ウカマヌカミ、ウカマガナシー、ウミチムンなどの別称がある。ヒヌカンは世帯のあらゆることを司る家庭の守護神として信仰され、古くはかまどの後ろに3個の石として祀られたが、現在は台所の一角に香炉、水、塩、生花を供えて祀るのが一般的である。
祭祀はもっぱらその家の主婦が行い、何か願いごとがあれば最初にヒヌカンを拝むほか、家族の誕生、入学、結婚、離婚、死亡などの重要事項もすべて報告し、旧暦各月の1日と15日には、定期的に飯、酒、花、水、線香を供える。
ヒヌカンは旧暦12月24日には昇天し、家族の良いことと悪いことすべてを天の神に報告し、また年明けの1月4日には家に戻ってくると信じられている。
また、分家する際は本家のヒヌカンの灰を分けて新たにヒヌカンを仕立てる。
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妹神(おなり神)が兄(えけり/えーり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する沖縄地方の信仰である。兄(男性)の守護者としての妹(男性の血族の女性)を神格化して呼称するもの。 民俗学上、伊波普猷が発表し、柳田國男、折口信夫が展開したことで知られる。現代では琉球の信仰(琉球神道)の一要素として捉えられているが、ウナリ神信仰を基盤とした祭政一致社会は、日本本土の邪馬台国や古奄美など広範に見られる。
古来、琉球では女性の霊力が強いと考えられており、神に仕えるノロやシャーマンであるユタも女性だった。この霊力が特に兄に強力に作用し、守り神のごとく守護すると考えるものが、おなり神信仰である。おなり神信仰では、妹を兄のおなり神と呼び、妹を神格化する。
おなり神(妹)の霊力はえけり(兄)がマキョ(後述)を出て離れている時に最も強くなると信じられており、その事から、男が漁労、旅行や戦争に行く時は、妹の毛髪や手拭をお守りとして貰う習俗が長く続き、現代も一部に残っている[2]。
おなり神信仰において、兄と妹の関係性は別格とされる。既婚者の男性を霊的に守るのも伴侶である妻ではなく妹と考えられており、近世までは既婚者に大事があった場合でも、その妹が呼び出されて祈念を行うということがよくあったという。このことは、兄と妹の関係性が、場合によっては夫と妻の関係性より強固であり、尊重されることを意味している。旅行や戦争の時、兄弟が毛髪等を貰った相手は自分の姉妹からが全体の6割から8割に達し、自分の妻から貰ったのは5分から6分であり妻よりも自分の姉妹から貰った割合の方が多くなっている[3]。また、兄妹の霊的な絆は父娘のそれよりも強いと感じられていた[4]。
用法と解釈[編集]
そもそも厳密には、琉球方言の「をなり」「えけり」は日本語の「妹」「兄」という意味ではない。「兄から見た妹」を「をなり(おなり)」、「妹から見た兄」を「えけり」と呼ぶ[5]。つまりをなり・えけりは、兄と妹のみで完結した関係性なのである。をなりとえけりの想定する宇宙には、男女は兄と妹しか存在しない。
伊波普猷はこのことから、「この概念は男女間のすべての関係性を内包するもの」と指摘した。つまり、をなり・えけりには、肉親としての男女、恋人としての男女、夫婦としての男女の関係が多層的に想念され、その世界において、兄=男が世界を支配し、妹=女は男を守護し、神に仕える神女と位置づけられるのである。
後述するように、この思想が琉球王国の祭政一致体制の基盤を作ったと考えられている。
なお、女性の霊力への信仰や、兄と妹にこうした関係性を投影する古代信仰・宗教や神話は、大和を含め、西洋東洋を問わずに散見される。柳田國男は、日本神話の兄神と妹神の関係性に琉球のをなり神信仰との類似点があることを指摘し、おなり神信仰が大和と琉球に共通した古代信仰であると考察している。
琉球王国における位置づけ[編集]
この観念は、俗世を支配する男性を、神に仕える女性が男と社会を霊的に守護するという観念に転化された。つまり政治を男が行い、その男を守護する女が神事を司り、神託を得て霊的に指導するという祭政一致体制の基盤となったのである。この原則は集落レベルから国王にまで一貫されている。
集落[編集]
集落は「マキョ」と呼ばれ、マキョのもっとも古い宗家の「えけり」(兄弟)から政治的支配者(主人)となる根人(ニーッチュ、ニッチュ)が出る。「えけりのおなり」即ちニッチュの妹は、マキョの宗教的支配者となり祭事を司る根神(ニーガン)となる。マキョを束ね領地を統治する按司(アジ)の妹は、その領地の祭事の司祭であるノロとなる。マキョの聖地である御嶽の神はマキョと根人の守護神となり、根神はマキョの現人神であり祭祀者となる[6]。
王国[編集]
そして国王とノロの最高位の聞得大君もまた、完結した宇宙であるえけりとをなりの強固な関係で結ばれていた。これは、をなり神の持つ霊的守護力の概念が、王国において兄から家族、家族から集落、集落から地域、地域から王国へと拡張し、拡大解釈されていったということでもある。以上は古琉球においては絶対の構造であった。国王・尚宣威が高級神女により罷免され、尚円の子(尚真王)が王位を継承したという伝承もあり、一時期は王のおなり神であるノロの方が国王より強大な権力を持っていたと考えられている。しかし尚真王の時代に聞得大君職が設置され、この権力構造は国王優位に改められることとなった。
その後、薩摩の侵入を受けて以後、近代化を進める羽地朝秀、蔡温らの改革によって、おなり神信仰を核とする古代的な神権政治の色彩は段階的に弱体化され、解体されていった。
儀式[編集]
イザイホーの祭りの中にて、兄を持つ妹がおなり神となる儀式が執り行われる。兄はイザイホーの祭りの前になると、妹に祭りの時に身に付ける神衣や下着類を作る白生地を贈る。祭りの最終日に、トウツルモドキの葉の冠を被った妹は、座敷に上がってカヤの敷物の上に座り、兄と向き合って神酒の椀を飲み交わす。それが終わると、立ち会ったノロがトウツルモドキの葉の冠を妹の頭から取って兄に渡す。これによって妹は兄を守護するおなり神となる[7]。神女に兄がいない際は、弟か甥かいとこがえけりの役をする。
その他の伝承[編集]
八重山諸島小浜島の嘉保根御嶽(かふにわん)の伝承では、島からの献上物として麻を納めており、妹が麻を織り、兄が献上をしに航海をし、妹が兄の安全を祈願していた。麻を織っていた所に雨が降り米の籾が濡れてしまい駄目になった。怒った兄が妹を打ち据えたところ、妹は悲しみどこかへ消え去ったと言う。残された家族にはさまざまな不幸が起き、妹の御霊が東海岸(御嶽の元々の拝所があった)に現れたので、海の神として祭ったと言う。この祭所が御嶽となり集落の守り神となったと言う。この伝承は、おなりとえけりの間だけで完結する守護の関係が、御嶽と言う集落全体を守護する存在に転化する事例として重要である[6]。

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赤面‧黑面(アカマタ・クロマタ)是在琉球八重山列岛的丰年祭中登场的来访神。发源于西表岛东部的古见地区、并流传于小滨岛、石垣岛宫良与上地岛一带。在西表岛古见地区为赤面(アカマタ)‧黑面(クロマタ)‧白面(シロマタ)三柱神的形式、其他地区则是以赤面‧黑面二柱神的形式显现。能参与这项仪式的只有当地居民中具备资格者,对其他人来说这是只能公开一小部分的秘密仪式。这项民俗祭典也曾经存在于西表岛北部其它已经废村的地区和下地岛。赤面与黑面两位神明皆身披蓬草、身材浑圆,外表酷似达摩不倒翁和猫头鹰。身高约180公分左右,赤面和黒面有着狭长的鼻子、圆眼睛,以及细长尖锐的牙齿,眼睛和牙齿两边生有长长的发须。眼睛和牙齿受光照射会反射出神秘的光辉。
已知这项祭典会在七月举行,但通常因为连岛上的居民也不知道详细情形,因此让此祭典充满了谜团与紧张感。其间拍照、摄影、素描或仿制等行为都被禁止。据说赤面‧黑面会在傍晚时从某处突然出现,当夜会遍访村子里的每一户人家,到了早上便又不知消失到何处。首先、由数十名敲打太鼓的鼓队进入各户人家的门,之后再向两旁分开站在庭园的左右两侧一边敲打太鼓高唱,呼唤著赤面与黑面。之后,赤面与黑面便会自大门进入来到庭院中央。赤面和黑面会两手持握棍棒,配合鼓队的嘹亮歌声,一边敲打棒子一边跳舞。赤面与黑面会在一群杀气腾腾,被称作“なみだ”的人(正被精灵附身着)的慎重戒护下移动。



アーマンチュウメーは、琉球王国に伝わっていた神。アマンチュなどともいう。『中山世鑑』などに記される阿摩美久(あまみく)についても類似の伝承がある。この世界が誕生して間もない頃、天と地は分かれたばかりで、天の高さは現在よりずっと低く、人間が立つことができないほどだった。そこでアーマンチュウメーが固い岩場に立ち、天を押し上げた。その結果、天は現在の高さとなり、人々は地上に立って生活することができるようになった。沖縄県周辺では現在でも、アーマンチュウメーが天を押し上げた際の足跡が岩場に残っているという。

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奄美魔物(琉球语:マジムン,是琉球奄美群岛鹿儿岛县与冲绳县传说中的一类邪灵的总称。据说奄美魔物的形态有各种各样,很多魔物指死去的动物仍以生前的姿态存在而产生的邪灵。在奄美群岛也称呼波布为魔物,传说中认为其是神的使者,也是魔物中唯一以生物形态的存在。魔婴 (アカングァーマジムン)以婴儿的姿态存在的魔物。杓文字魔物 (ミシゲー・マジムン)杓文字幻化的魔物。详见条目饭笥,类似的还有杓子魔物 (ナビゲー・マジムン,杓子幻化的魔物),都是长期使用的食器幻化而成的魔物,可视为付丧神的一种。

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祝女(ノロ)
琉球神道教女祭司。祝女独揽其所在地域的祭祀活动,并管理该地域的御岳。根据琉球神道的说法,大海的对岸有一个龙宫,天空中有一个天界(オボツカグラ),太阳神等大多数神都住在那里。人死后,他的灵魂将渡至龙宫,成为其血亲的守护神。这些神将在特定的时间重返人间,保佑人间有好的收成,并为人消灾免祸。据信在琉球,从事女巫或萨满角色的女性古已有之,第二尚氏王朝尚真王时期则将其提升到国家层次,正式制定祝女为官方的神职,参与国家的各种仪式,负责祈求人间有好收成,为人去病消灾,以及迎接祖先的灵魂。在祭祀中,祝女身着琉装或和服,神凭借祝女之身体而显灵,因此祝女也被称作“神人”。在琉球的历史上,祝女多为世袭制,由某些特定家族的女性世袭出任,这样的家族被称作“祝女殿内”。最初,祝女一职由各地方有力按司的血亲(姐妹、妻等)出任(这可能是琉球神道信仰中“妹神”的由来)。第一尚氏王朝期间,中山首里地区的佐司笠/差笠和北山国头地区的阿应理屋惠两个祝女家族,因为推行“祭政一致”的政策而成为该地区的最高级祝女,祝女开始走向阶层化。到第二尚氏王朝时期,尚真王之母世添大美御前加那志曾凭借祝女的力量成功迫使尚宣威王禅位给尚真;尚真王在位期间,整理了全国的神女体制,将琉球神道直接置于国王的管辖之下。最高级祝女为闻得大君,由国王直接任命,掌管首里城内的10个御岳和斋场御岳;其次是阿应理屋惠、佐司笠、以及另一个叫“君”的祝女,三人掌管首里的三间切(三平等),被称作“大阿母志良礼”;其下则是大阿母,总领各地方的祝女;再下则是负责各地方祭祀的低级祝女。其中,高级祝女居住在首里城内,被总称为“三十三君”。

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赤发童子(冲绳语:アカガンター)是琉球(今日本冲绳县)传说中的妖怪。
其外形是穿着红色衣服的红发婴儿。常常出没于老屋,夜间会在睡着的人枕边跑动,有时会恶作剧般压在人身上(和阿伊努民间传说中的爱奴凯塞很相似)。其外观和习性和赤发精灵有很多共同点[2],也有人认为“アカガンター”即是赤发精灵的别名。[1]妖怪研究家多田克己在其著作中认为,赤发童子和座敷童子是同种类的妖怪。[2]民俗学者日野巌在‘日本妖怪変化语汇’中将“アカガンターワラバー”名称用日本汉字写为“赤い髪の童子の妖怪”[3]。
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《思草纸》(琉球语:おもろさうし,汉字表记:思ろ草紙)
琉球第二尚氏王朝时期的一部祝词集,也被琉球学学者当作是历史上最早的一部琉歌集,1531年至1623年间由琉球国朝廷主持,编纂而成。原文是以日本平假名记录的琉球语(其间夹带少量汉字)。据琉球学学者伊波普猷考证,“おもろ”在琉球语中是“思考”(琉球语:うむい,汉字表记:思い)的意思,是古代琉球群岛特有的一种祝词;而“さうし”一词来源于日本语,是“草纸”的意思。这部祝词集收集了自12世纪以来琉歌作品,共22卷,记载有关国王、祝女、英雄、诗人、航海者的事迹,以及与风景、天象、战争、神话有关的琉歌,还有少量的爱情诗作,有重要史实价值。《思草纸》中所收录的祝词,最短的仅有两行,最长的有四十行,皆为韵文,盛行对句,因此被认为是后世琉歌的起源。但是,《思草纸》中的语言多为琉球古语。《思草纸》的编纂,共分有两个时期。最早是在尚清王时期的1532年,为颂扬先王尚真王的丰功伟业,尚清王下令编纂第一卷。此后70年间编辑中断。直到1613年,琉球国沦为萨摩藩的附庸国,琉球朝廷处处受到萨摩藩的制约,在政治上无所作为。为维持琉球人的传统文化和历史,尚丰王下令编纂第二卷。1613年至1623年间,又陆续编纂至22卷。
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君手摩(きみてずり)
琉球神道に伝わる女神。通説では海と太陽を司る琉球王国の守護神とされており、琉球王国の存亡の機に降臨すると言われる。ニライカナイ(海の深淵、海の彼方、地下にある)に住まうとされており、新しい国王の即位の儀式中、聞得大君に憑依するとされる。古くからキンマモンと同一視されてきた。
君手摩を神の名とする初出史料は向象賢(羽地朝秀)が編纂した『中山世鑑』である。しかし、一般に「君」は琉球の祭祀をつかさどる祝女(ノロ)を意味し、「手摩」は祈祷の際に手をすり合わせることを意味すること、また君手摩を行事として記載する別の史料もあることから、君手摩は神名ではなく、宗教儀式名であると解釈する説もある。

君手摩,亦称君手,是琉球神道中的一位神祇。根据《中山世鉴》和《中山世谱》的说法,此神住在龙宫(大海的深渊、海的彼岸、地下),是大海和太阳的守护神,在琉球国家存亡之机降临人间。此外在有新国王即位时,君手摩也会降临人间,凭依在闻得大君身上,祝福国王万寿无疆。君手摩也会在此期间在人间隐藏身份游历二至七日,凭依在一个人身上说话,这个被附体的人被称作御呗者。君手摩一名,始见于向象贤编纂的《中山世鉴》。“君”是“祝女”的意思,“手摩”指的是祝女祈祷之际双手合掌的意思。然而,君手摩相关的行事记载却相当少见,因此有人认为“君手摩”不是一个神的名字,而是一个宗教仪式的名字。早期,君手摩信仰在琉球神道中势力很大,宗教势力通过此信仰同世俗统治势力对抗。祝女曾通过君手摩信仰让尚宣威王退位,令尚真即位。尚真王即位后,将祝女的任命权收归国王,这才压制了祝女的势力。

琉球神道又称为“龙宫信仰”、“御岳信仰”,核心是祖灵信仰。琉球神道中的他界共有两个:一个是龙宫(ニライカナイ),一个是天界(オボツカグラ)。龙宫在大海的彼岸,是大地丰饶与生命的根源。其最高神为东方大主。相传人死后,其灵魂将渡至龙宫,成为其肉亲的守护神。守护神定期回到其生前的居住地,祈祷人间的丰饶与平安。天界位于天空,在大地之上。其最高神为日之大神(天帝)。天界的概念来源于国头地方的信仰,是王权神授的象征。琉球王国灭亡之后,对天界的信仰逐渐趋于没落。
琉球神道中的神共分为两种:一种是来访神,一种是守护神。来访神是龙宫与天界固有的神,如阿摩美久和志仁礼久、东方大主、日之大神、君手摩神、妹神等。
阿摩美久(アマミキヨ,一作阿摩弥姑(アマミク))和志仁礼久(シネリキヨ):琉球创世之神,倂称为二柱之神。阿摩美久是女神,志仁礼久是男神。来自天界,奉日之大神之命创立了琉球群岛。
君手摩神:来自龙宫。每当国王即位之际,君手摩神都会降临人间,为国王祈福。
日之大神:即太阳神、天帝,是天界的最高神,也是琉球神道中的最高神。
此外,根据《中山世谱·卷一》记载,琉球还有君真物、乌富津加久罗神、仪来河内神、新悬神、奥之公事(荒神)、浦巡神、月公事、与那原公事、河内君真物(七之公事)、五谷神等神祇,都是来访神。守护神即琉球人的死者之魂。根据《中山世鉴》记载,琉球人认为人死后“七世生神”,因此死者的第七世孙会将其遗骨移葬于“神墓”之中,将其灵魂追认为守护神。祝女将神墓当作一个御岳,在其附近对死者进行定期祭祀。
琉球人把东方看作是太阳升起的圣域,并在每年都举行一种叫“回东御”的宗教活动,对太阳神进行朝拜。久高岛的クボー御岳被当作“太阳升起之穴”,因此,每当王国最高祝女闻得大君就任之际,都要在斋场御岳遥拜久高岛,以示对太阳神的崇敬。琉球国王也被当作太阳神的化身来崇拜。设在首里城正殿的国王宝座,不是坐北朝南,而是坐东面西。群臣早朝的时候向东跪拜,如同朝拜东昇的太阳一样。这就是东方信仰的缘故。相对于东方圣域,西方则被当作死亡的领域。琉球盛行一种名叫风葬的葬制。人死之后,其亲人将遗体置于洞窟之中或山崖顶部的房子里任其风化,待三年之后由亲族的女性洗净其遗骨,并纳于棺中埋葬。风葬所用的房子或洞窟,其入口必须在西面。
妹神(おなり神)是琉球男性的保护女神,其信仰源于祝女和民间灵媒师。在琉球人心中,巫师只能由女性担任。较高级的女巫即祝女(ノロ),管理地域的祭祀和御岳;较低级的女巫为民间灵媒师(ユタ),管理占卜、用巫术治病等。在早期,地方的祝女由控制该地域的按司之女性近亲(如姐、妹、妻等)出任,久而久之,便产生了妹神信仰。各方势力利用祝女来巩固自己的统治或破坏敌对势力的统治,对朝廷产生了巨大的威胁。尚真王之母甚至利用祝女等宗教势力推翻了尚宣威王的统治。因此尚真王即位之后,推行“祭政一致”的政策,规定祝女由朝廷直接任命。大阿母一职由按司的亲属出任;闻得大君一职由国王的亲属出任。国王则被神化,当作太阳神的化身进行崇拜。祝女逐渐走向阶级化。


キンマモン(キンマンモンとも)は、琉球神道に伝わる女神。漢字では「君真物」と表記されるが、これは「最高の精霊」という意味である。古くから君手摩と同一視されてきた。海の彼方から来訪し、最高神女である聞得大君に憑依する。
琉球に渡って浄土教を布教した袋中良定は、著作の『琉球神道記』(成書年代17世紀初頭)の中でキンマモンについて言及している[1]:313-314。『琉球神道記』はキンマモンの名前を確認できる最古の文献である[2]。『琉球神道記』によれば、キンマモンには陰陽があり、天より降ってきたのをキライカナイノキンマンモン、海より上がってきたのをオホツカケラクノキンマンモンと呼ぶ[2]。滝沢馬琴の小説『椿説弓張月』中にも記述がある。キンマモンは人間の守護神であり、海底を宮とし、毎月出現しては託宣するという。沖縄県で設立された新宗教のいじゅんにおいて、キンマンモンは「いじゅんの大神(おおかみ)」とも呼ばれ、1972年に教祖により主神であると宣言されている[1]:313-314。いじゅんのケースを除けば、現代の沖縄県にキンマモンの信仰はあまり浸透していない[2]。
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ニライカナイは、沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地に伝わる他界概念のひとつ。理想郷の伝承。遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界。
豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる。また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。琉球では死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されており、後生(ぐそー:あの世)であるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあった。
上記のように、ニライカナイは複合的な観念を持った楽土であるが、この概念は本土の常世国の信仰と酷似しており、柳田國男は、ニライカナイを日本神話の根の国と同一のものとしている。
なお、琉球では他の他界概念として、権威を守護する神々の神界としてオボツカグラを想定していた。信仰上の他界概念を水平表象と垂直表象で論じた折口信夫は、ニライカナイを水平の、オボツカグラを垂直の他界と指摘している。ニライカナイ信仰は、沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地において、伝統的な民間信仰の主要な要素である。
ニライカナイは「ニライ」「カナイ」の2文節にわけられ、「ニライ」は「根の方」という意味と考える説(伊波普猷説『あまみや考』)が有力である。「カナイ」の解釈には、琉球語に多い韻をとるための無意味な言葉とする説(伊波説)や「彼方」を意味するとする説[要出典]など諸説ある。谷川健一はニライは根浦、カナイは金浦で金のように堅牢な場所の意であろうという。「儀来河内」の漢字が当てられることがある。
前項の他界概念の呼称として「ニライカナイ」という言い方が広く知られているが、これは「ニライ」の文学的表現で、「ニライ」のほかにも琉球の各地域によって「ニレー」「ニリヤ」「ニルヤ」「ニーラ」「ニッジャ」などさまざまに呼ばれている。
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聞得大君
第二尚氏時代の琉球神道における最高神女(ノロ)。「聞得」(チフィ)は大君の美称辞、「君」(ジン)は「カミ」の意で、従って「大君」(ウフジン)は君の最高者という意味であるという説がある。琉球方言で、チフィウフジンガナシ(聞得大君加那志)と称した。宗教上の固有名詞となる神名は「しませんこ あけしの」「てだしろ」である。聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。そのため、主に王族の女性が任命されている。琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。また、琉球最高の御嶽である斎場御嶽を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。
沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において就任の儀式である「御新下り(うあらうり)」が行われた。「御新下り」の本質は琉球の創造神との契りである聖婚(神婚)儀礼と考えられている。宗教観念上は、この聖婚により君手摩神の加護を得て聞得大君としての霊力を身に宿すのである。就任後は原則として生涯職であった。
琉球王国では、俗世における最古の系図と言われる長濱系図に北山王 仲昔中山英祖王の御長女 聞得大君が聞得大君の名を伝える最初の記述となっている。尚真王代には中央集権化と祭政一致が行われた。この際に各に存在していた神女をまとめるため神女組織が整備され、その階位の頂点として新たにこの役職が設けられた。ちなみにそれまでの琉球王国における祝女の最高位は佐司笠(さすかさ / または「差笠」と表記)職と国頭地方由来の阿応理屋恵(あおりやへ / または「煽りやへ」と表記 / 琉球方言読み:オーレー)職であり、これらは聞得大君職制定のあと、全祝女の中で聞得大君に継ぐ第二位の格付けと降格されている。その神名「しませんこ あけしの」は勢理客にあった既存の祝女職と同じであることが判明しており、聞得大君職の元になった宗教概念が以前から存在したと考えられるが、その詳細については不明な点がある。また「てだしろ(=太陽の依代)」はそれまで馬天祝女の神名であったが、聞得大君職の制定とともに馬天祝女から剥奪された。
尚真王の妹である音智殿茂金(うとぅちとぅぬむぃがに)(神名、月清)が就任したのが最初である。琉球処分による王国消滅後も、東京での尚氏宗家の女性による祭祀としては継承されたが、戦時中の1944年に18代、思戸金翁主が就任したのを最後に廃職となった。
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海神祭
奄美群島や沖縄諸島において、祝女を祭司として海神を祭り、豊作、豊漁を祈る年中行事である。沖縄県大宜味村塩屋の「ウンガミ」は国の重要無形民俗文化財に指定されている。旧暦7月の、盆の後の亥の日に行う所が多い。
辺土のウンギャミ[編集]
国頭村辺土では女の節句とも呼ばれ、シヌグと交互に1年ごと催される[3]。祭の3日前、神酒造りや火の神(ふいぬかん)と言う神体を清める[3]。また、ノロら神人は水祓いで清める[3]。夜になると祝女と根神2人、ウチ神2人、大勢頭1人、勢頭3人、ビラムト9人ら神人は全員根屋に泊まり、その家の家具は全部外に出しておく[3]。こうして神人は祭神の火の神の前で円になって座り御願、これを「ウングマイ」と称する[3]。祭当日、祝女ら神人は祝女殿内で神衣裳のなりで行列を作って神アシアゲへ行き、その中で祈願。次に祝女殿内に戻ってオモロを歌い、ビラムト神は弓を持って「どじん」と呼ばれる上衣のような赤い着物、白い「カカン」と呼ばれる襞のとれた越巻のようなものを着て弓を鼻あたりから真下に突き立て頭をうつむかせてオモロが終わるまでその姿勢をとる[3]。このときに祝女とビラムト神は冠(藁で円く形を作りそれに三味線蔓草を巻いてミーハンチャの花を着けたもの[4])を着ける[3]。それから神人は字の各家で祈願、この行列に出くわすと早死にすると言われるため当日は外出せず、出会ってしまったときは手で顔を覆ってその場で伏せる[5]。各家ではミハナ米と御酒や馳走を入れた重箱を戸口に置いて戸一枚立てて裏の部屋に隠れ、神人に見られると死ぬとされる[5]。神人は重箱の中身を持って家の幸福を祈ってから弓を持って戸を打ちながら「ヤークーエーアミーサジ」と唱えてたところへ家長1人だけで神人に礼拝、神人は神の如くよかれ健やかま栄えあれ、と称えてまた各家を廻る[5]。続いて「御原廻(みはるまーい)」を行い、辺土上原で決められた畑を7回巡り、神人は木の枝を振りつつ「ウークイ、ウークイ」と称えて2か所の畑へ行き、祝女墓で終わりを告げる歌「今年(くとし)うんじゃみはやしばしどやゆる なみちゅ(明後年)うんじゃみやゆくのまさい」を歌い、神人が戻ると女たちが馳走や御酒で迎える[5]。翌日「ナガレ」では神人全員が神衣裳を着て祝女は玉(がはな)を首にかけてアシアゲに集合、シルビと呼ばれる者が神人の慰労を行い、神人はオモロを歌う[5]。ジュグウの神(竜宮の神)への報告として全員浜へ行き冠を海へ流し、神人は波打ち際で互いに抱き合う[5]。流された冠は一くるみとなってどこかへ流れていくとされるがうち一つでも離れて漂うとそれを被っていた人が死に、それを見た者も誰にも口外してはならず、話そうものなら自分も死ぬとされる[5]。ウジャ川へ行き、若い男が川の中で竿を持って魚を取る用意をしており、神人は「ホーホー」と呼んで追い、若い男は逃げる[5]。ウシデーク(臼太鼓)の後には字のみなは馳走や御酒を持って神アシアゲへ行き[5]、そこで若い女とビラムト神がウシデーク歌に合わせながら踊る[4]。次の日、別れ遊びとして夜にウシデークを行い、全てを終える[4]。
与那のウンジャミ[編集]
国頭村与那旧暦8月に行われ、祭の3日前の「ウングマイ」は夜に神人がアシアゲに集合して儀式があり、神アシアゲ周辺の家の男は全ての他の家で泊まらなければならず、夜の外出は厳禁となっている[4]。祭当日、神人は祝女殿内へ行き、男の神人は儀式用具を持ち、決まった字の神人が太鼓を打つ。それから行列をなして神アシアゲへ行き、祝女は祈願する[4]。次に大勢頭は弓を持って庭に飾った冬瓜で作ったイノシシを射る真似をして何度も狙おうとする[4]。ムラ神がイノシシを両方から囲むように大勢頭に加勢、射ると根神、ウチ神、祝女らは大勢頭とムラ神を囲んで太鼓を鳴らす[4]。用具ウチバを持っている者は歓喜したように踊り狂う[4]。時間を置いて「ナガレ」ではイノシシを持って神人は列をなして浜へ行き、大勢頭はイノシシを砂の中に埋めてムラ神と弓を山へ向けて礼拝、神人は冠を海へ流して全てを終える[4]。
安田のウンジャミ[編集]
国頭村安田では祭の2日前、神酒を造って神人は祭当日に神衣裳を着て神アシアゲに集合、神体に向かって祈願[4]。午後になると字のみなでアシアゲに集合して魚取りの真似をする[6]。魚役には20歳以上、網持ちには20歳から25歳までの青年が務める[6]。魚を追うと魚は網の方へ向かって、網持ちは逃がさないように巻いていく[6]。次にイノシシ取りの真似をしてイノシシ役には若い青年1人がなって身に簑を着けて頭に笊を被る[6]。犬役には15歳くらいの少年10人を選ぶ[6]。神人は男女1人ずつで犬役を連れてスクガラス豆腐を与えてからイノシシ取り始める[6]。イノシシ役と犬役を闘わせて時を見計らって弓で射るとイノシシ役がもがく真似をして女の神人が矢で止めを刺す[6]。儀式を終えると晩に若い女が臼太鼓踊りをして、一名大シヌグとも呼ばれる青年が余興でする角力があり、ウナイ(女)ウガミとも称えられ、女を男が拝する儀式だとされる[6]。
辺土名のウンジャミ[編集]
国頭村辺土名では祭3日前を「ウタカベ」と言い、与那と内容が似ているがアシアゲでの神人の席順は違う[6]。祭当日はアシアゲの庭で神人がクェーナを歌いながら舞う[6]。
崎本部の大オイミ[編集]
国頭郡本部町崎本部では大折目(オオオイミ)と呼ばれる他の地域の海神祭と同じものがあり、大ユミとも呼ばれる[7]。祭当日の午後2時頃に神人と氏子は神アシアゲに集合、神人は径一尺五寸程度の唐製の円い高御膳に御酒や御花米を持って神酒を捧げて祈願、次に氏子は祝女を拝する[7]。神人は祝女殿内で神衣裳を着て円になって歌い、神人の音頭でオモイを歌いながら衣裳の広袖を左右に振って舞い、青年はアシアゲの庭で宴会場を作る[7]。神人は各家を廻って祈願、それから決まった場所で石を投げ合う[7]。アシアゲで青年と一緒に軒下にある長四間径一尺五寸の神人が座る樫の木をアシアゲの中に入れる[7]。午後7時に全員集合して三味線を鳴らして遊ぶ[7]。
大宜味城のウンガミ[編集]
毎年旧暦7月20日の亥の日に行われる[8]。田嘉里、謝名城、喜如嘉、饒波、大宜味の神人数十人による規模の大きなものである[8]。儀式の先晩「ウタカビ(またはウングマイ)」では大祝女と若祝女がビラムト神4人(海の掌神)とともに喜如嘉の根神の家で白裳束で垂れ髪のなりで祈願、次にその年に新たに神人になる者の就任式「ハンサガの式」で神人の責務と秘密を守ることを誓い、洗礼を受ける[8]。洗礼の祈願は祝女がして製品を受ける者は髪を後ろに垂らして座り周りで神人がハンサガのオモイを歌いながら背をさすったり肩を叩いていく[8]。馳走を頂いて一夜はそこで泊まる[8]。他の神人は朝に「朝ヌブイ」という神アシアゲに集合して祈願が行われ、遊ビビラムト神は神踊りの稽古をする[8]。儀式当日、朝に神人は駕籠を持ってウタカビの神人を迎えに行き、駕籠に乗せて祝女殿内へ着く[8]。そこで全員白衣にマサンジ(鉢巻)を頭にして六尺ほどの神弓と矢、片手に団扇を持って太鼓を鳴らしながら列をなして神アシアゲへ行く[8]。道中、火の神の祠で祈願する[8]。着くと神人は決まった場所に座って祝女が上座に若祝女、根神、ウチ神、ビラムト、遊ビビラムトが順に並んで他の神人は庭に座って、氏子がアシアゲ前の拝所の左右に座って酒肴を供して氏神を祭る[8]。アシアゲ左には冬瓜で造ったイノシシ、右に槍や弓を立てる[8]。祝女は時を見計らって祈願を始め、次に全員庭で決まった場所に座る[8]。喜如嘉でウングマイをした神人が上座、遊ビビラムト神全員は全神人の中央で神踊りをする[8]。遊ビビラムト神8人が円を作って両手を広げて左回りで両手を上げ下げして「ウンークイ、ウンークイ」と唱えて3回ほどする[8]。再び円を作って1人太鼓を打って7人が弓を持ち、鳴ったのと同時に右上に弓を捧げて右に一歩進み、左に捧げて一歩左を繰り返して祈祷のように3回繰り返す[8]。衣裳を赤白黄色の衣裳に着替えて頭にハーブイ(冠)とクロッグの葉で作ったものを被って右手に弓、左手に矢を持ってオモイを歌って右回転して両手を上下させながら舞う[8][9]。遊ビビラムト神1人が太鼓を鳴らしてそれを和にし、3回廻って踊りを終える[9]。「縄遊び(なーあし)」と称して左に一間離して棒を立てて縄の両端を結んで舟の形を作る[9]。右端に太鼓打ち3人オモイの音頭取り1人が立って鳴ったのと同時に歌い始めて、和にして扇を振りながら踊る[9]。終えると神女の1人がミカンを踊り手の中央へ撒き散らし、イノシシを取る真似をして飾ってあった冬瓜を槍で突く[9]。役割を終えた一部の神人は氏子と帰宅、氏子は尾花に石を込めて結んだサンを2つずつ神に捧げてから持って帰り、健康と繁昌を祈って火の神の前に捧ぐ[9]。これが他人に渡ると効果がなくなる[9]。祝女、若祝女、海の神はアシビビラムト神と一緒に火の祠を経由してオモイを唱えながら扇を振って踊りながら祝女殿内に帰り、中で「あたい苧(お)のなかぐ引き漂し(さらし)漂し 大和める里のどんす袴」と歌ってまた神アシアゲに戻って祈願、猪神、酒樽、鼠を御供が担いで遊ビビラムト、祝女、若祝女が海の神と駕籠に乗って根屋に行ってオモイを歌って踊る[9]。それから列をなしてアミ河(ガー)でも歌って、浜へ着くと行う「ナガレ」は持ってきた猪、鼠を捧げて神酒を供して海と山を拝して踊りで被った冠と捧げものを海に流す[10]。根屋に戻って祈願、神人は一夜そこで泊まってその日を終える。翌日「別れ」では喜如嘉アシアゲに遊ビビラムトと同字の神人が神酒を捧げて祭の終わりを神に告げ、オモイを歌って城からの神人は駕籠で戻る[10]。神人の行事は終わり、氏子たちは臼太鼓や村芝居、エイサーなど余興をしてその日を過ごす[11]。
塩屋のウンガミ[編集]
大宜味村塩屋のウンガミは、海神祭の中でも古い形を残しているとされる。旧盆明けの最初の亥の日に行われるが、隔年で形態が異なる。
御願(うがん)マールの年 - 祈願、供えものが中心。
踊り(うるい)マールの年 - 神事を簡略化、塩屋で踊りの会が開かれる。
祝女による神事[編集]
男性に付き添われた祝女が拝所を参拝し、合掌しながらグイス(祈りごと)を唱え、酒が乗った盆を上げ下げしたりする。付き添いの男性は小さな太鼓をたたく。
これが終わると、祝女は神アサギに移り、合わせて数人のハミンチュ(神人)が参集する。やがて女性たちは頭に白い布を巻き小さな声で合掌し短く祈る。ハミンチュに神酒が回された後、周囲で見ている人たちにも神酒が振舞われる。
その後、隣の屋古集落の神アサギに移る。その前の広場には木の柱が立てられ、上に蜘蛛の巣状に編まれた屋根がある。屋根の一部に芭蕉の葉がかけられ、下にも敷かれている。
二人の男が祝女から注がれた酒を飲んだ後、広場の柱近くに座り、その周りを色の付いた着物を着て弓を持った3人のハミンチュが「ヨンコイ、ヨンコイ」と唱えながらゆっくりと回る。その次には白い着物に着替えたハミンチュ3人がふたたび弓を持って「ヨンコイ、ヨンコイ」と回る。これまでにはノロはじめ他のハミンチュも白い着物に着替えている。
その次に神ウスイという行事が行われる。前に3人、後ろにその他のハミンチュが並び、祠のある山に向かって拝む。前の3人が額を地に伏せると、祝女が葉のついた小枝で軽くたたく。これを繰り返した後、全員で手を合わせて祈る。
御願バーリー[編集]
神事が終わると、午後2時から爬竜(爬竜船による競艇)が行われる。これを「御願バーリー」という。屋古、田港、塩屋の男たちが乗った3隻のハーリーが、屋古から対岸の塩屋の浜を目指す。十数人で漕ぐフギバンと、40人で漕ぐウフバーリーの2回行われる。男たちは白の鉢巻に白衣をつけて漕ぐ。塩屋の浜では3集落の女たちが、藁で編んだ紐を頭や腰に巻き、水に浸かりながら太鼓や手拍子を鳴らし、大きな声をかけながら男たちを迎える。御願バーリーが終わる頃、白衣を着たハミンチュたちの駕籠が塩屋の集落を抜け浜辺に着く。ハミンチュたちは砂浜にムシロを敷いて座り、海に祈りを捧げる[12]。

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キンマモン(キンマンモンとも)は、琉球神道に伝わる女神。漢字では「君真物」と表記されるが、これは「最高の精霊」という意味である。古くから君手摩と同一視されてきた。海の彼方から来訪し、最高神女である聞得大君に憑依する。
琉球に渡って浄土教を布教した袋中良定は、著作の『琉球神道記』(成書年代17世紀初頭)の中でキンマモンについて言及している[1]:313-314。『琉球神道記』はキンマモンの名前を確認できる最古の文献である[2]。『琉球神道記』によれば、キンマモンには陰陽があり、天より降ってきたのをキライカナイノキンマンモン、海より上がってきたのをオホツカケラクノキンマンモンと呼ぶ[2]。
滝沢馬琴の小説『椿説弓張月』中にも記述がある。キンマモンは人間の守護神であり、海底を宮とし、毎月出現しては託宣するという。
沖縄県で設立された新宗教のいじゅんにおいて、キンマンモンは「いじゅんの大神(おおかみ)」とも呼ばれ、1972年に教祖により主神であると宣言されている[1]:313-314。いじゅんのケースを除けば、現代の沖縄県にキンマモンの信仰はあまり浸透していない[2]。

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阿伊努凯塞(アイヌカイセイ,あいぬかいせい)是阿伊努民间传说中的妖怪。
其身穿树皮纤维制成的蓑衣,经常在空屋或老房中出没。有时会趁人睡觉时压在其头部或胸部,让人呼吸困难,噩梦连连。 [1]。
民间传说研究家佐佐木喜善的著作中提到了阿伊努凯塞和座敷童子之间可能存在某种相似性(关联性)的观点。 [2]。
此外,其名字里面的“カイセイ”在阿伊努语中意味着“死骸”。

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