和果子
菱葩餅 ひしはなびらもち
通称花瓣饼。根据源高明的『西宮記』记载、「内膳供御歯固、大根、瓜、串刺、押鮎、焼鳥等、付進物所、進物所例云、正月元日早朝、供奉屠蘇御膳事、猪宍二盤、一鮮、二焼、押鮎一盤(切盛置頭二串)、煮塩鮎一盤(同切置頭二串)」、新年吃硬食以祈求长寿的「歯固儀式」至少在平安前期就存在了。当时会在年糕上铺上红色的菱形年糕,在上面放上猪肉·萝卜·盐腌香鮎·瓜等食材。后来则渐渐简化、在公家成为了用牛蒡替换鲇鱼、将宫中杂煮用年糕包裹起的料理。如今这样用年糕或求肥包起牛蒡·白味增馅·粉红色年糕的和菓子。当初主流是两根牛蒡,现代已经简化为一根安土桃山時代的京都富商、川端道喜把宫中的和菓子收集起来、制作出了。明治时代、里千家元·十一世玄斋将其用于初釜的茶席上、如今成了里千家在正月常用的茶点、与之相对、表千家则是上用饅頭。
如今花瓣饼的元祖,被认为来自于正月到师走的宫中行事。根据川端家传承的古籍,绘卷「御定式御用品雛形」中,记载有三宝台上盛放着红白二色的镜饼、其上又放着十二层红色的"菱餅"、和白色的圆"葩餅"。这些薄饼上放着用于固齿仪式的味噌·糖·萝卜·瓜·鲇鱼干等食材。逐渐简化之后,就成了如今的模样。曾经仅仅在宫中庆祝时食用的菱葩饼,在明治维新时期,由里千家11代目・玄玄斋宗匠在进入御所时所发现,在与掌管皇家御用品的川端道喜商谈过后、作为里千家茶道初釜的点心沿用至今。如今大多数的和菓子屋都把菱葩饼作为一种正月的点心。
そして、年明けの茶会本番前に、年末の数日、お試しに作った「試餅」(こころみもち)としてのみ、 一般のお客様に販売されるのですが、それ以外では味わうことはできません。 他の和菓子屋と異なり、餅生地は非常に薄く、白い円形の餅を二つ折りにして、 その間には、例によって薄紅色の菱形の餅が挟んであります。 白味噌あんはもはやあんこというよりは、ソースのように水分量が多く、 餅生地が少しでも破れてしまいますと、そこからこぼれ出てしまいますほどです。 いやあ、これは黒文字で頂くにも、なかなか苦労します。 蜜煮されたゴボウも両端からはみ出すことなく、完全に白い餅生地で包まれています。 もうですね、薄紅色の菱餅と、黄色い白味噌あんが透けて見えているのです。 その様がまたとても華やかにも見え、しばらくじっと見つめてしまいます。
餅は冷めるとすぐ硬くなるため,餅の代わりに「求肥」や「外郎」が用いられるようになります。
「求肥」…もち米粉に砂糖や水を足しながら練り上げ,時間が経っても硬くならないよう仕上げたもの
「外郎」…(もち)米粉に砂糖や水を足しながら練り上げ,蒸し固めたもの
こうして,内側の赤い餅だけでなく,外側の白い餅もやわらかく美味しく食べることができるようになりました。
宮中で行われた新年の祝賀の際,天皇が参内した公家に持たせたのが「菱葩」と呼ばれる餅です。菱葩は,紅白二枚重ねで二つ折りにした餅の中に干し鮎を挟んだもので,外側の白い丸餅は男性を,内側の小豆で染めた赤い菱形の餅は女性を表し,子孫繁栄の願いが込められていました。この菱葩を持ち帰った公家は,中の菱形の小豆餅だけを食べたようです。外側の白い丸餅は,内側の小豆餅を冷気に当てないための保温材として使われ,餅で餅を包むことにより,柔らかいままの小豆餅を食べることができたのです。そのため,菱葩は「包み雑煮」とも呼ばれました。一方で外側の硬くなった丸餅は,正月に本家にあいさつにあがる分家や御用人にお裾分けされたのですが,そのまま食べるには硬いため,総菜などと一緒に煮て食べられるようになりました。こうして「汁雑煮」の文化が生まれたのです。
上用饅頭 じょうようまんじゅう
用大和芋、山芋、米粉做成的豆沙馒头,也叫做薯芋馒头。在过去,高价的砂糖和红豆的点心只有上等人才能享用,因而得名"上用"。据说起源自室町时代的中国人僧侣林浄因,如今在茶席或赠礼中出现的带馅蒸馒头全都叫做上用馒头,"紅白饅頭"也是其中一种。在制作时,京都地区会使用つくね芋、中部地方使用伊势芋、关东地区使用大和芋。
志ほせ饅頭 しおせまんじゅう
出自东京中央区明石町的塩瀬総本家,盖有“志ほせ”的烧印的一口薯蕷馒头。日本的馒头分为虎屋系的酒馒头和盐濑系的药馒头两系。盐濑总本家可以说是日本馒头的发祥地,最早能追溯到南北朝时期归化宋人林净因。净因相传是宋朝诗人林和靖的后裔,元朝时临济宗僧人"龙山德见"来到浙江的天童寺。龙山归国时,净因做为他的俗家弟子一起前往日本,居住在如今位于奈良市汉国町林小路上的汉国神社。日本禅僧为了戒律不能食肉,净因便在红豆馅儿里加入甜葛煎和盐、用小麦粉用水揉搓发酵的老面做皮,制作出了底部扁平、上面圆鼓鼓的馒头,他还在表面还画了一个红色的“林”字。在当时的日本,甜点充其量也只有柿子干和栗子干。因此这种革新性的点心在寺院和上流贵族间大受好评,也被称为奈良馒头。净因把馒头献给了后村上天皇,天皇极力夸奖并赐给他一个宫女,林净因和她生了两男两女。而他们结婚时,林净因制作了红白双色馒头赠给邻里,这个习俗从此传了下来。龙山去世后,林净思乡之情骤起,孤身返回中国。他的妻儿无奈之余开了馒头店,不久、他的后代便分为留在奈良的南家和前往京都的北家。奈良南家在大阪夏之阵不再制作点心。京都一族还分为了京都北家和京都南家,南家出现了战国时代的文化名人林宗二,北家则是如今的盐濑总本家。净因的孙子林绍绊远渡中国,学会了薯蕷馒头的制法。回国他用用山药和米粉代替小麦粉揉成皮,这就是盐濑系的药馒头原型。462年,绍绊的店转移到了乌丸三条,但由于应仁之乱、生意很难做,于是转移到了三河国的
五七桐纹
盐濑村。战乱平息后回京,久居的“盐濑”便被定为商号。绍绊把馒头献给土御门天皇,被赐与了五七桐纹,日后也被后水尾天皇称为“盐濑山城大掾”。还从足利义政那里得到过「日本第一番 本饅頭所 林氏鹽瀬」亲笔书写的看板、世世代代为皇宫服务。盐濑的馒头也受到织田信长·明智光秀·丰臣秀吉·德川家康等著名战国大名的好评。长篠之战中,林宗二献上了“本馒头”,家康将其盛在头盔上供奉军神祈求战胜。到了江户时代,盐濑一族转移到江户,在那里新设了门店。在关东,盐濑的馒头作为从都城来的“京货”而被珍重,卖得飞快。1777年出版的《江户富贵地座位》这本富贵排行榜中,林氏盐濑(中桥)被列为点心行列的第一。方外道人的《江户名产诗》中也有「伝馬町頭塩瀬店 饅頭元祖製造尤新 毎朝蒸立皮如解 争買世間下戸人」这样吟诵着盐濑的诗句。盐濑馒头作将军家的御用品,明治维新后成为宫内厅的御用品,店铺前移到了传马町、有乐町等地。战后,在明石町营业至今。
琥珀羹 こはくかん
使用砂糖、水饴、寒天做成的果冻状点心。因使用了栀子果实染色,又被叫做"金玉羹"、"錦玉羹"。这种点心在江户时代流行,透明外表下加入练切,就可以表现山川河海等景色、精彩被作为夏季的代表性点心。烘干后可制成琥珀糖,这是一种半生菓子,干燥表面上有松脆的砂糖,里面则是含水丰富的弹性琼脂,添加红豆和柑橘类水果后还会有别样的外观、质地和味道。
秋田諸越 あきたもろこし
一种用红豆粉混合砂糖或和三盆制作的押菓子,秋田县的名产,在一些地方也被叫做「唐土」或「諸粉子」。其形状除了縁起物之外,也有生剥节、秋田犬、秋田蕗等秋田代表性标志。和在和菓子属于被称为"打物"的剪影种类,入口后悔逐渐融化,适合搭配绿茶享用。此外、也有没有烧制过。口感柔软的生秋田諸越被贩卖。其起源据说是江户宝永2年(1705年)久保田藩4代藩主・佐竹義格使用煎米菓子来奖励立下功劳的臣下。而諸越这个名字,则来自于和菓子店「杉山寿山堂」的创始人杉山良作将这种点心用红豆粉改良时、得到的「此味之佳,超越诸多点心」评价。还有一种说法是,这种点心从唐朝传来、所以被叫做諸越。
安倍川餅 あべかわもち
静岡县安倍川的名产,最初是在新捣鼓的年糕上裹满黄豆粉后撒上白糖。如今经常会加上另一种裹满甜豆沙的麻糬放在一个盘子里。据说在江户初期,德川家康在安倍川岸边的一家茶馆停留时,茶馆老板以安倍川上游(梅ヶ岛)的砂金为灵感,做出了"安倍川金粉饼"赠送给他。家康对这种点心非常满意,便以安倍川为其命名。安倍川饼因为用白糖制作而出名,这在江户时代是很罕见的,最终成为了东海道海道府中宿的特产。在『東海道中膝栗毛』中,安倍川饼以"五文採"的别名登场。德川吉宗也很喜欢吃安倍川饼,曾让骏河出身的家臣赶来制作。这种点心在安
倍川桥东侧(葵区弥勒二丁目)的三家茶馆出售。除了传统的两种版本外,还有一种用芥末酱油制作的辣味版本。此外,在山梨县,人们习惯在盂兰盆节期间在佛前吃安倍川饼。超市出售的安倍川麻糬一般为黄豆粉和黑糖,而不是白糖。年糕的形状基本上是方形。 信玄饼是由这个习俗衍生出来的纪念品。
引千切 ひちぎり
用米粉制作的小饼,别称阿古屋餅。阿古屋是日本爱知県半田市附的古地名,此地盛产海水珍珠贝,即马氏贝,因形似阿古屋珠故名之。它的制作方法是将白米糕一侧擀开,并在上面打出一个凹痕,中间填满红豆沙。 以前宫中人手不足时,为了节省制作年糕的工序,简而由"碎丝"来代替,因此而得名。引千切不仅有使用白餅的版本,有时也会使用蓬餅。 红豆沙分为粒餡和漉餡。 它是京都雏祭不可缺少的一部分。在其他许多地方也被用于庆典。
蓬餅 よもぎもち
餅や団子にヨモギを混ぜたもので、団子(ねり餅)にヨモギを混ぜたものは「草だんご」とも呼ばれ、和菓子の一種である。団子の方はまず、上新粉あるいは上新粉と白玉粉を混ぜたものに水と砂糖を加えてこねて生地とし、これを蒸して餅にする。そして、このねり餅にヨモギをつき加えてから、適度な量に分けてから丸めて作る。この時に中に小豆の餡を包んだり、ただ丸めた小さめの数個を串に刺し、その上から餡をからめる場合もある。ヨモギの若芽には特有の爽やかな香りがあり、それが珍重され春先の和菓子を代表するものの一つとなっている(ヨモギは餅草とも呼ばれる)。また、若芽を摘んでからゆでて乾燥させたものも出回っており、季節外れにはこれが使われる。「ヨモギモチイ」の名称は、『日本歳時記』(17世紀末)、『本草食鑑』(17世紀末)、『年中定例記』(18世紀中頃)に見られる。草餅は、当初、ハハコグサが用いられていたが、ヨモギに邪気を払う力があり、食すと寿命が延びるという中国思想から3月3日の節供に用いられるようになった[1]。
行者餅 はまや
東山安井的老舗「柏屋光貞」制作的、仅在7月16日宵山祇園祭时售卖的点心。
「行者餅」の名前は行者の衣ににせたお菓子を作って後祭に登場する役行者山にお供えしたとかいう修験道に関連したストーリーから来ているらしい。袱紗包みのクレープ状の生地の中は求肥と白味噌ダレ、意外としょっぱい。ここに山椒が効いていてとても京都チックな風味。夏のお菓子、という感じでした。さて、行者と言えば、修験道の山伏を指しますが、どうしてそんな名前なのか。それは江戸時代後期、京都に疫病が流行した時のことです。4代目の柏屋利兵衛氏が山伏として大峰山(奈良県)の修業していた時に、夢のお告げ通りに、行者の衣に似せた菓子を作って、祇園祭の山鉾、役行者山にお供えしたところ、効果を発揮したという逸話を持ち、それ以来、『行者餅』と名付けて、祇園祭の宵山の一日に限って、今もなお、山伏としての修業を積み、沐浴潔斎の上で作り続けられている、とっても霊験あらたかな菓子なのです。もうひとつが、節分の2月3日のみの販売となる『法螺貝餅』。門跡寺院、修験宗の聖護院が節分の護摩供養で一般参拝者に門戸を開くようになった時、柏屋の九代目が岩本光徹門主の要請に応え、花びら餅に入れる味噌あんにゴボウをさして吹き口とし、鉄板で焼いた小麦粉の薄皮を巻きつけて法螺貝の形を模して工夫されたものが今の意匠の始めとのこと。
行者饼
法螺貝餅
毛豆麻糬 ずんだ餅
使用毛豆泥为内馅所制作的麻糬点心。是日本南东北地区、特别是以宫城县为中心地域流行的郷土菓子。 ぬた餅(東北地方)、ばんだい餅(栃木県)などとも呼ばれる。与牛舌烧·笹蒲鉾共称为"三大仙台名物"。旧仙台藩(伊達藩)領である宮城県及び岩手県南部、福島県北部及び山形県で「ずんだ餅」もしくは「じんだ餅」の名称で伝わり、それらに接する秋田県南部、および関東地方の栃木県北西部などにも似た料理が伝わっている。また、近畿地方の大阪府南部には、餅や白玉を大豆餡、または、枝豆餡で包んだ「くるみ餅」という郷土菓子がある。
かつてはお盆、お彼岸の時期に米農家などで作られるもので、一部の餅店、団子屋で季節商品化されてはいたが、仙台の(株)黄金食品・仙台藩名物ずんだ餅本舗が「冷凍ずんだ餅」を開発し、郵便局のふるさと小包を利用したお取り寄せ商品として販売を開始して以降、年間を通しても食べられるようになった。その後追随する食品メーカーが増え、菓匠三全が「ずんだ茶寮」のブランドで仙台駅などでの販売を始めた頃には「仙台名物」の一角として一般にも認識されるようになった。なお、「ずんだ餡」には枝豆を使用するのが一般的だが、一部にエンドウやインゲン豆を使用したものも販売されている。風味の違いに注意されたい。ずんだ餡は餅以外にもパンやケーキ、乳製品などとの親和性が高く、近年和洋問わず様々な「ずんだスイーツ」が各社から発売されている。「ずんだ餅」の名称の由来には諸説あり、その中で有力なものに「豆打餅説」と「陣太刀餅説」とがある。他に「甚太餅説」「ぬた餅説」などがある。豆打餅説については、その製法から採られた「ずだもち(づだもち)」が訛ったものとされ、陣太刀餅説については戦の陣内において太刀で豆を切り刻んだ「じんだちもち」が訛ったものとされる。いずれの説も決定的な証拠に欠けるものであるが、米農家に伝わってきたという点から「豆打餅説」に分があると思われる(旧武家の数が少ないということもあるが)。なおどちらの説においても「伊達政宗公が名付けた」とされる点が共通している。伊達政宗が関係するという点でご都合主義的謳い文句に映るが、主に旧仙台藩領内において伝わってきたという歴史的事実がある以上、完全に否定もしがたい。
麩饅頭 ふまんじゅう
一般的な小麦粉を蒸して作る皮ではなく、生麸の皮でこし餡を主に包んでいる。小麦粉のグルテンから由来するもちもちとした触感の皮を楽しむ。笹の葉や塩漬けされたサルトリイバラなどで包装される場合もあり、それらの香りや塩気がアクセントとなっている。賞味期限は約2、3日である。来歴京都市上京区『麩嘉』や、愛知県江南市にある『大口屋』が有名。他にも石川県や、大阪や和歌山で作られている。元来は生麸を食べる習慣のある地域のみで生産されていた。また生麩は水分を多く含み日持ちがしない特性上、販売される地域が限られていた。精進料理に用いるので、生産地が京都市に多くあるのはこのためである。菓子店で作られる事が多いが、京都では製麩業者が作っている事もある。
蕨餅 わらびもち
蕨粉制作的和菓子,一般会佐以黄豆粉·抹茶粉·黑蜜食用。醍醐天皇が好物としており太夫の位を授けたという言い伝えがあり、そこからわらび餅の異名を岡大夫とも言う。そのいわれが寛永19年に書写された大蔵虎明能狂言集の「岡太夫」に古い言い伝えとして書かれている。 また同時に凶作に見舞われた農家の非常食でもあったという言い伝えもある。東海道日坂宿の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。
ただし掛川周辺は鎌倉時代から歌に歌われるほどの葛布の名産地であり、林道春の「丙辰紀行」(元和2年)にはこの日坂のわらび餅について、「或は葛の粉をまぜて蒸餅とし。豆の粉に塩を加えて旅人にすすむ。人その蕨餅なりとしりて。其葛餅といふことをしらず。」とあり、天明6年頃の「東街便覧図略」にも、「蕨餅とハ言へと実は掛川の葛の粉を以って作れる也」ともある。奈良県はわらび粉の名産地であり、奈良や近くの京都ではわらび餅の名店が数多く見られる。わらび粉はワラビの地下茎から得られるデンプンだが、高価なので芋、タピオカ、葛などのデンプンを混ぜたものを用いる場合も多い。また夏のイメージが強いが和菓子店で売られている本蕨を使った餡入りタイプのわらび餅は保存に向かないため、夏の間は販売されていないことが多い。
月見団子 つきみだんご
十五夜の行事は中国から伝わったとされています。日本では宮中行事としての月の宴が初めて開かれたのは897年とされています。平安時代には貴族たちが詩歌を詠み、風流を競ったようです。十五夜は里芋の収穫期にあたるため、別名「芋名月」と呼ばれ、15個の団子と、里芋を供えます。一方、十三夜は「豆名月」や「栗名月」と呼ばれ、13個の団子と、豆や栗を供えていました。お月見は、農耕の収穫祭としての一面もありました。月見団子は望月(満月)に見立て、丸く形作ります。伝統的なお供えの方法は、月がよく見える場所に台を置き、御三方や大皿に15個の団子をうず高く盛ります。里芋やさつまいも、枝豆、栗などの秋に収穫を迎える野菜とすすき、秋草を供えて名月を祭ります。
ところでなぜすすきを飾るのでしょうか。背の高いすすきを飾ることで、神さまが降り立つ「依代」とされているためです。正月の門松も同じです。このお月見の行事が庶民に広まったのは江戸時代。ちょうど米の収穫の時期も近く、とれたての米を団子にして、収穫を祝ったと伝えられています。が、私の見解では、月見団子には新米ではなく、稲刈り前に残った米が使われたのではないかと考えています。夏を越して古米になった米を粉にして、団子にしたほうが合理的で、そのまま炊くよりもおいしく食べられるので、上手に活用したのではないかと思っています。十五夜団子は満月を思わせるように大きめに形づくります。小さい団子は「仏団子」と呼ばれ、仏壇に供える団子を思わせるため嫌われます。江戸時代の年中行事を記した『東都歳事記』には、十五夜の朝に団子を作る記述がありますが、団子の大きさは三寸五分(約10cm)とあります。かなり大きいですね。また15個団子を重ねるのは難しく、9段、4段、、1段の14個ですと安定がいいのですが、15個の場合、ひと工夫が必要です。なお、地域によって団子の形や風習は異なります。たとえば関東では丸型が一般的ですが、関西の月見団子は楕円形、芋型に形づくり、きな粉をふります。芋型というのは芋名月にちなんでいるのかもしれません。-十五夜に月に供える団子。関東地方で多くみられる団子粉で作った丸い形のもので団子をピラミッド状に重ねたものや、関西で多くみられる細長い団子に餡を巻いて「芋名月」にお供えする「衣被」(里芋の子の小芋を皮付きのまま蒸したもの)を模したもの、名古屋市近辺で多くみられる白・ピンク・茶色の3色で、餡を巻かずにサトイモの形に似せて丸めたもの、中国・四国地方で多くみられる串団子に餡を巻いたものなどがある。
“十五夜”,是指农历八月十五晚上,或新历九月中下旬观赏满月的活动。这种赏月的习俗可以追溯到中国的唐代,传入日本后被认为是与农作物收获有关的活动,一直流传至今。"御月見"、"名月"、"中秋之名月",自古以来就是诗歌和俳句的主题。一般来说,人们会在花瓶里插上芒草,并献上团子·芋头·梨等时令食品,以表达自己的感激之情。 在关西和中国地区,因为正巧赶上里芋的收获季节、所以也被称为 "芋名月",被认为是一种畑作的仪式。而约在十五夜后一个月的农历九月十三日被称为“十三夜”。 根据习俗,如果在十五夜赏月则需要在十三夜也赏月、而十五夜忘记赏月的话也不用在十三夜赏月。 十五夜被叫做「芋名月」,十三夜也被叫做「豆名月」「栗名月」。 有供奉毛豆、栗子的习俗。
水無月 みなづき
白色外郎上面放上煮好的甜小豆、切成三角形的和果子。在京都6月30日举行的"夏越之祓"中、有食用“水无月”的习俗。 平安时代,宫廷常在旧历6月1日的 "冰室節句 "中从冰室里切冰来吃、以抵御酷暑。而三角形的白色外郎被认为是冰的象征,正方形的一半也代表一年的一半,红小豆有辟邪之意,故而“水无月”被认为是为了祈求余下半年的健康而食用的食物。不过,如今的水无月是昭和时期才由京都的和菓子屋开始制作的。 在江户时代的料理书《蒟蒻百珍》中,有一道名为 "早水無月 "的点心,是将切成三角形的蒟蒻裹上红豆酱,被认为与水无月有关。
粽 ちまき
日本粽由糯米和稻米制成,包裹的叶子不仅有笹叶、也包括竹子皮、茅草叶、稻叶等。江户元禄10年发行的本草书『本朝食鑑』中介绍了4种。第一种是把蒸好的米捣成年糕,放入真菰(茭白)叶中用灯心草捆起来煮熟(也有用栀子汁将年糕染色的情况)。也就是现在也很常见的新泻县的「三角粽」等。用稻米粉做成年糕后,用笹叶茭白叶包起来。或煮或放在蒸笼蒸。直接吃或者用第四种的方式吃。第二种是用笹叶将稻米团子包裹起来的御所粽(内裏粽)。这就是如今和果子店制作的和果子粽子原型,现在年糕的原料被葛替代。端午节有很多店制作。第三种是将糯米年糕用稻叶包裹起来的馅粽。因为年糕是糖色,也被叫做糖粽。第四种是燃烧茶梅根做成碱液浸湿糯米,以此为原料做成年糕并用秸秆包裹。叫做朝比奈粽,据说是骏河国朝比奈的名产,但已经没有制作了。碱液有助于保存和维持品质,作为一种保存食物。沾混入黄豆粉或砂糖的酱油吃。
このほか、新潟県で笹団子と呼ばれる、笹で包んで両端をワラで結んだ形状のものも茨城県常陸太田市ではちまきと呼び、名物となっている。また、ちまきとは呼ばず端午の節句とも無関係であるが、月桃の葉で包んだムーチーと呼ばれる類似の菓子が沖縄にある。京都祇園祭では粽が厄除けの縁起物となっている。これは厄除けの縁起物で食べるためのものではない(中身も葉のみである)。もともとは山鉾巡行の際に山鉾から撒れていたものが、今は宵山の際に祭会所で販売されている。蘇民将来信仰の茅の輪に起源があるとされる。滋賀県の大津祭では現在も曳山の上から撒かれる。一本ずつではなく十本を一纏めにしたものを一把と言い、一把ずつ配布したり、撒いたりする。かつては、そのまま撒いたりしていたが、近年では袴や巻紙などと呼ばれる山鉾名や曳山名の書かれた紙を巻いたり、お守りや鈴などをつけたりしている。(かつては和菓子のちまきも「上ちまき」と称して撒いていた。「上ちまき」は一本ずつ撒かれていた。)
承平年間编撰的『倭名類聚鈔』之中有名为「和名知萬木」的条目、もち米を植物の葉で包み、これを灰汁で煮込むという製法が記載されている。元々は灰汁の持つ殺菌力や防腐性を用いた保存食であった。その後、各地で改良や簡略化が行われ、京では餅の中に餡を包み込んだり、餅を葛餅に替えるなど独自の物も出来て来た。 ちまきは柏餅と並ぶ端午の節句の供物として用いられる。ちまきは地方によって形や中身が異なる。2018年のウェザーニュースが実施したちまきに関する調査によると、北海道から関東甲信越、九州の一部では中身がおこわ、東海から九州では中身が甘い団子との回答が多数を占めた。 奈良時代に中国から端午の節句の風習の一環でちまきが伝来。平城宮のあった近畿地方には白い団子のちまきが根付いた。一方で、関東地方には、この風習は根付かず、柏餅を食べることが多い。 『伊勢物語』(五十二段)、「人のもとより飾り粽 おこせたりける返事に、菖蒲刈り 君は沼にぞまどひける 我は野に出でてかるぞ わびしき」とあり、昔は菖蒲の葉も用いたようである。
糖粽売、中世・近世(12世紀 - 19世紀)期にかつて存在した糖粽を行商する者であり、かつて奈良に存在した座「糖粽座」(あめちまきざ)の家内制手工業・商工業者である]。「糖粽」は「とうそう」とも読み、「糖粽」とは何か、については大きく分けて3説ある。
そのうち1の説は『本朝食鑑』の記述によるもので、チガヤに包むことで色素が転移し、粽餅が飴色(やや明るい褐色)に染まるという。これは6世紀中国で記述が残っている本来の「粽」の製法に近く、現在も鹿児島地方に残る「あくまき」にその製法が残されているものである[8]。そもそも「あめ」と訓読み(常用漢字表外の読み)される「糖」(トウ、タウ)は、サトウキビ等を原料とする甘味料を指し、「あめ」と呼ばれる甘味料は、日本では、奈良時代(8世紀)から白米を原料として製造されていた。日本における「あめ」は当初、液状の「水飴」であり[10]、2の説はこれをチガヤで巻いた粽餅に塗布したというものである。固形の「固飴」(堅飴)も「水飴」と同時期に製造されており(麦芽飴)、奈良時代に成立した『日本書紀』では、神武天皇が「タガネ」と呼ばれる強固な固飴を製造する説話が記述されている。「固飴」は「水飴」をさらに煮詰めて冷却したものであり、現在の「飴」の定義に近いものである。江戸時代の17世紀に京菓子「洲浜」としてソフィストケイトされたものの前身が、竹皮に包まれた携行食・陣中食「糖粽」(飴粽)であるといい[13]、これは3の説に近いものである。いずれにしても「糖粽」は、チガヤに包まれた菓子あるいは携行食であった[。遅くとも15世紀、興福寺の塔頭であった大乗院の門跡領であった大和国城上郡箸中村(現在の奈良県桜井市箸中)に、「糖粽座」(餳粽座)が置かれた[2]。三代の大乗院門跡が記した『大乗院寺社雑事記』のうち、尋尊が記したユリウス暦1459年5月27日にあたる長禄3年5月28日の項目に、「アメチマキ(箸ノツカ)」という記述がみられる[2]。「箸ノツカ」とは現在の箸墓古墳のことで、この地に「糖粽」を製造・販売する座が形成されていた[2]。同座は三輪村に由来し「三輪座」(みわざ)とも呼ばれた[2]。三輪明神(大神神社)の大鳥居より南、かつ長谷川(初瀬川、現在の大和川)にかかる三輪大橋より北の地域で、「糖粽座」は「糖粽」を販売していた[2]。当時近隣地区には、田原本(現在の磯城郡田原本町)に槍物座、三輪下田(現在の桜井市大字外山字下田上之町・下田下之町)の「鍋座」、番条(現在の大和郡山市番条町)の「菰座」、布留郷(現在の天理市布留町)の「黄皮座」(黄帔座)、苅荘(現在の橿原市大軽町)には「煎米座」があった。箸墓の「糖粽座」と苅荘の「煎米座」は、いずれも「飴」を売っており、商品がバッティングしたため、しばしば争いが起きていた。15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、地黄煎売とともに「糖粽うり」あるいは「糖粽売」として紹介され、その姿が描かれている。それは、曲物に入った糖(飴)を二本の箸で粽に塗布する行商人の姿であるとされる[6]。この歌合に載せられた歌には、
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手ごとにぞ とるはしつかの 糖ちまき 花をもみわの 昼の休みに
とあり、これは「箸塚」や「三輪」の地名に掛けたものである。同職人歌合が作成された京都においても、「箸塚・三輪の糖粽」が著名であったということである。「糖粽座」では、妻が製造・夫が行商、というスタイルをとっていたものもあったという[5]。1514年(永正11年)、箸中の住人「サイモ太郎」という人物が苅荘の「煎米座」に無断で「飴売」行為を行ったとして、大乗院門跡に訴えられた記録がある。三条西公条が著した『吉野詣記』には、1553年(天文22年)に三条西が金峯山寺に詣でた際に、当時「箸塚」の名物として知られた「糖粽」を食したと書かれている[2]。江戸時代初期(17世紀)にも、松江重頼による撰集を兼ねた俳諧論書『毛吹草』(1645年)に「箸中の糖粽」が登場している。田宮仲宣が著した『橘庵漫筆』(1801年)には、「糖粽」(粭粽)は箸中で製造されたのが日本での初めてのものである旨の記述がある。現代においては、同地の座のなごりも製法も廃れてしまっている。近世以降の飴売は、「地黄煎売」「糖粽売」とは異なる。
栗金飩 くりきんとん
在京都,将煮熟的栗子中加入糖并用茶巾挤压成形的和果子被称为"栗茶巾"。 虽然近年来常用平假名表记为 "栗きんとん ",但汉字则写作 "栗金飩"。 "飩"字的意思是 "蒸年糕",其工艺和口感都与读音相同的栗金団所有差别。栗金飩中最有名的是中津川市的名物「中津川栗きんとん」。 一种说法是,大约在江户时代中期,中津川宿首次向旅行者提供栗金飩,如今中津川站前的石碑上也写着 "发源之地"。 中津川市和恵那市约有30家栗金飩店,其中以元禄时代创立的 "すや "和1864年创立的 "川上屋 "这两家老店最为有名。 另一种说法则称,1872年在八津町加茂郡创业的“緑屋老舗”的三代目,在大正时代将该产品商品化,中津川“すや”的女儿嫁到八津町时,将该产品引入了中津川市。 在八重町,包括緑屋老舗在内的4家和菓子店都有销售栗金飩。
栗金団
栗金団
亥之子餅 いのこもち
亥之子是在亥月亥刻(旧暦10月晚10点)食用的点心,是俳句的冬之季语。因为名字里面有十二干支中的“亥”、餅の表面に焼きごてを使い、猪ないしその幼体に似せた色模様を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶしたものなど、地方により大豆、小豆、ササゲ、胡麻、栗、柿、飴など素材に差異があり、特に決まった形・色・材料はない。「瓜坊」に見立てて、焼きごてで三本筋をいれております。玄猪餅·厳重とも呼ばれる。江戸時代後期の屋代弘賢の『古今要覧稿』の玄猪の項目では、「蔵人式」(橘広相撰)の中に、禁中年中行事の1つとして記されていること、橘広相は貞観年間に存命していたことから、いつごろから亥の子餅に関する行事が行なわれていたか定かではないが、貞観年間には宮中行事として、行なわれていたと推察している
宮中の年中行事
かつては、旧暦10月・上亥日に禁裏では、亥の子餅を群臣に下賜していた。能勢からの亥の子餅が献上されていたが、宮中においても亥の子餅が作られた。官職の高低により、下賜される亥の子餅の色(黒・赤・白)と包み紙の仕様に厳格な決まりがあった。亥の子餅の色は、公卿までは黒色の餅・四品の殿上人までは赤色の餅などである。また、3回にわたって、亥の子餅の下賜があったが、3度とも同じ色の餅ではなかった。賞玩のために色(黒・赤・白)を変えていたという。
室町幕府の年中行事として、旧暦10月・上亥日に亥子祝い・玄猪餅進上があった。江戸幕府の年中行事として、亥の子を祝する行事(玄猪の祝い)があった。10月朔日(ついたち)は玄猪の祝いを行う。この日より囲炉裏を開いて、炉で鍋を焼き、火鉢で火を盛る習慣があった。幕府では、大名・諸役人に対して、10月朔日、七つ半(午後5時)に江戸城への登城を命じ、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅を拝領して、戌の刻(午後7~9時)に退出する。玄猪の祝いに参加する将軍・大名・諸役人の服装は熨斗目長裃(のしめながかみしも)と規定されている。また、この日の夜は江戸城の本丸・西の丸の大手門・桜田門外・下乗所(げじょうしょ)に釣瓶(つるべ)式の大篝火(かがりび)が焚かれる。
1870年(明治3年)まで、摂津国能勢(のせ)(現在の大阪府豊能町)にある木代村(きしろむら)・切畑村(きりはたむら)・大円村(おおまるむら)から、毎年、旧暦10月の亥の日に、宮中に亥の子餅を献上していた。そのことから、能勢には亥の子餅に関して以下のような伝承が伝わっている。仲哀天皇9年、12月に神功皇后は、自ら将帥となり、三韓に出兵した。筑紫に還啓された後、皇太子(応神天皇)が誕生した。仲哀天皇10年、2月に穴門・豊浦宮を出発し、群郷百僚を率いて海路をとり、大和に凱旋する途中に、皇太子の異母兄である香阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王子が、やがて皇太子が即位することを嫉(ねた)んだ。二王子が相謀り、皇太子を迎え討って殺害しようと大軍を率いた。上陸するのを待つ間、戦の勝敗を卜(ぼく)して(占って)、能勢(大阪府)の山に入り、「祈狩」(うけいがり)を催した。「戦に勝つならば、良獣を獲られるであろう」と言っていたが、まもなく、大猪が現われ、香阪王に飛び掛った。香阪王は驚いて、近くの大樹によじ登ったが、猪は大樹の根を掘り起こし、遂に香阪王は死亡した。忍熊王はこの事を聞き、怪しみ恐れて、住吉に軍勢を退いた。
神功皇后はこの事を聞かれて、武内宿禰に忍熊王を討伐を命じた。忍熊王は戦に破れ、山城国宇治に退き、さらに近江国瀬田に逃れたが、死亡した。これにより、皇后・皇太子は、無事に大和の都に凱旋した。その後、神功皇后が崩御し、皇太子(応神天皇)が即位した。応神天皇は、皇太子の時に、猪に危難を救われた事を思い出して、吉例として、詔を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より、毎年10月の亥の日に供御を行うように命じ、亥の子餅の献上の起源であると言い伝えられている。
亥の月(旧暦10月)の亥の日の亥の刻(午後10時頃)に食し、 無病息災のまじないとした中国の俗信に基づいて、平安時代に宮廷の禁裏にて行われたのが始まりと云われております。 紫式部の『源氏物語』では、光源氏と紫の上の巻にて、亥の子餅が登場する場面があり、 古くは、大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖(あめ)の七種の粉を入れた餅をついたと記されております。 鎌倉時代に入り、武家にも同じような儀式が広まり、猪(いのしし)は多産であることから子孫繁栄を願う意味も含まれ、亥の子餅を食したと云えられております。江戸時代には、亥の月の最初の亥の日を玄猪の日と定め、玄猪の祝いともいわれていました。 このため、亥の子餅を玄猪餅とも言います。 また、亥は陰陽五行説では水性に当たり、火災を逃れるという信仰があります。 このため江戸時代の庶民の間では、亥の月の亥の日を選び、囲炉裏や炬燵を開いて、火鉢を出し始めた風習ができあがりました。茶の湯の世界でも、この日を炉開きの日としており、茶席菓子 として「亥の子餅」を用います。 甘春堂の亥の子餅は白餡と粒あんの二重餡を、羽二重粉の求肥に白ごまを混ぜて包んだ季節の和菓子としております。 まもなく寒くなり大晦日にも迫る季節、猪にあやかり、亥の子餅を食べて、火災の厄除け子、孫繁栄を願う一日はいかがでしょうか
南部煎餅 なんぶせんべい
八戸南部氏が藩主家だった旧八戸藩地域に伝承の焼成煎餅である。青森県、岩手県の名物。元々は八戸藩で作られた非常食であり、小麦粉を水で練って円形の型に入れて堅く焼いて作られる。縁に「みみ」と呼ばれる薄くカリッとした部分があるのが特徴。保存性は非常によいが、時間が経過すると酸化により味が落ちる。青森、岩手の旧南部氏支配地域においては非常にポピュラーな食べ物であり、来客にも供される。 通常の「白せんべい」と呼ばれるものの他にゴマ、クルミ、落花生などを加えて焼いたものもある。また同じ材料で厚めに焼き、食感を柔らかく仕上げた「てんぽせんべい」がある。通常スーパー等で売っているものと言えばまずゴマ、次いで落花生の二種類であり。地域によっても味が微妙に異なる。青森県で消費される南部煎餅は比較的薄くてほんのり塩味があり、岩手県で消費される南部煎餅は少し厚みがありほんのり甘い傾向がある。そのまま食べるのが一般的であるが、その他に、水飴や赤飯を挟んで食すこともある。水飴を挟んだものは「飴せん」と呼ばれ、津軽地方の「津軽飴」を用いることが多い。 また、パン代わりに「白せんべい」または「ゴマせんべい」をトースターで加熱し、バター等を塗って食べる人もいる。
青丹吉 あおによし
奈良県の銘菓で、和三盆と葛粉を混ぜ合わせて短冊形に打ち固めた干菓子(押し物菓子)。若草色と薄紅色の二種類が作られ、表面には砂糖でカスリ引きが斜めに施されている。かつては「真砂糖」と呼ばれており、うるち米粉で砂糖を固めただけの品であったが、享和年間に有栖川宮が奈良を訪れた際にこの菓子を献上され、その際に短冊型にして「青丹よし」と名付けよと命じ現在の形になったという。
奈良、国内に掛かる枕詞。奈良の土地神を讃美する語。26例中25例が奈良に掛かる。仁徳紀に「阿烏珥予辞儺羅(あをによしなら)」と見える。万葉集には「味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の」、「あをによし奈良の都にたなびける天の白雲」のように詠まれる。「あをによし」は「青丹吉」と表記され、青丹即为青色土地、奈良能开采出优质的青土而被冠以「青丹吉」的枕詞。国内に掛かる例は「悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを」とあり、奈良が大和と等しく、国を表したことからの延伸であると思われる。
赤福 あかふく
麻薯馅、豆沙衣的点心,产自伊勢的和菓子屋"赤福"。绵豆沙塑造出的三重皱纹、象征了五十铃川的流水。本店开设在伊势神宮前的小路上、在伊势信仰地域内都广受欢迎。每年夏天会贩卖在麻薯中加入抹茶冰的"赤福冰"、冬天则售卖使用了赤福的豆沙与糯米饼制成的"红豆善哉"。本店之外,在伊势志摩地区・名古屋地区・大阪地区都有直营店。
赤福の正確な創業年は不明だが、江戸時代初期には皇大神宮(伊勢神宮内宮)前、五十鈴川のほとりで既に「赤福」の屋号を持つ餅屋を営んでいたといわれる。
本店前には、山口誓子が早朝の様子を詠んだ句碑が置かれている。1707年(宝永4年)執筆、1708年(宝永5年)刊行の市中軒の浮世草子『美景蒔絵松』に、伊勢古市の女が「(恋仲になった男が)赤福とやら青福とやら云ふあたゝかな餅屋に聟に入りを見向きもしなくなってしまい、その裏切りがくやしうて泣いております」と嘆いたという話があり、これが「赤福」の屋号の初出である。そのため、現在は1707年を赤福の創業年としている。 また、薗田守理『秘木草紙』によると、古老の話として、昔の赤福はささやかな店で、今の濱田氏と血縁のない浜田という老女が経営していたという。 「赤福」の名は1895年(明治28年)の『神都名勝誌』では、餡を入れた餅を大福と呼ぶ対比として、赤い餡をつけた餅であるから赤福と称したと推察している。1929年(昭和4年)の『宇治山田市史』ではこの説を採用し、その他の説はこじつけであるとしているが、赤福のホームページではまごころ(赤心)をつくすことで素直に他人の幸せを喜ぶことが出来る(慶福)という意味の「赤心慶福」(せきしんけいふく)に由来するとしている。言い伝えによると、京都から来たお茶の宗匠があんころ餅を「赤心慶福」と讃え、創業者の治兵衛がそれを聞き屋号と製品名に採用したという[6]。名前の「赤」にちなんで包装も商品名のロゴも赤いが菓子自体の色は厳密には小豆色であり赤ではない[7]。 赤福もち製造風景。現在は、手作りは本店での喫食分などに限られる。 当初は、砂糖が貴重品であったために塩味の餡であった。1727年、江戸幕府の8代将軍、徳川吉宗が砂糖の原料となるサトウキビの栽培を奨励し、砂糖の生産高が増えたことから、赤福も次第に黒砂糖餡を使うようになった。1911年(明治44年)、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が神宮参拝の折、赤福餅を注文した。赤福は、甘みと灰汁の強い黒砂糖餡では、「皇后陛下のお口に合わないのではないか」と案じ、白砂糖餡の特製品を献上した結果、無事好評を博したという。この結果、一般販売にも白砂糖餡を使うようになり、現行の赤福餅が完成した。赤福では、昭憲皇太后の注文を受けた5月19日を「ほまれの日」と定め、包装紙にも「ほまれの赤福」と称するようになった。 しばらくの間は、黒砂糖餡を「赤福」、白砂糖餡を「ほまれの赤福」として販売していたが、その後後者に統一された。商品包装紙の上面には伊勢神宮の神殿と内宮前の宇治橋が、底側には赤福にちなんだ俳句が記されている。子規と虚子の句と包装にあるが、正岡子規については出典不明であるという。また箱の中には、「伊勢だより」というその日にちなんだ文章と絵の入った紙片が入っており、500種類ほどある。折箱や銘々箱の帯封は、冬季用が臙脂色、夏季用が水色となっている。赤福に似た形状のあんころ餅は各地にある。中でも御福餅は赤福と同様、江戸時代に創業し、伊勢市で製造・販売されているあんころ餅で、波形の形状も赤福とそっくりであり、ピンク色基調のパッケージも赤福と同様であるが、全く別の会社の製品である。[50][51]。ほかに三重県伊賀市の名阪国道下り線の伊賀インターチェンジ横にある伊賀ドライブインでは「伊賀福」と称する類似品が発売されている。これは赤福に比べ餡の色が薄く甘さも控えめである[51]。名古屋市天白区の朝倉商店が製造している「名福餅」という商品もあり、こちらは西名阪自動車道の香芝サービスエリアなどで購入できる。『赤福のこと』によると、明治から大正にかけて、赤福の類似品が乱立し、時には赤福の前に店を出して挑んで来た業者もあった。明治8年(1875年)、赤福本店の北隣に「さるお金持ちがたいそう立派な店をお建てになり」類似品の店を出したが、1年あまりで結局撤退した。明治10年(1877年)、五十鈴川河畔にあった当時の本店が水害で浸水すると、かえって元ライバル店の敷地を買収し、改築して本店を移転した。これが現在の赤福本店である。松阪の豪商・長谷川可同は餅に関する蒐集をして「餅舎」という資料館で公開していたが、餅舎所蔵の『餅札集』によると、松阪に「あかふく」「赤福餅」、名張に「伊賀赤福餅」「福餅」などがあり、宇治山田、二見、鳥羽などでは「赤ふく」「あか福」「日乃出赤福」「赤福鶯もち」「鳥羽赤福」など多くの類似品が存在した。
「御福」の名は、二見興玉神社(夫婦岩がある)にある天の岩屋に祀られる神のアマノウズメノミコト(天鈿女命)の通称が「御福さん」である事に因む。なお餅の形は赤福餅と類似しているが、赤福餅が「五十鈴川の清流」を表現しているのに対して、御福餅は「二見浦の波の形」を表現している。また、桃色を基調にするパッケージの色調もそっくりであったが、かつては赤福餅と御福餅のいずれのパッケージにも擬宝珠のついた和橋の図案が描かれている点が共通しており、デザイン上もそっくりであった。赤福餅の和橋は皇大神宮(内宮)の参道口にある宇治橋であり、御福餅の橋は二見興玉神社境内にある橋であった。かつての御福餅のパッケージの方にはそれに加えておかめの面の図案が描かれていた点が相違点であった。一方の赤福餅には、伊勢神宮の神殿の図案が加えられている他、パッケージ裏側には俳句(冬場用は正岡子規の句、夏場用は山口誓子の句)が印刷されているため、識別が可能である。1998年には第23回全国菓子大博覧会にて菓子業界では最高の栄誉と言われる「名誉総裁賞」を受賞。パッケージに書かれている商品名が「御福餅」から「お福餅」に変更され、その年の秋からはデザインも赤福と酷似した和橋のデザインから、夫婦岩の後の富士山から朝日が出ている図柄で、カラー印刷に変更された。ただ、あまりに大きな外観の変更だったためか、2012年には夫婦岩の後の富士山から朝日が出ている図柄のまま、元の桃色を基調とする色調に戻された。それでも、赤福のデザインとの見た目は以前よりもかなり変化が出ている。
甘納豆 あまなっとう
小豆、うずらまめ、きんときまめ、いんげんまめ、そらまめ、ささげ、グリンピースなどを砂糖液に漬けて甘く煮詰め、さらに 白砂糖をまぶしつけたもので、砂糖漬け菓子の一つです。豆以外の栗やさつまいもでつくったものもあります。材料によって味わいが違う楽しさがあります。将栗子、花生等豆类植物的果实,或者番薯片等用砂糖腌渍而成的一种蜜饯类日式点心。在1857年(安政5年)由荣太楼发明的。起初因为和浜名纳豆相似而得名甘名纳糖,第二次世界大战之后,更名为简略的甘纳豆。在北海道的道央圈和山梨县,有在赤饭中放入甘纳豆的风俗。[3]在青森县的一些地方,因为有室町时代甲斐国(山梨县)南部的先民移居,还保留着这个习俗。有些登山家还将甘纳豆作为登山食品,在严冬期的山中,把甘纳豆放到热水中做成像小豆年糕汤一样食用。由来には諸説有る。関西に弟子の多い岡女堂では安政年間に甘納豆の老舗である岡女堂[3]の初代である大谷彦平が京都本能寺門前にてぜんざいを火にかけすぎたことから偶然に甘納豆を発見し、大徳寺納豆から甘納豆と名付け、1895年(明治28年)第4回内国勧業博覧会の京都開催時に「ぼうだいの甘納豆」として出品され、宮内省御用達となったとされている。大阪天王寺の甘納豆専門店「青山甘納豆」では戦前の広告に甘納豆の文字があり、関西では戦前から広く甘納豆の名が親しまれていたことが確認できる。関東では安政年間に榮太樓の3代目である細田安兵衛が菓子の原料として向かなかった大角豆と榮太樓の蜜飴を創意工夫して安くて美味しい菓子として苦労して初案し[4]、当初は淡雪と名付けられたが、田中謨某という文士が淡雪はよろしくない。浜名納豆に似ているゆえに甘名納糖と名づけたら、との助言を入れて命名された[5][6][1]とされる。大言海[7]には甘名納糖の発明者として記載されている。なお、甘名納糖は1877年(明治10年)の内国勧業博覧会にて優等賞を得ている。また、榮太樓ではその後も開発を継続し、1887年(明治20年)に白隠元を原料とした甘納豆を創製して村時雨と名付け、昭和初期には栗を料とした甘納豆を創製し、栗納糖と名付けた。これら由来の異なる両者の主張する創製年代はほぼ同じため、それに対する考察は江戸時代の資料が無いために言及しない。従来の甘納豆よりも水分を多く、より低糖度に仕上げ、保存性よりも柔らかな食感とさっぱりした甘さを優先した「ぬれ甘納豆」や「つや甘納豆」と呼ばれる商品や多種類の豆を使った甘納豆なども開発されている。
甘納豆 あまなっとう
あられ ・おかき
もち米を主原料とした焼き(揚げ)菓子です。あられは、すでに平安時代に鏡餅を欠き砕いてつくったようだといわれています。煎る時に音を立ててはね、膨らむ様子と形が降ってくるあられに似ていることから、この名があります。商品として多量に生産されるようになるのは、江戸時代になってからといわれています。明確な区分はありませんが、粒の大きなものなどは「おかき」といわれます。
有平糖 あるへいとう
砂糖に水あめを適宜配合し、煮詰め、成形、冷却あるいは細工して仕上げます。種々の細工がきくので、昔から飾り菓子としてお祝いものや供え物、茶の湯のときの干菓子などに用いられてきました。もとは南蛮菓子の一種で、ポルトガル語の「砂糖菓子」を意味するアルフェロアがなまったものです。桃山時代にポルトガル船によって日本に輸入されたといわれています。
淡雪羹 あわゆきかん
卵白の細かい泡に、寒天を入れて固めたもので、水ようかんに近い和生菓子の一種です。まるで白い雪のようで、口の中でとろけるような舌ざわりがあり、ちょうど、春の雪がとける感じを与えるのでこの名前が付けられたようです。メレンゲを合わせる際に、荒熱を取らないと分離するため、人肌程度まで冷ますとよい。寒天の代わりにゼラチンを使えばマシュマロとなる。淡雪が名物である地域として、山口県下関市(松琴堂)、愛知県岡崎市(備前屋)、広島県三次市などがある。松琴堂の「阿わ雪」は、棹菓子の他、大きな一枚もの、切り分けたものがある。松琴堂(山口県下関市)の阿わ雪は、幕末1866年(慶応2年)に創業した際の創製で、初代内閣総理大臣の伊藤博文が「春の淡雪を思わせる」として命名した。備前屋の「あわ雪」は棹物菓子で、1869年(明治2年)に備前屋3代目により創製された。当時岡崎にあった「淡雪茶屋」の、絹ごし豆腐に八丁味噌をかけた料理「淡雪豆腐」から着想したとされる。
餡衣餅 あんころもち
餅を小豆でできた餡で包んだもの。おはぎ、ぼた餅と同一視されることもあるが、中身が完全な餅であるという点でそれらとは区別されていることが多い。関西や北陸地方(特に京都・金沢)を中心に夏の土用の入りの日にあんころ餅を食べる風習があり、別名「土用餅」と呼ばれる。発祥は定かではないが、ウナギを食べるのと同様に、土用餅を食べて精を付けて夏の暑さを乗り切るためとされている。江戸時代に、疲れた旅人が食べやすい様に一口サイズになったともいわれている。日本各地に分布し、土産菓子としても使われることが多い。もちをあんで包んだ菓子です。ぼた餅と異なるところは、ぼた餅が、ただあんをちぎった餅にのせるか、まぶす素朴な形態であるのに対し、あんころ餅は、形を、きれいにととのえているところです。
一种由餅皮包裹红豆馅制成的点心,有时会与“おはぎ”和“ぼた餅”混为一谈,但它通常与它们有所区别,因为它的内部完全是餅皮。 在关西和北陆地区(尤其是京都和金沢),有一种传统,在夏季土用入り的日子里吃“あんころ餅”,也被称为“土用餅”。虽然其起源不确切,但吃“あんころ餅”被认为与吃鳗鱼一样,可以让人精力充沛,应对夏季的高温天气。在江户时代,为了方便疲惫的旅行者食用,有人说它被制成了一口大小。 这种点心分布在日本各地,常常被当作伴手礼。它是由餅皮包裹红豆馅制成的点心。与“ぼた餅”不同之处在于,ぼた餅通常只是将红豆馅放在切好的餅上或者裹上一个朴素的形状,而“あんころ餅”则被整齐地制作成特定形状。
安道名津 あんドーナツ
奈良时代从唐朝传来的唐菓子中、就有用米粉或小麦粉制作的油炸点心。当时的长安就有如今甜甜圈形状的环餅出售。日本风的甜甜圈是上图那种包馅油炸包。使用的馅料可以是小仓红豆馅、白馅、莺馅、芋馅等,表面经常洒满砂糖。至于安道名津这个名字,则是电视剧《JIN-仁-》中的借字,和传统的红豆甜甜圈不同、是环状甜甜圈上盖着红豆馅和黑糖的一种二次创作。材料は玄米、胡麻油、黒糖、小麦粉、豆乳、鶏卵、油粕、砂糖、小豆餡。 玄米を炊き、それを七分程半潰しする。 ①に胡麻油と黒糖を少々混ぜて固め、形作る。 ③ 小麦粉八、玄米粉二の割合に少量の油粕、豆乳、鶏卵を混ぜ、これに②を浸して衣をつける。 ④ 熱した油で揚げる。 ⑤ 揚げたら砂糖をまぶし、餡を乗せる。 仁がこの菓子を考案したのは、咲と恭太郎の母親である栄が脚気を患った事からである。 元々日本の、特に江戸では白米中心でおかずは貧しいもので済ませようとする食習慣から脚気患者は多かった。仁は緒方洪庵にこの時代可能な食餌療法を薦め、洪庵も普及に努める事を快諾したが、根付いた食習慣を変えるには至らなかった。 栄は少食で好き嫌いが激しく、更にそんな彼女に対して工夫を凝らして調理していた咲が出ていった為ビタミン不足に陥ってしまった。恭太郎は仁の前にも彼女を医者に診察してもらい、適切な処方を受けていたが*1、栄はそれを無視して白粥と香の物のみを食べ、症状を悪化させていき、仁が診察した時には既にいつ衝心脚気(心不全)になってもおかしくないと見る程重くなっていた。 栄がその行為に出たのは、実際に死のうとしていた為であり、これについて「死ぬ事で自分への怒りを顕そうとしている」と咲は考察した。 咲から菓子が大好物だと聞いた仁は茜にも協力をあおぎ、差し入れとして作ったものがこれである。 他にも小豆の調達を喜市に、土産物と誤魔化すのに箱の絵描きを雲泉に依頼した。 当初は唾を飲み込みながらも突っぱねたが、仁から涙ながらに「好きな甘いものを食べ続けて死ぬというのはどうでしょう」と言われ、口にした。その後も仁の指導のもと、様々な菓子を作って届けた。 尚、仁や咲が作ったものである事は最初から見抜かれており、回復した時それを告げている。そして療養する事を告げ、仁に頭を下げ、涙を流し咲を幸せにしてほしいと頼む。仁はその言葉を咲に伝え、咲は声も立てず泣いた。 顔を合わせずとも、橘家の母娘は和解した。 茜が勤めている茶屋で脚気退治の菓子と銘打たれ販売され、加えて田之助の芝居「傾城野分廓恋鑑」にもこれを食べる場面があった事もあって人気商品となる。 この場面を入れたのは、美味しかったのと仁が考案し雲泉が箱の絵を描いたのを知った為で、稽古が上手くいかず思い詰めていた所、雲泉が描いた仁友堂の看護師時代の野風の絵を見て見せ場を思い付いた為で、田之助曰く「ほんの恩返し」。 最終回でもお茶請けで仁に出されており、あかね屋の銘菓として平成でも売られていた。
石衣 いしごろも
一种将豆沙与水飴搅合成团、涂上白砂糖浆形成的半生点心。透过白色糖衣可以看到淡淡的红豆色,显得非常高雅和美丽。石衣的历史相对较短,最早不过明治时代。豆沙馅被比喻为
"石",外部糖浆比喻为"衣",由此得名。此外,由于形状类似于生长在松树根部的蘑菇,在关西地区也被称为"松露"。
餡巻 あんまき
一种将豆沙酱包裹在薄饼皮中制成的烘点(焼菓子),是日本各地流传的平民点心。在三重县的冈崎和池鯉鮒宿等地,由于水资源有限,不适合稻米种植,多种植小麦和红豆,这种点心便应运而生。在参拜池鯉鮒大明神的游客和东海道游客
中很有人气。在爱知县知立市更是被视为当地名点。据说"大餡巻"是1889年由小松屋本家创始人、神谷為吉创造的,此后被广泛认为是"知立名物"。
田舍馒头 いしごろも
中のつぶし餡が薄皮の所々からのぞいている蒸し饅頭。岩肌に雪が吹きつけられたような姿から吹雪饅頭とも、宮崎県、特に延岡市ではやぶれ饅頭とも、呼び方が分かれ。普通の蒸し饅頭を作るときは生地と餡の割合が1:2(いわゆる三ッ種)だが、田舎饅頭では1:4が目安になる。山芋や小麦粉で作った生地で餡を包み、せいろなどの蒸し器で蒸して作る。薄い皮で餡を包み蒸したもので、まんじゅうの中のあんが、ところどころ見えるくらい薄い皮が特長になっています。蒸し菓子の一種で、薄皮まんじゅうとも言われます。『田舎饅頭』と名付けられたのは 白いお饅頭が『雪』透けて見える餡が『土』…田畑に降り積もる『雪景色』を表現した和菓子だからです
田舍馒头 ふなやき
小麦粉と砂糖を水でこねて,その生地を熱した鉄板の上にのばしてクレープ状に焼き,あんこを包んだ素朴なお菓子です。数百年の歴史を持つ伝統的なお菓子で,菅原道真公が京都から九州へ行かれる途中に尾道へ寄られた際,「ふなやき」が献上されたというお話もあるほどです。尾道では,「ふなやき」を旧暦の6月1日に食べると夏病みしないとの言い伝えがあり,毎年夏になるとこの「ふなやき」が地元のお菓子屋さんの店頭に並びます。地元・尾道(出身)以外の人で,「ふなやき」が尾道の夏日菓子だと知っている方は少ないと思います。広島県呉市の「いが餅」と同様,地元の人々に愛され続けているお菓子と言えます。「ふなやき」の由来と「麩の焼き」について「ふなやき」は尾道のほかにも,九州・沖縄地方や関西地方など,全国で食べられているお菓子です。「ふなやき」という名称の由来としては,「生地を折った形が船に似ていたから」とか,「生地を焼いた鍋の底が船の形に似ていたから」とか,「漁師が空腹を満たすため船で焼いたから」といった「船」にまつわる話が多い一方で,「茶の湯」のお菓子「麩の焼き」に由来するという話もあります。「船」が多く登場するあたりは,港町・尾道ならではという感じです。「麩の焼き」は,鎌倉時代末期以降,禅僧によって中国から日本にもたらされた「点心」の1つです。 小麦粉を水で溶いて生地を作り,焼いた鍋の上に薄くのばして生地を焼き,味噌を塗ってクルクル巻いたお菓子で,かの千利休もお気に入りだったようです。 また「麩の焼き」のうち,生地に餡を入れて巻いたものは「助惣焼き」とも呼ばれていました。 明治時代の長崎を舞台にした漫画「ニュクスの角灯」(第2巻)でも,主人公達が「助惣焼き」を食べるシーンがあります。 そのシーンで「助惣焼き」は,「寛永年間(江戸時代)に流行った白味噌と胡桃の餡で作った」と紹介されているのですが,このセリフのとおり「助惣焼き」は特に江戸時代に流行ったようです。 尾道の「ふなやき」については,前出の「麩の焼き」が港町・尾道に関わりの深い「船」のイメージとも重なって次第に「ふなやき」と呼ばれるようになり,現在に引き継がれているのではないかと考えます。 ちなみに「麩の焼き」は,その後,食の「組み換え」により「お好み焼き」や「もんじゃ焼き(「文字焼き」から変化した名称)」に発展したとする説もあります。 もしその説が正しくて,尾道で「お好み焼き」と「ふなやき」を食べたとしたら,尾道ならではの,しかもルーツが同じ食べ物を食べたことになります。丸くて薄い小麦粉の生地(皮)であんこを巻いたお菓子です。京都の「あん入り生八つ橋」のようにも見えます。中のあんこは,生地にぎっしり詰められているのではなく,丸い団子の形で中心部に包まれています。いただきました。皮(小麦粉の生地)は適当な厚みがあって弾力があり,ほんわずかに塩味もついていました。一方,あんこは小豆で作られた上品な甘さの「こしあん」でした。一緒にいただくと,皮のほんのりとした塩味があんこの甘さを見事に引き立て,素朴で純粋な味わい・食感を楽しむことができました。