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历史背景
日本男发
江戸時代の服装は、身分や職業によっても違っていた。小物なども裕福な武士や商人は刀の柄や煙草入れに工夫を凝らし、初期の頃は大っぴらに見せていたが、時代が進むにつれ隠れた部分にお洒落をするのが粋だと変わっていった。武士たちは身分制度の上位に位置する階級で、上級武士が登城する時は着物の上に肩衣を着け、長い袴を履いて「裃」と呼ぶ服装であったし、大名であっても「格」に応じて着る服や色まで、細かい規定が有った。幕府直属の武士(直参)は旗本と御家人の区別が有り、旗本とは禄高が一万石以下の家臣で将軍が参列する儀式などでお目見え出来る家柄の家臣で、御目見えを許されない家臣を御家人と呼んだ。家柄や役職、禄高などで服装が定められ、江戸城の詰め所や家の造りまで身分によって指定されていた。配偶者の妻も「奥方」と呼ばれ、家格が上級の武士の家は多くの家臣や下僕を養わなければならず、家でもだらしのない格好はできなかったし下級武士の妻であってもプライドが高く、正式な場に出かける時は絹を多用した服装をしなければならなかった。小袖と呼ぶ着物の上に「打掛」を重ね、髪を整えたし、たしなみとして小刀を帯に挟んでいたし、夏場は扇を手にしていた。年齢や身分に合わせて着物や髪型の違いがあり、服装を見ればどのような家柄か判った。町人の妻たちは丸髷に前垂れと呼ぶエプロンをするのが一般的で、大店の妻や娘以外は町人の妻でも新品の着物を買うことは殆ど無く、古着屋で買った着物を大切に着続けた。町人の男達も質素な身なりだったがお洒落として「羽織」を身に付けるのが「粋」だと持て囃され、それが流行した。身に付ける着物はすべて機械織だったから当然高価で、大名や豪商、名主階級は豪華な新品の衣装を買ってはいたが町人や庶民は古着屋で買うのが当たり前で、自前で着る着物も精々夏物、冬物など二~三枚で古着を継ぎはぎして大切に扱い、擦り切れて着れなくなれば赤ん坊のおしめや雑巾にしたし、糸をほぐして下駄の緒などにしていた。
戦国武士の象徴だった「ちょんまげ」は武士が兜を着ける際、頭が蒸れるのを防ぐ生活の知恵から生まれたのだが戦う必要のない庶民も髷を結い始め、それがファッションとして定着した。男性の月代は頭の中央まで髪を剃り、後ろの髪を糸で結んで整え、細さなどを競った。江戸時代も後半になれば経済的に余裕がない浪人や思想的に勤皇派の志士の間で、髪の毛を後ろで結ぶ総髪が目立つようになり、神官や学者もちょんまげを結わず、髪を束ねていた。女性の場合、大まかに言えば未婚女性は島田髷、既婚者は丸髷と区別していたが時代が移るにつれ髪型の種類が増えていった。化粧をするのがたしなみだとなったのは江戸時代からで、上流階級だけでなく庶民も化粧をするようになり、化粧法や髪型の解説書も挿絵付きで出版された。江戸時代の化粧は白粉、紅、お歯黒、眉作りが中心で色は白・黒・紅で成り立っていた。江戸の化粧を牽引していたのが歌舞伎役者と吉原の遊女たちでその装いを手本にしながら自分なりにお洒落を楽しんでいた。初期の頃は髪も自分で結っていたが時代が進むに連れ髪型も複雑になり髪結床の出現もあって専門の髪結に整えてもらうようになった。最初の頃こそ髪結代が払える階層に限られていたが庶民のおかみさんや娘でも利用できる料金になり、月に一度は洗髪から髪結まで利用していた。その値段は現在のお金に換算して1500円くらい(百文)だった。因みに男性の整髪は三十二文だったので如何に女性がお洒落を楽しんでいたかわかる。
髪を結って貰ったらできるだけ崩れないように寝る時は「箱枕」を使い、少しのほつれや崩れは自分で直していたし、蝋等が入った「びんつけ油」で固め、櫛を使って整えてから寝ていた。江戸時代の女性は髪が長かったので「洗髪」のほうが大変で、盥を使って一日かかりだった。白粉は水で溶いて指や刷毛で顔や首、胸元あたりまで塗り、口紅は高価だったので小さく塗るのが一般的だった。洗髪は月に二~三回程度で、洗う時には上半身裸になり、盥にお湯を張って「ふのり」や「うどん粉」を使って髪に付いた油を落としていた。着物を結ぶ帯も元禄前後から細帯から広い帯になり、着物の柄も工夫を凝らしていた。髪飾りに使う鼈甲や象牙などを細工した櫛やかんざしは上流階級の象徴で、蒔絵、螺鈿、透かし彫りなど多彩に広がり、裕福さを競う装身具だったのが文化・文政の頃になると竹や木を用いる櫛が登場し庶民の娘でもお洒落を楽しめるようになった。男性もまた、煙草入れなどの小物に細工を凝らし粋を誇った。それでも職業による服の決まりがあり、武士は袴姿に二本差し、商家の場合麻か木綿の前垂れ姿で、大工や左官などの職人は紺の木綿半纏に股引き、腹掛け姿で出歩いた。家の中で仕事をする職人は木綿の上着に仕事袴、前掛けを付けた。
江戸の流行の最先端をいっていたのは吉原の遊女と歌舞伎役者で遊女たちは自らの存在を主張するために着る物に精力を注ぎ、目を引く華やかな装いで客を迎えた。自己主張の強い装いは歌舞伎役者も同じで若い娘たちの儀望の的で有り流行に大きな影響を与えた。江戸の人が歌舞伎に大いに関心を寄せ、服装や化粧姿を取り入れていたのは日常において刺激的で変化に富んだ生活を好み、他人よりも流行の先端を走っていると自慢したかったからだと思われる。元来、平服だった小袖が礼服にも利用されるようになり、江戸時代初期の裕福な町人たちは着物の裏地に高級な絹織物を用い、高価で珍しい染色の衣服を好んだ。これが庶民にも広がりを見せ始めたのは仕事着と生活着を区別する必要が無かったし初期の小袖は男女、ほぼ同じ形だったのが次第に男女の区別が生じ、女性用は次第に袖丈や裾が長くなり、結婚後は「留め袖」といって留丈を短くした。未婚女性の振袖に対し既婚女性の式服を留袖と言うのはこの名残りのようである。
着物というのはいずれほどいて仕立て直す事を前提に作られているから切れやすい糸で縫われ、ほどいた時に布を傷める事がないように工夫され、ほどけば長方形の布になるように作られている。
江戸の町人や庶民が大切に愛用したのが「掻巻き」で袖の付いた大ぶりの着物を寝具として兼用し寝る時も用事を済ます時も着ていた(盛岡では、袖の付いた寝具を、「丹前」と呼びました。「掻巻き」よりも更に、ドテラ風に綿が入っていたような気がします。庶民には掛け布団など無く、寒い冬には「掻巻き」を被って寝ていた。着物より一回り大きく、袖や広襟が付いた綿入れの着物で、江戸の庶民はこの夜着を着て敷布団の上で寝ていた。夏は一重といって浴衣みたいなものを着ていたが秋から冬は夏の着物に裏を付けて二重に工夫し、同じ着物を季節ごとに一枚にしたり二重にしたりと繰り返し、四季によって綿の量を増やして発達したのが「掻巻き」や「どてら」になっていった。上級武士の奥方などは呉服店と馴染みになって屋敷に呼んで作って貰っていたが、庶民は古着屋で賄い、それも絹の着物など生涯持てる人は少なく、一生で持てる着物の枚数も三枚あればよかった。それだけ布は大切であり「勿体ない」という意識が強く、着物以外の食べ物や道具など全てに有ったし、江戸の庶民というより日本全体に物の有難さが浸透していた。「江戸時代の服装は、身分や職業によっても違っていた」、というのも、嘘ではなかったのかもしれませんが、「身分や職業によって違う」と言うよりかは「みんな、本質的には見えっ張りなので、許される範囲で、少しでもお大尽に見えるような格好と、態度で振る舞うことを、心がけよう」的なものだった…、という方が、適当なのかも知れません。
この「ちょんまげ」というのは、もともとは戦乱の世で、兜を被った際に頭が蒸れるのを抑えるために始まった風習、だったのだそうです。
・江戸時代前期:男性の髪型はひっつめで、後の銀杏髷に近い形が主流。女性の髪型は立兵庫、元禄島田、元禄勝山等、細長い髪型が主流で、髱も鴎髱、鶺鴒髱等、後ろに突き出す形が流行した。
・江戸時代中期:男性の髪型は本多髷が主流。女性の髪型は灯籠鬢という、横に張り出し、透けた感じの鬢が主流になり、髷も島田髷や勝山など横に広くて大きい髷になる一方、髱の方は鬢の張り出しと反比例して概ね小さい膨らみか、全くないものとなるかあるいは後ではなく下の方に膨らむようになり、この頃から抜き衣紋が行われるようになった。
・江戸時代後期:男性の髪型は再び銀杏髷が主流で、女性同様に鬢を膨らませた厚鬢になり、町人の場合は袋付という下に膨らませた髱が主流になった(但し男性は抜き衣紋をしない)。女性の髪型は灯籠鬢の流行が下火になったが、高島田、つぶし島田、結綿、桃割れ、丸髷、先笄等、ほぼ現行の髪型がこの時期に定着した。髱は公家・大名家では椎茸髱が主流となり、一般武家・町人は関東では下に膨らませる、関西では少しだけ丸く膨らませるのが主流になった。
・明治~昭和戦前:洋風化の影響で、男性は殆どが洋髪となったが、女性の場合は洋風の髪型が登場し始めた一方で、折衷ともいえる束髪、夜会巻き、耳隠し、行方不明髷等の洋服・和服双方に合う髪型も考案された。二百三高地髷は、日露戦争後に日本で流行した髪形で、前髪を張り出すとともに頭頂部に束ねた髪を高くまとめていた。当時普及し始めていた洋装にも合う髪型として生み出され、流行した。ラヂオ巻きなどモダンな名称の洋髪も生み出され、戦時体制に入るまでは和服の場合に限り従来の日本髪(と、白塗りの厚化粧)も依然として結われた。
・戦後:日本髪文化は、歌舞伎、時代劇、花柳界、結婚産業以外では殆ど衰退したが、現在では正月等の晴れ着の場合に新日本髪を結う場合が多い。
・江戸時代風:前髪と鬢は前の方に突き出す。髱は下の方に突き出す。かもじを多く使うので重くなる傾向がある。全体的に大ぶりになる。
・上方風:前髪と鬢は前の方に突き出さずに後ろの方に自然に流す。髱は丸く納める。かもじを最小限に使うので軽くなる傾向がある。前から見ると小振りで丸っこい感じなので可憐な感じになる。
・さかやき(月代):江戸時代以前の日本にみられた成人男性の髪型において、前頭部から頭頂部にかけての、頭髪を剃りあげた部分を指す。さかやきを剃った髪型のことは半髪と表現される。さかやきをそり、髷を解いた髪型を「童髪(わらわがみ)」といい、「大童(おおわらわ)」の語源となっている。また、兜を被った際に頭が蒸れるのを抑える目的は「弁髪」に共通している。
・髷(まげ):後頭部の髪を束ねて折り返したもの。後にはただ束ねたものも言う。
・鬢(びん):女性なら側頭部の髪を張り出した部分。男性なら後ろに引きつめるが、生え際の処理に武家と町人で違いがあった。
・髱(たぼ):後頭部の髪を後ろに張り出したもの。「つと」ともいう。「髷」「鬢」「髱」の3要素に前髪を合わせて5つのパーツが、女性の髪形を構成する。
・簪(かんざし):髪に挿す装身具。
・櫛:髪を梳いたり、装身具としても使う。
・笄(こうがい):髪を掻き揚げる道具・兼・装身具。
・元結(もとゆい):髪を結ぶ紐のこと。かつては麻紐が多かったが、江戸時代に奉書紙、丈長紙などの和紙の紙縒りになる。
・丈長(たけなが):髷の、背を高くする部分に巻きつける紙。金銀が多い。
・手絡(てがら):女性が髷に巻きつける布。未婚女性なら紅い鹿の子絞り、既婚なら浅葱や藤色の縮緬を良く用いる。
・髪油:椿油などの整髪料、
・油付け:鬢付け油で平たく細長く固めたヘアピース。髷の上にこれを付けると、髷の名前が変わる。
・髪結い(かみゆい):江戸時代の理容師。基本的に男性は理髪店に通い、女性は女髪結いに巡回してもらっていた。
・床山:演劇や映像製作現場、または大相撲において、日本髪や髷、かつらを結うスタッフ。特等床山の宮城野部屋の床蜂さん、床松さん、など。
男性の髪型
・角髪(古墳時代~平安時代、皇族、公家(奈良以降は少年))
・冠下の髻(奈良時代~江戸時代後期、皇族、公家、大名家)
・稚児髷(平安時代中期~江戸時代後期、稚児@大規模寺院)
・茶筅髷(安土桃山時代、武将):若かりし日の織田信長のヘアスタイルとして有名。月代を作らず、髪を紐で巻き立てて毛先を茶筅のようにツンツンさせたもの。
・銀杏髷(江戸時代前期、武家、町人)
・本多髷(江戸時代中期、町人):月代を非常に広くし、髷をネズミの尻尾のように細くした形。柔和な印象を与えた髪型で、吉原の遊郭に出入りするならこの髷でないと相手にされないと言われたほど、「粋」の象徴だったそうです。
・若衆髷(江戸時代前期、町人少年)
・角前髪(江戸時代後期、武家少年)
・総髪(江戸時代後期、医者、学者、等)
・大銀杏(江戸時代後期、町人、力士)
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